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翌日、レイは朝早く目を覚ました。枕元には真新しい白のTシャツと綺麗に洗濯されたジーンズが置かれている。着替えを済ませると部屋を出てロビーに行ってみた。
「おはよう、レイ。具合はいかが?」
受付でにこにこしながら声を掛けてきたのは、例の看護婦だった。
「おはようございます、ナンシー。お陰さまでもうすっかり治りました」
「それはよかったわ。よかったらコーヒーを一緒に飲まない?」
「ええ、ぜひ」
レイが待合室の椅子に座ると、ナンシーは紙コップに入れたコーヒーを二つ持って横に座った。
「クロード先生、いい方でしょう? あの方が救ったモンスターは大勢いるの。もちろん、人間の患者さんにも慕われているけれど」
ナンシーはレイにコーヒーを手渡した。
「ありがとう。でも、かなり危険なことですよね」
「危険は承知なんですって。とにかく、苦しんでいるのを助けるのにモンスターも人間も関係ないって」
「なるほど。でもなかなか出来ることじゃない。それにあなたは人間なのに何故モンスターを毛嫌いしないんですか?」
ナンシーはコーヒーを一口啜ると遠くを見るような目で話し始めた。
「私には姉が一人いたの。明るくて、優しくてとても素敵な姉だった。姉には恋人がいたの。彼は背が高くて頭がよくて、何よりも優しい人だった。二人は本当に深く愛し合っていたの。でも、ある日、何処からか通報があって彼はハンターに狩られてしまったの。ヴァンパイアだったのよ。姉は彼が死んでから鬱状態になってある日、ビルの屋上から飛び降りて死んでしまったの」
「それは……なんて酷い……」
「その時はショックが大きくてね。ぼんやりして階段から落ちて骨を折ってしまったの。その時に出会ったのがクロード先生なの。彼は私の話を聞いてくれて、今度モンスターを治療する診療所を開きたいから手伝ってくれって。それからもう十年になるかしら」
「そうだったんですか。すみません。俺は人間に対して不信感が強くて」
ナンシーはレイのすまなそうな顔を見て穏やかに微笑んだ。
「きっとずいぶん辛い仕打ちを受けてきたのね。仕方ないわ。ああ、そろそろ仕事に取り掛からなくちゃ。それじゃあ失礼するわね、レイ」
ナンシーは急いで受付に戻って行った。
レイはクロードに自転車のあるところまで車で送ってもらうことになった。
電話でデビィに退院することを報告し、クロードと共に外に出ようとすると、ロンが走ってきた。
「これ、ナンシーにもらったんだ。レイに一個あげるよ」
そう言ってロンが差し出したのは黄色いガムボールだった。レイはそれを受け取ると、ジーンズのポケットに入れた。
「ありがとう、ロン。それじゃあ、元気で」
「うん。また会えるよね? レイ」
「もちろん。その時を楽しみにしてるよ」
「僕も。それじゃあ、またね!」
ロンは精いっぱいの笑顔を見せてレイの手を握った。ナンシーは受付のカウンターから手を振っている。レイは軽く手を上げて診療所を後にした。
午後一時。フォードのSUVに乗り、森の道を四十分ほど走ったところで例の脇道が見えてきた。
「あの道です。あそこで止めてください」
静かに車を止めると、クロードはレイに名刺とメモを渡した。
「このメモは引っ越し先の住所だ。来月の末にはそちらに行く予定でいるんだよ」
「ありがとうございます。手紙を書きますよ」
「ああ、待ってるよ」
「お世話になりました、先生」
「もうあのハンターは立ち去ったとは思うが、十分注意していけよ、レイ」
レイはクロードと固く握手を交わして車を降りた。クロードは車をUターンさせて帰って行った。
車を見送り、脇道を歩きだしたレイはポケットからガムボールを取り出すと口に入れた。その時、森の奥から微かな悲鳴が聞こえてきた。木々を揺らし、突然巻き起こった強い風に乗って覚えのある匂いが鼻腔に届く。あのハンターの匂い、そしてもうひとつは……ロンの母親の匂いだ。レイは全速力で走りだした。
開けた場所にハンターの車が見える。レイはその手前で立ち止り、足音を忍ばせて近付いていく。車の傍には黒い髪の女性が横たわっていた。その胸にはトネリコの杭が墓標のように突き刺さっていて、ハンターのゲイルがにやにやしながら、彼女の身体を見下ろしていた。
――しまった。もう少し早く着いていれば。
悔しさに身体が震える。強い憎しみに我を忘れそうになる。レイはゲイルに向ってまっすぐに歩きだした。
「よう、ヴァンパイア。また戻ってきてくれたとは嬉しいぜ」
ショットガンを構えるゲイルの後ろから金属の蛇がするりと這い出してきた。
「この間は何だか判らねえが邪魔が入ってこいつも壊されちまった。直してもらうのに金がかかったんだぜ。お前の賞金で償ってもらわねえとな」
レイはゲイルの5メートルほど手前で立ち止まった。
「残念ながら、二度と同じ手は食わないよ」
「それはどうかな? こいつは素早いぜ?」
「そんなことはどうでもいい。彼女をどうやって捕えたんだ?」
「彼女? ああ、この女か。あのガキの母親だよな。車を走らせてたら、こいつ、道の端に立って手を振ってやがった。ガキを探しに戻ってきて、よりによって俺の車を止めやがったんだ。馬鹿なやつだ。俺があのガキを預かる親切な人だと信じてたなんてな。まあ、ガキは逃げちまったが、こいつの方がずっと嬲りがいがあった。楽しませてもらったぜ」
「ケダモノめ!」
ゲイルの下卑た笑い声に爆発しそうな怒りをレイはかろうじて抑え込んだ。
目を瞑り、神経を集中させた。ざわざわと葉ずれの音が響く。吹き抜ける風と一体化したように彼の金の髪がなびく。
ゲイルは薄笑いを浮かべて叫んだ。
「スネーク! そいつを捕えろ!」
スネークはゆっくりとレイの脇まで近付いて行ったが、やがて戸惑ったように鎌首を持ち上げたまま動かなくなった。レイはゆっくりと目を開けた。その瞳は既に青い光を湛えている。彼は口の中からガムを取り出すと、膝を曲げて鎌首を持ち上げたスネークの鼻にぺたりと貼り付け、ゲイルのほうを見て冷酷な笑みを浮かべた。
「どうした、スネーク! 早くそいつを捕えろ!」
スネークは突然、鎌首をレイの斜め後ろに回すと、素早く動き出した。
まさか! レイは急いで後ろを振り返った。
「おい、レイ。こんなところで何をしてるんだ?」
デビィだ。いつの間に来たのだろう。レイは訝しげな顔でハンターを見ている彼を見て、
「デビィ! 逃げろ!」
と叫び、同時に滑るように彼に近づいていくスネークの後を追い、飛びかかった。蛇の尾を素早く掴み、ハンターに向かって放り投げる。と、デビィの正面から腹に手を回し、そのまま彼の身体を小麦袋みたいに肩に担ぎあげ、地面を蹴った。
「お、おい、レイ! うわあっ!?」
慌てふためくデビィを丈夫そうな木の枝に座らせると、慌てて枝にしがみつく彼を残して地面に飛び降りた。
「そいつは誰だ? お前の仲間か」
「お前に答える必要はない」
「まあ、そうだな。そいつは後でゆっくり始末してやるよ。スネーク! 獲物は目の前だ! そいつを捕えて身体を砕け!」
ゲイルの足元に落ちていたスネークは唐突に動き出すと、目の前の獲物に向かって素早く飛びかかった。骨の砕ける音と共にハンターが物凄い悲鳴を上げ、朽ちた木が倒れるように地面に横たわった。
レイは痛みと恐怖に身体を震わせているゲイルにゆっくりと近付いていき、傍らに立ちどまった。
「気分はどうだ? ゲイル」
「貴様……どうして」
ゲイルは口から血の泡を吹きながらしゃがれた声で呟いた。
「ああ、こいつが俺を襲わなかったわけか? この蛇には鼻に匂いのセンサー、両目に温度センサー付きのカメラが付いている。周囲との温度の違いで生物のいる場所を感知し、認識装置で登録してある持ち主の匂いを嗅ぎ分けて敵を見分け、持ち主の命令で襲いかかる。だから俺は周囲の温度と体温を完全に同化させた。そして鼻にガムを張り付けた。だからスネークは唯一、熱を持った生物に襲い掛かったのさ」
「くそ……。てめえ、ぶっ殺してやる」
「その言葉はそっくりお返しするよ。ただし、止めはこの蛇の玩具の牙じゃない。俺の牙だ」
レイはゲイルの頭を乱暴に掴むと正面から首に白く長い牙を食いこませた。痙攣し、呻き声をあげる男の身体はやがて完全に動かなくなった。
レイはロンの母親に近付いていき、傍らに膝まづいた。彼女にはまだ微かに息があった。
「ロンは無事です。クロード先生が養子にするために引き取ってくれました。安心してください」
彼女はうっすらと目を開け、聞き取れないほど小さな声で「ありがとう」と呟いた。
「私……騙されたんです。ヴァンパイアの子供を預かってくれる施設の人を昨日泊まったホテルで主人に紹介されて、あの子を預けるからって言われて……そうしなければ別れるって。そうしたほうがあの子のためかもしれないって私も思って……レストランで睡眠薬を飲ませて眠ったあの子を森の中であの男に預けました。私……あまり鼻が利かなくてハンターだなんて気付かなかった。でもどんどん不安になって……いてもたってもいられなくて……昨日からずっと歩いてあの男の車を探してたんです」
「大丈夫ですよ。あなたは彼を探しに一人でここまで戻ってきたんだ。何も気に病むことはないんですよ」
彼女はほんの少し笑みを浮かべて目を瞑った。
「ロンに伝えてください。ごめんねって。誰よりもあなたを愛してるって」
微かな息が止まり、その瞳から涙が頬を伝う。レイは彼女の乱れた服を直し、彼女の形見として傍らに転がっていた小さなショルダーバッグと薬指の指輪を取り、上着のポケットを探った。ロンの為にも身元が判るものは残しておかないほうがいい。出てきたのは一枚の写真。彼女とロンと、彼によく似たダーク・ブラウンの髪の男。頬を寄せ合い、幸せそうに笑う彼らを見た途端、レイは溢れ出てくる涙を止めることが出来なかった。
「ハンターに殺られたのか。可哀そうに」
いつの間にか、デビィがレイの横に立っていた。
「しかし、木の上は勘弁してくれよ。俺、高いところは苦手だって言ったじゃねえか」
「ああ……すまなかった。緊急事態だったんでね。……デビィ。ちょっと手を貸してくれないか?」
二人は彼女の身体から杭を引き抜くと、ハンターの車にあった毛布で体を覆い隠した。
「本当は何処かに埋めてやりたいけれど、穴を掘る道具がないしね。仕方がないよ」
レイはそう呟くと彼女の傍らで悔しそうに唇を噛みしめた。
デビィは宿の主人に借りたトラックでレイを迎えにきたところだった。車の外から漂ってきたレイの匂いに気付き、脇道に入って彼を見つけたのだ。
「何だか知らねえが、ロボットみてえなものまでハンターの道具になってるんだな。知らなかったぜ」
自転車を荷台に載せ終え、運転席に腰を掛けたデビィが呟いた。
「俺も知らなかったよ、デビィ。気をつけなくちゃいけないな」
助手席に乗り込んだレイはそっと後ろを振り向き、ひっそりと残された彼女のことを思った。ハンターの奴ら、絶対に許すものか。
宿に帰ったレイは診療所に電話をし、クロードに一部始終を伝えた。
「ロンの母親は森に戻ってきたんです。彼を助けようとしたんです。今はその時期ではないかもしれないけれど、いつか時が来たら彼に話してやってください」
「判った。ロンがもう少し大きくなったら、時期を見て私から話そう」
「お願いします。クロード先生」
レイは翌日、到着した町で指輪と写真、そしてクロード宛の手紙をバッグに入れ、小包にして診療所に送った。
「気が済んだか? レイ」
郵便局から出てきたレイをデビィが待っていた。
「ああ、そろそろ出発しないか。もう少し遠くの町へ行きたいんだ」
「そうだな。でもその前にまず腹ごしらえだ。この先にフライドチキンの美味い店があるぞ」
「誰に聞いたんだよ?」
「郵便局から出てきた女の子に聞いたんだ。なかなか可愛い娘だったぜ」
相変わらずのデビィだが、その屈託のない笑顔はレイのやりきれない心を少しだけ和らげた。
「それじゃあ、そこへ行ってみようか」
「あれ? 今日はいやに素直だな、レイ。具合でも悪いのか?」
「それどういう意味だよ? デビィ。俺はそんなに捻くれ者じゃないぞ!」
「そうそう。それでいい。少しは元気が出てきたな」
少しむっとしたレイの顔を見てデビィはにやりと笑うと目当ての店に向って歩き出した。レイは少し遅れて歩き出す。夏の午後。雨を告げるように雲が空を覆い始めていた。