episode2
回る回る。
オーバルコースをぐるぐる回る。
と思ったら、マシンもぐるっと回って。
どんっ!
「ああっ!」
ぱっ、と目を見開きめざめるベッキー。
白い天井と白く灯る蛍光灯が目に入る。
しーん、と静寂が霜のようにおりてくるのを感じ、目を見開いたまま、じっと天井をみつめていた。
「ここはどこ? 私はだれ?」
ぽそっとつぶやいた。
つぶやいてから、上半身を起こし、手を見た。
白く細い自分の手が見えた。
と同時に、レースでクラッシュしたことが脳裏をよぎる。
(あたしはクラッシュして、それから、それから……)
途切れようとする意識の中、熱くなったと思ったら炎が自分をつつみこもうとしていたことを思い出す。
(あたし、燃えた……)
それから、覚えていない。薄ら寒い思いにかられた。
テレビのスイッチを急に切ったかのように、炎につつまれてからの記憶がぷっつりと途切れている。
ふと、手で体のあちこちをまさぐりはじめた。
無傷で痛くもなんともない。スポンサーのポスターにビキニの水着姿で出たほどのモデル並みの身体も健在だった。
(おかしい)
記憶が途切れているとはいえ、炎上するほどのひどいクラッシュだったのはわかっている。それで無傷でどこも痛まないなんて。
ふとあたりをきょろきょろ見回した。
ここはどこだろう。ベッドのすえられた白一色の部屋。見慣れぬ機械がベッドを取り囲んで、波うつ映像モニターもある。ここは病院? でも、なんか違うような。
自分はひどい怪我をして病院に担ぎ込まれたのか、と思ったが、どうも違う?
身体はなんともない。点滴もされていない。じゃ、ここはどこだ?
(あたしどうなっちゃったの?)
背筋に氷が滑るような冷たさと恐怖を感じ、目がぐるぐると回り始める。
そういえば自分はどのくらい眠っていたのだろう。かなり長い間眠っていたような気がする。
その間、まったく記憶がない。
クラッシュのことを思い出そうとすると、魂がどこかへと吸い込まれてゆきそうな気がした。
(死んだ)
という直感がひらめく。
(そうだ、あたしはクラッシュして、……死んだ)
すると、モニターが突然ピーピーと鳴きはじめる。
「え、なに、なんなのよ」
パニックになればなるほど、モニターもそれに合わせるようにしてピーピーとやかましく鳴きわめいた。
「白雪姫のお目覚めだ」
突然、ドアががちゃっと開いたかと思うと、しかめつらしい顔をした、白衣の男がそんなジョークをつぶやきながら入ってきた。
「だれよあんた?」
ベッキーは両手で身をかばいながら白衣の男を「きっ」と睨みつける。白衣の男は黒髪に黒い眼のアジア人だった。
「オレか、オレの名前は萌島。お前の命の恩人だぞ」
「命の恩人?」
「そうだぞ。お前、オレがいなけりゃとっくに死んでたんだぜ」
「やっぱり、あたし死んでたの」
「まあな」
白衣の男は言いながらモニターの音量をゼロの数値まで下げた。うるさくてかなわん。
やっぱり自分は死んだのか。でも命の恩人ってどういうことだろう。
思案するベッキーを見て、萌島はにやっとすると。
ふと新聞を持っているのが見えた。萌島は新聞をベッキーに差し出せば、その中のひとつの記事に仰天する。
「……」
声も出ない。これは何の悪いジョークだ。自分は今生きているのに。
「驚いたか、これはな……」
と、話をはじめる白衣の男。それを聞いているうちに、ベッキーは白目をむいてベッドに倒れた。
「コーヒー入れてきたよ」
ルームメイトのショートカットの少女が、カップを差し出す。黒くも澄んだ瞳で、ベッキーを見つめている。
ベッキーは物言わず受け取り、コーヒーをすする。
コーヒーのあたたかみが、胃にしみわたる。
「日本はつまんない?」
「……」
何も言わない。
日本に来てどれくらいたつだろうか。全身に火傷を負い死ぬはずだった自分が、今もこうして生きている。
生身の肉体と、機械が、自分の中で組み合わされて。それで自分が生きている。
で、今は。日本のどこかのビルの一室に閉じ込められて、知らない日本人少女をルームメイトに迎えて、一緒に暮らしている。
ビルから外に出ることは許されなかった。
「お前はもう死んでいることになっているからな」
という萌島の言葉。
そういえば、戸籍上ではほんとうに死んだことにされている。自分が死んだという新聞記事を見せられたときには、ひっくりかえってしまった。
それから日本に連れてこられて、今こうしている。
二段ベッドの一段目に腰掛けて、窓を、窓の向こうに見える空を眺めて。ルームメイトの入れてくれたコーヒーをすすり。
空の青さ、その青さに飛び込んで行きたいという気持ち。
「日本が、というより、ここがつまらないわ」
カップを手にする自分の手を見た。白くて細い手だ。
「お前は生まれ変わったんだぜ」
という萌島の言葉を思い出した。
生まれ変わった、といっても。どういうことだろう。ビルに押し込められて何もできない。数日に一度、検査のための一晩の入院で出るくらいだ。これのどこが、生まれ変わりだ?
ふと、あのときの、クラッシュしたときの記憶が呼び起こされる。
そのとき、自分は一度死んでいたのだ。オーバー300キロのクラッシュ。激しい衝撃、自分を包み込む炎。この身体を真っ黒こげにした。
焼けただれる自分の肌を想像すると、ぞっとした。
(あたしは一度死んだ……)
だけど、こうして生きている。
「だけど結局、あたしはモルモットだったのね」
奥歯がかちっと鳴った。レースでクラッシュして死んで、それからモルモットになって。
生まれ変わる。という言葉の意味。
それは、サイボーグ手術の実験台になったということだったのか。
「最初は嬉しかったけどね……」
それこそ、元通りに戻った体を鏡に映して。何度も何度も、鏡の中の自分を見つめ続けた。
鏡よ鏡よ鏡さん、この世で一番美しいのはだあれ? それは、このあたし、ベッキー。
だなんてシャレも出た。
それを見たエリナが、おかしそうに笑っていたが。それは自分へのジェラシーの負け惜しみよと、自分の体を見せつけたこともあった。
さすがにこれにはエリナも閉口して、ごめん許してと、笑うのを押さえながら笑うのをやめた。
体が元に戻っただけではない。自分の手で自分の体に触れたとき、確かに女を取り戻せたことも感じた。
そのときは、天にも舞い上がりそうな気持ちだった。
それがいまはどうだ。
どことも知れぬビルの一室に閉じ込められて、わけもわからぬまま、得体の知れない少女と同居させられて。
まさか、この少女も自分と同じサイボーグなんだろうかと思った。しかし。
「ごめん、私のことは誰にも言うなって言われてるの」
としか応えてくれない。
コーヒーを入れてくれたのも、せめてもの償いというところか。
ふと、もう片方の手で、カップを持つ手の肘をまさぐってみた。肘にボタンがあるような感触がして、そこを押すと表皮が剥がれて、中の機械部分がむき出しになる。
最初は驚いたが、今は見慣れてなんとも思わない。ひと目それを見て、もとに戻す。
まったく、よくできたものだ。
「ねえ、エリナ。これからあたしたち、どうなるのかしらね」
エリナは何も言わず、わからないと、首を横に振った。