反応
「かゆいところ、ないですか?」
あー、大丈夫です。
いつも通り、おれはそう答えてから、はて、と思案した。
シャンプー台に仰向けにされ、首を溝にはめこまれ、目の上には布、首から下もすっぽり布でくるまれて、まな板の上の鯉である。
この体勢でこれを訊かれるのは何度目だろう。
何百回かもしれぬ。
そのたびにおれは、大丈夫です、と答え続けてきた。
果たしてこの質問に意味はあるのだろうか。
逆にこちらから訊きたい。
今まで、かゆいです、と答えた客はいるのか。
いるはずがない。
かゆいです、とはつまり、ゆうべ風呂に入りませんでした、と白状するも同然である。
実のところ、おれはゆうべ倉庫の棚卸しで深夜まで残業していて、風呂には入っていない。
だからなおさら言えぬ。
しかも仮に素直に白状したとして、そこに待っているのは赦しではなく、どこがかゆいですか、という第二の尋問であろうことは明白だ。
右の耳のうしろの、もう少し上の、あ、そこです、などと、まな板の上の鯉が指図するのは滑稽にもほどがある。
これはもはや、恥の話ではない。
人がいかにして人としての矜持を維持できるかという、美学の問題だ。
言わず、かかず、反応せず。
この三原則を断固死守すべきであろうと思えた。
嬉々として、かゆいです、だの、あーそこ、そこです、だのと答えるのは決まって学も品もないような連中だ。
人間として品格を保つには、やはり最低限の良識を持たねばならない。
決めたぞ。
今日おれは、何があっても、かゆいとは言わない。
しかし運命とは残酷なもので、そう決めたとたん、生え際が無性にかゆくなってきた。
*
額の真ん中、少し上を、蟻が数匹、一列縦隊で行進しているような感覚。
いやいや、なんのこれしき。
美容師の指はいま頭頂部を揉んでいる。
いずれ生え際にも来るだろう、待てば海路の日和ありだ。
どこか遠くで、ピ、ピ、と几帳面な電子音が鳴っている。
ヘアアイロンかパーマのタイマーだろう。
白髪染めの客でもいるのか、薬品のような消毒液のような匂いもする。
「今日は、いいお天気ですねー」
そうですね、とおれは返す。
窓の外は見ないが、たいていこういう話は間を持たせるための社交辞令であり、相手に合わせてさえおけば差し支えない。
するとようやく、指が生え際に近づいてきた。
来た、来た来た来た。
そしてそのまま通りすぎた。
蟻の行列の五ミリ手前で、何事もなかったように引き返していった。
*
悪いことというのは、得てして重なるものである。
次に、うなじがかゆくなった。
ちいさな毛虫が這っているような感覚がして、わずかに身震いする。
美容師の指は後頭部の上半分を丁寧に往復している。
うなじの手前まで来て、ひょいと引き返す。
また来て、ひょいと引き返す。
かゆいところだけを、実に正確に避けて通る。
わざと残していないか。
おれは恐るべき可能性を想像した。
「お客様にかゆいと言わせた件数」が月ごとに集計され、休憩室の壁に棒グラフが貼り出されている。
おれはいま、彼らのボーナス査定の、まっただなかに寝かされているのではないか。
しかし、ここまできて自分でかくこともできない。
さっき三原則を打ち立てたばかりではないか。
もしおれが布の下で手をもぞもぞやったら、恐らく彼らは察してまたあの言葉を言うだろう。
手は一ミリたりとも動かしてはならない。
遠くで、誰かがひそひそと話す声がした。
「反応は?」
「変わりないですね」
それ見たことか、査定で間違いないぞ。
まだかゆいと言わせていませんね、もっと頑張りなさい、というわけだ。
三原則の反応せず、が見事に功を奏している格好だ。
ざまあみろ。
*
途端に、今度は頭頂部がかゆくなった。
そして、こめかみが、耳のうしろが、段々とかゆくなった。
指が右へ行けば左が、前へ行けば後ろが、かゆくなる。
気にしているせいか、恐らく本来はかゆくもないところが、敏感になっているに違いない。
そうこうしているうちに、かゆみは限度を越えだした。
耳の穴がかゆい。
綿棒も届かぬあの聖域が、かゆい。
まぶたがかゆい。
顔にかぶせられた布の下でひくつきそうになるのを、渾身の力でおさえつける。
鼻の穴の奥で、何者かが羽ぼうきを振っている。
のどがかゆい。
咳払いをしたら負けだ。
頬がかゆい、首筋が、胸が、腹がかゆい。
かゆい、は今や全身に伝染する疫病となった。
股間がかゆい。
ひざの裏がかゆい。
足の薬指と小指のあいだが、とてつもなくかゆい。
もはや発狂寸前だ。
おれの全身が、おれに反旗をひるがえして革命でも起きたのか、と思える地獄がはじまった。
耳が、鼻が、腹が、股間が、足の指が、口々に叫んでいる。
いまこそ立ち上がれ。
かゆいと言え。
旧体制を打倒しろ。
しかし、おれの意思は固く、手は布の下で、じっとしている。
ここでかいたら、今まで積み重ねてきた何百回の「ないです」が、まとめて嘘になる。
学のない嘘つきの鯉として、恥辱にまみれた生涯を送ることになる。
それくらいなら、おれはかゆみに殉じる。
*
どのくらいたったのか、わからない。
今や皮膚の内側で、何千何万という小さな不満分子が、いっせいに出口を探してうごめいていた。
美容師の指が止まり、最後通牒が突き付けられた。
「かゆいところ、ないですか?」
ないです、と言おうとして、何かがのどもとでつかえた。
生まれてはじめて、おれはその問いに答えられなかった。
「はーい、じゃあ、流しますねー」
勢いよくお湯が出る音がして、ぬるい湯が頭にかかった。
ああ。
生え際の蟻が、うなじの毛虫が、泡といっしょに流されていく。
まさに極楽である。
しかし、頭が一通り流しおわったところで、シャワーヘッドが遠ざかっていく。
おれは愕然とした。
耳の穴は、まぶたは、鼻は、のどは、胸は、腹は、股間は、ひざの裏は、どうなる。
足の指のあいだは。
首から下が、地獄のまま残されるのか。
おしまいだ。
気配でわかった。
このあとは、タオルで頭をくるまれ、ぽん、ぽん、と押さえられて、おつかれさまでした、と声がかかるのであろう。
指先が、顔の上の布の端にかかる。
これを取られたら、首から下のかゆみは二度と訊かれることなく、全てが終わるのだ。
その時、おれの中で、ぷつん、と何かが切れた。
おれは、首から下をくるんでいた布をはぎとって、だしぬけに上半身を起こした。
上下の衣服を脱ごうとするが、うまく脱げない。
かまうものか、引きちぎって、投げ捨てる。
手探りで、戻されかけたシャワーヘッドをひったくる。
ホースが短い。
力任せにぐいと引っ張る。
がたがたとシャンプー台が音を立てるが、おれは構わず、台に尻をついたまま全身に湯を浴びた。
胸から股間を通り、足の指のあいだまで、くまなく。
大きく口を開け、のどにも。
耳の穴に流れ込む水の音が、心地よかった。
全身が解放感で満たされ、不満分子を流しつくすと、おれは満足した。
ふうう、と長い息をつく。
顔の上の布が、はらりと落ちた。
残念なことに自分では見られないが、いまのおれは、生まれてこのかた、いちばん晴れやかな顔をしているに違いない。
おれは三原則を死守し、革命に耐え、見事に生き残った。
*
ヘルパーが、タオルを両手に広げたままの姿勢で固まり、呆然と立ちつくしている。
洗髪台に横づけされた介助用ベッドの上では、掛け布と病衣を投げ捨てて全裸になった男が、シャワーヘッドを胸に抱えこみ、全身びしょ濡れのまま恍惚としていた。
傍らで様子を見守っていた医師は、にやりと笑った。
「至急、ご家族に連絡を。倉庫の作業中に事故にあわれた患者さん、意識がもどりましたよ」




