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反応

掲載日:2026/11/01

「かゆいところ、ないですか?」


 あー、大丈夫です。


 いつも通り、おれはそう答えてから、はて、と思案した。

 シャンプー台に仰向けにされ、首を溝にはめこまれ、目の上には布、首から下もすっぽり布でくるまれて、まな板の上の鯉である。

 この体勢でこれを訊かれるのは何度目だろう。

 何百回かもしれぬ。

 そのたびにおれは、大丈夫です、と答え続けてきた。


 果たしてこの質問に意味はあるのだろうか。

 逆にこちらから訊きたい。

 今まで、かゆいです、と答えた客はいるのか。


 いるはずがない。

 かゆいです、とはつまり、ゆうべ風呂に入りませんでした、と白状するも同然である。

 実のところ、おれはゆうべ倉庫の棚卸しで深夜まで残業していて、風呂には入っていない。

 だからなおさら言えぬ。

 しかも仮に素直に白状したとして、そこに待っているのは赦しではなく、どこがかゆいですか、という第二の尋問であろうことは明白だ。

 右の耳のうしろの、もう少し上の、あ、そこです、などと、まな板の上の鯉が指図するのは滑稽にもほどがある。


 これはもはや、恥の話ではない。

 人がいかにして人としての矜持を維持できるかという、美学の問題だ。


 言わず、かかず、反応せず。

 この三原則を断固死守すべきであろうと思えた。

 嬉々として、かゆいです、だの、あーそこ、そこです、だのと答えるのは決まって学も品もないような連中だ。

 人間として品格を保つには、やはり最低限の良識を持たねばならない。


 決めたぞ。

 今日おれは、何があっても、かゆいとは言わない。


 しかし運命とは残酷なもので、そう決めたとたん、生え際が無性にかゆくなってきた。


   *


 額の真ん中、少し上を、蟻が数匹、一列縦隊で行進しているような感覚。


 いやいや、なんのこれしき。

 美容師の指はいま頭頂部を揉んでいる。

 いずれ生え際にも来るだろう、待てば海路の日和ありだ。


 どこか遠くで、ピ、ピ、と几帳面な電子音が鳴っている。

 ヘアアイロンかパーマのタイマーだろう。

 白髪染めの客でもいるのか、薬品のような消毒液のような匂いもする。


「今日は、いいお天気ですねー」


 そうですね、とおれは返す。

 窓の外は見ないが、たいていこういう話は間を持たせるための社交辞令であり、相手に合わせてさえおけば差し支えない。


 するとようやく、指が生え際に近づいてきた。

 来た、来た来た来た。


 そしてそのまま通りすぎた。

 蟻の行列の五ミリ手前で、何事もなかったように引き返していった。


   *


 悪いことというのは、得てして重なるものである。

 次に、うなじがかゆくなった。

 ちいさな毛虫が這っているような感覚がして、わずかに身震いする。


 美容師の指は後頭部の上半分を丁寧に往復している。

 うなじの手前まで来て、ひょいと引き返す。

 また来て、ひょいと引き返す。

 かゆいところだけを、実に正確に避けて通る。


 わざと残していないか。

 おれは恐るべき可能性を想像した。

 「お客様にかゆいと言わせた件数」が月ごとに集計され、休憩室の壁に棒グラフが貼り出されている。

 おれはいま、彼らのボーナス査定の、まっただなかに寝かされているのではないか。


 しかし、ここまできて自分でかくこともできない。

 さっき三原則を打ち立てたばかりではないか。

 もしおれが布の下で手をもぞもぞやったら、恐らく彼らは察してまたあの言葉を言うだろう。

 手は一ミリたりとも動かしてはならない。


 遠くで、誰かがひそひそと話す声がした。


「反応は?」


「変わりないですね」


 それ見たことか、査定で間違いないぞ。

 まだかゆいと言わせていませんね、もっと頑張りなさい、というわけだ。

 三原則の反応せず、が見事に功を奏している格好だ。

 ざまあみろ。


   *


 途端に、今度は頭頂部がかゆくなった。

 そして、こめかみが、耳のうしろが、段々とかゆくなった。

 指が右へ行けば左が、前へ行けば後ろが、かゆくなる。

 気にしているせいか、恐らく本来はかゆくもないところが、敏感になっているに違いない。


 そうこうしているうちに、かゆみは限度を越えだした。


 耳の穴がかゆい。

 綿棒も届かぬあの聖域が、かゆい。

 まぶたがかゆい。

 顔にかぶせられた布の下でひくつきそうになるのを、渾身の力でおさえつける。

 鼻の穴の奥で、何者かが羽ぼうきを振っている。

 のどがかゆい。

 咳払いをしたら負けだ。

 頬がかゆい、首筋が、胸が、腹がかゆい。


 かゆい、は今や全身に伝染する疫病となった。

 股間がかゆい。

 ひざの裏がかゆい。

 足の薬指と小指のあいだが、とてつもなくかゆい。

 もはや発狂寸前だ。


 おれの全身が、おれに反旗をひるがえして革命でも起きたのか、と思える地獄がはじまった。

 耳が、鼻が、腹が、股間が、足の指が、口々に叫んでいる。

 いまこそ立ち上がれ。

 かゆいと言え。

 旧体制を打倒しろ。


 しかし、おれの意思は固く、手は布の下で、じっとしている。

 ここでかいたら、今まで積み重ねてきた何百回の「ないです」が、まとめて嘘になる。

 学のない嘘つきの鯉として、恥辱にまみれた生涯を送ることになる。

 それくらいなら、おれはかゆみに殉じる。


   *


 どのくらいたったのか、わからない。

 今や皮膚の内側で、何千何万という小さな不満分子が、いっせいに出口を探してうごめいていた。


 美容師の指が止まり、最後通牒が突き付けられた。


「かゆいところ、ないですか?」


 ないです、と言おうとして、何かがのどもとでつかえた。

 生まれてはじめて、おれはその問いに答えられなかった。


「はーい、じゃあ、流しますねー」


 勢いよくお湯が出る音がして、ぬるい湯が頭にかかった。

 ああ。

 生え際の蟻が、うなじの毛虫が、泡といっしょに流されていく。

 まさに極楽である。


 しかし、頭が一通り流しおわったところで、シャワーヘッドが遠ざかっていく。

 おれは愕然とした。

 耳の穴は、まぶたは、鼻は、のどは、胸は、腹は、股間は、ひざの裏は、どうなる。

 足の指のあいだは。

 首から下が、地獄のまま残されるのか。


 おしまいだ。

 気配でわかった。

 このあとは、タオルで頭をくるまれ、ぽん、ぽん、と押さえられて、おつかれさまでした、と声がかかるのであろう。

 指先が、顔の上の布の端にかかる。

 これを取られたら、首から下のかゆみは二度と訊かれることなく、全てが終わるのだ。


 その時、おれの中で、ぷつん、と何かが切れた。


 おれは、首から下をくるんでいた布をはぎとって、だしぬけに上半身を起こした。

 上下の衣服を脱ごうとするが、うまく脱げない。

 かまうものか、引きちぎって、投げ捨てる。

 手探りで、戻されかけたシャワーヘッドをひったくる。


 ホースが短い。

 力任せにぐいと引っ張る。

 がたがたとシャンプー台が音を立てるが、おれは構わず、台に尻をついたまま全身に湯を浴びた。

 胸から股間を通り、足の指のあいだまで、くまなく。

 大きく口を開け、のどにも。

 耳の穴に流れ込む水の音が、心地よかった。

 全身が解放感で満たされ、不満分子を流しつくすと、おれは満足した。


 ふうう、と長い息をつく。

 顔の上の布が、はらりと落ちた。

 残念なことに自分では見られないが、いまのおれは、生まれてこのかた、いちばん晴れやかな顔をしているに違いない。


 おれは三原則を死守し、革命に耐え、見事に生き残った。


   *


 ヘルパーが、タオルを両手に広げたままの姿勢で固まり、呆然と立ちつくしている。

 洗髪台に横づけされた介助用ベッドの上では、掛け布と病衣を投げ捨てて全裸になった男が、シャワーヘッドを胸に抱えこみ、全身びしょ濡れのまま恍惚としていた。


 傍らで様子を見守っていた医師は、にやりと笑った。


「至急、ご家族に連絡を。倉庫の作業中に事故にあわれた患者さん、意識がもどりましたよ」


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