予感が当たる俺の上に王女が落ちてきた
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朝、目が覚めた瞬間に、今日はろくでもないことが起きるとわかった。
理由はない。根拠もない。ただ、胸の奥に小石でも転がり込んだみたいな、落ち着かないざらつきがある。子どものころからたまにある感覚で、だいたい当たる。
雨が降る予感がした日は、快晴でも帰り道だけ土砂降りになった。村長に怒られる予感がした日は、隣の畑のかぼちゃをうっかり蹴り割って半日説教された。
そして今日の予感は、かなり大きい。
「……逃げたい」
ベッドの上で呟いても、逃げ場はない。
俺はリオ。十七歳。辺境の村ラグナで畑を耕し、薪を割り、たまに森で薬草を採って暮らしている。英雄でも勇者でもない、ただの村人だ。
家の外では鶏が騒ぎ、母さんが朝鍋をかき回す音がしている。
「リオー! 起きてるなら水汲み行ってきて!」
「起きてるー……」
返事をしながら起き上がる。ろくでもないことが起きる日に限って、朝はいつも通りなのが腹立たしい。
顔を洗い、桶を持って井戸へ向かう。村の朝は早い。パンを焼く匂い、牛の鳴き声、井戸端のおしゃべり。平和そのものだ。
なのに俺だけ、頭上から何か降ってきそうな気がしていた。
空を見上げる。
雲ひとつない青空。
「……気のせいか?」
そう思った瞬間。
遠くの空に、黒い点が見えた。
鳥にしては大きい。落ち方が変だ。真っ直ぐこちらへ――いや、落下してきている。
点はみるみる大きくなり、人の形になった。
「うそだろ」
金色の髪が陽を反射し、白いマントがばたばたとはためく。人間だ。しかも女の子。しかも綺麗。
「きゃああああああああ!」
叫び声が村中に響いた。
「避けろおおおお!」
誰に言うでもなく叫び、俺は反射的に前へ飛び出した。
次の瞬間。
どごんっ!!
俺の上に、その少女が直撃した。
気づくと、俺は地面に仰向けで埋まりかけていた。
胸の上に柔らかい重み。鼻先に花みたいな香り。
「……生きてる?」
澄んだ声がした。
視界いっぱいに、整った顔。青い瞳。長い睫毛。金の髪がさらりと頬にかかる。
少女は俺の胸の上にまたがったまま、じっとこちらを覗き込んでいた。
「……お前がな」
「失礼ね。私は元気よ」
「俺が死にかけてるんだけど」
周囲から悲鳴とざわめきが上がる。
「リオが女の子に潰されたぞ!」
「なんて羨ましい最期だ!」
「死んでねえよ!」
叫ぶと、少女はようやく状況を理解したらしく、ぱっと飛び退いた。
「ご、ごめんなさい……その、着地に少し失敗して」
「少し?」
地面には俺型のくぼみができていた。
少女は咳払いして姿勢を正す。土まみれなのに妙に気品がある。
「私はエリシア。……旅の者よ」
今、間があったな。
「旅人が空から来るのか」
「最近はそういう旅もあるの」
「最近ってなんだよ」
村人たちが遠巻きに見守る中、エリシアは俺にだけ聞こえるよう小声で言った。
「お願い。事情はあとで話すから、今は匿って」
「は?」
その瞬間、また予感がした。
この女を断れば、もっと面倒なことになる。
「……なんで俺なんだ」
「あなた、優しそうだから」
「見る目ないな」
「それに」
彼女は少し笑った。
「あなたに会う気がしてたの」
そう言われて、胸が変に鳴った。
ろくでもない予感は、どうやら恋のほうまで当たるらしい。
結局、エリシアはうちに連れて帰ることになった。
母さんは事情を聞かずに歓迎した。
「あら可愛い子! リオ、ついに嫁を拾ってきたの?」
「拾ってないし落ちてきた」
「空から縁談なんて素敵じゃない」
「話を聞けよ」
エリシアはにこやかに頭を下げた。
「しばらくお世話になります」
「礼儀正しいわ! うちの娘にならない?」
「俺、実子だよな?」
その日の昼には、エリシアはうちの客間に収まっていた。
俺は納屋の前で薪を割りながら、現実逃避していた。
王女様みたいなやつが空から降ってきて同居中。
いや、王女“みたい”じゃない。たぶん本物だ。
服の刺繍、言葉遣い、姿勢、手の白さ。畑仕事なんてしたことない人間のそれだ。
後ろから足音がした。
「何をしているの?」
振り向くと、エリシアがいた。さっきより簡素な服に着替えているが、それでも隠しきれない品がある。
「薪割り」
「見ればわかるわ」
「じゃあ聞くなよ」
彼女はむっとして腕を組んだ。
「あなた、いつもそんな感じなの?」
「初対面で人に落ちてきた相手には普通だろ」
「……助けてくれたことには感謝してる」
「おう」
「でも、少しは女性に優しくしたら?」
「空から降ってくる女性は想定外なんだよ」
エリシアは一瞬きょとんとして、吹き出した。
「変な人」
「そっちに言われたくない」
笑うと年相応だった。高貴な仮面が外れて、ただの女の子に見える。
それが少し、危なかった。
「で、本当は誰なんだ」
尋ねると、彼女は周囲を見回してから声を潜めた。
「……王都アルメリアの第三王女、エリシア・アルメリア」
「やっぱりか」
「あまり驚かないのね」
「予感はしてた」
「便利ね、それ」
「当たると迷惑だけどな」
彼女はため息をついた。
「婚約話が進んでいたの。隣国の王子との」
「めでたい話じゃん」
「会ったこともない男よ?」
「……ああ」
それは嫌かもしれない。
「だから逃げてきた。転移魔法で」
「空の上に出たのか」
「座標を少し間違えたの」
「少し?」
「かなり」
なるほど。
「追手は?」
「来るでしょうね」
「帰れよ」
「嫌」
即答だった。
「少しだけでいいの。自由に息がしたい」
その顔は、王女でも高慢でもなく、ただ疲れた少女だった。
俺は薪を置いた。
「……一週間」
「え?」
「一週間だけなら匿う。それ以上は無理だ」
エリシアの顔がぱっと明るくなる。
「本当?」
「母さんが勝手に決めそうだし」
「ありがとう、リオ」
名前をまっすぐ呼ばれて、妙に落ち着かなくなる。
やっぱり今日はろくでもない日だ。
翌朝、俺の生活は崩壊した。
「リオ、起きなさい」
耳元で声がする。
目を開けると、エリシアがいた。
「うわっ!」
飛び起きる。
「な、なんで部屋にいる!」
「朝よ。起こしに来たの」
「普通ノックしろ!」
「したわ。返事がなかったから」
寝てたからな。
彼女は呆れた顔でベッド脇に立っている。
「あなた、寝顔は少し素直なのね」
「二度と観察するな」
朝食の席でも振り回された。
「このパン、美味しい」
「焼きたてだからな」
「毎朝これ?」
「そうだけど」
「王城の料理人を呼びたいわ」
「やめろ」
畑に行けばついてくる。
「私も手伝う」
「無理」
「できるわ」
五分後、苗床を踏み抜いた。
「……大地が柔らかすぎるのよ」
「土に謝れ」
川へ洗濯に行けば、裾を濡らして怒る。
森へ薬草採りに行けば、虫に悲鳴を上げる。
なのに夕方、夕焼けの中で風に髪を揺らして笑う姿だけは、絵みたいに綺麗だった。
「村って、こんな匂いがするのね」
「どんな」
「土と草と、夕飯」
「最後はうちのシチューだな」
「嫌いじゃないわ」
その言葉が、妙に嬉しかった。
三日目の朝。
また嫌な予感で目が覚めた。
前より鋭い。冷たい刃みたいな感覚。
外へ飛び出すと、村の入り口に馬車が止まっていた。
紋章付きの黒い馬車。
鎧の兵士たち。
そして、長身の男が一人。
銀の鎧に青い外套。整った顔。絵に描いたような王子様だ。
エリシアは家の前で固まっていた。
「迎えに来たよ、エリシア」
男は柔らかく笑う。
「私はルシアン。君の婚約者になる者だ」
俺は舌打ちしたくなった。
似合いすぎる。
「帰る気はありません」
エリシアは震えながら言った。
「わがままを言わないでくれ。国のためだ」
「私の気持ちは?」
「結婚すれば愛も育つ」
便利な言葉だ。
ルシアンは俺を見た。
「君が匿っていたのか。礼を言うよ」
「別に」
「だが、ここまでだ」
その言い方が気に入らなかった。
物みたいに連れていく気だ。
エリシアが俺の袖を掴む。
小さく震えている。
その瞬間、はっきりわかった。
今日の予感はこれだ。
選ぶ日だ。
面倒を避けるか、面倒の中心へ飛び込むか。
俺はため息をついた。
「エリシア」
「……なに」
「お前、帰りたい?」
彼女は首を横に振った。
迷いなく。
「じゃあ、帰すわけにいかないな」
村人たちがざわつく。
ルシアンの笑みが消えた。
「平民風情が」
「そうかもな」
俺は前に出る。
足が震えていた。喧嘩なんて強くない。
でも、逃げたら一生後悔する予感がした。
「本人が嫌だって言ってる」
「国の事情に口を出すな」
「恋の事情だろ、それ」
言った瞬間、自分で顔が熱くなる。
エリシアが目を見開いた。
ルシアンは冷たく笑った。
「なら勝負しよう。私に勝てば、今日は引こう」
兵士が木剣を差し出す。
「王子様が村人いじめか」
「未来の妻を奪う男には相応しい」
最低な言い回しだ。
俺は木剣を握った。
勝てるわけがない。
でも――予感がする。
一発だけ、当たる。
勝負は一方的だった。
ルシアンは強い。剣術を学んだ動きだ。
一撃、二撃、三撃。
俺は転がるように避けるしかない。
村人たちの悲鳴。母さんの叫び。
エリシアの声。
「やめて!」
だがルシアンは止まらない。
「身の程を知れ」
振り下ろされた木剣。
その瞬間、俺の体が勝手に動いた。
左へ半歩。
そして、右手を伸ばす。
予感通り、ルシアンの足が石につまずいた。
体勢が崩れる。
俺の木剣が、彼の胸元に当たった。
静寂。
誰も動かない。
ルシアンは信じられない顔で俺を見た。
俺も見ていた。
「……当たった」
「自分で驚くな!」
母さんのツッコミが飛ぶ。
村中が爆笑した。
ルシアンは顔を真っ赤にして剣を捨てた。
「き、今日は引く! だが次はない!」
馬車へ乗り込み、兵士たちも慌てて続く。
砂煙を上げて去っていった。
しばらくして、村人たちの歓声が爆発した。
「リオが王子倒したぞ!」
「婿入りだー!」
「やめろ!」
膝から崩れ落ちる俺のもとへ、エリシアが駆け寄ってきた。
「怪我は?」
「全身してる気がする」
「ばか」
泣きそうな顔で笑っていた。
「どうして、あんな無茶を」
「予感」
「え?」
「お前を行かせたら、たぶん後悔すると思った」
言ってから、しまったと思う。
こんなの告白みたいじゃないか。
エリシアはじっと俺を見て、それからふっと笑った。
「ねえ、リオ」
「なんだ」
「私も、あなたに会う予感がしてたって言ったでしょう」
「言ったな」
「あれ、半分は嘘」
「半分?」
彼女は顔を寄せ、耳元で囁いた。
「会った瞬間に、そう思ったの」
心臓が止まりかけた。
「……ずるいぞ」
「王女ですもの」
「そういう問題かよ」
笑い合う。
夕日が村を赤く染めていた。
ろくでもない一日だった。
でも、人生で一番悪くない日でもあった。
その夜。
母さんがにやにやしながら言った。
「で、エリシアちゃんはいつ嫁になるの?」
「ならない!」
「なります」
「なるのかよ!?」
王子の馬車が去ったあとも、村のざわめきはしばらく収まらなかった。
俺が王子に勝ったことになっているらしいが、実際は勝負ですらない。あいつが勝手に石につまずいただけだ。予感が当たっただけで、剣の腕なら俺は鶏にも負ける。
夕飯の席で母さんは上機嫌だった。
「いやあ、見た見た? あの胸のすく一撃!」
「当てただけだよ」
「男を上げたわねえ」
「上がってない。寿命は縮んだ」
向かいに座るエリシアは、スープを飲みながらくすくす笑っている。
「でも、格好よかったわ」
「やめろ。思い出すと足が震える」
「今さら?」
「今だからだよ」
彼女は声を立てて笑った。王城にいたとき、こんなふうに笑えたんだろうかと少し思う。
食後、外へ出ると夜風が涼しかった。村の灯りは少なく、空の星が近い。
井戸のそばにエリシアがいた。
「眠れないのか」
「少しだけ」
隣に立つ。しばらく黙って星を見上げた。
「ねえ、リオ」
「ん」
「私、明日には連れ戻されると思ってた」
「俺も」
「でも、今日あなたが止めてくれた」
彼女は両手を胸の前で組んだ。
「嬉しかった」
真っ直ぐ言われると困る。
「……あれは勢いだ」
「それでもよ」
彼女は少し俯いた。
「王城では、私の気持ちを聞く人なんていなかった」
その言葉は軽くなかった。王女という立場の重さが、初めて現実味を持って伝わってきた。
「ここでは聞く」
気づけば、俺はそう言っていた。
「え?」
「嫌なら嫌でいいって、そう言う」
エリシアは目を丸くして、それから柔らかく笑った。
「辺境の村人のくせに、生意気」
「王女様のくせに、素直だな」
「誰が」
肩を小さく叩かれた。
そのとき、また予感がした。
今度は嫌なものじゃない。胸の奥があたたかくなるような、不思議な感覚だった。
「……リオ?」
「なんでもない」
言えるわけがない。
たぶん今、俺はこの子を好きになりかけている。
翌朝、村の入り口がまた騒がしくなった。
「もう来たのか!?」
飛び起きて外へ出ると、いたのはルシアン王子……ではなく、一人の老紳士だった。
白髪をきっちり撫でつけ、黒い燕尾服を着ている。こんな辺境には場違いなほど整った老人だ。
彼は俺たちを見るなり、深々と頭を下げた。
「エリシア殿下。お迎えに参りました」
「グレイ……!」
エリシアの顔が明るくなる。
「知り合いか」
「王城の執事長よ。幼い頃からお世話になった人」
老人――グレイは穏やかに笑った。
「昨夜の騒ぎ、王城中で話題でございます。“王子、村人に敗れる”と」
「広まるの早いな」
「ルシアン殿下は今、非常に機嫌を損ねておられます」
「知ってた」
グレイは咳払いした。
「殿下。陛下はお怒りです。しかし……お話し合いの余地はございます」
エリシアの表情が曇る。
「帰れば、また婚約を迫られる」
「以前と同じではありません」
老人はちらりと俺を見る。
「あなた様が、ご自分で望まぬと口にされたと聞きました」
「……それで?」
「陛下も初めて、殿下の意思を無視し続けていたことに気づかれたのでしょう」
意外だった。王様なんてもっと頑固なものかと思っていた。
グレイは続ける。
「ただし、このまま村に留まれば、ルシアン殿下は再び兵を率いて来るかもしれません」
「うげ」
「そこで提案です」
老人の目が少し笑った。
「リオ殿。王都へ来ませんか」
「は?」
「殿下の客人として」
「なんで俺が」
「殿下が帰る条件として、“自分の意思で選んだ友人を一人連れていく”と主張されたので」
エリシアがそっぽを向く。
「……友人、ですって」
耳が赤い。
俺は頭を抱えた。
「なんでそうなる」
「あなたが来れば、少なくとも私は一人じゃない」
その声は小さかった。
断る理由はいくらでもある。畑、家、村、面倒ごと。
なのに、また予感がした。
ここで別れたら、たぶん後悔する。
「……一週間だけだぞ」
「本当!?」
「またそれか」
エリシアが飛びついてきた。
「ちょ、近い近い!」
「ありがとう、リオ!」
「首しまる!」
母さんが家の前から叫ぶ。
「いってらっしゃーい! 婿入り頑張って!」
「違うって言ってるだろ!」
出発の支度はあっという間だった。
母さんは荷物袋に干し肉とパンを詰め込みながら泣いていた。
「ついに都会へ……」
「王都な」
「変な貴族にいじめられても、噛みついちゃだめよ」
「犬か俺は」
「でも嫁候補には噛みついていいから」
「話聞け」
村人たちにも見送られ、俺たちは馬車に乗り込んだ。
ラグナ村が少しずつ遠ざかっていく。
窓の外を見ていたエリシアが、ぽつりと言った。
「怖い」
「何が」
「帰るのが」
その気持ちはわかった。
逃げ出した場所へ戻るのは、進むより勇気がいる。
「じゃあ、俺も怖い」
「え?」
「王都なんて行ったことないし、礼儀も知らんし、貴族は嫌いだし」
「会ったことないでしょう」
「予感で嫌い」
彼女は吹き出した。
「なによそれ」
「でも、一人じゃないだろ」
言うと、エリシアは静かにこちらを見た。
それから、そっと俺の袖をつまんだ。
「……うん」
馬車は街道を進む。
村人だった俺の人生は、たぶんもう元には戻らない。
けれど不思議と、嫌ではなかった。
隣には王女様がいて、面倒ごとの気配は山ほどある。
それでも胸の奥には、確かな予感があった。
この先、きっともっと大変になる。
そしてたぶん、今までで一番楽しい。
エリシアが小さくあくびをして、肩にもたれてきた。
「おい」
「少し寝るだけ」
「重い」
「嘘つき」
目を閉じたまま笑う。
俺はため息をつき、窓の外を見た。
青い空だった。
そういえば最初の予感は、ろくでもないことが起きる、だったか。
訂正しよう。
ろくでもなくて、最高だ。
馬車が王都へ向かって半日ほど進んだころ、街道脇の森で休憩を取ることになった。
御者が馬に水をやり、グレイは手際よく茶の支度を始める。王城の執事長が野外で湯を沸かしている姿は妙に似合っていた。
俺が木陰に座っていると、エリシアが隣へ来た。
「疲れた?」
「慣れない馬車で尻が死にそう」
「品がないわね」
「王女の旅に荷馬車の座席改善を提案しとけ」
彼女は笑って、膝を抱えて座った。
「ねえ、リオ」
「ん?」
「もし王都で、私がまた婚約を命じられたら」
「断れ」
「それでも押し切られたら?」
少しだけ声が弱い。
俺は考えて、それから正直に言った。
「そのときは攫って逃げる」
エリシアは目を丸くしたあと、顔を赤くした。
「な、なに平然と言ってるのよ」
「お前が嫌なんだろ」
「そうだけど……!」
「じゃあそれで十分だ」
彼女はしばらく黙り、やがて小さく笑った。
「本当に、辺境育ちって無茶苦茶」
「褒め言葉として受け取っとく」
そのとき、また胸の奥がざわついた。
嫌な予感だ。
立ち上がると同時に、森の奥から矢が飛んできた。
「伏せろ!」
俺がエリシアを抱えて倒れ込む。矢はさっきまで彼女がいた木に突き刺さった。
グレイが低く舌打ちする。
「追手……しかも私兵ですな」
茂みから黒装束の男たちが現れる。五人。顔を隠し、剣を抜いていた。
「ルシアン王子の手先か」
「短気な方です」
のんびり言うな、この執事。
男たちが迫る。俺は木の枝しか持っていない。終わったと思った。
だが次の瞬間、エリシアが前へ出た。
「下がって」
彼女の指先が光る。
風が渦を巻き、地面の砂を巻き上げた。
「え」
「王女を甘く見ないことね」
一閃。
突風が黒装束たちをまとめて吹き飛ばし、全員まとめて茂みに消えた。
静寂。
俺は口を開けたまま固まる。
「……お前、こんなことできるのか」
「王族は基礎魔法くらい習うわ」
「基礎!?」
「高度なのは苦手だけど」
いや十分だろ。
エリシアはふんと鼻を鳴らし、それから少し不安そうに俺を見た。
「……怖かった?」
「正直に言うと」
「うん」
「惚れ直した」
一瞬、時が止まった。
グレイが盛大に咳き込む。
エリシアは耳まで真っ赤になって叫んだ。
「ば、ばかっ!」
また風が起き、今度は俺だけ吹き飛ばされた。
地面を転がりながら思う。
王都まで、たぶん生きて辿り着けない。
それでも、痛む背中をさすりながら笑ってしまった。
森を抜け、再び馬車が走り出す。夕暮れの光が車内を赤く染め、揺れるたびにエリシアの金髪がきらめいた。
さっきまで怒っていたくせに、彼女はちらちらとこちらを見てくる。
「……なによ」
「いや、王女様って案外照れるんだなって」
「照れてない!」
「耳、真っ赤だけど」
「夕日のせいよ!」
「両耳とも?」
「うるさい!」
拳が飛んできた。痛くはない。たぶん加減している。
グレイが向かいで微笑んだ。
「仲睦まじくて何よりです」
「違う!」
「違います!」
声が揃って、俺たちは顔を見合わせた。
そのまま、どちらからともなく吹き出す。
笑いながら、また予感がした。
今度ははっきりしている。
王都ではもっと面倒なことが起きる。王子とも再会するだろう。身分違いで悩む日も来る。無茶な騒動にも巻き込まれる。
けれど、その全部の先に。
この隣の王女様と、ちゃんと向き合う日が来る。
「リオ」
「ん?」
「王都に着いたら、まず礼服を買いましょう」
「なんで」
「その服、田舎者丸出しだもの」
「喧嘩売ってる?」
「事実よ」
やっぱり訂正する。
恋の予感なんて、甘いものじゃない。
これはたぶん、災難そのものだ。
でも悪くない。まったく悪くなかった。
馬車の窓の外に、遠く王都の灯りが見え始めた。
エリシアが小さく息をのむ。
「帰ってきたのね」
「逃げ出した場所に、だろ」
彼女は少し黙って、それから笑った。
「……うん。でも今度は、一人じゃない」
その言葉に、胸の奥で予感が鳴った。




