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王女が落ちてくる予感はしていた  作者: みつき


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1/1

予感が当たる俺の上に王女が落ちてきた

https://49829.mitemin.net/i1141655/

 朝、目が覚めた瞬間に、今日はろくでもないことが起きるとわかった。


 理由はない。根拠もない。ただ、胸の奥に小石でも転がり込んだみたいな、落ち着かないざらつきがある。子どものころからたまにある感覚で、だいたい当たる。


 雨が降る予感がした日は、快晴でも帰り道だけ土砂降りになった。村長に怒られる予感がした日は、隣の畑のかぼちゃをうっかり蹴り割って半日説教された。


 そして今日の予感は、かなり大きい。


「……逃げたい」


 ベッドの上で呟いても、逃げ場はない。


 俺はリオ。十七歳。辺境の村ラグナで畑を耕し、薪を割り、たまに森で薬草を採って暮らしている。英雄でも勇者でもない、ただの村人だ。


 家の外では鶏が騒ぎ、母さんが朝鍋をかき回す音がしている。


「リオー! 起きてるなら水汲み行ってきて!」


「起きてるー……」


 返事をしながら起き上がる。ろくでもないことが起きる日に限って、朝はいつも通りなのが腹立たしい。


 顔を洗い、桶を持って井戸へ向かう。村の朝は早い。パンを焼く匂い、牛の鳴き声、井戸端のおしゃべり。平和そのものだ。


 なのに俺だけ、頭上から何か降ってきそうな気がしていた。


 空を見上げる。


 雲ひとつない青空。


「……気のせいか?」


 そう思った瞬間。


 遠くの空に、黒い点が見えた。


 鳥にしては大きい。落ち方が変だ。真っ直ぐこちらへ――いや、落下してきている。


 点はみるみる大きくなり、人の形になった。


「うそだろ」


 金色の髪が陽を反射し、白いマントがばたばたとはためく。人間だ。しかも女の子。しかも綺麗。


「きゃああああああああ!」


 叫び声が村中に響いた。


「避けろおおおお!」


 誰に言うでもなく叫び、俺は反射的に前へ飛び出した。


 次の瞬間。


 どごんっ!!


 俺の上に、その少女が直撃した。


 


 気づくと、俺は地面に仰向けで埋まりかけていた。


 胸の上に柔らかい重み。鼻先に花みたいな香り。


「……生きてる?」


 澄んだ声がした。


 視界いっぱいに、整った顔。青い瞳。長い睫毛。金の髪がさらりと頬にかかる。


 少女は俺の胸の上にまたがったまま、じっとこちらを覗き込んでいた。


「……お前がな」


「失礼ね。私は元気よ」


「俺が死にかけてるんだけど」


 周囲から悲鳴とざわめきが上がる。


「リオが女の子に潰されたぞ!」


「なんて羨ましい最期だ!」


「死んでねえよ!」


 叫ぶと、少女はようやく状況を理解したらしく、ぱっと飛び退いた。


「ご、ごめんなさい……その、着地に少し失敗して」


「少し?」


 地面には俺型のくぼみができていた。


 少女は咳払いして姿勢を正す。土まみれなのに妙に気品がある。


「私はエリシア。……旅の者よ」


 今、間があったな。


「旅人が空から来るのか」


「最近はそういう旅もあるの」


「最近ってなんだよ」


 村人たちが遠巻きに見守る中、エリシアは俺にだけ聞こえるよう小声で言った。


「お願い。事情はあとで話すから、今は匿って」


「は?」


 その瞬間、また予感がした。


 この女を断れば、もっと面倒なことになる。


「……なんで俺なんだ」


「あなた、優しそうだから」


「見る目ないな」


「それに」


 彼女は少し笑った。


「あなたに会う気がしてたの」


 そう言われて、胸が変に鳴った。


 ろくでもない予感は、どうやら恋のほうまで当たるらしい。


 

 結局、エリシアはうちに連れて帰ることになった。


 母さんは事情を聞かずに歓迎した。


「あら可愛い子! リオ、ついに嫁を拾ってきたの?」


「拾ってないし落ちてきた」


「空から縁談なんて素敵じゃない」


「話を聞けよ」


 エリシアはにこやかに頭を下げた。


「しばらくお世話になります」


「礼儀正しいわ! うちの娘にならない?」

 

「俺、実子だよな?」


 その日の昼には、エリシアはうちの客間に収まっていた。


 俺は納屋の前で薪を割りながら、現実逃避していた。


 王女様みたいなやつが空から降ってきて同居中。


 いや、王女“みたい”じゃない。たぶん本物だ。


 服の刺繍、言葉遣い、姿勢、手の白さ。畑仕事なんてしたことない人間のそれだ。


 後ろから足音がした。


「何をしているの?」


 振り向くと、エリシアがいた。さっきより簡素な服に着替えているが、それでも隠しきれない品がある。


「薪割り」


「見ればわかるわ」


「じゃあ聞くなよ」


 彼女はむっとして腕を組んだ。


「あなた、いつもそんな感じなの?」


「初対面で人に落ちてきた相手には普通だろ」


「……助けてくれたことには感謝してる」


「おう」


「でも、少しは女性に優しくしたら?」


「空から降ってくる女性は想定外なんだよ」


 エリシアは一瞬きょとんとして、吹き出した。


「変な人」


「そっちに言われたくない」


 笑うと年相応だった。高貴な仮面が外れて、ただの女の子に見える。


 それが少し、危なかった。


「で、本当は誰なんだ」


 尋ねると、彼女は周囲を見回してから声を潜めた。


「……王都アルメリアの第三王女、エリシア・アルメリア」


「やっぱりか」


「あまり驚かないのね」


「予感はしてた」


「便利ね、それ」


「当たると迷惑だけどな」


 彼女はため息をついた。


「婚約話が進んでいたの。隣国の王子との」


「めでたい話じゃん」


「会ったこともない男よ?」


「……ああ」


 それは嫌かもしれない。


「だから逃げてきた。転移魔法で」


「空の上に出たのか」


「座標を少し間違えたの」


「少し?」


「かなり」


 なるほど。


「追手は?」


「来るでしょうね」


「帰れよ」


「嫌」


 即答だった。


「少しだけでいいの。自由に息がしたい」


 その顔は、王女でも高慢でもなく、ただ疲れた少女だった。


 俺は薪を置いた。


「……一週間」


「え?」


「一週間だけなら匿う。それ以上は無理だ」


 エリシアの顔がぱっと明るくなる。


「本当?」


「母さんが勝手に決めそうだし」


「ありがとう、リオ」


 名前をまっすぐ呼ばれて、妙に落ち着かなくなる。


 やっぱり今日はろくでもない日だ。


 


 翌朝、俺の生活は崩壊した。


「リオ、起きなさい」


 耳元で声がする。


 目を開けると、エリシアがいた。


「うわっ!」


 飛び起きる。


「な、なんで部屋にいる!」


「朝よ。起こしに来たの」


「普通ノックしろ!」


「したわ。返事がなかったから」


 寝てたからな。


 彼女は呆れた顔でベッド脇に立っている。


「あなた、寝顔は少し素直なのね」


「二度と観察するな」


 朝食の席でも振り回された。


「このパン、美味しい」


「焼きたてだからな」


「毎朝これ?」


「そうだけど」


「王城の料理人を呼びたいわ」


「やめろ」


 畑に行けばついてくる。


「私も手伝う」


「無理」


「できるわ」


 五分後、苗床を踏み抜いた。


「……大地が柔らかすぎるのよ」


「土に謝れ」


 川へ洗濯に行けば、裾を濡らして怒る。


 森へ薬草採りに行けば、虫に悲鳴を上げる。


 なのに夕方、夕焼けの中で風に髪を揺らして笑う姿だけは、絵みたいに綺麗だった。


「村って、こんな匂いがするのね」


「どんな」


「土と草と、夕飯」


「最後はうちのシチューだな」


「嫌いじゃないわ」


 その言葉が、妙に嬉しかった。

 


 三日目の朝。


 また嫌な予感で目が覚めた。


 前より鋭い。冷たい刃みたいな感覚。


 外へ飛び出すと、村の入り口に馬車が止まっていた。


 紋章付きの黒い馬車。


 鎧の兵士たち。


 そして、長身の男が一人。


 銀の鎧に青い外套。整った顔。絵に描いたような王子様だ。


 エリシアは家の前で固まっていた。


「迎えに来たよ、エリシア」


 男は柔らかく笑う。


「私はルシアン。君の婚約者になる者だ」


 俺は舌打ちしたくなった。


 似合いすぎる。


「帰る気はありません」


 エリシアは震えながら言った。


「わがままを言わないでくれ。国のためだ」


「私の気持ちは?」


「結婚すれば愛も育つ」


 便利な言葉だ。


 ルシアンは俺を見た。


「君が匿っていたのか。礼を言うよ」


「別に」


「だが、ここまでだ」


 その言い方が気に入らなかった。


 物みたいに連れていく気だ。


 エリシアが俺の袖を掴む。


 小さく震えている。


 その瞬間、はっきりわかった。


 今日の予感はこれだ。


 選ぶ日だ。


 面倒を避けるか、面倒の中心へ飛び込むか。


 俺はため息をついた。


「エリシア」


「……なに」


「お前、帰りたい?」


 彼女は首を横に振った。


 迷いなく。


「じゃあ、帰すわけにいかないな」


 村人たちがざわつく。


 ルシアンの笑みが消えた。


「平民風情が」


「そうかもな」


 俺は前に出る。


 足が震えていた。喧嘩なんて強くない。


 でも、逃げたら一生後悔する予感がした。


「本人が嫌だって言ってる」


「国の事情に口を出すな」


「恋の事情だろ、それ」


 言った瞬間、自分で顔が熱くなる。


 エリシアが目を見開いた。


 ルシアンは冷たく笑った。


「なら勝負しよう。私に勝てば、今日は引こう」


 兵士が木剣を差し出す。


「王子様が村人いじめか」


「未来の妻を奪う男には相応しい」


 最低な言い回しだ。


 俺は木剣を握った。


 勝てるわけがない。


 でも――予感がする。


 一発だけ、当たる。

 


 勝負は一方的だった。


 ルシアンは強い。剣術を学んだ動きだ。


 一撃、二撃、三撃。


 俺は転がるように避けるしかない。


 村人たちの悲鳴。母さんの叫び。


 エリシアの声。


「やめて!」


 だがルシアンは止まらない。


「身の程を知れ」


 振り下ろされた木剣。


 その瞬間、俺の体が勝手に動いた。


 左へ半歩。


 そして、右手を伸ばす。


 予感通り、ルシアンの足が石につまずいた。


 体勢が崩れる。


 俺の木剣が、彼の胸元に当たった。


 静寂。


 誰も動かない。


 ルシアンは信じられない顔で俺を見た。


 俺も見ていた。


「……当たった」


「自分で驚くな!」


 母さんのツッコミが飛ぶ。


 村中が爆笑した。


 ルシアンは顔を真っ赤にして剣を捨てた。


「き、今日は引く! だが次はない!」


 馬車へ乗り込み、兵士たちも慌てて続く。


 砂煙を上げて去っていった。


 しばらくして、村人たちの歓声が爆発した。


「リオが王子倒したぞ!」


「婿入りだー!」


「やめろ!」


 膝から崩れ落ちる俺のもとへ、エリシアが駆け寄ってきた。


「怪我は?」


「全身してる気がする」


「ばか」


 泣きそうな顔で笑っていた。


「どうして、あんな無茶を」


「予感」


「え?」


「お前を行かせたら、たぶん後悔すると思った」


 言ってから、しまったと思う。


 こんなの告白みたいじゃないか。


 エリシアはじっと俺を見て、それからふっと笑った。


「ねえ、リオ」


「なんだ」


「私も、あなたに会う予感がしてたって言ったでしょう」


「言ったな」


「あれ、半分は嘘」


「半分?」


 彼女は顔を寄せ、耳元で囁いた。


「会った瞬間に、そう思ったの」


 心臓が止まりかけた。


「……ずるいぞ」


「王女ですもの」


「そういう問題かよ」


 笑い合う。


 夕日が村を赤く染めていた。


 ろくでもない一日だった。


 でも、人生で一番悪くない日でもあった。


 

 その夜。


 母さんがにやにやしながら言った。


「で、エリシアちゃんはいつ嫁になるの?」


「ならない!」


「なります」


「なるのかよ!?」



 王子の馬車が去ったあとも、村のざわめきはしばらく収まらなかった。


 俺が王子に勝ったことになっているらしいが、実際は勝負ですらない。あいつが勝手に石につまずいただけだ。予感が当たっただけで、剣の腕なら俺は鶏にも負ける。


 夕飯の席で母さんは上機嫌だった。


「いやあ、見た見た? あの胸のすく一撃!」


「当てただけだよ」


「男を上げたわねえ」


「上がってない。寿命は縮んだ」


 向かいに座るエリシアは、スープを飲みながらくすくす笑っている。


「でも、格好よかったわ」


「やめろ。思い出すと足が震える」


「今さら?」


「今だからだよ」


 彼女は声を立てて笑った。王城にいたとき、こんなふうに笑えたんだろうかと少し思う。


 食後、外へ出ると夜風が涼しかった。村の灯りは少なく、空の星が近い。


 井戸のそばにエリシアがいた。


「眠れないのか」


「少しだけ」


 隣に立つ。しばらく黙って星を見上げた。


「ねえ、リオ」


「ん」


「私、明日には連れ戻されると思ってた」


「俺も」


「でも、今日あなたが止めてくれた」


 彼女は両手を胸の前で組んだ。


「嬉しかった」


 真っ直ぐ言われると困る。


「……あれは勢いだ」


「それでもよ」


 彼女は少し俯いた。


「王城では、私の気持ちを聞く人なんていなかった」


 その言葉は軽くなかった。王女という立場の重さが、初めて現実味を持って伝わってきた。


「ここでは聞く」


 気づけば、俺はそう言っていた。


「え?」


「嫌なら嫌でいいって、そう言う」


 エリシアは目を丸くして、それから柔らかく笑った。


「辺境の村人のくせに、生意気」


「王女様のくせに、素直だな」


「誰が」


 肩を小さく叩かれた。


 そのとき、また予感がした。


 今度は嫌なものじゃない。胸の奥があたたかくなるような、不思議な感覚だった。


「……リオ?」


「なんでもない」


 言えるわけがない。


 たぶん今、俺はこの子を好きになりかけている。


 

 翌朝、村の入り口がまた騒がしくなった。


「もう来たのか!?」


 飛び起きて外へ出ると、いたのはルシアン王子……ではなく、一人の老紳士だった。


 白髪をきっちり撫でつけ、黒い燕尾服を着ている。こんな辺境には場違いなほど整った老人だ。


 彼は俺たちを見るなり、深々と頭を下げた。


「エリシア殿下。お迎えに参りました」


「グレイ……!」


 エリシアの顔が明るくなる。


「知り合いか」


「王城の執事長よ。幼い頃からお世話になった人」


 老人――グレイは穏やかに笑った。


「昨夜の騒ぎ、王城中で話題でございます。“王子、村人に敗れる”と」


「広まるの早いな」


「ルシアン殿下は今、非常に機嫌を損ねておられます」


「知ってた」


 グレイは咳払いした。


「殿下。陛下はお怒りです。しかし……お話し合いの余地はございます」


 エリシアの表情が曇る。


「帰れば、また婚約を迫られる」


「以前と同じではありません」


 老人はちらりと俺を見る。


「あなた様が、ご自分で望まぬと口にされたと聞きました」


「……それで?」


「陛下も初めて、殿下の意思を無視し続けていたことに気づかれたのでしょう」


 意外だった。王様なんてもっと頑固なものかと思っていた。


 グレイは続ける。


「ただし、このまま村に留まれば、ルシアン殿下は再び兵を率いて来るかもしれません」


「うげ」


「そこで提案です」


 老人の目が少し笑った。


「リオ殿。王都へ来ませんか」


「は?」


「殿下の客人として」


「なんで俺が」


「殿下が帰る条件として、“自分の意思で選んだ友人を一人連れていく”と主張されたので」


 エリシアがそっぽを向く。


「……友人、ですって」


 耳が赤い。


 俺は頭を抱えた。


「なんでそうなる」


「あなたが来れば、少なくとも私は一人じゃない」


 その声は小さかった。


 断る理由はいくらでもある。畑、家、村、面倒ごと。


 なのに、また予感がした。


 ここで別れたら、たぶん後悔する。


「……一週間だけだぞ」


「本当!?」


「またそれか」


 エリシアが飛びついてきた。


「ちょ、近い近い!」


「ありがとう、リオ!」


「首しまる!」


 母さんが家の前から叫ぶ。


「いってらっしゃーい! 婿入り頑張って!」


「違うって言ってるだろ!」

 


 出発の支度はあっという間だった。


 母さんは荷物袋に干し肉とパンを詰め込みながら泣いていた。


「ついに都会へ……」


「王都な」


「変な貴族にいじめられても、噛みついちゃだめよ」


「犬か俺は」


「でも嫁候補には噛みついていいから」


「話聞け」


 村人たちにも見送られ、俺たちは馬車に乗り込んだ。


 ラグナ村が少しずつ遠ざかっていく。


 窓の外を見ていたエリシアが、ぽつりと言った。


「怖い」


「何が」


「帰るのが」


 その気持ちはわかった。


 逃げ出した場所へ戻るのは、進むより勇気がいる。


「じゃあ、俺も怖い」


「え?」


「王都なんて行ったことないし、礼儀も知らんし、貴族は嫌いだし」


「会ったことないでしょう」


「予感で嫌い」


 彼女は吹き出した。


「なによそれ」


「でも、一人じゃないだろ」


 言うと、エリシアは静かにこちらを見た。


 それから、そっと俺の袖をつまんだ。


「……うん」


 馬車は街道を進む。


 村人だった俺の人生は、たぶんもう元には戻らない。


 けれど不思議と、嫌ではなかった。


 隣には王女様がいて、面倒ごとの気配は山ほどある。


 それでも胸の奥には、確かな予感があった。


 この先、きっともっと大変になる。


 そしてたぶん、今までで一番楽しい。


 エリシアが小さくあくびをして、肩にもたれてきた。


「おい」


「少し寝るだけ」


「重い」


「嘘つき」


 目を閉じたまま笑う。


 俺はため息をつき、窓の外を見た。


 青い空だった。


 そういえば最初の予感は、ろくでもないことが起きる、だったか。


 訂正しよう。


 ろくでもなくて、最高だ。



 馬車が王都へ向かって半日ほど進んだころ、街道脇の森で休憩を取ることになった。


 御者が馬に水をやり、グレイは手際よく茶の支度を始める。王城の執事長が野外で湯を沸かしている姿は妙に似合っていた。


 俺が木陰に座っていると、エリシアが隣へ来た。


「疲れた?」


「慣れない馬車で尻が死にそう」


「品がないわね」


「王女の旅に荷馬車の座席改善を提案しとけ」


 彼女は笑って、膝を抱えて座った。


「ねえ、リオ」


「ん?」


「もし王都で、私がまた婚約を命じられたら」


「断れ」


「それでも押し切られたら?」


 少しだけ声が弱い。


 俺は考えて、それから正直に言った。


「そのときは攫って逃げる」


 エリシアは目を丸くしたあと、顔を赤くした。


「な、なに平然と言ってるのよ」


「お前が嫌なんだろ」


「そうだけど……!」


「じゃあそれで十分だ」


 彼女はしばらく黙り、やがて小さく笑った。


「本当に、辺境育ちって無茶苦茶」


「褒め言葉として受け取っとく」


 そのとき、また胸の奥がざわついた。


 嫌な予感だ。


 立ち上がると同時に、森の奥から矢が飛んできた。


「伏せろ!」


 俺がエリシアを抱えて倒れ込む。矢はさっきまで彼女がいた木に突き刺さった。


 グレイが低く舌打ちする。


「追手……しかも私兵ですな」


 茂みから黒装束の男たちが現れる。五人。顔を隠し、剣を抜いていた。


「ルシアン王子の手先か」


「短気な方です」


 のんびり言うな、この執事。


 男たちが迫る。俺は木の枝しか持っていない。終わったと思った。


 だが次の瞬間、エリシアが前へ出た。


「下がって」


 彼女の指先が光る。


 風が渦を巻き、地面の砂を巻き上げた。


「え」


「王女を甘く見ないことね」


 一閃。


 突風が黒装束たちをまとめて吹き飛ばし、全員まとめて茂みに消えた。


 静寂。


 俺は口を開けたまま固まる。


「……お前、こんなことできるのか」


「王族は基礎魔法くらい習うわ」


「基礎!?」


「高度なのは苦手だけど」


 いや十分だろ。


 エリシアはふんと鼻を鳴らし、それから少し不安そうに俺を見た。


「……怖かった?」


「正直に言うと」


「うん」


「惚れ直した」


 一瞬、時が止まった。


 グレイが盛大に咳き込む。


 エリシアは耳まで真っ赤になって叫んだ。


「ば、ばかっ!」


 また風が起き、今度は俺だけ吹き飛ばされた。


 地面を転がりながら思う。


 王都まで、たぶん生きて辿り着けない。



 それでも、痛む背中をさすりながら笑ってしまった。


 森を抜け、再び馬車が走り出す。夕暮れの光が車内を赤く染め、揺れるたびにエリシアの金髪がきらめいた。


 さっきまで怒っていたくせに、彼女はちらちらとこちらを見てくる。


「……なによ」


「いや、王女様って案外照れるんだなって」


「照れてない!」


「耳、真っ赤だけど」


「夕日のせいよ!」


「両耳とも?」


「うるさい!」


 拳が飛んできた。痛くはない。たぶん加減している。


 グレイが向かいで微笑んだ。


「仲睦まじくて何よりです」


「違う!」


「違います!」


 声が揃って、俺たちは顔を見合わせた。


 そのまま、どちらからともなく吹き出す。


 笑いながら、また予感がした。


 今度ははっきりしている。


 王都ではもっと面倒なことが起きる。王子とも再会するだろう。身分違いで悩む日も来る。無茶な騒動にも巻き込まれる。


 けれど、その全部の先に。


 この隣の王女様と、ちゃんと向き合う日が来る。


「リオ」


「ん?」


「王都に着いたら、まず礼服を買いましょう」


「なんで」


「その服、田舎者丸出しだもの」


「喧嘩売ってる?」


「事実よ」


 やっぱり訂正する。


 恋の予感なんて、甘いものじゃない。


 これはたぶん、災難そのものだ。


 でも悪くない。まったく悪くなかった。


 馬車の窓の外に、遠く王都の灯りが見え始めた。


 エリシアが小さく息をのむ。


「帰ってきたのね」


「逃げ出した場所に、だろ」


 彼女は少し黙って、それから笑った。


「……うん。でも今度は、一人じゃない」


 その言葉に、胸の奥で予感が鳴った。

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