第九話 幸福、あるいは日常
短めの番外編を追加で毎日1話ずつ投稿します。全三話の予定です。
ある日の朝。
「ねぇ、今食べていい?」
不意にそんなことを言われて、思わず顔を上げた。
「……え?」
一瞬、意味を考えてから、ああ、と納得する。
「良いですよ。でも、珍しいですね」
いつもは夜とか、夕方とか。決まってそういう時間帯だったはずだ。朝に言われたのは、たぶん初めて。ルネ様は、少しだけ考えるような素振りをしてから。
「なんとなく、ね」
と、軽く笑った。理由になっているような、なっていないような答え。でも、それ以上は聞かないことにする。どうせ聞いたところで、同じ答えしか返ってこなさそうだし。
「……じゃあ」
そう言って、指先をシャツのボタンにかける。自分で開けるのが、いつからか恒例になっていた。最初はぎこちなかったはずなのに。今はもう、すっかり慣れてしまっている。
一つ、二つと外していくたびに。少しだけ、意識してしまう自分がいるのが分かる。
「……準備、いい?」
「……はい」
頷いた瞬間。距離が、ぐっと近づいた。方に手が触れて、次に首元に触れる気配。その前に、ほんの少しだけ。牙が触れる。
「……っ」
それだけで、ぞわ、と背中に何かが走る。まだ何もされていないのに。ただ触れただけなのに。体が勝手に反応してしまうのが、少し悔しい。
次の瞬間。鈍痛がした。……最近、これを"いい"と思ってしまう自分がいて怖い。それと同時に。血を吸われる感覚が広がっていく。
静かな部屋に、微かな音が落ちる。規則的で、落ち着いたリズム。聞き慣れたはずなのに。どうしてか、少しだけ意識してしまう。
力が、抜けていく。指先から、ゆっくりと。思考も、ぼんやりしてきて。何も考えられなくなっていく。ただ、そこにいるだけでいいような。そんな、曖昧な感覚。
しばらくして。ふ、と離れる気配がした。
「……ありがとう」
いつもと同じ言葉。でも、今日は少しだけ柔らかく聞こえた。
「いえ……こちらこそ……?」
自分でもよく分からない返しをしてしまう。なんで「こちらこそ」なんだ。頭がまだぼんやりしているせいか、うまく考えられない。ルネ様は、そんな俺を見て、くすっと笑った。
その日一日。ルネ様は、やけに機嫌が良かった。理由は分からないけど。なんとなく、それだけで。こっちまで少し気分が良くなる。――そして、おやつの時間。
「はい」
目の前に置かれた皿を見て、思わず固まる。
「……これ」
「フォンダンショコラ」
当たり前のように言われた。いや、そうじゃなくて。
「作ったんですか?」
「うん」
軽く頷く。いや、うんじゃない。なんでそんなさらっと。
「食べてみて」
促されて、恐る恐るスプーンを入れる。中から、とろりとチョコが溢れ出してきて。それだけで、もう美味そうだった。一口、口に運ぶ。
「……っ」
思わず、言葉が止まる。甘さと苦さのバランスがちょうどよくて。中のチョコは温かくて。外はしっとりしていて。
「……美味しい、です」
素直にそう言うと。ルネ様は、少しだけ満足そうに目を細めた。……なんだろう。今日、ずっと機嫌いいな。まあ、いいか。美味しいし。平和だし。それで十分だ。
――こういう日が、ずっと続けばいいな。ふと、そんなことを思った。




