第七話 どうしてこうなった
「……っ、離して……ください」
かろうじて出た声は、思ったより弱かった。
「離さないよ」
間髪入れずに返される。やっぱり、逃げられない。
「なんで、そんなに逃げるの」
責めるような声音じゃない。ただ、知りたいだけ、みたいな。それが余計に苦しい。
「逃げて、ないです」
「逃げてる」
即答だった。もう、言い逃れもできない。
「……だって」
ぽつり、と言葉が落ちる。止める前に、口が動いていた。
「……これ以上、近くにいたら」
喉が、ひりつく。
「……好きになるから」
言ってしまった。空気が、一瞬止まる。自分でも、何を言ったのか理解するまで少し時間がかかった。
「……あ」
遅れて、現実が追いつく。やばい。今の、完全に。
「ち、違っ――」
「違わないでしょ」
被せるように言われて、言葉が途切れる。顔が熱い。逃げたい。でも、逃げられない。
「……もう、なってる顔してる」
「っ……」
否定できなかった。できるわけがない。こんな状態で。きっと俺は、顔を真っ赤に染めてるんだろうな。視線を逸らそうとしても、顎を軽く支えられて、逃がしてもらえない。
「……ねえ、朔」
少しだけ、声が落ちる。さっきまでより、ずっと近い。
「ちゃんと、聞いて」
その一言で、動けなくなる。
「……僕たち吸血鬼には、“番”っていうものがある」
その言葉に、思考が止まる。
「一度繋がったら、簡単には切れない。魂で結びつく相手」
静かな声。でも、はっきりとした響き。
「昨日の吸血で、少しだけ繋がった」
首元に、そっと指が触れる。思わず肩が震えた。
「だから君は、影響を受けてる」
「……影響、って」
かすれた声が出る。
「“番”を求める感覚」
ぞくり、と背筋が震える。それが何なのか、言われなくても分かってしまう。
「……でも、俺、人間で」
「関係ない」
即座に否定される。
「完全じゃないだけで、繋がりはある」
逃げ道が、どんどん消えていく。
「だから、無理に離れようとしても」
少しだけ、距離が近づく。
「無駄だよ」
優しいのに、断定的な声。心の奥を、そのまま言い当てられたみたいだった。
「……っ」
言い返せない。実際、その通りだから。離れようとして、余計に意識して。苦しくなって。どうしようもなくなってる。
「……僕は」
ルネ様が、ほんの少しだけ言葉を区切る。
「君を、手放す気はない」
はっきりと、言い切られた。胸の奥が、大きく揺れる。
「……でも、俺……」
最後の抵抗みたいに、言葉を絞り出す。
「ただの、奴隷で……」
そんなの、嫌というくらい分かってる。でも、それでも。言わずにはいられなかった。
「それが、何?」
あまりにもあっさりと、返される。
「僕には関係ない」
迷いのない声。まっすぐすぎて、目を逸らしたくなる。
「……でも」
「朔」
名前を呼ばれる。優しくて、でも逃がさない声。
「朔良は、どうしたいの」
問いかけられる。立場でも、理屈でもなく。ただ、自分の気持ちを。問われる。
「……っ」
答えなんて、もう分かってる。さっき、自分で言ったばかりだ。でも。それを認めるのが、怖かった。
「……俺は」
喉が震える。でも、今度は止めなかった。
「……離れたく、ないです」
小さな声だった。でも、はっきりと。
「……好き、だから」
言い切った瞬間。何かが、すとんと落ちた気がした。逃げていたものを、ようやく掴んだみたいに。静かな沈黙。そのあと。
「……うん」
優しく、返される。その声だけで、胸がいっぱいになる。
「じゃあ、もう逃げなくていいね」
そう言って。ルネ様の手が、頬に触れた。ゆっくりと、顔が近づく。逃げようと思えば、逃げられた。でも。今度は、逃げたいと思わなかった。目を閉じる。ほんの少しだけ、緊張で体が強張る。
「……朔」
名前を呼ばれる。すぐ近くで。そのまま――
そのまま、唇が触れた。ほんの一瞬。軽く、確かめるみたいなキスだった。
「……っ」
離れた瞬間、思わず息を飲む。心臓が、うるさいどころじゃない。頭が、真っ白になる。今、何された?分かってるのに、理解が追いつかない。触れられた場所が、じんわりと熱い。
「……嫌?」
すぐ近くで、低く問いかけられる。逃げ場なんて、最初からなかった。
「ちが……」
反射的に否定する。違う。嫌じゃない。むしろ――。
「……なら、いい」
小さく呟く声。そのまま、再び距離が縮まる。
「え、ちょ――」
言い終わる前に、もう一度唇が重なった。さっきより、少しだけ長い。触れている時間が伸びただけなのに。それだけで、息がうまくできなくなる。
「……ん」
かすかに、呼吸が乱れる。離れる気配がない。それどころか、さっきよりも強く引き寄せられる。腰に回された手に、力がこもる。逃げようとしても、もう無理だった。
ゆっくりと、角度が変わる。唇が、深く重なる。
「っ……」
思わず、服を掴んだ。近い。近すぎる。息がかかるとかそういう距離じゃない。もう、全部が近い。軽く触れるだけだったはずなのに。いつの間にか、離れられなくなっていた。
触れられるたびに、体の奥がじんわりと熱くなる。頭の奥が、ぼやけていく。何も考えられない。ただ、触れているところだけが、やけに鮮明だった。
どれくらいそうしていたのか、分からない。やがて、ゆっくりと唇が離れる。
「……は……」
思わず、小さく息が漏れる。まともに呼吸ができてなかったことに、そこで気づいた。視線を上げる。すぐ目の前に、ルネ様がいた。
少しだけ細められた赤い瞳。どこか、満足そうな表情。
「……ほんとに、嫌じゃなかったね」
確かめるみたいに言われて。
「……はい」
小さく、頷く。否定なんて、もうできなかった。したくもなかった。ルネ様が、少しだけ笑う。その表情に、また胸が締め付けられる。
「だから、もう遠慮しない」
「え?」
聞き返した瞬間。軽く額に触れるだけのキスが落ちた。
「これからは、ちゃんと隣にいて」
優しく、でも逃がさない声だった。――ああ、もう。完全に、逃げ場なんてなくなった。でも。それでいいと、思ってしまった。




