阿賀北ロマン 七つのテーマに聖篭町網代浜から 2/2
阿賀北ロマン 七つのテーマに聖篭町網代浜から 2/2
テーマ 記憶
タイトル 堆積して溶けて零れて、乾く
ぼけてきた自覚はある。ぼけは進行を止められないし、治せないものだと新聞で読んだ。そうすると、自分がぼけていると知っていることには意味が無いのか。
また今日も三男の光星が大きな声を出して「薬はもう飲んだ」と言った。飲んだ気はしないが、効いているか効いていないか分からない薬だし、光星がそう言うならそれでも良い。
しかし何だって、親に対してあんな大きな声を出すのか。馬鹿な奴だ。
次男の光明が掃除に来たから、今日は日曜日だ。
婆さんは腰が曲がってしまって立つのも大変だし、俺は足が痛くて歩くのに苦労するから、毎週掃除に来てくれるのはありがたい。
しかし音が大きすぎると言って、来て直ぐにテレビの音を消された。確かに若い頃は船の機関室で仕事をしていたから耳は悪いが、全く聞こえないほど小さくてしまうとは、馬鹿や奴だ。
婆さんも光星も、テレビの音がうるさいから補聴器を使えと言うが、そんなもの使えるか。少し音を大きくすれば聞こえる。
横浜に居る長男の光陽から電話あり。ありがたいことだ。婆さんが病気になって入院して退院してから、毎週日曜に電話をくれる。電話は声が小さくて何を言っているのか良く分からないが、声が聞けるだけでもありがたい。婆さんはよく喋っているが、光陽の言うことが聞こえているのか。
この手帳を見つけるのに一時間かかった。いや、二時間だったか。いつもの引き出しに入れたはずだが、どうして今日は無かったのか。これもぼけの症状かもしれない。哀しいものだ。
しかしぼけても人に迷惑をかけないことが救いだ。これからもなるべく迷惑にならないように、ぼけ防止のために手帳にメモを書き続けていく。
この前は手帳が見つからなかったのか。そうだったか。思い出せない。だから、このメモを書く意味がある。
今日は判子が見つからなかった。何回探しても見つからなかった。婆さんに訊いても腰が曲がって動けないから、あっちは見たか、こっちはどうだった、と言うばかりで手伝わないから腹が立った。光星が帰ってきて、探させたら見つけた。どこから見つけたのか。
光星はテレビの音が大きすぎると怒るときもがあるか、良いところもある。
光明に、健康診断のためだと県立病院に連れて行かれた。健康診断など今更しなくても良いと言ったのだが。
腹が痛いとか、腰が痛いなら治療はして貰うが、もう充分生きた。八四まで生きれば沢山だ。
母親は七七で死んだ。昔は、母親と同じ歳までは生きたいと思ったが、だいぶ長生きした。
しかし、変わった健康診断だった。俺の歳はいくつだの、今日は何月何日だのと訊かれた。歳は八四だが、光明は九三だと言った。親の歳も分からないのか。尤も、俺ももう子供の歳も分からなくなったから仕方ないか。
足し算と引き算もやらされた。なかなか難しかったが、歳を取ったから仕方ない。それとも、ぼけたからだろうか。自分でもいくらかぼけたと思うが、仕方ない。
光陽から手紙が来た。あいつは字が下手くそだったが、直っていないのか、全部印刷してある。今は個人の手紙でも印刷されているものか。どうやって書くのか知らないが、時代は変わった。息子達は、俺の字は達筆すぎて読めないと言うが、光陽の印刷は味も素っ気も無い。
寒気のすることが書いてある。食品の買い物は配達して貰え、料理が大変なら弁当を配達して貰え、介護の援助が受けられるか行政に相談しろ、公的支援がだめなら自費で家政婦でも雇え、田畑は子供に残さなくて良いから、俺と婆さんが快適な余生を送るように考えろ、云々。
好き勝手を言っているな。長男のお前が早く帰ってくれば良い。若いときは好きなことをやれと言ったが、もうすぐ定年だろうから早く帰ってこい。それまでは、婆さんとがんばる。役場の人間だろうが家政婦だろうが、家に他人は入れられない。
婆さんのがんが消えた。どういうことか、と医者も不思議がっていた。藪医者だな。がんがどうして消えるものか。どれが効くかやってみないと分からないからと、頭の毛が抜けるほど抗がん剤を何種類も使って、婆さんがもう辛いから止めると決めて、今になってがんが消えたのか。
新発田の県立病院は、建物は立派だが医者は藪だ。治療の結果として消えたのであれば分かるが、不思議だとは、馬鹿にしている。
しかし、治って良かった。藪医者でも何でも、治って良かった。六〇年も一緒に暮らして、婆さんが死んだら俺も死ぬかもしれない。俺の方が十も歳を取っているから、俺が先に逝くのが順番だ。
人間は不思議だ。脳が不思議というのか。昔のことは良く覚えている。しかし、五分前に薬を飲んだかどうか、一日前に判子をどこに仕舞ったかを思い出せない。いくら考えても、思い出せない。判子を片付けたのは一日前だったのか、二日前だったのか、もっと前だったのかも思い出せない。
自分でもぼけが来ているとは思うが、情け無いものだ。そのくせ、若い頃のことは思い出せる。
新潟地震の時は、光陽が死んでしまったかもしれないと思った。光陽は学校に上がったばかりだった。婆さんと二人で畑に出ていて、光明は母親に預けていたから安心していたが、光陽は学校から帰っていたのか、どこに居たのか分からなかった。
家に戻ってから訊いてみると、友達と遊んでいて地面が揺れたので転びそうになりながら家に戻った、誰もいなくて泣いていたら婆ちゃんが来てくれた、と。地震の時、光明を負ぶった母親が家の隣の作業小屋に居て、光陽の泣き声を聞きつけたらしい。
あの時は本当に心配した。殺してしまったかもしれないと思った。婆さんは落ち着いたもので、大丈夫だ、と言っていたが、あれは母親として子供の無事を信じる気持ち、被災を拒否する気持ちの表れだろう。
光星は、いくら言っても煙草を止めない。尤も俺も昔は煙草も酒も好きだったから、余り偉そうには言えない。光明は煙草を吸わないが、光陽は吸っていた。そしていつだったか、止めた。
俺は心臓を悪くしたとき、公明の嫁に毎回病院の送り迎えして貰うくせに、酒も煙草もやるのは申し訳ないから、両方とも止めた。光陽は健康のために止めた。気が小さい奴だ。
酒は三人とも飲むが、酒癖は俺の方が悪かったか。良い加減で止める、ということができなかった。酔っ払うまで飲む、意地汚いということだ。
しかし、貧乏で毎日飲めるわけではなかった。だから飲めるときは意地汚く飲んだ、とも言える。今の若い者は幸せだ。良い時代だ。酒でも煙草でも好きなだけのめる。
光陽夫婦が帰省して、家の片付けをしてくれた。台所は確かに足の踏み場も無い。婆さんに、要らない物は捨てろと言っても聞かない。出前の容器だの空き箱だの紐だの、何でも捨てないで取っておく。
ペットボトルに水を入れて何十本も置いてある。何のつもりかさっぱり分からない。壊れた鍋も、汚れが落ちないプラスチックの食器も、腐って黴が生えた瓶詰めもある。
光陽が片付けてくれてさっぱりした。光陽と二人で、ゴミを道路の向かいの集積場に運んだ。光星が「今日はゴミを出す日じゃないからだめだ、誰か見ているし、何か言われるからだめだ」と言ったが、どうせ明日か明後日には収集するから、だめなことはない。
問題は、ゴミを捨てて家に戻るとき、見たことあるような無いような男が隣にいて、その男に「お前さん、誰だ、どこの人だ」と訊いたが、苦い顔をして答えなかったことだ。道路を渡ってから分かったが、光陽だった。
とうとう俺も狂った、と思った。ぼけも、とうとうここまで来た。あと何年生きられるものか。
光陽は、父親に「お前は誰だ」と訊かれて、答えられなかったのだろう。悪いことをした。
いや、あれは光星だったかもしれない。どうして分からないのか。俺はどうなったのか。
この様なメモを残して何になるか、と言えば何にもならない。ただ、自分の覚え書きだ。
俺が死んでから誰か読んでも、意味があることは書いていない。
息子達に言わせれば、俺の字は達筆すぎて読めないという。今の若い人には、昔の人の字は読みづらいか。しかし、字は息子達の誰よりうまいだろう。光陽は字が下手くそだからコンピュータで書いた年賀状を送ってくるし、光明の字は光陽よりましだが、うまい字ではない。光星の字も光陽と同じくらい下手くそだ。
しかし俺は文章が下手くそだから、その意味で読みづらいところがあるかもしれない。
とにかく、一日に何回でも、気が付いたこと、覚えておきたいことはメモする。実のところ、後で読み返して思い出すことも、役に立つことも無くて、ただ書いているだけのようでもある。
書かないと不安、書いて安心というところが大きい。
もの忘れに対する防衛か。自分がぼけてきた自覚はある。自覚があることが救いなのか、どうなのか。哀しいものだが、人は事実を認める勇気を持たねばならない。
光明の嫁の千穂を病院に連れて行ったつもりだったが、どうやら俺が連れて行って貰ったようだ。考えてみれば、何も俺が千穂に付き添う必要は無いし、むしろ邪魔になるだけだ。運転ができるわけでもなく、車に乗っているだけだから。俺が乗せて貰って、病院に連れて行って貰ったのだ。
どうして反対に考えてしまったのか。やっぱりぼけか。情け無いものだ。
千穂には、婆さんも俺も世話になりっぱなしだ。光星は離婚したままだし、光陽は歩と再婚したが横浜に住んでいるから、歩に頼ることはできない。
三人の息子にも嫁にも世話になって、迷惑をかけていると思う。婆さんも世話になっている。それでも、この歳まで生きても、まだ死にたくないと思う。人間の欲望はきりが無い。これも情け無いことだ。が、本能だから仕方の無いことか。
いくつからだろうか。米作りを止めた頃からだろうか。まだ二〇年やそこらは生きるとしても、今からわずかずつでも死ぬ覚悟をしていくべきだと考え始めたのは。
切羽詰まった、がんのような病気でもない限り、中途半端な気持ちしか持てず、覚悟は少しも進展しなかった。いや、少しは覚悟を得たはずだ。歳を取った分だけ。
四四で胃潰瘍になったときは、目の前が暗くなった。手術しなければだめだと医者に言われたときは、今より死を覚悟した。違う病院で診て貰えという親戚の勧めで、新潟のがんセンターで、薬で治すと言われたときは安心した。子供を残して死ねないと強く思った。
母親が自分の金で、牛乳を二本ずつ配達させてくれた。牛乳が栄養になると思ったのだろう。金も無いのに、ありがたかった。しかし俺だけが飲む事はできなくて、子供に飲ませた。光陽は子供なりに気を遣って欲しがらなかったが、光明は喜んで飲んだ。小さかったから当たり前だ。
日本人はどうしてあれほど馬鹿なのか。間違っても勝てない戦争をしたのか。天皇陛下が神だとは、頭がおかしい。
俺は戦地には行かなかったが、内地の訓練で腹が減ってどうしようもなかった。喰うものも無くて、どうして戦争ができる。
空襲が待ち遠しかった。空襲になると逃げても良いから、畑に飛び込んで野菜を盗んで喰ったものだ。よんで(熟して)いなくても、喰えるものは喰った。
しかし退避の命令が出るまで、アメリカの飛行機から弾が降ってくるところで気をつけをしていなければならないとは、馬鹿な話だ。鉄砲の弾より上官のゲンコツがおっかなかった。
陸軍で上陸用舟艇の訓練を受けていたが、原爆を落とされて新潟に帰るとき、広島を通るときは憲兵に汽車の窓の日よけを下ろされて、街を見るなと言われた。どれほどひどかったことか。
原爆を使ったアメリカも、ろくでない国だ。
急降下爆撃機に乗っていた兄貴は、乗る飛行機が無くなって内地に飛行機を取りに戻ってそのまま終戦になったが、飛行機があれば特攻にやらされていた、恐ろしかった、と言っていた。特攻に行かせた奴は戦後のうのうと生き延びて、この国はそんな国だ。
死んだ母親は三人の兄弟を戦争に、いや国に取られたとき、どんな気持ちだったのか。息子は取られても、米は国に取られないように隠しておいて、あの時代に腹一杯白米を喰っていたから、字は読めなくても大した母親だった。
なんだって光星は、俺に怒鳴るような言い方をするのか。薬はもう飲んだとか、テレビの音が大きいとか些細なことで、あれが親に対する口の利き方か。婆さんが甘やかすからだ。
薬を飲んでいないから飲もうとすると、もう飲んだと言うが、そんなはずはない。たまに、飲んだか飲まないか忘れるときはあるが、怒鳴らなくても良いだろう。
テレビは音が聞こえなければ何も面白くないだろうに、馬鹿な奴だ。だから、養子先から戻されるのだ。再婚でもすれば良いものを。末っ子は一番かわいいが、一番馬鹿だ。
この頃ますます足が痛くて歩けない。庭にひなたぼっこに出るのもひと苦労だ。いつか歩けなくなるのか。考えたくない。その前に死ぬか。八五になったか、八六だったか、自分の歳もはっきりしない。頭がおかしくなった。
婆さんは腰が曲がって、俺より歩くのが大変だ。三番目が居てくれて助かる。二番目も毎週掃除しに来てくれるから、ありがたい。長男には定年になったら帰ってこいと言っているが、帰ってくるのか来ないのか。あいつが一番馬鹿だ。
ぼけることは、どうしようもないものか。自分の歳がはっきりしない。生まれた年は大正一三年とはっきりしているが、今年は何年だ。新聞を見れば平成二九年。大正は一五年、昭和は何年まであった。だから年号は馬鹿臭い。大正一三年は一九二四年。今年は新聞を見れば二〇一七年。
引き算ができない。頭が馬鹿になった。歳取ったな。歳だけのせいなのか。
若い頃は、頭を使ったつもりだ。高等小学校しか行けなくて、船に乗りながら近所の中学生に分数を教えて貰って、機関士の免状を取った。丙種機関士から丙種機関長まで取った。随分勉強した。
兄貴は軍隊に入って急降下爆撃機の操縦をやった。軍隊のあとは漁船に乗って、乙種二等機関士免状を取った。
兄貴も俺も貧乏で学校には行けなかったが、馬鹿ではなかった。
兄貴はぼける前にウィスキーを飲み過ぎて死んだが、俺はぼけてしまった。
光明も光星も俺が悪いというが、どうして俺が悪いのか。どうして俺が金を払わなければならないのか。あの二人は俺を騙している。婆さんも二人の味方をしている。どうなっているのか。
歳を取って米を作れなくなってから、何年も向かいの宮下に田を貸していた。貸し賃は、米で貰っていた。それが今年は、俺が二五万円も払った。今年は米を作れなくなったので、苗を用意した分を弁償しなければならないという。
どうして米が作れないのか。高圧送電線の鉄塔工事のために電力会社に田を貸したというが、それは来年からのはずで、今年は米を作れる話だった。確かにそうだが、光明と光星も俺が間違っているという。父親をぼけたと言いやがって、馬鹿息子ども。
そう言う大事なことはこの手帳にメモしてあるし、俺が間違うはずはない。電力会社がちょうど良くやったのだろう、薄汚い奴らだ。来年からは、絶対電力会社には田を貸さない。
うちの家系は、長生きの方かもしれない。父親は船で早く死んだが、母親は七七まで生きた。
兄貴は六七で死んだ。母親より一〇年も早かった。酒の飲み過ぎ、酒が寿命を縮めた。
川崎の姉は六九だった。やはり母親より八年早い。がんだった。
青森の弟はまだ生きている。
俺はいくつだ。九三だったか。九〇は過ぎた。九三だな。長生きした。
青森の弟も、九〇にもなる。
母親と同じくらい生きたいと思っていたが、越えた。何年余計に生きたか、計算できないが、一〇年か一五年か余計に生きた。
船を早く辞めて良かった。一緒に船に乗っていた奴は、みんな海で死んでいる。
俺は胃潰瘍でも死ななかった。切ると言われたが、病院を替えて薬で治った。
狭心症でも死ななかった。風船で血管を広げるのは危険もあると言われたが、持ちこたえた。
脳梗塞で左足が不自由になったが、庭に出るくらいは歩ける。
運も良いのだろうが、丈夫に生んでくれた母親のおかげもある。
あれはまだ光陽が学校に上がる前だったな。光陽を畑に連れて行って婆さんと西瓜の収穫をしているとき、新潟日報が取材に来て写真を撮った。そんなもの、載るものか載らないものか分からないし、忘れていた。 二、三日してから隣の人が新聞を持ってきてくれて、光陽が載っていた。
あの新聞、取っておいたがどうなったものか。もう無いな。
そういう五〇年も前のことは思い出せるが、さっきのことは思い出せない。
薬を飲んだか飲まないかは、やっぱり俺が思い出せなくて、光星の言うことが正しいのかもしれない。俺が何回も忘れるから、光星も怒ってしまうのか。もんぼれ爺は仕様がないな。
あの頃光明は母親に守子されていて、光星は生まれていなかった。あれから五〇年も経つ。早いものだ。
うちの婆さんはどうしてあれほど腰が曲がってしまったのか。田植えだの田の草取りだの腰を曲げてやる仕事はきついが、俺も一緒にやってきた。俺は、足が痛くて歩くのは切ないが、腰は曲がっていない。
かわいそうに、あれだけ曲がってしまっては、歩くのは俺より大変だ。太っているから、腰の負担が大きいということもある。どうして、あの歳で痩せないのか。
俺は随分痩せた。筋肉が無くなった。農業は力仕事だが、それを止めたから当たり前だ。婆さんも少し痩せれば、腰にも心臓にも負担が減るだろうが、体質はどうにもならない。
光陽の娘の名前は何だったか、晶子、どうしているのか。年賀状も来なくなった。去年来たか、思い出せない。年賀状は捨てないが、どこに仕舞った。
探しても出てこないな、もう。この頃は、あるはずの物が見つからない。出てこないとすっきりしないが、探しても疲れるだけだし、諦めることを覚えなければだめだ。
歩けないし、本を読んでも読むそばから忘れていくし、孫の名前は間違うし、自分の歳が違うと言われるし。もの忘れも仕方ない、諦めて、健康も仕方ない、諦めて、諦めることに慣れることだ。
最後は、生きることを諦める時が来る。この歳まで生きたら、死にたくないという贅沢は言えない。これだけは、そうなったから仕方なく諦めるというものでは無く、そうなる前に自分から積極的に諦めなければならない。
光陽の高校受験は心配しなかった。一緒に発表を見に行って、あそこにある、と言われて平野光陽の名前があった。心配はしていなかったが、ほっとした。
我が一族で最初の高校生だ。新発田には工業高校が無くて、聖籠村からわざわざ新潟の学校に行った。
合格発表の帰りに腕時計とコートを買ってやったが、二万三千円もする時計を選んだときは驚いた。一万円もあれば立派な時計を買えると思っていた。俺も時計は良いものが好きだから、仕方ない、高校合格祝いだからと思い切ったが、帰ってから婆さんに怒られた。
光明の時は心配だった。兄貴に負けたくなくて背伸びしたのだろう、本人も不安があったはずだ。例えゲッポ(最下位)でも何でも合格すれば同じだから、良かった。本人も目に涙を浮かべていた。
うちの兄貴はとうとう結婚しなかったが、どうしてだろう。貧乏な家を助ける為もあったと思うが職業軍人になり、下士官になって急降下爆撃機の操縦までやった男だ。さすがに、大学卒と一緒になっての憲兵試験には通らなかったが。
飛行服を着て、首に絹の白いマフラーを巻いて、腰に軍刀をぶら下げて、足に長靴を履いて新発田からバスに乗って家に戻ってきた時は、周りの人たちはおっかながったようだ。網代浜どころか聖籠村から、何人飛行機乗りが出たものか。歩兵は一杯居ただろうが、飛行機乗りは見たことがなかっただろう。
戦争が終わって軍隊が無くなって、青森で漁船に乗ったり、川崎で内航タンカー事務所に務めたりしたが、とうとう結婚はしなかった。
一度網代浜で見合いをさせようとしたが、しなかった。人当たりの良い方ではなくて、むしろ悪い方で、軍隊時代の友達は大勢居て、戦友会には入っていたが、終戦のあとの友達は居なかった。
特攻に行かされる可能性があって恐かったとか、天皇は馬鹿野郎だとか言っていたが、軍隊をやめてからも相手のことを貴様と呼んだり、戦友会に参加したり、軍隊からは抜けきれなかったバカな男だった。
内航タンカーを辞めてから網代浜に戻ってきて一緒に農業をやって、ウィスキーを飲み過ぎて血を吐いて、一人で死んでいった。兄貴らしい死に方とも言えるが、孤独は無かったのだろうか。
それとも、孤独を愛して孤独のまま死んで本望か。もう死んでしまったのだから、兄弟とは言え、今更何を考えても意味は無いが。
結婚など、所詮個人的なことと言えばそれだけのこと、兄弟とは言え他者がどうこう言うことでも考える事でもないが、個人的興味として、俺の兄貴として、どうして一度も結婚しなかったのか。誰か、結ばれなかったが愛した人でも居て、そして忘れられなかったのだろうか。
子供の頃は貧乏だった。時代というわけではない。地域というわけではない。父親が早く死んで、母親が子供四人を育てたのだから、当然とは知っていた。
良く育ててくれたものだと思う。大人になって考えてみれば涙が出るほどありがたく、母親は偉かったと思う。
だが、靴を買って貰えなかったのは哀しかった、と今でも覚えている。革靴ではない。ゴム靴だ。革靴など履いているものはいなかった時代だ。
短靴を買って貰えず、古いゴム長靴の上部を切って短靴として履けと言われた。ひと目見れば長靴を切ったと分かる。恥ずかしかった。
樺太の敷香で漁船に乗っていた頃、油差し(機関員)の平松が海に落ちて、早く上げなければ死んでしまう、鼻の穴でも口にでも引っかかれば良いからと、鉤の付いたロープを投げた。それが運良くゴム合羽のベルトを通す輪っかに引っかかって、みんなで引き上げてやった。
一つ間違えば、俺が落ちていたかもしれない。鉤は誰か別の人が投げたかも知れないが、誰も投げなかったかも知れないし、そうしたら彼は死んでいただろう。鉤が鼻の穴にでも引っかっかたとしても、鼻が千切れる前に手たぐり寄せられたものかどうか分からない。人は簡単に死ぬかもしれないと思った。
あのあと何年かで船を辞めて網代浜に帰ってきたが、伝え聞くところに依れば知っている人間は何人も遭難して死んでいる。百姓で苦労はしたが、死なずに三人の子供を育てたこと思えば、辞める良い時期だったのだろう。
光陽が生まれるときは難産で、帝王切開になった。婆さんは二ヶ月も入院した。生まれたのは八月で、暑かった。昭和三二年当時、青森で一番の病院の個室でも冷房は無かった。
あの頃は機関長で、俺も景気が良かった。歩合を入れて一ヶ月三万円ほど稼いでいた。高等小学校しか出ていない俺が、大学教授並みの給料だと言われた。婆さんを、最高の病院の個室に入れることができた。
あの病院でなかったら、産婆にでも頼んでいたら、どうなっていたか分からない。そう言う意味で、金はありがたい。金は稼ぐ価値がある。
貧乏に育ったのもあるが、金を稼ぐのは楽しかった。一六で船に乗ったばかりのころ、母親にいくらか仕送りしても、小遣いはあった。まだ酒も女も知らなかったし、うまい物が食えれば幸せだった。
子供の頃食ったことのないものが、世の中には一杯あった。こんなうまいものがあるのか、と感動したこともあれば、ざる蕎麦をどうやって食えば良いのか分からず、蕎麦に汁をかけてしまったこともあった。これも貧乏の恥ずかしさだ。
婆さんと結婚したとき、俺は三三で婆さんは二四だった。俺は一度離婚していて、先妻が引き取ったが子供が一人居た俺と、よく一緒になってくれたものだ。料理は下手くそだが、子供を三人産んでくれた。
一緒になってもう六〇年にもなる。俺は九〇を過ぎている。婆さんも八〇を過ぎている。光陽はそろそろ六〇になるから、そういうことだな。自分の歳も分からなくなって、俺は頭がぼけてきたか。
別れた娘は七〇近い。婆さんだな。元気でやっているのだろうか。死ぬ前に一度でも顔を見られるか、見られないか。あの子にも子供がいて孫が居るだろう。会いたいというのは、我が儘すぎる。
これも俺の人生の一部だ。
人生というのは、いろいろあるから価値があるのか。それとも煩わしいだけなのか。何も無い人生は人生そのものが無いのと同じかもしれないが、苦痛と悲しみだけの人生なら意味が無い。
俺は、ありきたりの人生を生きてきたのか。それとも、俺は俺の人生を生きてきたのか。
婆さんががんになってから、横浜の光陽は毎週日曜日に電話をくれるようになったが、今日も、今度いつ帰ってくる、とは言わなかった。昔は盆と正月には家族を連れて帰省していたが、離婚してからはいつも何日か遅れて帰ってくるようになった。親戚と顔を合わせるのが気詰まりだったのか。
今は再婚したからと言っても、それはそれで今更顔を合わせるのは煩わしいものかもしれない。いつでも良いから、とにかく帰省して欲しい。顔を見たいものだ。
婆さんががんになってから、俺たち二人とも歳取ったのもあるだろうが、正月と五月の連休と盆と三回来てくれるから、ありがたい。
自衛隊の船が漁船と衝突したというニュース。漁船とぶつかる間抜けが、戦争をやれるか。見張りがぼさっとしていたという理由しか無い。漁船は漁で疲れてぼさっとしていることも確かにあるが、自衛隊がぼさっとしているのはだらしない。漁船は漁が仕事だが、自衛隊は戦闘していなければ、船を走らせることだけが仕事だろうに。
俺は一回、海難審判にかけられたことがある。昔は海員懲戒法で、船乗りを処罰するのが目的の法律で、何でもかんでも船員が悪いという理屈だった。
昭和二三年だったか、海難審判法になって、船主も、気象も、造船所も、船員も海難原因の対象として調べられるようになって助かった。プロペラシャフトが時化の海で折れたことが、機関長の責任にされてはたまらない。
船頭や船長が気象を判断して逃げるか漁をやるか決めるし、船主は魚を捕れと言うし、船を整備したのは造船所だし、機関長の俺がプロペラシャフトを折ろうとしても折れるはずがない。
西瓜は重いし、煙草は汚いし、米は植えるとき腰が痛いし、刈るときははしこい(ちくちくして痒い)し、百姓に楽な作物は無い。
あの暑い時期に、重い西瓜を運ぶのは骨が折れた。畑は砂が柔らかくて足が埋まるから、歩くだけでも余計に疲れるところに、暑さと重さが加わる。
光陽は、斜面になっている畑で西瓜を転がそうとしたが、砂に埋まっていくらも転がらず、やっと一つ持って畑の外の耕運機まで運ぶ手伝いをしたものだ。少し大きくなったら、両腕に一つずつ抱えて運んだ。
光明は小さくて、俺の母親に背負われて手伝いはしなかった。
西瓜に水をやったり病気予防薬を撒くときも、光陽は手伝った。
その年最初の西瓜を、畑で草刈り用のノコギリ鎌で切るときは、光陽も光明も喜んだ。光星はまだ生まれていなかった。西瓜、瓜、メロンは夏のごちそうだった。
煙草はベトベトして、触ると手が黒く汚れた。摘んだ葉を乾燥室で乾燥させると、葉のカスで呼吸が苦しくなった。
煙草を吸う俺でも、周囲に大量の煙草の葉があるとうんざりしたほどで、婆さんや子供達は咳をしていた。それでも婆さんは、よく仕事をやってくれた。生活のためとは言え、感謝する。
煙草は専売品で、植える本数が割り当てられているから、植えた後に一畝毎に数えて、合計して、その畑に植わっている本数を計算しなければならないが、その計算も光陽の仕事だった。
葉の収穫が終わって、枯れた木を燃やす時、サツマイモを焼くのがささやかな楽しみで、あんなことでも子供達は喜んだ。
煙草の乾燥小屋を作って、石油バーナーで、夜も二、三時間毎に起きて温度を見て、乾燥状態を見て、よくもあんな切ない苦労をしたものだ。
菜種、サツマイモ、ジャガイモ、西瓜、煙草などいろいろ流行があって作ってきたが、収入が安定していたのはやはり米だ。
ドラム缶に水を入れて、塩を入れて、塩水で種籾を選別して、苗代で苗を育て、田に植えて、草を取り、肥料をやり、台風で寝てしまう前に刈った方が良いか判断して、乾燥のためにはさに掛けても台風が来る前に外して小屋に入れたり、雨が降る前にビニールシートを被せたり、脱穀するときは藁の屑ではしこい。
少しずつ、脱穀機、籾摺り機、田植え機を揃え、稲刈り機もバインダーからコンバインになり、耕運機もトラクターになった。よくもあれだけ機械を揃えたものだ。それだけ百姓も豊かになったのだろう。いたましくて(もったいなくて)捨てられない農機具が、小屋に一杯眠っている。今も使っているのは精米機だけだ。
今になって思えば、運転免許を取らなくてよかった。取ろうと思ったときがあったが、婆さんが、俺は酒飲みで酔っ払い運転するからだめだと反対した。
あの頃は、酔っ払い運転はそう厳しく罰せられなかった。交通事故で一年に一万人から一万五千人も死んでいた時代だ。今は五千人くらいか。
罰則を厳しくしたことが、死者減少理由の全てかどうかは分からない。車の技術の進歩もあるかもしれないし、道路の改善もあるかもしれないし、若者が車を買わなくなったという事もあるかもしれない。
光陽は免許を取って間もない頃、酔っ払い運転で車検中の代車を田の用水路に落としたことがあった。この家を建てた大工にユニックを頼んで、引き上げて貰った。怪我しなくて良かった。
光星は酔っ払い運転ではないが、住吉町の酒屋に突っ込んで俺が謝りに行った。
俺だったら、やっぱり事故の一回や二回はやったかもしれないし、酔っ払い運転で下手したら人を殺したかもしれない。婆さんの反対は、酔っ払い運転ではなく、車は金がかかるというが一番の理由だったと思うが、今となってはどうでも良い。何十年も前の話だ。
イー、アール、サン、スー、ウー、ルュー、チー、パー、キュー、スーが、中国語の一から一〇までの数え方だと教えてくれたのは兄貴だった。
頭がおかしい、は、ノーテンファイラー。光陽と光明に教えたら、面白がって何回も言わされて、仕舞いに覚えたな。
兄貴は戦時中、中国で捕虜を三人護送する命令を受けて、二晩だか三晩だか寝られなく、一瞬でもウトッとすると、ハッと起きて、恐ろしかったと言っていた。縛ってあるとはいえ相手は三人、こっちは一人、油断したらやられる可能性がある。
捕虜は、いつ殺されるかと思っているから、やけくそでかかられたどうなるか分からない。飛行機に乗っているより恐かった、と言っていた。急降下爆撃機乗りの兄貴も人間だった。
光陽はいくつになるのか。まだ定年にならないか。今の時代、定年はいくつだろう。昔は五五だった。
光陽はいくつだ。まだ六〇にはならないか。自分の歳もはっきりしないから、息子の歳は分かるはずがない。ぼけたものだ。
光陽は定年になったら、新潟に戻ってくるのだろうか。婆さんは腰が曲がって歩けないし、俺は足が痛く歩けないし、一緒に暮らして貰いたいのが正直なところだ。昔は子供の負担にだけはなりたくない、と思っていたものだが、歳を取るのは残酷で、気持ちさえ変わってしまう。
次男の光明は車で二、三分のところに居るし、三男の光星は一緒に暮らしているが、やっぱり長男の光陽が跡取りだ。
跡取りという言葉は、若い頃は唾棄したものだが、これも老いだな。俺自身、母親の妹の家に養子に行って、高橋から平野になって、そんなことに意味があるのか、いや、無いと思って生きて来たはずだ。
家も畑も田もあんにゃ(長男)が相続して、あとはおんじ(弟)二人にどうやって分けようが、分けまいが、あんにゃが決めれば良い。帰ってきて、この家で暮らしてくれないものか。
しかし、俺の母親はずっと一人で暮らしていた。三食は俺の家で食って、俺の家から歩いて一〇分ほどの家に帰って一人で寝ていた。たまに光陽が泊まりに行ったり、朝、起きてこないときは、婆さんが光陽に見てこいと、母親の家にやっていた。
病気になって、死ぬ最後の何ヶ月かだけ一緒に暮らした。それも、病院での治療の術が無くなって退院してからだ。その時母親が「おれが一緒に暮らしても良いのか」と言った。「何、馬鹿なことを、親子だろう」と怒ったが、あの遠慮は哀しかった。子供に迷惑を掛けまいとする親心。長男に頼ろうとする俺は、あの時の母親に負けた。
光陽はかなり自信を持って、新潟の工高に入った。過信が心配だとうそぶいていた。そのあと無線通信士になるために、徳島の学校に二年行った。
光明はがんばって、何とか光陽と同じ高校に入った。そして就職した。進学しなかったのは、家庭の経済を考えたのか。
光星の頃は児童館ができて、入れたが、しょっちゅう行きたくないと言って、送っていった俺の母親と一緒に戻ってきた。高校には行かないで、訓練校に行った。俺の母親に負ぶされてばかりで、知的な刺激が不足したのだと思う。
光陽は三歳まで青森で、専業主婦の婆さんに育てられた。新潟に来てからは、俺の母親に世話になったが、三歳以降だ。
光明は生まれて直ぐ新潟に来て、しょっちゅう俺の母親に預けることはなく、婆さんのそばに居た期間があった。
光星は三人目というのもあって、ほとんど母親に任せっぱなしだった。あの時代の年寄りに預けておいては、知的刺激は得られない。友達のところに遊びに行ったり、畑に行ったり、簾を編んだりしているだけで、光星に話しかけることも一緒に遊ぶこともほとんど無く、光星がおもちゃに触れる時間も少なかった。
児童館も行きたくないと言ってほとんど行かなかったから、そこでカバーもできなかった。
光陽と光明は三歳違いでむったり(いつも)喧嘩していたが、光陽と光星は一〇歳違いで光陽は光星をかわいがっていた。しかしそれは、年が離れすぎで友達と遊ぶと言うより、子守だった。
同じ父親と母親から生まれても、しかもひとつの家族として育っても、環境のわずかな違いが生育に影響を及ぼすことがあるのだろう。
生活にもう少しゆとりがあれば、もっと婆さんや俺と接する時間を持たせてやれれば、光星も高校くらいは行っていただろう。親の責任だ。勘弁して欲しい。
俺はやはりぼけてしまったのだろうか。いくらかぼけたとの自覚はあるが、ぼけを越えて頭がおかしくなってしまったのだろうか。
左腕を切ったらしい。多少痛いが、大したことはない。婆さんが大騒ぎして光明を呼びつけて、病院に連れて行かれた。
腕に包帯が巻いてあるし、婆さんが光星に、爺さんが腕に怪我をしたと教えているから、どうやらそうらしいと思って、これを書いておく。
どこで切ったか分からない。大した痛みでもないから、大した傷でもないはずだが、どうして病院まで連れて行かれたのか。どうしてこれ程大げさに包帯を巻いてあるのか。
五針縫ったと光明が言っているが、それほど切ったら痛いだろうし、血も出るだろうに、本人の俺が知らないのはおかしい。記憶していないのはおかしい。即ち、ぼけてしまったと言うことか。
血の跡がどこにあるだの、農機具を置いてある小屋のトタンで切ったかもしれないだの、と光星が言っている。今日は小屋に入っただろうか。思い出せない。小屋に入ったかどうかは些細なことで、いちいち覚えていないのは当然だ。
小屋には犬の餌が置いてあるから、朝晩は必ず入る。しかし、病院に行くほど怪我をしたら痛いだろうし、忘れるはずはない。
どうにも理解できない。
今まで書いた手帳が見つからない。何十冊もあるはずだ。捨てるわけはないから、どこかに仕舞ってあるはずだ。婆さんは知らないと言うし、光明と光星は知っているはずがない。
自分の手帳を人に整理させることはないから、俺しか知らない。どうして思い出せないのか。どうして、探しても見つからないのか。
婆さんが間違って捨ててしまったか。婆さんは何でも取っておくし、まして俺の手帳は勝手に捨てない。光星だってそんなことはしないだろう。
前の手帳を見れば、自分の書いたことを読めば、いくらか今の状態が分かるかもしれないと思ったが、それは叶わないか。
日誌と言うほどではないが、当初は農作業メモだった。いつ種を蒔いた、病害虫予防薬を撒いた、何の肥料を撒いた、草を取った、水をやったなどをメモしていた。今年のデータは来年に生きると思って書いてきた。
新聞や本を読んで、良い言葉だと思ったものは書き写してきた。
身の回りに起こった出来事を書き残してきた。親戚の誰が入院しただの、事故に遭っただの、結婚式に呼ばれただの、孫の生まれた日だの、孫が学校に上がった日だの、婆さんと自分の病気のことも、光陽が帰省した日も書いてある。
前の手帳と今の手帳を読み比べれば、頭の状態がおかしくなったのか見当が付くと思ったが、手帳が無いことにはどうにもならない。手帳が見つからないことが、ぼけの証拠かもしれない。
昔のことは覚えている。さっき薬を飲んだかどうかは覚えていない。自分の歳が、俺が思っているのと婆さんが言うのとは十も違う。婆さんもぼけてもおかしくない歳だが、光星も婆さんと同じ事を言うから、俺がおかしいのだろうか。
人の名前がなかなか出てこないことは、五〇台後半からあったと思う。老化の始まりだろう。
どこまでが単なる老化で、許容範囲内で、どこからがぼけになって、許容範囲外になるのか。どこかで線が引けるものでもないだろうが、どこかで線を引かなければならないものでもあるだろう。
頭のおかしい者は自分でおかしいと分からない、自分でおかしいという者は正常だ、というが、ぼけも同じ事だろうか。俺は自分がぼけてないと思っていても、人から見たらぼけているのだろうか。もの忘れや少々のぼけの自覚はあるつもりだが、それでもやっぱり自分が思っている以上の、許容範囲外のぼけだろうか。
光陽と歩が帰省して、帰る前に婆さんと四人で畑を見せに行った。今は貸している畑だ。
元の畑は東港のために県に売って、金ではなく代替地として貰った畑だ。金ではなく代替地を要求する人は珍しいと担当者が言っていた。金は使ってしまえば終わりだが、畑は息子達に残せる。先祖から貰ったものだから、息子達に残す。息子達が売るというなら、売れば良い。
蓮野の、新しくできた聖籠病院の辺りだ。何年か前までは自転車で行ったが、もう歩くのもやっとで何年も行ったことがない。
畑が分からなかった。一時間も回って貰ったが、分からなかった。
婆さんが分かると言うから、光陽が婆さんの言うとおりに運転したが、やっぱり分からなかった。聖籠病院からは目を瞑っても行けると大きなことを言って。
俺は頭にきて、婆さんの言うことは聞くな、俺の言うことを聞けと言って、一旦役場まで行って、そこから行こうとしたが、やはり見つからなかった。
頭が狂ったと思った。自分の畑がどこだか分からなかった。
婆さんは、車は速すぎて分からなくなる、歩いて行けば分かる、と負け惜しみを言ったが、腰が曲がって歩けないくせに、生意気な婆さんだ。
とうとう歩は同じ所をぐるぐる回るから車酔いしたと言い、光陽は分からないならもう良い、この次来たときでも良いからと、家に戻ってしまった。
婆さんも俺もぼけたようだ。情け無い。どうして自分の畑が分からないのか。しょっちゅう行っていたところだし、子供の頃は蓮野の高等小学校に通っていたから、あの辺りはよく知っているはずだ。
青森で船に乗っていた頃は、良く映画を見に行った。シネマカラー、シネマスコープは迫力があった。西部劇の青い空の色がきれいだった。
俳優なら、リチャード・ウィドマークだ。冷酷な顔をして、人を馬鹿にしたようにフン、と言うところが良かった。ポール・ニューマンやチャールズ・ブロンソンなどまだチンピラだった。
西部劇なら、荒野の決闘はジョン・フォードとフォード一家のヘンリー・フォンダだったな。光陽が生まれた頃だったか、OK牧場の決斗、バート・ランカスターと、顎がへこんでいるカーク・ダグラスだった。
OK牧場の決闘のレコードも買ったが、どこにやったものか。まだ、小屋にあるか。
あの俳優もみんな年取って死んでしまっただろうな。
まず新しい事を忘れ、次は古いことも忘れ、最後は何も分からなくなって、死んでいくのだろう。恐ろしくもあるが、その時には、恐ろしさも分からなくなっているから、ちょうど良いのか。
忘れていくというのは、自然な老いであり、その先の自然な死に繋がるものだろう。
幸いにも病気や事故、災害や犯罪で死ぬことなしに、この歳まで生きた。八五か九五か、いずれにしてもこの歳まで生きたあとは、死ぬ理由が病気も事故も災害も犯罪も老衰でも同じだ。充分生きたから。少なくとも、生きた年数は充分だ。
子供は三人育てた。孫は六人居る。
二人目の嬶とは六〇年も一緒に暮らした。船を辞めてからは貧乏させたが、良く一緒に居てくれたものだ。
人生は、経験とその記憶だ。人の記憶に残ることでは無く、自分の記憶だ。
まだ覚えていることは多々あるが、忘れてしまったことはその何十倍もあるだろう。きっと本当に辛かったことは早く忘れ、少しでも楽しかったことは長く覚えているものだろう。
現実は歓喜より苦痛、希望より絶望が多いのだろうが、それでもわずかな歓喜や希望を求めて生きるのが人間だろう。
若いときに苦痛や絶望の記憶を忘れ、老いてからは歓喜や希望の記憶さえも忘れていき、それが死の準備なのだ。
ぼけ、痴呆、アルツハイマー、そんなものはもちろん誇るべきものではないが、恥ずべきものでもない。生きてきて辿り着いた人間の、最後の、いわば完成形だ。
歩けなくなり、頭がぼけて、ここまで生きたら最後はどうでも良い、これ以上の望は、望み過ぎだ。
生まれて九四年を未来に向かって生きてきて、あと半年か、一年か、二年で今までの九四年を過去に戻っていく。新しい事は覚えられず、覚えていたことも新しい事から忘れていって、最後は古いことも全部忘れて、そして死んでいく。
ぼけは煩わしいし、悔しいが、しかし、運の良い自然な死に方かもしれない。何も怖くない。何も惜しくない。生きた。そして死んでいく。今までの人生の堆積が溶けて零れて乾いて、あとに何も残らないように。
(終わり)
テーマ 香り
タイトル 尊厳死のプロセス
「お前さん、どこの人ですか?」
真顔で、方言ではあるが敬語で、直一が言った。
光星は驚いた。答えられずにいると、直一はもう一度同じ事を言った。
二度目を聞いた光星の印象は、戸惑いだ。目の前にいる、俺の顔が分からないのだろうか。結婚して家を出るまで、二八年一緒に暮らした息子の俺が分からないのか。俺の顔をまじまじと見て、真剣な目をして訊くとは。
戸惑い次の瞬間には不思議に、砂を噛むような気持ちとはこういうことか、と思った。悲しみではなく、味気なさだ。
そして、仕方なく光星は答えた。
「光星だ」
耳の遠い直一は諒解できなかったらしく、更にもう一度、光星の顔を見ながら同じ事を訊いた。光星は目を合わせづらかった。
そんなことを訊いて欲しくない。三度も訊いて欲しくない。
苦い顔をして、もう一度答えた。
「光星だ」
「光星?そうか」
直一は納得していないようだ。まだ、不思議そうな表情をしている。目の焦点が合っていない。
ふたりで持ってきたゴミ袋を、ゴミ集積場の金網の中に入れた。光星は父との続きは家に戻ってからにしようと、ふたりで道路を渡った。
光星がひとりで捨ててくると言ったにも拘わらず、直一は量が多いからと不自由な左足を引きずって道路の反対側まで一緒にゴミを捨てに行ったときは、光星が誰であるか確実に認識していた。だから手伝ったはずだ。それが、道路を渡りきったとき、光星が誰か分からなくなった。これが認知症というものなのか。
二年ほど前から、直一は自分で、呆けてきた、と言ういようになった。光星も当然、本人以上に父の呆けを認識していた。しかし、息子を認識できなくなるとは、想像の外だ。
家の玄関が見えてきたとき、直一が言った。
「光星、おまえか」
ようやく本当に、光星が誰か思い出したようだ。
先ほどは、何だったのか?あれをまだら呆けというのだろうか、これからもっとひどくなるのだろうか、と光星は寒気を感じた。
新潟県北蒲原郡聖籠町網代浜、平成の大合併で北蒲原郡は聖籠町だけとなったので、住所に北蒲原郡は不要と思うが、何故か無駄に残されている。
おそらく、主に農業、わずかに漁業でやってきた村が、東港開港、新産業都市指定、火力発電所、LNG及び石油備蓄基地建設、企業誘致で金持ちの町になり、隣の新潟市や新発田市の合併の誘惑を断って、北蒲原郡で単独、町として存在している。
東港などができる前の貧乏な村だったころは、逆に合併の要望を袖にされてきたので、お互い様というところか。
この町で直一とキミは農業を営んで、長男の光陽、次男の光明、三男の光星を育て上げた。
キミは三ヶ月前から次第浜の介護付き老人ホーム・亀代の家に入っている。数年前から加齢で腰が曲がり、さらに悪性リンパ腫のせいもあって足も弱くなり、歩くことさえも一苦労になった。段ボール箱を杖代わりに、両手で体を支えて家の中を移動していた。一本の杖だけでは、不安定で体を支えられないのだ。
だから、とても掃除などできなかった。自力でトイレに行くことだけでも、大変な仕事だった。
そこで光陽が、今回の帰省では妻の歩とふたりで、できるだけ実家の台所を片付けようと決めてきた。
どうしてなのか、年寄りはゴミを大事に取っておく。絶対使うことなどない包装紙、何かの紙箱、出前のプラスチックトレー、空のペットボトル、黴が生えた瓶詰めの漬物、ぼろきれでしかない衣類の残骸、ひびの入った食器、賞味期限を二年も過ぎたインスタントラーメン、缶がさび始めている缶詰、ゴミ、ゴミ、ゴミ。
全部は捨てきれないが、目に付く大物は捨てた。
その間に歩は、食器を洗い直した。何ヶ月か何年も使っていない食器は、汚れていた。いや、おそらく洗い方が雑で汚れを落とし切らないまま、使われずに放置されていたのだろう。一度きれいに洗えば、使わないなら埃は被っても、汚れるものではない。かとって、体が不自由なキミを責められない。
直一と光星も手伝って、ゴミ捨てが終わった。
ゴミを捨てて台所はすっきりしたが、光星には父である直一に自分を誰だと訊かれて、ゴミより始末に悪いものが心に残った。誰にも話す気にもなれない。
片付けと食器洗いが済んでから、歩は夕食を作った。親子丼と、ジャガイモとワカメの味噌汁、それに茄子の漬物だ。
いつもは台所で食べるのだが、今日は橫浜から光陽と歩も来ているので茶の間で食べる。
光陽と歩が茶の間に食事を運んでいると、光明とその妻の千穂が来た。
光星は、今夜はうるさくなるな、と覚悟した。年に二、三回帰省するだけの長男夫婦と、月に二、三回顔を出すだけの次男夫婦が来て宴会。しかし、光星は嫌な顔をするわけにもいかず、付き合うつもりだ
千穂は父母を病院に連れて行ったり、税金、公共料金などの支払い管理までやってくれている。光星も、自分の次に親の面倒を見ているのは千穂であると認めている。俺たちに比べたら光陽と光明は、と割り切れない思いを抱いている。
直一は光陽夫婦が帰った翌朝、とは言っても未明、四時過ぎに目覚めた。昨夜眠ったのが九時頃だから、睡眠時間が不足のことは無い。それに、一日中いつでも眠くなればソファーで寝るのだ。
直一はトイレに行って戻り、本を読み出した。新たに本を買うことはほとんど無い。過去に読んだ蔵書を読み返している。
二〇分ほどで読書に飽きると、茶の間に行ってテレビをつけた。耳が遠いせいで、ボリュームがやたら大きい。
今朝も光星はテレビの音で目が覚めた。目は覚めたが、眠いので目を閉じて、できればもう一度眠りに落ちたいと願っている。運が良ければ眠れるが、眠れないことの方が多い。
今朝はだめだ。こんな早い時間にバカに大きなテレビの音で起こされて、と考え出すと腹が立って眠れなくなった。
眠れないが、目を閉じて横になったまま、起こされるまでこのままでいようと思っている。
五時前、案の定、直一が怒鳴った。怒鳴っているつもりは無いのかもしれないが、耳が遠いせいで結果的に怒鳴り声になる。
「おい、光星、朝飯は未だか。腹が空いてどうにもならない」
前日の夕食から一二時間ほど経過しているから、無理も無い。無理も無いが、夕食を遅くして、その分だけ翌日の朝食も遅くして欲しいと光星は思う。
仕方ない、また一日が始まった、と諦めて光星は布団を出た。
自分はまだ食欲が無いので、直一にだけ野菜炒めを作り、昨夜の残りの味噌汁、ご飯を用意した。直一は食事内容には文句ひとつ言わない。これは、数少ない光星の救いである。直一の若かりし事に比べれば、昨今の食事は贅沢とも言えるほどなのだ。
直一は九四歳という高齢にも拘わらず、一人前に食べる。饅頭などの間食になるものがあれば、それも食べるほど胃腸は元気だ。逆に、胃腸が元気な結果、長生きできているということなのか。
七時半、光星も朝食を済ませ、茶の間でタバコを吸い始めた。それは何だ、と直一が訊いた。何度説明しても、直一は煙の出ない電子タバコというものを記憶できない。
光星がイラッとして、大きな声でタバコだと答えた。すると直一は、親に怒鳴るバカがあるか、と詰った。
光星が大きな声を出すのは、同じ事を何度言っても覚えない直一に対する感情的な理由もあるが、同時に耳の遠い直一には必要な声量でもある。ところが、単に聞こえるように出す大きな声と、苛ついて出る怒鳴り声とは直一には区別ができる様なのだ。これが、認知症の厄介なところだ。光星の顔つきの違いもあるのだろうが、直一は嫌な感情を持ってしまう。
だから、更に光星を攻撃する。
「仕事もしないで親の金で飯を食って、タバコを吸うとは良い身分だな。夜になれば酒も飲むし、何を考えているのか」
何度言われても、光星は慣れない。言葉の力、良い意味でも悪い意味でも、言葉には一定の力がある。真実ではなくても、事実とは正反対でも、そう言われると、腹が立ち、反発する気持ちが湧いてくる。言葉を無視できないのだ。
ここ数年の間に、キミが病を得て、寝たきりではなくトイレには自力で行けるが、日中ベッドから出てもほとんど座ったきりという状態になり、直一は認知症で食事の用意ができなくなり、養子先から離婚して戻っていた光星がひとりで両親の介護をする羽目になった。
そして一年前、直一の認知症が更に進んだため、やむなく光星は仕事を辞めた。
三ヶ月前、キミは病状が悪化し、亀代の家に入った。
光星は、不安が大きい。将来がどうなるのか。いつまで介護が続くのか。もう五〇歳、これから何年か仕事をしないでいて、年金受給額がどうなるのか。できれば再婚、せめてガールフレンドくらい欲しいが、両親を介護する為に仕事さえできない状況では、叶うはずもない。
直一は、また薬を飲もうと袋から取り出した。それを見た光星が注意した。
「薬はもう飲んだよ」
「なんだと?」
直一が聞き返した。光星は、また同じ事をいわなければならない。これがしょっちゅうだから、これだけでも精神的なダメージとなる。
「薬は飯食ったあとに飲んだよ」
前より大きな声で言った。いらつきをできるだけ抑えて、だ。
「そうか」
そう言って、直一は何種類もの薬をそれぞれ袋に戻そうと、袋の中の薬と取り出した薬を照合する。動作が遅く、光星はこれだけの事にもイライラが募る。こんな小さなことでも積み重なると、大きなフラストレーションになる。
直一は薬を飲もうとして電気ポットからお湯を注いだ湯飲みに、ワンカップのキャップで蓋をした。湯飲みは洗わずに、飲み残しに蓋をして、何時間後にでもそれを飲んで、飲み干してもまた蓋をして、翌日も使う。
しばらくして、直一はソファーに横になる。数分して寝息が聞こえてきたところで、光星はテレビのボリュームを落し、チャンネルを変える。興味を引くテレビは無い。
釣りに行きたいところだが、一時間や二時間では意味が無い。せめて半日ゆったりと釣りを楽しみたい。だが、父の食事の支度があり、それだけではなく認知症であるから、半日も放置できない。
だから、光星は食糧の買い物程度の短時間しか出掛けることができない。思い切れば良いのだが、それができない性格なのだ。
キミが亀代の家に入るまで、光星は直一とキミの両方を介護していた。
ある日、自分の息子に対してさえいつも控えめ、遠慮がちのキミが、たまには風呂に入りたいと光星に言った。風呂はほとんど毎日直一が沸かして、夕食の前後に入っているが、自分が入るだけでキミを介助して入れてやることはない。
直一はキミが病気であること、加えて老化で体が動かしづらいことを認識していない。キミが辛くて寝ていると、どうして起きてこないのか、と怒る。怠けている、と罵倒する。光星が何度説明しても、直ぐに忘れる。それでも光星は、直一に大きめの声で言った。
「婆さんが風呂に入りたいと。爺さん、入れてやって。婆さんは腰が曲がっているし、ひとりで立てないから」
「なんだと。俺が婆さんを風呂に入れられるか、馬鹿者。風呂ぐらいひとりで入れるはずだ。入れないなら、入らなくても良い」
直一は認知症を発症する前は、これ程冷たいことを言わなかった。もっとずっとキミに優しくしていたし、冗談を交えて話をしていた。認知症は短時間の記憶だけではなく、性格をも変えてしまうようだ。
大正末期と昭和一桁生まれのカップルは、若かりし頃でも一緒に入浴するようなことは無かったのだろうか。それが一般的だったのだろうか。光星には分からない。
キミは、入浴してさっぱりしたいと言う。直一は、拒否した。やむなく光星が、入れてやろう、と覚悟した。五〇歳の息子が、八四歳の母の入浴介助をするのだ。母に取っても息子にとっても、つらいものがある。
もうこれ以上治療できないから、入院できないキミ。認知症で、キミを介護することを知らない直一。三人兄弟のなかで、父母と同居しているバツイチの光星。この時点では、入浴介助の公的支援を受けていない現実。やむを得ない、どうにもならない、哀しすぎる、息子が母に行う入浴介助。
光星はキミの頭を洗ってやり、もう一度浴槽に入れてやろうとしたところで、タイルに糞を見た。キミが脱糞したのだ。股に出来たホジキンリンパ腫による下半身の感覚欠如、昔からの便秘癖、入浴による体の温まりとリラックスなどが相乗した結果だろう。
キミは脱糞を認識していない。あるいは、羞恥でとぼけているのかも知れない。光星は諦めたような声で、しかし本当は優しい心からの言葉を発した。
「婆さん、全部出して良いよ。どうせまた便秘するから、今のうちに出して良いから」
家族とはいえ、家族だからこそ、あってはならないことだ。夫婦や同性同士の親子ならまだしも、母と息子。この母と息子の、人間の尊厳がどこにあるのか。
しかし、これは単純な現実で、受け容れるしか無いものなのか。確かに、もっと早く公的支援を求めることはできたかも知れない。そうすれば、避けられたことかも知れない。
もうキミはとぼけていない。今出してしまわないと、あとでもっとつらい思いをする。常時便秘で、出る時を無駄にしない方良い。ベッドで出たら、後始末がもっと厄介だ。今なら、体はそのまま洗ってしまえる。
なに、自分の息子だ。この身をふたつにした子だ。赤ん坊の頃は散々おしめを替えてやった。少しくらい返してもらっても罰は当たらないだろう。今は病気で、歳も取って、体が動かない。光星に助けて貰うしか無い。
考えられる限りの理屈を付けて、キミは光星に下の始末をして貰った。思い切ったときのキミは、強い。六〇年以上前に津軽から嫁いできて、言葉も通じない、封建的な網代浜で、過酷な農作業に従事し、意地の悪い姑に仕え、我が儘な直一の相手をし、三人の男子を産み育て、自分の死病を知ってもびくともしない、強い女なのだ。
実は、強い気持ちを持っていないと、さすがのキミも涙が出そうになる。あとで、ひとりで泣くなら良いが、ここで光星に涙を見せたら、もっと惨めな思いを抱かせることになる。ここは、けっぱらねまばまいね(がんばらなければだめだ)と津軽弁で思った。
ふたりしか知らないことだ。ふたりが忘れれば、無かった事になる。無かったのだ。言葉を交わさなくても、ふたりの思いは一致した。
光星はキミを毛布に乗せて、風呂場からレンタルしている介護ベッドまで部屋をふたつ越えて引いてきた。それを見た直一が憎々しげな表情をして言った。
「何の真似だ。どうして婆さんは歩かないんだ」
光星は律儀に答える。ふたりの兄達なら、答えずに無言を通すかも知れないところだ。
「婆さんは病気で、腰も曲がっているし、歩けないから毛布に乗せている。俺が風呂に入れたんだ。爺さんが入れてやらないから。爺さんは何もしないで、怒るだけだ。うるさいから少し黙っていて」
最後のひと言は父親に対しては余計かも知れないが、光星としてはこれでも充分に抑えて、言いたいことの半分も言っていない。
光星はベッドを一番下まで下げて、キミをベッドに乗せた。
今日の苦行は終わった。とてもじゃないが、二、三時間毎の体位変換まではやってやれない。キミも要求しない。褥瘡はあるが、我慢している。
光星は冷蔵庫から缶チューハイを持ってきて飲み始めた。テレビのボリュームを下げて、チャンネルを変えてみる。何も興味を引くものはやっていない。チューハイのつまみにはならないが、音も動く絵も無いよりはましだ。
直一は、散々言いたいことを言って布団に入った。
寝る前のこの、缶酎ハイを二本飲む時間だけが、少しだけ光星にフラストレーションからの解放を与える。
今日も直一の介護で散々に心が疲れて、一日が終わりかけている。
酎ハイで気持ちよく痺れてきた頭で、光星は空想に遊ぶ。フラストレーションをリセットするための空想だ。これをしないと、直一への怒り、介護の悲哀、将来への不安で眠れないのだ。
婆さんは長くない、年内か、長くても来年の春までは保たないだろう、ホジキンリンパ腫、ガンの一種、どれが奏効するか分からないからと数種類試した抗がん剤、結局効いたのか効かなかったのか、婆さんは治療がつらいから止めると決心、一度は余命三ヶ月と宣告されるも、一年後には腫瘍マーカーが消えたという検査結果が出て、しかしまたガンは盛り返してきて、あと三ヶ月か、半年か。
爺さんの余命は見通しが立たない、食欲は年齢の割に旺盛、消化器系が強い、四〇台には胃潰瘍で長いこと通院したのに、でも昔あった筋肉が今は無残に無くなってしまった、医学的には誤っているかも知れないが、漁船と農業で生きてきた体は芯が強いということか、しかし頭はいかれてしまって体に付いてきていない、体の病気より頭の病気の方が周りは何百倍も大変だ、ところが本人には全く苦痛が無い。
婆さんは体の病気で、病気そのものより治療の方がつらいというほどだが、周りの誰も本人の苦痛の一パーセントも感じることはできない、頭の病気は、本人は病気であることさえ認識しない、苦痛も無い、治療の手段も無い、進行を遅らせることはできると言われているが、それはどうやって確認したのか、どうも信じられない、多分、対処療法、怒りっぽいなら穏やかにする薬、そういうものはあるだろうが、きっとそれが医学の限界だろう。
頭の病人の周囲にいる人は、身体的痛みはもちろん感じないが、精神的な苦痛は大きく感じる、数分ごとに同じ事を何度も訊かれる、階段は危ないから止めろと言っても言うことを聞かず、二階に本を探しに行ったり、ファンヒーターに灯油を補給しようとしてこぼしたり、何かに引っかけて腕を切ったり、脳梗塞の後遺症で左足が満足で無いにも拘わらず歩き回るから、転んで大怪我をする心配もある、なにより許せないのは俺を怒ることだ、ふたりの兄貴は、俺の献身からしたら親をほったらかしている、俺だけが両親を見ている、その俺を酒ばかり飲んでいるだの、タバコを吸うだの、仕事をしないだの、親の金で飯を食っているだの、果てにはバカはいくつになってもバカだの、言いたい放題だ、現状を全く理解していない、自分は飯の支度もできないし、掃除も洗濯も一切やらない、婆さんの介護もしない、それどころか婆さんの病気も認識していない、できるのは、飯を食うことと排泄することだけだ、その排泄だって半分小便を便器の外にこぼす、だから木の床が腐りかけている、便器のカバーを下げておくとそのまま小便をするから全部床にぶちまけることになる、ここまで人間はバカになれるものなのか、それでも一見はまともだ、だから逆に始末が悪い、せめて見てくれに何か異常があれば、ああ、病気なのかと先見を持てる、何を言われても多少は病気のせいだなと割り引ける、歩くときに左足を引きずるが、それについては体が不自由だと明確に分かる、援助してやろうかという気になる、しかしそれは爺さんの口から出る言葉を少しも薄めることは無い、仮に寝たきり状態であっても、仕事をしないで親の金で食っている半端者などと言われたら、大いに傷付く。
ここまで思って、光星の目に涙が湧いてきた。
俺は何をやっているのか、どうして親に縛り付けられているのか、ふたりの兄貴は何もしてくれない、もし俺が離婚しなくて養子に行ったままだったら、老親はどうなっていたのか、光陽は橫浜でマンションを買ったから新潟に戻ることは考えられない、光明も自分の家を建てたからこの家に入ることは無い、かといって親を引き取ることも無い、無いはずだ、気持ちがあるなら、婆さんも家にいたときはどっちかひとりだけでも引き受けようかという提案があってもよかった、光明の家は車で二分か三分のところだ、いつだって爺さんと婆さんは会える、爺さんか婆さんか、どっちを向こうにやるか、悩むところだ、光明の家には千穂さんがいるから、婆さんを介護して貰うには女同士が良い、しかし爺さんを俺が見つづけるとなると、あの口の悪さ、というより認識の誤りで、それは認知症という病気からくるものと分かってはいるが、許せないほど腹が立つときがある、危うく殴りそうになって、かろうじて婆さんに止められたこともあった、殴ったら終わりだぞ、と婆さんに言われた、俺も我慢が足りなかったのか、でもそれだけ追い詰められていたとも言える、爺さんを光明のところにやって、婆さんを俺が見るか、でも婆さんは千穂さんに見てらう方が良いだろうな、俺も・・・俺は分からない、婆さんが施設に入って、爺さんだけの今なら、一定期間ごとにあっちの家、こっちの家で、という話もできるはずだが、無い、あり得ないことを考えてもしょうが無い。
兄貴はふたりとも頼りにならない、爺さんの言葉を借りればあのふたりこそ役立たたずだ、というのが光星の正直な気持ちだ。
もう一本飲むか、この時間しか俺はリラックスできない、寝る前の一時間、二時間、時には三時間の解放時間、寝ているときに夢は見ない、明日の朝、起きたらまた日常が始まる、退屈で、腹が立って、人生を浪費するだけのような、先の見通しが立たない、楽しみが無い、自由も無い、欲しいものが何も手に入れられなくて、願い下げにしたいものが山ほどある日常が、それが、その次の日も繰り返される、世の中には介護心中や、被介護者を残しての自殺まである、缶チューハイの二本や三本を誰に遠慮することがある。
介護者が被介護者を殺してしまう例もあったな、自分が死ぬか、相手を殺すか、ふたりで心中するか、どれもぞっとしない、でも誰も望まずに、それしか無かった、選択などできなかった、やらないと拒否できなかった、理性が負けたとも言えるが、理性がそう命じたとも言える、それが、介護者が唯一楽になる方法だったのだ、第三者に分かるはずが無い、分かって欲しかっただろうが、分かって貰えないと諦めて、自殺か殺人か心中を実行した、そう言う人たちはそれをやる前に被介護者を殴ったのだろうか、俺が爺さんを殴ったら、ハードルを一つ越えて、次は爺さんを殺すか、一緒に死ぬことに進み易くなるのだろうか、兄貴がふたりいて、婆さんもいて、俺には息子がふたりいて、まさか爺さんを殺すとか、爺さんと心中するとか、あり得ないが、俺が爺さんを殴るのもあり得ないこと、父親を殴ることは、あってはならないことではなく、あり得ないことのはずだった、でも一歩手前まで行った、あの時婆さんが止めなければどうなっていたのか。
人に理性があれば、親を殴ることはあり得ない、自殺することもあり得ない、心中することもあり得ない、そんなことをする瞬間は、何らかの理由で理性を無くしているのだ、理性があれば何らかの対策を考える、自殺と心中は当然ながら除く、すると残るのは殺人、爺さんに消えて貰う、警察に捕まる殺人は理性的とは言えない、犯罪とは認定されない方法で自由になるのだ、警察に捜査されない、仮に捜査されても立件されない、そんな方法があるか、苦しませず、惨たらしくなく、後始末の要らない、自分だけで遂行できる、という条件を満たす処理方法、手足が千切れたり、大量に血が流れる状況は見たくない、遺体自体もその周辺もきれいなままで死んでいって欲しい。
感電はどうだ。
理性があれば何らかの対策を考えると思いながら、殺す事を考えている光星は理性を無くしていることに気付いていない。
こんな田舎にいても、ネットがあれば相当のことが調べられる。光星は旧労働省産業安全研究所の資料を見つけた。
純粋に感電で死亡するのは、心室細動が起こるからで、一旦心室細動が起こると、自然に回復することはなく、数分で死亡する。
犬の心室細動電流は、通電時間が一二〇分の一秒なら中央値として二,〇〇〇ミリアンペアほど、五秒なら八三ミリアンペアほど。
犬は犬、人に対して何か参考になるのか?体重比?
心臓部を流れる電流比は、死体による実験で、手から手で平均三・三パーセント、手から足で六・七パーセント、足から足は〇・四パーセント以下。
交流なら、周波数としては五〇から六〇ヘルツが危険。
皮肉なことに商用周波数、つまり発電所から一般家庭に供給される電力が関東で五〇、関西で六〇ヘルツという危険な周波数、アメリカが五〇、ヨーロッパが六〇、世界中似たようなものだ。
反電撃といって、ある最悪点を超えて電流を増やすと、逆に心室細動の発生は小さくなる。これを利用したのが、除細動器・AED。
おそらく、AEDの電極を貼り付ける位置が、最も心臓に電流を流しやすい位置だろう。参考になる。
各種動物の通電時間三秒における心室細動電流を人体に推定すると、体重五〇キログラムであれば、六七から一〇七ミリアンペアの間となる。
やはり体重が、通電時間と電流に影響するようだ。
資料を読み進めると、直流の場合、一,三〇〇ミリアンペアで〇・〇三秒、五〇〇ミリアンペアなら三秒で、六〇ヘルツの交流なら一,〇〇〇ミリアンペアで〇・〇三秒、一〇〇ミリアンペアなら三秒で心室細動の可能性があり、電流を二・七五倍にすれば確実に心室細動が起こる、という。
心室細動に必要な電流と時間の目安は分かった。その電流を流すためには、いくらの電圧が必要か。それは人体の抵抗によって決まる。抵抗が大きければ高い電圧が必要となり、抵抗が小さければ低い電圧で事足りる。
資料はまだ続き、次は人体の電気抵抗を説明している。
人体の電気抵抗を、単純な抵抗ではなく体積抵抗率で説明している。単位はオーム・センチメートル。縦、横、高さ一センチメートルの試料の抵抗を示す。血液が一八五オーム・センチメートル。内部組織は八〇、筋肉は一,五〇〇、骨が九〇〇,〇〇〇だ。
皮膚の電気抵抗は面積抵抗率で説明している。単位はオーム/平方センチメートル。皮膚に接触する電極一平方センチメートルと内部組織一平方センチメートルの間の皮膚一平方センチメートルの抵抗を示すもので、四掛ける一〇の四乗から五乗オーム/平方センチメートルとなっている。
筋肉の抵抗率を基準にすると、皮膚の抵抗率は一〇〇から五〇〇とある。筋肉に直接電流を流すなら、皮膚を経由するよりも一〇〇分の一から五〇〇分の一小さい電圧で足りることになる。
皮膚の電気抵抗を、抵抗率ではなく単純な抵抗、単位はオームで示した情報もあった。人により大きな差異があり、作業者の堅い手の皮膚で一〇,〇〇〇オーム程度、事務労働者の柔らかい手で一,〇〇〇オーム程度。
皮膚の抵抗は、皮脂や水分によっても大きく変化する。これに対して筋肉や内部組織は、大きく変化することは無い。また直流、交流による差異も少ない。
次に、安全電圧というものが出てきた。安全電圧は、国によって二〇ボルトから五〇ボルトの範囲だ。イタリアで四六ボルト、日本で三五ボルトでの死亡例がある。
絶対安全電圧としては、いずれも交流で、乾いた手で三〇ボルト、濡れた手で二〇ボルト、浴槽で一〇ボルト。携帯電話を入浴中に使って浴槽に落し、感電死した例もある。
感電には、マクロショックとミクロショックがある。
マクロショックとは、皮膚経由の感電で、日常起こり得ること。
ミクロショックとは、何らかの理由、原因で、皮膚を経由せずに心臓に電流が流れること。例えば、カテーテルなどの身体に入れた医療器具を仲介して、原理的に起こり得る。
マクロショックでは、一〇ミリアンペアが離脱限界電流、つまり一〇ミリアンペを越えると、自分の意思で感電源から離脱できなくなる。行動の自由を失うのだ。
そして、一〇〇ミリアンペから心室細動が起こる。
ミクロショックでは、〇・一ミリアンペから心室細動が起こる。皮膚経由の電流、マクロショックの一,〇〇〇分の一で充分なのだ。
抵抗の高い皮膚を経由して一〇〇ミリアンペアを流すには、それなりの高電圧が必要だ。しかし皮膚を経由しない、つまり直接筋肉や脂肪を経由して心臓に〇・一ミリアンペの電流を流すには、低電圧で間に合う。
工夫すれば、乾電池でも人を感電死させることができそうだ。刺したり、撃ったり、殴打したり、首を締めたり、高所から突き落としたりせず、外傷無しで、血を見ることも無く、心室細動から心臓停止に持って行けるかもしれない。
医療機器では一〇〇マイクロアンペア即ち〇・一ミリアンペアでミクロショック、つまり心室細動が起こり得るので、この一〇分の一である一〇マイクロアンペアを心臓へ流れる電流の許容値としている。
JIS T 〇六〇一―一では、人体の抵抗を一キロオームと規定している。それなら、一〇〇マイクロアンペアの電流を流すに必要な電圧はわずか一〇〇ミリボルト、つまり〇・一ボルトとなる。但し一キロオームは、医療器の人体への漏れ電流を測定するための、仮定の抵抗で、本来は電極間の距離によるので、参考にしておく。
乾電池の電圧は一・五ボルトだから、心室細動が起こり得る電圧の一五倍の電圧となる。
ここで再度、JISで言う人体の抵抗とは何か?単位と数値からすると、先に出てきた事務労働者の手の皮膚の抵抗と合致している。この理解で良いとするなら、マクロショックとなるから、一・五ボルトでは遙かに不足だ。乾電池を手で触っても、感電することは無い。
問題は、ミクロショックを狙って、如何にして心臓に電圧を印加できるか、同じ意味だが、心臓に電流を流せるか、その一点となる。
心臓カテーテルを入れるわけにはいかない。そんな物は入手できないし、医師でもない者が心臓にそれを入れられるわけがない。
その前に、心臓カテーテルとは何か。それは、心臓に挿入するチューブ。その材質は、プラスチック。一般のプラスチックは絶縁体である。
ところが電気刺激を加えて心電図を取る用途に、電極の付いたカテーテルがある。
つまりは、金属などの導電性の良い材料で製作した針を心臓付近に刺せば、良い電極になると考えられる。
その電極に、直流から商用周波数程度の必要な電圧を印加すれば、ミクロショックによる心室細動が起こり始める電流〇・一ミリアンペアは実現できる。
マクロショックを狙って、高電圧を皮膚経由で印加して心室細動電流を流すことは簡単だ。必要な電圧を用意するだけで良い。コンセントの商用電源を使うなら、電圧を上げるトランスを買ってくるだけでよい。
だが、皮膚に火傷や感電の痕を残せない。そのために、電圧はなるべく低い方がよい。必要な電流を流すに、必要な電圧はいくらになるか。
医療器の〇・一ミリアンペアは安全面からのアプローチで、最悪の条件が重なったときはこの電流でも心室細動が起こり得る、と理解すべきだ。動物の実験データでは、心室細動の可能性の電流の二・七五倍で確実になると言うから、ここで、三倍の〇・三ミリアンペア流すものと決める。
皮膚は抵抗が大きいが、皮膚の下の組織、筋肉などは抵抗が小さい。だから皮膚を経由せずに直接人体内部に電流を流すなら、必要な電圧は小さくて済む。かといって、カテーテルを使うことはできない。
皮膚を貫通する針で、筋肉との接触面積を計算してみる。針で実現できる接触面積、それで決まる抵抗に応じた電圧を用意する。それが現実的であるかどうかだ。
最初に筋肉の抵抗を計算する。
筋肉の体積抵抗率が一,五〇〇オーム・センチメートルであるから、一平方センチメートルの面積で一〇センチメートルの距離なら一五,〇〇〇オームとなる。この抵抗に〇・三ミリアンペアの電流を流すには、四・五ボルトあれば良い計算となる。
一〇センチメートルは、心臓の大きさが握りこぶし程度ということを根拠にしている。つまり、心臓の両端に電極を置く意味で、腕から腕や腕から足などよりずっと距離が短い最良の条件だ。
四・五ボルト、わずか乾電池三本だ。そして乾電池は、数百ミリアンペアの電流を取り出せる。電源として充分な容量がある。
次は、筋肉と電極の接触面積一平方センチメートルの実現だ。
注射針の太さはゲージという単位で表し、数字が大きいほど細い。太いもので一八ゲージから、細いもので三三ゲージなどがある。用途によって使い分けるが、よく使うものとしては二七ゲージ辺りだ。ミリでは〇・四となる。
この針を五センチ刺したときの接触面積を計算してみる。直径〇・四ミリ、長さ五センチであるから、〇・〇四×三・一四×五は〇・六三平方センチとなる。
一平方センチに満たない。ひとつの電極に針を二本使えば、一・二平方センチ。簡単化のため一平方センチとする。
通電時間と心室細動電流について、犬の実験データがあった。これによれば、時間が短いほど大きな電流が必要だが、一秒以上は大きな変化は無い。つまり一秒から五秒に通電時間を増やしても、必要な電流は大きく減少することは無い。
情報が多すぎることによる混乱が起きている。犬に関して先の情報では、通電時間五秒では八三ミリアンペアというものがあった。今の情報では、一秒以上は大きな変化が無い、という。個体差もあり、犬種による差もあるかも知れず、犬とは言え豊富に生体実験もできないだろうから、目安と考え、複数の情報があるなら、平均を取るなどで良し、とする。
通電時間は、充分マージンを考慮しても三秒以上は要らない。無意味だ。
注射針は入手しにくいが、注射針の必要は無い。つまり、中空の管でなくて良いのだ。ただの縫い針でも充分使える。中空の針を使用して、その中空を水分や血液で満たせば、更に人体内部との接触面積が増えて抵抗は小さくなるが、今計算したように二本使えば針の外側の面積だけでも充分だ。
針を刺した皮膚の痕跡をどうするか。健康診断時の採血でも、注射痕は残る。針を刺して数分後に心室細動で死亡したら、注射痕は消えずに残る。
鍼灸の鍼の太さは、細い〇号が〇・一四ミリ、太い五号でも〇・二四ミリ。細すぎて、人体との接触抵抗が増えるので使えない。本数を増やしたら痛すぎる。
縫い針は、メリケン針と呼ばれる最も細いもので〇・五六ミリ、長さは三四・八ミリのものがあるが、太いし短い。太い針は、人体との接触抵抗が小さいから、差す深さを浅く出来るが、痛みが大きく、それに傷が残りやすい。
見つけた。ビーズステッチ針、太さ〇・四一ミリ、長さ五四・六ミリ。熱処理を加えて、しなやかで折れにくくしてあるという。おあつらえ向きだ。
アクセサリーショップで買える。少し離れた店で買えば問題無い。一回限りであり、店員の印象にも記録にも残らない。
針と電線との接続はどうするか。針の材質はステンレス鋼であるから、ハンダでは付かない。溶接は素人にはできない。ろう付けもできない。
ステンレスは良導体だから、針との接触抵抗は小さい。流す電流が小さいので、電線は細くて良い。細い電線を針にぐるぐる一〇回から二〇回巻き付けて、その上からハンダ付けする。ハンダはステンレスの針には付かないが、電線を巻いた部分には染み込むので、針と電線は充分に接触する。
鍼は細いので、ほとんど刺した痕が残らないというが、生体なら徐々に消えていくが、死体となれば小さくてもそのまま残る。ましてや、使うのはビーズステッチ針。危険だ。
爺さんに、上半身に怪我をして貰うか。かすり傷でよい。ちょっとした打撲でもよい。針の痕が見えない程度でよい。片方の電極を、怪我をしている部位に刺し、もう片方を、心臓を挟んで反対側のどこかに刺す、という手はどうか。少なくとも片方は、針を刺した痕とは識別できないだろう。
ひとつの電極から、心臓を挟んだもうひとつの電極まで四〇センチ。筋肉の体積抵抗率が一,五〇〇オーム・センチメートルであるから、人体四〇センチの抵抗は六〇キロオーム。
この抵抗に〇・三ミリアンペア流すには一八ボルト。九ボルトの電池を二本直列にすれば得られる電圧だ。
いや、そうではない。人体内部にあるのは筋肉だけでない。血液の抵抗率は一八五オーム・センチ、内部組織なら、わずか八〇オーム・センチというデータがある。
骨は筋肉の一五から二〇倍の抵抗、無いよりは良いが、計算に含めない。皮膚は、ミクロショックに無関係であるから除外する。
血液や内部組織、筋肉の比率が分かれば、人体内部の抵抗はより精密に計算できる。もちろん筋肉質であるか、脂肪が多いかなどの個人差はあるだろうが、筋肉だけの計算より抵抗は小さくなる。
非常に大胆ではあるが仮に、筋肉八〇パーセント、血液一〇パーセント、内部組織一〇パーセントの比率で、これらみっつの並列合成抵抗を計算してみる。
単純に、筋肉、血液、内部組織の並列抵抗なら、一センチで五三・八オーム、四〇センチの距離で二,一五四オームと計算される。よって、〇・三ミリアンペアの電流を流すに必要な電圧は、わずかに〇・六五ボルトとなる。
精密を期して、筋肉を血液と内部組織の合計分である二〇パーセント減らすと、筋肉の抵抗率は二〇パーセント増えて一,八〇〇オーム・センチ。これと、血液の抵抗率一八五オーム・センチと内部組織の抵抗率八〇オーム・センチの合成並列抵抗は五四・二オーム。
抵抗は並列接続が増えれば増えるほど、全体としての合成抵抗は小さくなる。A点からB点に流れる電流の経路が一本より二本、それより三本と、多い方が全体として流れやすくなる。
このうち一番細い経路がもう少し細くなっても、全体に与える影響は小さい。多くは太い経路を通るのだから。一,五〇〇が一,八〇〇になっても、合成抵抗はほとんど増えない。
四〇センチの距離で二,一六七オーム。必要な電圧は、〇・六五ボルト。同じだ。
一・五ボルトの乾電池一本でも、〇・七ミリアンペア流れる。心室細動が起こり得る〇・一ミリアンペアの七倍。確実に心室細動が起こる。
念のためこの時の電力を計算すると、一ミリワットと非常に小さい。通電時間がどれだけ長くても、絶対に熱傷が起きる温度にはならない。
乾電池一本で、人を感電死させられる。
光星はネットの情報に引き込まれて、翌未明四時まで感電を検索、自分なりの検討をした。
そろそろ直一が起き出す時間だ。光星は直一の朝食を茶の間の飯台に用意してから、寝た。
光星はうるさくて目が覚めた。直一が、腹が減ったと騒いでいる。時計を見ると、まだ一一時。昼には早い。
直一には、朝も昼も夜も無い。眠くなればいつでも眠り、目が覚めれば何時でも起き、本を読んだり、新聞を読んだり、テレビを見たり、腹が減れば光星に言いつける。
まだ眠いが、仕方なく光星は布団から出て茶の間に行った。まずは一服だ。目覚めの、数時間ぶりのタバコはうまい。酒よりうまいと思う。酒は止められても、タバコは止められないだろうと思う。
光星は冷蔵庫からうどんを出してゆでた。生卵を落として、ご飯を添えて直一と自分の昼食を用意した。
炭水化物ばかりだが、光星も直一も気にしない。ふたりともメニューや栄養より、できるだけ簡単に食事の支度をすること、あるいはとにかく腹を満たすことが優先なのだ。
直一は、うまい、と言う。ごちそうだな、とも言う。食に対しては、光星に感謝の気持ちを表明する。何を出しても、文句は言わない。食、即ち第一に優先される本能を満たしてくれるのが光星だからか。
昼食後、光星は久しぶりにトイレ掃除をする気になった。月に一回もやるかやらないかのトイレ掃除だが、臭いと便器の手前に敷いてある直一の小便吸収用ウェスの汚れが余りに気になったからだ。光明が毎週日曜に掃除機を持ってきて部屋掃除はしてくれるが、トイレはやらない。
上から行く。ゴム手袋をはめて、掃除用シートで水タンクを拭く。埃は直ぐに取れた。擦る毎に汚れが少しずつ落ちてきた。蛇口から水が落ちるところの水垢は、スコッチブライトで擦った。
次に便器だ。アンモニア臭い。便器だけでなく、床からも臭気が立ち上っているはずだ。全く、臭い。便座が乗る面とその少し内側に、茶色い汚れがこびり付いている。これを落とすために、スコッチブライトを買ってある。惜しみなく交換しながら擦る。
汚れは落ちた。次に掃除シートで拭き取る。
便器の内壁に、洗剤をたっぷりとかけた。直ぐには水を流さずに、洗剤をそのまま付着させておく。そして、便器の外側を床まで掃除パッドで拭く。こびり付いた汚れにはスコッチブライトを使う。
額の汗が目に入る。
最後は床だ。敷いてあったウェスをレジ袋に入れる。腐りかけている床を、掃除パッドを何度も替えて拭いた。手の届く範囲で便器の奥の方、水洗タンクの下の床まで拭いた。
直一の尿から来る悪臭から、光星は子供の頃、家には牛がいたことを思い出した。
農耕用の牛、よその家は耕運機だったり、トラックを持っている家もあったが、俺の家は貧乏だった、爺さんは牛に鋤を引かせて田や畑を起こした、今は耕すと言うのか、作物を運ぶのは牛車だった、牛小屋があって、時々敷き藁を替えてやらなければならなかった、牛は小屋のどこにでも糞をするので、敷いてある藁は糞まみれだ、その藁をホークで掻き出し、新しい藁を敷いてやるのだ、掻き出した藁は堆肥にする、爺さんの長靴は糞まみれになる、それも農作業の一部だった、婆さんも爺さんと一緒に農作業をやり、家事をやり、俺たちを育ててくれた、爺さんは青森で漁船に乗っていたが、文字通り命懸けの仕事だった、知り合いが何人も海で死んだ、光陽が生まれ、光明が生まれて、子供を残しては死ねないと漁船を辞めて網代浜に戻って農業を始めた、そして俺が生まれた、漁船で機関長だった爺さんが、牛の糞を片付けるような生活をして俺たち子供を育ててくれた。
その爺さんを、俺がもう少し面倒見てやろうか。この臭いにおいに免じて。この臭いにおいを、爺さんが俺を育ててくれた香りに格上げして。
しばらく、だ。しばらく。いつまでできるかは、俺も分からない。
(終わり)
テーマ 循環
タイトル 父の透明な遺産
母
「皆様、本日は突然のことにも拘わらず、母、堀岸子にご弔問いただき、ありがとうございました。母は青森の出身で、縁ありまして新潟で父と農業を営んで参りました。体は丈夫な方でしたが、三年前にホジキンリンパ腫を患いまして、一時は余命宣告もありましたがよくがんばり、がんが消えたという検査結果が出たこともありました。しかしとうとう一五日に息を引き取ることになりました。いくらか呼吸が辛そうな様子はありましたが、痛みは無かったようで、穏やかな最後でした。満八四歳でした。生前母に戴きました皆様のご厚情に厚くお礼を申し上げます。心ばかりですが酒肴の用意をしてありますので、お時間の許す方には母の思い出話などを聞かせていただければと思います。あいにくの天気にも拘わらず、皆様本当にありがとうございました」
「不動院様、御寺院様、お陰様を持ちまして母の葬儀一切を滞りなく終えることができました。どうもありがとうございました。ご会葬の皆様、大変お忙しい中、また遠いところおいで戴き、どうもありがとうございました。『人を憎むことを知らない女だった』というのが、今朝の、母に対する父の言葉です。加えて、何事にも動じない、半世紀以上前の貧しい生活にも、過酷な農作業にも、我が儘な父にも、自分の病気に対してさえも動じない、強い母でした。皆様には今しばらく粗酒粗肴と共に、母の供養をして戴ければと思います。本日は本当にありがとうございました」
私は自分の声が小さいことを自覚していて、しかも低音でもあり、マイクはあるが自分なりに大きめの声で手帳に書いた通夜と御斎の挨拶を読んだ。
喪主は父であるが、認知症のため長男の私が挨拶することになっていた。葬儀場から貰った挨拶文のサンプルはいくらか参考にはなったが、核心は、期せずして聞いた今朝の父のひと言だった。お陰で、ほぼオリジナルの挨拶を考える事ができた。
御斎は続いている。
各テーブルを回って挨拶を終え、自分の席に戻って母を思い出してみる。
悲しいほど、また腹立たしいほど認知症の進行した父が、あの様な言葉を吐くとは、驚いた。読書や映画を愛してきた父だが、あれほどしゃれた言い回しをするとは。六十年以上も母の息子をやってきて、父に言われて初めて気付いた母の真実だ。
父と母は青森で結婚し、私が生まれ、長弟が生まれた。その直後、漁船の機関長だった父は、知り合いが何人も遭難する現実に憂慮し、子供のために死ぬわけにはいかない、と新潟に帰ってきた。新潟では農業に従事し、次弟も生まれた。
父は北見家の次男に生まれたが、父の母の妹の嫁ぎ先である堀家に男の子が生まれず、養子に行った。
私が物心ついたときには、堀家の母、つまり父の叔母でもあり、養子に入ったので母とも呼ぶべき人が同居していた。従って母には、別居ではあるが父の実の母と、同居する父の養子先の母と、実際上ふたりの姑がいたと言える。
加えて、農作業という過酷な労働があった。父が青森で漁船に乗っていた頃は、歩合を含めると大学教授並みに稼いでいたとか、私が生まれるときは病院で一番の部屋に入院したという様なことを聞いた記憶がある。それに比べれば、非常に厳しい生活だったと思う。
ふたりの姑と農作業以外にも、聖籠村の閉鎖的な慣習、言葉が通じないことなど困難は多々あったと想像される。それでも母は六十年以上に亘って、父と共に人生を成し遂げてきた。
父は母とは再婚で、前妻との間に子供がひとりいると、昔父の姉から聞いたことがある。離婚した理由は知らないが、きっと母は父の先妻には無い何か、とてつもない心の強さを持っていたのではないか。
それとも何か、感受性のようなものを持っていなかった、と言った方が正しいのだろうか。
心の強さを持つことと感受性を持たないことは、同じ事かも知れない。高校生の時弁当のおかずに、さきイカに醤油をかけたもの一品だけが入っていたことがあった。さきイカはおかずにならない、というのが一般の経験であり、常識であり、味覚である。
二、三年前に帰省した折りさきイカの話が出て、母は「その時にあるものを入れたんだ」と平然と言った。その時、私より十歳下の次弟である陽淳も同じ経験をしたと聞いた。
十年経っても同じ事をやり、十年経っても貧しかったのだ。そして、さきイカで良い、という心の強さ、それとも、さきイカでも良い、という感受性の無さ。
感受性がかわいそうなら、センスと言い換えてやろうか。センスの無さ、どうして弁当のおかずがさきイカなのか。しかも、醤油が染み込んで塩っぱかった。
しかし、醤油が染み込んでいるだけましか?醤油がかかっていなかったら、おかずには更に遠い味だっただろう。でも私は、その醤油をセンスとは絶対に認めない。弁当にさきイカが入っていたことが、直ちにアウトである。
母は女ながら体力があった。父と一緒に農作業をやり、農閑期は土方で道路工事などをやって現金を稼いだ。その現金が、昨日出てきた。通夜が終わって実家に戻った母の妹ふたりが、葬儀のあとに祭壇を飾るために、仏間などを片付けて掃除をしてくれた。その時、母の給料袋が出てきて、明細と共に古い一万円札が入っていた。
日給は三千円、月に七万円ほどの給料を使わずに、預金もせずに、タンス預金していた。十万円ずつまとめて、全部で二百万円近くあった。よくも貯めたものだ。よくも使わずにいたものだ。充分に我が家は貧しかったと思っていたが、使わない余裕があったということか。それとも万が一の最悪の事態に備えて、蓄えていたのか。
しかし、誰にも言わず、預金もせず、あっちこっちに分散して、自分でも全部は覚えていなかったのではないか。ホジキンリンパ腫で抗がん剤を使う段階で、自分の近い未来を予測できたろうに、そのままにして、もし叔母が見つけてくれなければガラクタ遺品と一緒に廃棄されていたはずだ。
私はエンジニアでスピリチュアルなことは信じもしないが、これを見つけたのは姉妹の強い心の絆ゆえ、としておこう。そんな母であり、そんな母の妹たちだ。
ふと、つまらないことが頭に浮かんだ。私が高校生の頃弁当にさきイカを入れた母が、晩年は医療費にも老人ホーム費用にも葬儀費用にも子供達に迷惑を掛けず、むしろ幾ばくか残して逝ったことと、弁当にハンバーグが入っていても、葬儀費用を残さないどころか老人ホーム費用さえ持たない親と、どちらが良いか。疑いもなく、前者。
今更、さきイカを恨んでもタンス預金を褒めても意味は無いが、強い、良い母だった。
私はひとりで、母に献杯した。
父
認知症に冒されている父。母に対して、一緒に居た介護施設では「死んでしまうということがあるか」と嘆き、葬儀場では「先に逝くとはどういうことだ」と悲しみ、火葬場では「さようなら」と声をかけて見送った。時には四十五年も前に亡くなった自分の母の死と混同してもいたが、時には自分の妻の死であることを認識してもいた。
葬儀が終わって家に戻ってきた。父は、葬儀屋が仏間に飾った母の祭壇を見ることもなく、四ヶ月ぶりの帰宅を喜んでいる。
夕方になり施設に戻ってもらおうとするが、どうしても戻らないと言ってきかない。
長弟の陽俊の妻、幸さんは、認知症になる前から父が最も信頼しているひとだ。六十台で心臓を悪くしたとき、いつも病院に連れて行ってくれる彼女に申し訳ないから、ときっぱり酒もタバコも止めた。認知症になってからも、ただひとり彼女の言うことだけは聞いている。実の息子三人が叶わない。
その幸さんが強く懸念したのは、今日施設に戻らないとずっと戻らないかも知れない、ということだ。一番父を知っている彼女がそう言うのは、きっと正しい。ただ息子としては、母の葬儀を終えた今晩だけは家に居てもいいのではないか、という無責任な甘えた考えを持っている。
そのあとどうするのか、結局頼るのは彼女しかいないにも拘わらず、彼女の心配を無視することにためらいはあったが、陽俊も陽淳も私も、ついには父に負けた。父は久しぶりに自宅で寝た。
翌日、父は母の死をすっかり忘れていた。あるいは自分にとって苦痛な妻の死という記憶を、どこかに封止したのではないだろうか。施設で看取り、葬儀場で一緒に三晩寝泊まりして通夜と葬儀を行い、火葬場で最後の別れをして、昨日実家に戻って一夜明けただけで、母の死がどこにも無いのだ。
父に施設に戻ろうと言うが、ここが良いと言う。それはそうだろうが、それでは周りが困るのだ。両親が施設に入るまで同居していた陽淳が仕事に行くから、泊まりの時もあるから、食事の支度をしてやれないから、施設に戻って欲しいと説明するが「大丈夫だ、それくらいできる」と言う。
陽淳から聞くところによれば、買って来た魚をパックのままガスレンジに入れて焼こうとしたことがあったという。へたをしたら火事になる。火事は周囲の家にも迷惑どころでは済まない。一番恐い。
陽俊と陽淳と相談して、昼前にみんなで出掛けよう、昼過ぎに帰ってきて、父が腹が減ったと言ったら、それなら施設に行こう、と説得することにした。
なんとひどいことをするのか、という気持ちはあるが、他に思い付かない。理屈では納得させられない。腹が減ったらわかるだろうとは、余りに親を侮辱するやり方だが、そうしなくてはならないのは認知症という病気のせいだ、と自分に言い訳する。
私たちは二時半に家に戻った。父は腹が減ったとは言わず「婆さんのところに見舞いに行く」と言いだした。
母と一緒に施設に居ることは父にとって、入院している母の付き添いであったり、旅行で旅館に滞在していることであったりした。その時々の父の理解に、周りが合わせてきた。
「明日は帰る」と言いながら、翌日になるとまた「今日一日だけ居て、明日は帰る」と言う。自分は母と一緒に施設に居る、とは理解していない。昨日泊まって、今日もう一日泊まるが明日は帰る。つまり、一昨日もその前も居たとは認識できず、毎日記憶がリセットされるのだ。
今は、母が入院していて自分が見舞いに行く気になっている。これは良い機会だと陽俊とふたりで、父を次第浜の施設に連れて行った。
「お帰りなさい、好雄さん」すれ違う職員がみんな声を掛けてくれる。「こんにちは、好雄さん」父は声は返さないが、右手を挙げて挨拶している。
ひとりの職員が陽俊に目配せをした。そして、父に気づかれないように手招きした。私は父と一緒に母の部屋へ行く。
部屋に、当然ながら、母は居ない。途端に父は不快な声を上げる。「婆さんはどこに行っているのか」
母が亡くなったことを覚えていない。これは、認知症のメリットと言って良いのか。六十年以上連れ添った妻の死を、知らないのだ。だから、悲しみも苦しみも無い。今ここに居ない落胆と、せっかく見舞いに来たのにどこに行っているのか、という苛立ちだけがある。
父にとって今は、ここは母の病院であるから「検査に行っている」と言っておく。だが、五分と待てない。生来の気が短いのもあるが、時間の感覚も欠如している。「いつ帰ってくるのだ、まだか」と、ほぼ一分毎に言う。
今度は「風呂に入っている」と言ってみた。「さっき行ったばっかりだからまだ時間がかかる、待っていればそのうち帰ってくる」と。
父に何度も何度も繰り返されると、認知症のせいである事をつい忘れて、私も苛立ってしまう。父の声が聞こえない振りをしたり、あるいは「直ぐ帰ってくるから」と、つい声を荒げたりもしてしまう。
数日前に妻を亡くしたばかりの父に、なんという対応をしているのか、と思う。同時に、なんということだ、とも思う。父はどうしてこうなってしまったのか、と思う。ここまでになっても人は生きていかなければならないのか、と思う。この先どうなるのか、と思う。
顔も声も所作も間違いなく父だが、中身はもう父ではない、と思う。母の葬儀で帰省しただけの、ほんのわずかの時間に父に腹を立てる自分は何なのか、と思う。六十二にもなった自分が九十五の父にもっと優しくできないのか、と思う。
それでも、やっぱり腹が立つのだ。幸さんと陽俊と陽淳、よくも介護してきたものだと深く感謝する。
父に気持ちを引かれたのか私自身も、いつまで待てば良いのか、と感じてきた。陽俊は職員と何を話しているのか、もう二十分経った。父をひとりにできないし、どこで陽俊と職員が話しているかも知らないから、このまま待つしか無い。いつまで待てば良いか分からずに待つのは辛い。父の気持ちが良く分かる。
自分もイライラしながら、父をなだめながら待つこと更に五分。ここまで来ると五分が長い。
陽俊を呼び止めた職員が来た。陽俊はいない。職員が「好雄さん、食堂でお茶を飲みましょう」と誘い、三人で向かった。
歩きながら職員が小声で言った。「陽俊さんはこのまま好雄さんに会わないようにします。堀さんもしばらくしたら、好雄さんに気付かれないように帰って下さい。あとは何とか我々が対応してみます」
きっと職員が言うような対応、方針を陽俊と相談したのだろう。どうなるか分からないが、ここはプロである職員に任せるしかない。
父がトイレに行った隙に、陽俊と私は施設を出た。この瞬間だけは父を騙したことを心苦しく思う。だが、家で面倒をみてやれないから施設に世話になっているのが現実だ。なんとかこのまま、父にはここに居て欲しい。6/9/2021
陽淳の精神が限界だ。要介護者を施設に入れるのは、要介護者のためだけではなく、介護者のためでもあるのだ。要介護者が家に居たい気持ちは良く分かる。例えば私が楽しみの旅行に行っても、帰宅するとほっとするのと同じだ。誰も皆、自宅が一番だ。
現状の社会の制度や税金の使途が素晴らしく良いとまでは言えないが、認知症の親を子に代わって世話してくれる施設が存在して、そこを補助することは税金の有効な使途だと思う。
時おり陽俊がラインで、横浜に住む私に父の様子を知らせてくれる。父は毎日記憶がリセットされ「今日だけ泊まって明日帰る」と言いながら、あの日以来ずっと施設にいるという。
母のことは尋ねない、とのこと。きっと、うっすらと母の死を認識しているが、それをはっきりさせるのはまずい、という自己防衛機能のようなものが動作しているのだろう。もっと根源的な、自己保存のための動物的本能と言った方が適切だろうか。
三年前に帰省したとき、父は「俺はもんぼれてしまった」、「頭がおかしくなってしまった」、「ばかになってしまった」と何度も言っていた。記憶力の著しい低下に対する自覚は間違いなくあった。
二年前に帰省したとき、たまたま納税通知書が配達され、父は通帳と印鑑を探して郵便局に現金を引き出しに行こうとした。しかし、通帳が見つからなかったり、印鑑が見つからなかったりした。口座は農協、銀行、郵便局とあり、印鑑も複数あるので、郵便局に必要なのはどれなのか分からなくなっていた。
父がそれと思うものを上着のポケットに入れ、出掛ける前にポケットから出して、これが通帳、これがハンコ、と確認する。何度も、何度も、確認する。確認したことを直ぐに忘れて、あるいは心配になって、また確認する。
その時も「俺は、呆けてしまったようだ」と言った。見ていて、涙が出そうになった。
機関士の免状を取得して、漁船の機関長をやる程度に頭を使っていたのに、歳を取るのは仕方ないことだが、残酷な事だと思った。
家から道路を渡って直ぐのところに郵便局がある。私が子供の頃、当時の局長が「北緯三十八度線上にある郵便局」と言っていた。今思えば、北朝鮮の拉致やミサイル、韓国の外交や歴史認識には目に余るものがあるが、一般市民が三十八度線で分断されている悲劇を自局のキャッチコピーにするのは、随分とセンスが悪い。
父は脳梗塞の後遺症で左足を引きずって、郵便局に行って帰ってきた。そして「貯金がおろせなかった」と言った。不機嫌だ。印鑑を間違えたのかも知れない、と私は思った。
ところが幸さんから電話があって、税金や公共料金は幸さんが通帳を預かっていて、振り込みや振替手続き済みであるという。郵便局から幸さんに電話をかけて、幸さんから父の家に電話が来たのだ。郵便局の職員は父が認知症である事を知っていて、陽俊の妻に連絡をしてくれたのだ。
今の郵便局は顧客満足の実現に、随分とセンスがある。いや、とてもありがたいことだ。
父が認知症になるまで長生きして、九歳も若い母ががんで先に亡くなった。どちらが先で後だから良いというものではないが、酒、たばこをやり、胃潰瘍をやり、狭心症をやり、脳梗塞をやり、それでも認知症になるまで長生きしている父。頭も体の一部だが、体の不調がいろいろあったにもかかわらず、頭の方が先に音を上げたということか。
母の晩年、父は母が病気である事を理解できなくなっていた。施設に入る前、家で母が寝ていると「婆さんはどうして起きてこないのか」、「寝てばっかりいておかしい」、「怠けている」などと言って怒っていた。母は頭がしっかりしていたので、父の言葉がつらかったと思うが、愚痴はこぼさなかった。
母にとって父は、最高の夫とは言えなかったと思うが、父にとって母は、最高の妻であったと思う。
父は先妻に子供がひとり居て再婚、母は初婚。父が何故離婚したのかは知らないが、母は父と六十年以上を添い遂げた。結果だけ見れば、最初の妻が為し得なかったことを母は成し遂げた。
農業という過酷な肉体労働、報われない貧しい生活、気短な父、どうやらうまくいかなかった父の養子先の姑との関係、我々三人の子の育児、父の実の母の介護、他にも私の知らないことは多々あっただろう。
ともかく、父とふたりで堀家を維持継承してきたその貢献は計り知れない。母だからこそできた、母でなければ到底できなかったことだ。
私が子供の頃、東港開発でいくらかの農地が売れた。その金で少しは楽な生活をすれば良かったものを、家だけは建て替えたが、あとは我々子供達に残した。
建て替える前の家は囲炉裏で、屋根に煙抜きがあって、そこから雪が室内に落ちてくることがあった。トイレは家の外にあった。風呂はドラム缶の様な金属の缶、その後は木桶で、家に接続している土間にあった。
さすがに、そんな家だけは私が小学生の時に建て替えたが、あとはどうしても売らなければならなかった農地については、金ではなく代替地を求めた。「先祖の土地を俺は売らないが、あとはお前達三人が好きにすれば良い」が父の口癖だった。そのことに、母はひと言も口を差し挟まなかった。
母もまた父に輪を掛けて贅沢を求めない、むしろ忌避するような性格だった。母の父は鉄道員で、それなりの育ちをしたと思われる。また父と青森で生活していた頃は専業主婦で、父には充分な稼ぎがあったと聞いている。それでも母は倹約家だった。
認知症の故ではあるが、父はそんな母を忘れて、病気を理解せず、母に不満をぶつけていた。
父が左足大腿骨頸部骨折で入院したと、ラインで陽俊から連絡があった。大腿骨頸部、正確には知らないが大腿骨付近、あるいはその一部、いずれにしても腰に近い腿のあたりで大変な部位だと想像できる。
翌日、手術は無事終わったがおそらく車椅子生活になるとの医師の見解だ、という連絡が続いた。
施設から、状況から床にこぼした尿で滑って転んで骨折したと考えられる、とのこと。トイレまで歩いて行かずに済む様に、父の部屋には簡易トイレが設置されていた。職員が部屋を見たとき、父は唸りながら立ち上がろうとあがいていたという。
痛みはどれほどあったのだろうか。認知症は、父から、母を亡くした記憶を奪ってしまったようだが、肉体的な痛みも少しは和らげたのだろうか。
次第浜の施設は、とても良く入所者の世話をしてくれるところだ。母が亡くなったとき、母を担当してくれた職員が何人も母の部屋にさようならを言いに来てくれ、涙を流してくれた。母の死後、父を騙すようにしてまでも引き取って、今回の骨折するまで一年近く対応してくれた。
時には、父が唯一信頼して言うことを聞く陽俊の妻、幸さんの真似をして、わざわざ職員の携帯から事務所に電話をして父を呼び出し「今日一日だけそこにいて下さい」とか「これから顔を見に行くので待っていて下さい」ということまでやってくれたという。頭が上がらない。
父の骨折は、施設や制度ではなく現実の限界の故だと思う。ひとりの入所者に、ひとりの職員が張り付くわけには行かない。起きている間、ずっと見守ることはできない。
陽俊から頻繁にラインが来る。手術の麻酔から覚醒した父は、トイレに行こうとしてベッドから降りようとする、導尿しているのでトイレに行く必要は無いし、歩ける状態でもないが、説明しても直ぐに忘れ、骨折したことさえ覚えていない、点滴を抜こうとするので、ミトンというのか、指を自由に使えなくするような手袋もした、という。
父は二週間後に退院して施設に戻ったが、翌日再入院した。食欲減退、急性胆嚢炎、肺炎、肝臓機能低下、脱水症状、感染症があるという。
色々病名が付いたが、食欲の低下が最大のダメージのような気がする。父は歳を取ってからも食欲旺盛だった。むしろ私の方が小食で「体の具合が悪いのか」とよく心配されたほどだったから、その父に食欲が無いのは、急激に体力を失うのではないかと心配だ。
再入院後もトイレのためにベッドを出ようとするので、やむなく鎮静剤で眠らせることになった。説得や押さえつけることは、父を興奮させ、心臓に負担を掛けるのだという。
点滴する鎮静剤は、強すぎては心臓に負担となり、弱すぎては覚醒してトイレに行く、点滴を引き抜く、となるので調整しながらだ。
病院からいつどうなるかなんとも予測できないと言われたから見舞いに来てはどうか、と陽俊からラインがあり、帰省した。
難しい状態なので家族が病室に泊まっても差し支えないとのことで、陽俊、幸さん、私と交代したが、とても疲れる。父は二十四時間眠ったままであり、付き添う張り合いも無い。
数日後に看護師から「今までは安定していて眠っている、但し今後を保証するものではない、でもずっと付き添うのも大変でしょうから帰宅するのであればそれも結構、もし何かあれば夜中でも連絡する」と言われ、ありがたく受けた。
橫浜に戻った日の翌日午前二時、陽俊からの電話で起こされた。父が死んだとのこと。人生ではマーフィーの法則のようなことを稀に経験する。陽俊は今から病院へ行くという。
母の時は、私が施設の部屋に泊まり、明け方おかしな呼吸が始まったことを職員に知らせ、家族を呼んだ方が良いと言われ、父と我々兄弟三人に幸さん、親戚の婆さんが看取った。
父の時は、誰も一緒に居てやれなかった。一週間鎮静剤で眠ったまま、ひとりで逝った。
食塩やブドウ糖などしか含まれていない六百CCの点滴を一日三バッグ、これではいくら眠っているだけとは言え急激に体力を消耗し、長くは持たないだろうと想像はしていた。再入院の時点で複数の病名もあり、時間の問題でもあったのだろう。一週間を二週間に延ばし、一ヶ月にしたところで、意識無く眠っているだけでは、生きている意味が無い。本人にも無いし、家族にも無い。これが子供だったり、若い人なら家族は辛いだろうが、父は九十五歳、よく生きた、もう楽になっても良い、と納得できる。
「皆様、本日は突然の事にも拘わらず、父堀直一の通夜にご参列戴き、どうもありがとうございました。父は小学校しか出ておりませんが、近所に住む中学生に分数を習いながら、船の機関士の免状を取得し、青森、北海道、樺太近海で漁船の機関長として漁業に従事しておりました。しかし、私が生まれ、長弟が生まれた頃に、友人が何人も遭難する危険な職業に見切りを付け、新潟に戻り、以来、農業を営んで来ました。稲作が主体でしたが、畑では、その時々に求められた菜種、タバコ、西瓜などを栽培してきました。作物が違う毎に、勉強や工夫が要求されたことと思います。漁業と農業という激しく厳しい労働によって、新潟で生まれた末弟を含めて、私ども三人の息子を育て上げました。そして六人の孫を得ることができ、晩年は平穏であったと思います。満九十五歳でした。人の人生はその長さだけで評価されるものではありませんが、皆様のお陰もありまして、その内容においても、その年齢においても、父は自分の人生を生ききったと思います。心ばかりですが、酒肴の用意をさせて戴きましたので、お時間の許す方は、今しばらく父を偲んで戴ければ幸いです。本日はお忙しい中、本当にありがとうございました」
「不動院様、御寺院様、お陰様を持ちまして父の葬儀一切を滞りなく終えることができました。どうもありがとうございました。ご会葬の皆様、大変お忙しい中、また遠い所おいで戴きどうもありがとうございました。父の人となりを振り返ってみますと、子供に対しては母より甘いところが合ったと思います。中学生の頃、主に経済的な理由から反対する母を押し切って、カセットラジオを買ってくれたのは父でした。高校生の時は、通学のために佐々木駅まで自転車行くのは大変だろうとオートバイを買ってくれたのも父でした。但し、学用品として買ってやるのだから無茶はするなと釘を刺す厳しさはありました。父は酒と煙草を愛しておりましたが、病気を機に、いつも病院に連れて行ってくれる私の弟の妻に申し訳ないからときっぱり止める、自分を律することもできる人でした。ここに含めるには少し異例かもしれませんが、通夜、葬儀全般の調整をしてくれて長弟夫婦とそれを縁の下から支えた末弟に感謝したいと思います。皆様には今しばらく粗酒粗肴と共に父の供養をして戴ければ大変ありがたく思います。本日は本当にありがとうございました」
母の時は父の代理であったが、今回は喪主として通夜と御斎の挨拶をした。
「孫達にお義父さんの人生を知らせることができて良い挨拶だったと思います」と言ってくれたのは幸さんだった。
初対面
五月に行われた父の四十九日法要の際、初盆の読経は住職の都合とこちらの希望を調整して八月五日の朝一番と決めた。盆までには一週間以上あるが、檀家がどれほどあるのかは知らないが、八月は寺の繁忙期であるからやむを得ない。
四日、私は妻の和代を伴って横浜から帰省した。夕方、陽俊のアレンジでもうひとりの相続人と面会することになっている。
昨年五月に母がホジキンリンパ腫で亡くなり、続いて今年四月に父が心筋梗塞で亡くなり、相続が現実問題として出現した。
両親には、長男である私陽史、次男陽俊、三男陽淳がいる。そして父には、先妻の子がひとりいる。
先妻の子である姉は先月、父に線香をあげに来てくれた。聖籠町の公報で父の訃報を知ったとのこと。その時、網代浜に在住する陽俊と陽淳は姉と面会している。そして初めて、姉の名前が五十嵐マリ子であると知った。
姉は網代浜から直ぐ近くの蓮潟に住んでおり、相続の件もあるし今回の帰省で一度会ってはどうかと陽俊が私に提案した。
約束の四時ちょうどに姉が実家に来た。玄関で挨拶をして仏間に上がって貰う。6/10/2021
長男が一緒で、夫は所用があるのだという。こちらは兄弟三人と和代が同席した。幸さんは外せない仕事があるとのこと。
私は初めて会う、姉。姉がいることは二〇代初めに叔母から聞いていた。だが、父も母も話してくれたことは無かった。私からも訊くことは無かった。それほどの興味が無かった。少なくても私には弟がふたりいたから、それ以上兄弟姉妹を求める気持ちは無かった。
逆に姉からしたら、兄弟姉妹を求める気持ちはあったのだろうか。
姉は声も大きく陽気な性格のようだ。姉は私が父に似ていると言うが、私には姉が父に似ているか、それとも似ていないか、分からない。
姉は、母にボーイフレンドができたこともあったが、私は嫌だった、それで母は再婚しなかったとか、実家はまぁまぁ豊かだったが、雑貨屋を開業してそれがどんぶり勘定で農地の多くを売る羽目になった、ということなどをあけすけに話す。
悪い人ではない様で安心した。場合によっては姉弟付き合いをする事になるのだから、少々の不安があったが、ほとんど霧消した。
会う前は、合わないようなら無理に合わせる必要は無く、今後の付き合いは無くても良いと考えていた。同時に、せっかく姉がいるのだから、しかも生まれてから一度も会わずにいたのだから、できることなら仲良く付き合って行ければ良い、とも考えていた。
今は、私の場合は、父母が他界した今後は年に一回の帰省になるであろうが、亡き父の繋がりであり、相応しい交際を望みたい。しかし、まだ遺産相続の話はしていない。それでこじれたら、今後の交際は一切無くなるかも知れない。
相続の話は長男である私が切り出すことにしていたが、タイミングが掴めないまま一時間経過して、そろそろ五時になる。姉が予約してあるという網代浜の居酒屋で夕食を摂ることになった。体調が優れない陽淳と妻の和代は遠慮して、四人で向かった。
六十二年目にしての姉との初対面が第一幕、続く第二幕は相続の相談だ。要求ではない。要請に近い。議論はしたくない。説得になるかも知れない。争いではなく融和を求めている。私たち兄弟の都合や感情を優先していることの自覚はある。
亡き父と母の気持ちの忖度、姉の真情、姉の亡き母親の心情、私たちの欲望、それらが私の心を乱す。姉が父に線香をあげに来てくれた先月以来、姉への相続をどう処理したものかという迷いが、罠にかかった獣が檻の出口を探しても探しても見つけられない様に、ぐるぐる巡っている。
案内されたテーブルは個室の掘り炬燵形式。姉は「照明が暗い」と率直に言い、店員に「明るくなりませんか」と尋ねた。店員は「申し訳ありません、できないんです」と答えた。姉は思ったことはためらわずに言う性格のようだ。尤も、この程度のことで性格判断ができるものでもない。
次に姉はメニューを広げて言った。「さあ、好きなものを頼んで。私は炭水化物抜きで、ビール。みんな飲むでしょう」
直ぐに息子に向かって「あんたは運転するからダメ」
きっと自分は最初から飲むつもりで彼を連れてきたのだろう。きっと彼もそれをわかっていて。微笑ましい親子だ。
「炭水化物抜きでビールは、意味が分からない」と彼が突っ込みを入れる。
「私、ハワイアンをやっていて、いつの間にか古い方になってしまって、新しい人に示しがつかないから、気持ちだけでもダイエットなの。長いことやっているから上のクラスに行ってもいいんだけど、なんとなく今のクラスに留まって、ちょっと仕切っているみたいな感じなの」と言い訳するように言った。
新潟市内にあるハワイアンの教室に行くときは、自分で運転していくという。私より六歳上で六十八歳、年齢の割にはアクティブな方だろう。少なくても、精神的には若い印象を得た。
四十年位前に一度父を訪ねて、仕事で売っていた健康食品を買ってもらったことがあったという。その時、母と陽淳にも会っているとのこと。
四十年前なら、陽俊は東京で仕事をしていて、帰省は盆と正月くらいだ。私は船に乗っていたから、年に三ヶ月程度の陸上休暇中は家にいたが、乗船中だったのだろう。陽淳は十二歳か。
先妻の子に会った時の父は、何を思ったのだろうか。我々三人の兄弟には姉の存在を一言も話さなかったのだから、実の子とはいえほとんど交際も無く、きっと数十年ぶりで会ったのだと思う。あの父だからネガティブな感情など持つはずもなく、要、不要に関係なく喜んで健康食品を買ってやったのだろう。
その時の母は、何を思ったのだろうか。『人を憎むことを知らない女』は、幼くして父の存在を失って、今、数十年ぶりに邂逅した親子を不憫に思ったのだろうか。姉に何かしてやったのだろうか。なにか、ほんの些細なことかも知れないがしてやったような、そんな気がする。息子の弁当にさきイカを入れる母ではあったが。
姉の話が続くので、遺産の件を言い出すタイミングが掴めない。
いつ言い出そうか、どう切り出そうかと、半分はそちらに気を取られ、上の空で姉の話を聞き、相槌を打つ。
陽俊とは二度目であるが私とは初対面であるにもかかわらず、姉は次から次へと話題を変えて話を続ける。今度は名前の話になった。
父は、本当は真理子、真理の子と命名したのだが、役場に届けに行った父の養子先の母が窓口で字を訊かれて、でもカタカナしか読み書きできないため、マリ子と登録されてしまったのだという。その話は父から聞いたのだろうか。それとも、彼女の母から聞いたのだろうか。そんな、父との一瞬ではあったかも知れないが、深い関係性も存在したのだ。
父は自分の名前を気に入っていなかった。男に好きという字はそぐわない、と信じていた。明治時代の農村、父の母は文盲であったし、父の父も人並み以上の教育は受けていなかっただろうからやむを得ないようなことも言ってはいた。だから、子供には本人が誇れるような名前を付けた、と思っていたようだ。そして、それは正しい。
我々三兄弟の名前には陽という字が共通している。
長男の私は陽史。陽は日の光、ポジティブ。それに歴史の史。込めた思いが分かるような気がする。
次男は陽俊。俊は俊敏、俊才。
三男は陽淳。淳は情に厚い、素直という意味がある。
陽の字は三人に共通して、兄弟の絆の強いことを願ったのだろう。だが、三男だけ読み方を違えてある。私とは十歳違う三男は、歳を取ってからできただけあって、ひとしおかわいかったのではないか。
喋るのが好きな陽俊が姉の相手をしている。息子は無口だ。そして私は、相続の件を話すべくタイミングを伺っている。
昨日までに、どう説明して、結論として二百万円が現実的なところである、というところまで考えては来たが、未だに切り出せずにいる。
納得してくれるのか、落胆するのか、喜んでくれるのか、辞退するのか、話してみなければ分かるはずも無いことが、頭の中で循環する。
姉は息子の話を始めた。県高(新潟高校)から早稲田、しかし規定の四年より少し多い年限を学んだと。姉に「お前には随分投資した」と言われた息子は苦笑した。
そして娘も有名大学を卒業したそうで、自分の子供達に誇りを持っているところに好感を持てる。
ところが、今度は夫に関する愚痴が始まった。でも自分は親の離婚で色々つらい思いをしたから、絶対に離婚するつもりは無い、と言う。六十年以上も前、実家は経済的には豊かな方であったとのことだが、父が居ないさみしさや母のボーイフレンドの存在など、私には想像も付かない悲しみ、悩み、寂しさがあったのだろう。
姉
とうとう陽俊がしびれを切らしたのか、遺産分与について口火を切った。
「兄貴はご覧の通り口下手で。僭越ですが私から話をさせて貰いますが、親父の遺産の分割ですが・・・」
姉の表情が変わった。話をする顔から、話を聞く顔になった。
「兄弟で相談して、結論から言いますが、五十嵐さんに二百万円受け取って貰いたいと思っています」
「あら、そんなつもりは無かったのよ。そんな、悪いわ。何か、書類があるなら必要かと思って、印鑑、今日持ってきたのよ。必要だったら言って」
そうなのか。ほっとした。思い悩むことは無かったのか。脱力。いや、解放感。
考え過ぎていた。父が亡くなったことを町の広報で知って線香をあげに来てくれたが、自分の存在を知らせるべくの登場、遺産分与を求めてきたのか、との卑しい懐疑心があった。姉の当然の権利であるにもかかわらず。
どれほどなら納得してくれるのか、法律に従って四分の一を求めてくるのか、あるいは父の愛を得られなかった分だけむしろ上乗せを相談してくるのか、との浅ましい危惧があった。
姉には四分の一の権利がある。明確に要求されたら、こちらは説得するつもりでいた。
法の規定は措いて、人には感情がある。姉の感情もあり、我々兄弟の感情もある。法は人の常識を補完するものに過ぎない。盗んではいけない、ということは誰でも知っている常識であるが、盗む奴が出てくるから、法は盗むことに見合った刑罰を科す。
兄弟四等分という法は分かるが、その解釈、その運用には人の理性と感情を混入させるべきであり、現実そうなっている。犯行時に心神喪失状態であったり、正当防衛、緊急避難であれば罰則が適用されないという規定は理性であり、犯行時の情状を酌量して減刑するということは感情である。
我々の相談は、如何なる事情か知らないが姉の母と父は結婚生活数年で離婚し、その後姉も父との交際はきっとほとんど無かった、我々兄弟は父から姉の存在を知らされなかった、当然ながら姉に幾ばくか相続させてやってくれという話しも無かったので、四等分は受け容れ難い、我々の母は六十年余りに亘って父との結婚生活を完成させ、父とふたりで財産を築き上げてきたものであり、母の気持ちを忖度しても、我々の思いとしても、とても四等分は是認できない、ということである。
これが逆の立場なら、法的に四分の一が保証されているので要求したい、かといってこちらから要求できるかどうかは分からない、少なくても何らかの提案はあってしかるべき、提案があればあえて放棄はしない、仮に億単位の遺産があるならあるいは裁判さえ厭わないかも知れない、だが六十数年の後に初めて会った兄弟姉妹と本当に争えるか疑問も大きい、というところだろう。
まぁ、いくらあるか知らないが、いくらかの分割を提案されたなら、辞退しないことに恥辱を感じる理由は全く無い、くらいが関の山かも知れない。
我々の欲望、姉の希望は何であるか、我々の想像する姉の真意、姉の抱いている我々への期待はどれほどなのか、それらが先ほどまで私の心を循環してきた。
きっと姉の心にも、似たようなものがあったのではないか。あるいは純粋に、放棄の書類に捺すべく印鑑を用意してきてくれたのか。
複数の人間の持つ複数の思いの循環が、いま交差し、中和し、不純物が沈殿して、透明な停止だけがある。
我々は、母は違えども、父を共にする四姉弟であった。
(おわり)




