キャンバスの幻像 1:ひび割れた彼女と、甘い秘密
キャンバスの幻像 1:ひび割れた彼女と、甘い秘密
運命のひび割れ
その日、健太の心は高鳴っていた。美術部へ向かう廊下で、遠くからミナミが走ってくるのが見えたからだ。光を浴びて輝く長い髪、少しはにかんだような優しい微笑み。彼女は急いでいたのだろう、足早に駆け寄ってくる。すれ違う瞬間、不意に肩がぶつかった。
大切なタブレットが、するりと指先から滑り落ち、コンクリートの床に叩きつけられた。
「あっ……」
声が漏れる。ミナミが何かあったことに気づき、心配そうに振り返った。その視線を感じながら、健太は恐る恐るタブレットを拾い上げた。 「ごめんなさい! 大丈夫ですか?! 私、ぶつかってしまって……」 ミナミが焦ったような、それでいて申し訳なさそうな声で、何度も頭を下げるのが見えた。健太は、ミナミに心配をかけまいと必死に笑顔を作った。 「う、うん。大丈夫。全然、平気だから。僕がぼーっとしてたから、気にしないで」 絞り出した言葉に、ミナミはまだ少し申し訳なさそうにしながらも、「本当にすみません」と言い残して去っていった。 ミナミが去った後、健太は手に持ったタブレットに目を落とした。その瞬間、彼は息を呑んだ。 画面は、まるで蜘蛛の巣のように無数のひびが走っていた。中心から放射状に広がる傷は、健太の心臓に鋭い痛みを走らせる。 それは、バイトでようやく手に入れた、年季の入ったタブレットだった。貧しい寮生活の中で、他の誘惑を断ち切り、血の滲むようなバイト代をコツコツ貯めた、まさに夢へのパスポート。初めて電源を入れた時の鮮やかな輝きは、今でも心に残っている。絵を描く夢を具体化する、かけがえのない相棒。買い替える余裕も、修理するお金もない。絶望と申し訳なさで、健太はひび割れた画面を見つめるしかなかった。 友人に「いつまでそんなの使ってんだよ、買い替えろよ」と呆れられながらも、健太は何も言い返さず、ひび割れたタブレットを大切に使い続けた。ひび割れの隙間を避け、時にはそれを絵のテクスチャの一部として取り込むように、不器用に、しかし以前と変わらぬ愛情を込めて絵を描き続けた。 そんな健太のひたむきな姿、そしてタブレットへの深い愛着が、デジタルなはずのその奥底に、静かに「恩返し」の力を蓄えさせていたのだろう。
奇跡の始まり
数日後、美術部の教室。今日の課題はリンゴのデッサン。お腹が「グゥ~」と鳴る。昨日から碌なものを食べていない。デッサンをしながら、ふと「ああ、このリンゴ、食べられたらいいのに」と心で思った。 その瞬間、タブレットの画面に描かれたリンゴが、心臓が脈打つように、かすかに淡い光を放った。ひび割れた部分が、リンゴの皮のひび割れと重なり合い、光がひびの隙間から現実の空気中に滲み出るかのようだった。そして、ひび割れた画面が、一瞬だけ虹色に輝いたように見えた。 そして、信じられないことに――。 カタリ、 と乾いた音がして、デッサン中のキャンバスのすぐ隣、空っぽだったはずの机の上に、真っ赤なリンゴが一つ、突然として現れた。 それは、デッサンしていたリンゴと寸分違わぬ、つやつやとした美しいリンゴ。光を反射するみずみずしい表面には、デッサンでは表現しきれなかった、ごく小さな枯れた葉までついている。何よりも、甘酸っぱい、本物のリンゴの香りがふわりと漂ってきた。 健太は息を呑み、ペンを落とした。恐る恐る触れると、ひんやりとした硬質な感触が確かにそこにあった。
しかし、喜びと同時に、違和感が目を引く。リンゴをくるりと回した時、健太の顔から血の気が引いた。リンゴの側面には、健太のタブレットに走る**最も大きなひび割れと寸分違わぬ、深くはないものの、はっきりとした筋が、皮を抉るように刻まれていたのだ。**その筋の周囲の皮は、わずかに色がくすみ、まるで打ち身のように少し柔らかくなっていた。それは、タブレットの傷がそのまま転写されたかのようで、リンゴ自身も、健太の相棒と同じ痛みを背負っているかのようだった。 「ああ……」 健太は小さく息を漏らした。完璧な魔法ではない。大切に使い続けたタブレットの傷が、現実のリンゴにまで現れている。それは、タブレットが無理をして奇跡を起こした証のようにも思えた。それでも、健太はリンゴを両手に抱え、傷ついた部分をそっと指でなぞりながら、ためらいつつも口に運んだ。甘酸っぱい果汁が口いっぱいに広がり、空っぽだった胃袋にじんわりと染み渡る。それは、どんな高級な食事よりも温かく、奇跡の味がした。 (まさか……お腹が減りすぎて、こんな妄想を見ているのか?) しかし、その鮮烈な味と感触は、彼の脳が作り出した幻とは到底思えなかった。
寮での秘密の「甘い日々」
さらに数日後。美術部の教室で、ひそかに片思いのミナミがデッサンのモデルに選ばれた。教室には、絵を描くクラスメイトたちに囲まれ、ひたむきにポーズを取る、いつものミナミがいた。健太は、ひび割れたタブレットの画面に、ミナミの姿を丁寧に描いていく。輪郭、髪の揺らぎ、そして優しい微笑み。特に顔を描く時、タブレットのひび割れが、ちょうど彼女の左頬を横切るように走っていることに気づいた。悩んだ末、健太はあえてそのひびを、彼女のデッサンの一部として、わずかな陰影のように取り込んで描いた。 ミナミの美しさに筆を走らせながら、健太の胸には切ない願いがよぎった。 「ああ、いつもそばにいてくれたらいいのに……」 その願いは、誰にも聞かれることのない、心の奥底からのひたむきな想いだった。デッサンを終え、タブレットの電源を落としたとき、何も起こらなかった。 学校での部活動を終え、慣れ親しんだぼろい学校の寮へと戻る。きしみまくる階段を上り、ドアノブがグラグラする自室のドアを開ける。隣の部屋からは、友達のいびきや話し声、時にはギターの練習の音が筒抜けになる壁の薄い、狭い部屋だ。プライベートの欠片もない空間で、健太は電気をつけ、いつものようにベッドに腰掛けた。 その瞬間――。 部屋の隅、ベッドの足元に近い場所に、ミナミが座っていた。 健太は、一瞬、何が起こったのか理解できなかった。美術部でデッサンしていた時と、全く同じポーズで、彼女はそこにいる。膝の上にデッサン帳を広げ、はにかんだような優しい微笑みを浮かべて。 「えっ……ミナミ?」 思わず声が出た。学校から帰宅して、ほんの数分。何の予兆もなく、デッサンした場所とも全く違う、自分のプライベートな空間に、ミナミが、まるで昔からそこにいたかのように、自然に存在している。その時間差と場所のずれが、健太の混乱をさらに深めた。 心臓が大きく跳ねる。驚き、困惑、そして、それらをはるかに凌駕する、底知れない幸福感。 ミナミが顔を上げ、健太を見つめる。あの優しい微笑みを浮かべ、まるでずっとそこにいたかのように、自然に声をかけた。 「おかえり」 その声は、夢のように現実で、そして、健太の心を深く揺さぶった。憧れのミナミが、自分の描いた絵から現れたのだ。 しかし、次の瞬間、健太の視線が、彼女の顔の左頬に引き寄せられた。そこには、タブレットのひび割れと全く同じ位置、同じ形で、細く、しかし確かに、薄紅色の筋が走っていたのだ。まるで、皮膚の下に微かな血管が浮き出ているかのようにも見え、その筋の周りの肌は、ほんのわずかにくすんで、デッサンの時のみなみの肌のなめらかさとは異なっていた。完璧なはずのミナミの顔に、タブレットの「傷」が、そのまま転写されていたのだ。 その頬には、タブレットのひび割れという「代償」が刻まれている。だが、健太にとって、ミナミの魅力は、その整った容姿だけではない。彼女の持つ、内面から滲み出るような優しさやひたむきさこそが、彼がミナミに惹かれる理由だった。頬の筋など、彼女の輝きを曇らせるものではない。 ミナミは部屋の隅の姿見へと向かい、鏡に映る自分の顔を、どこか憂いを含んだ表情でしきりに確認していた。左頬の薄紅色の筋を指でそっと撫で、「これ……何だろう、この線……」と小さく呟く。自分が絵から現れた存在だとは知る由もないミナミは、突然現れたその「傷」の理由が分からず、不安に思っているのだ。そして、ふとした瞬間に、鏡の中の自分と、絆創膏を貼った健太のタブレットを見比べるような仕草を見せることもあった。 すると、ミナミは小さなポシェットから目立たない肌色の絆創膏を取り出し、その薄紅色の筋の上に丁寧に貼った。小さな絆創膏が、彼女の美しい頬に、わずかな違和感として残る。絆創膏で隠された部分を、ミナミはもう一度、鏡越しに心配そうに確認していた。 健太は、そんなミナミの様子をただ静かに見つめていた。彼の心の中では、絆創膏など何の意味も持たない。むしろ、その絆創膏の下にある「傷」は、この奇跡の、そしてタブレットからの愛の証しのように思えたのだ。彼にとって、ミナミの魅力は、その「傷」などでは決して損なわれない。不完全ささえも、彼女の人間らしい、繊細な一部として映るのだった。 ぎこちない沈黙が流れる中、ふと、健太のお腹が「グゥ~」と鳴った。昨日のリンゴ以来、まともな食事を取っていない。 その音に、ミナミが少しだけ緊張した面持ちでこちらを見た。そして、かすかな声で、まるで長年連れ添った夫婦のような、まさかの第一声を放った。 「あの……ご飯にする? それとも……お風呂にする?」 健太は、そのあまりにも日常的な問いかけに、完全にフリーズした。憧れのミナミが、自分の部屋に突然現れたという非現実的な状況。そして、彼女から発せられた言葉は、まるで新婚生活の定番のような選択肢。 (え……今、なんて言った?) 頭の中でクエスチョンマークが無限に飛び交う。夢なのか、現実なのか、全く分からなくなった。 「ご、ご飯……かな?」 やっとのことで絞り出した健太の返事に、ミナミはほっとしたような笑顔を見せた。「よかった」と小さく呟き、立ち上がると、あたりをきょろきょろと見回し始めた。「何かお手伝いできることあるかな?」 ミナミは、自分がなぜここにいるのか、まだ理解できていない。それでも、目の前にいる健太のために、何かをしようとしている。その健気な姿に、健太の胸は熱くなった。 「ううん、大丈夫だよ。ありがとう」 ぎこちない会話を交わしながらも、二人の間には、不思議な空気が流れ始めた。それは、戸惑いと緊張、そしてほんの少しの温かさが混ざり合った、奇妙な「甘い秘密」の日々の始まりのようだった。
忍び寄る影と現実の痛み
ミナミが健太の部屋に現れて数日が過ぎた。経緯は謎のまま、二人の間には、まるで長年連れ添った夫婦のような、甘く、どこか不思議な日常が育まれていた。 朝、先に目覚めた健太が音を立てずに朝食を準備していると、ベッドからミナミの小さな寝息が聞こえる。布団で丸まっている愛らしい寝顔を見守るのが、日課になっていた。やがて、ゆっくりと目を覚ましたミナミが、小さなあくびをして、眠そうな目をこすりながら「おはよう」と挨拶する。その何気ないやり取りが、健太にとっては何よりも幸せな時間だった。 食卓には、少し焦げ付いた目玉焼きや、形がいびつなパンが並ぶこともあったが、二人で「これもご愛嬌だね」と笑い合う。ミナミは、まだ慣れない手つきながらも、お弁当を作ってくれるようになった。蓋を開けると、小さなハート形にカットされたリンゴが入っていたりして、健太を少し幸せな気持ちにさせる。もちろん、そのリンゴの皮には、小さなひび割れのような模様が刻まれているのだが、それは二人だけの秘密だった。 夕食の献立を考える時、「今日、何食べたい?」とミナミが首をかしげながら尋ねる。健太が「なんでもいいよ」と答えると、「え~、それ困るんだよね」と頬を膨らませる。結局、他愛のない言い合いの末、二人の好きなメニューに落ち着くのが常だった。料理中、ミナミが不器用な手つきで野菜を切っていると、健太が後ろからそっと抱きしめ、「危ないから、俺がやるよ」と優しく声をかける。そんな触れ合いに、二人は心温まるものを感じていた。 夜、二人で小さなソファに並び、特に面白いわけでもないテレビ番組を見ながら、くだらないことで笑い合う。ミナミがうっかり眠ってしまうと、健太はそっとブランケットをかけ、その寝顔を愛おしそうに見つめる。ふと目が覚めたミナミが、「ん……ありがとう」と小さな声で呟き、また健太に寄り添ってくる。そんな親密さが、二人の距離を近づけていった。 週末には、近くの公園へ手作りの弁当を持ってピクニックに出かけた。木漏れ日の下、二人で小さなレジャーシートに座り、お弁当を広げる。ミナミがボール遊びをしている子どもたちを微笑ましそうに見ている横顔を、健太はそっとスケッチブックに描いた。タブレットではなく、色鉛筆で描くミナミは、画面のひび割れとは無縁の、生き生きとした表情を見せていた。 しかし、この甘い日々は、いつも隣の部屋の影に怯えていた。壁が薄い寮では、些細な物音さえも隣の部屋の友達に筒抜けになる。 「ミナミ、声もう少し小さく」 「うん、ごめんね」 リビングのない狭い部屋で、ひそひそ声で会話を交わし、足音も立てないよう忍び歩く。夜中に水を飲む音、食器を置く音、寝返りの音までもが、隣に聞こえていないか、健太は常に耳を澄ませた。窓を開け放つこともできない。カーテンの隙間から光が漏れて、誰かに気づかれるのではないかと、些細なことにも神経を尖らせる。 いつ友達が訪ねてくるか分からないため、ドアには鍵をかけ、ノックの音が聞こえれば、ミナミは瞬時にベッドの下やクローゼットの奥へと隠れる。時には、息を潜めて二人がじっと隠れている間、隣の部屋の友達の話し声や笑い声が、壁の向こうから鮮明に聞こえてくることもあった。そんな時、健太の心臓は、バレるかもしれないという恐怖で大きく跳ねる。まるで秘密の宝を守る子供のように、二人はひっそりと、しかし必死に、この甘い秘密の日々を続けていたのだ。 夢のような甘い生活の中にも、ふとした瞬間に現実が顔を覗かせる。ミナミは時折、自分がなぜここにいるのか、不安そうな表情を見せる。そんな時、健太は優しく手を握り、「大丈夫だよ。ここにいていいんだ」と小さな声で囁く。その言葉が、ミナミにとって唯一の心の支えになっているようだった。 左頬の絆創膏は、いつもミナミの頬にくっついている。時折、小さなため息をつきながら、その上をそっと指で撫でるミナミを見て、健太は切ない気持ちになる。 そして、学校での日々。健太は、教室や廊下で本物のミナミとすれ違うたび、胸の奥が締め付けられるような感覚に襲われた。その感覚は日を追うごとに強くなる。なぜなら、本物のミナミもまた、左の頬に、見慣れた肌色の小さな絆創膏を貼っていたからだ。 最初は偶然だと思っていた。しかし、絆創膏の位置も、隠された「傷」の形も、まるで自分のタブレットのひび割れを写し取ったかのようにそっくりなのだ。そして、何よりも気がかりなのは、本物のミナミの絆創膏の下の「傷」が、少しずつ、しかし確実に、濃くなっているように見えることだった。 健太は、ある恐ろしい可能性に気づき始めていた。自分の部屋にいる**「描かれたミナミ」との甘い共同生活が、現実の本物のミナミ**に、何らかの形で影響を与えているのではないか。もしかしたら、この奇跡は、本物のミナミの身を削って成り立っているのではないか。 その疑念は確信に変わりつつあった。タブレットに描かれたミナミが存在し、彼との甘い日々を送るたびに、まるでその代償として、本物のミナミの頬の傷が深まる。それは、喜びと引き換えに、愛する人が苦しむという、あまりにも残酷な現実だった。
究極の選択と残された痕跡
健太の心は、激しい葛藤に引き裂かれていた。目の前には、自分を慕い、かけがえのない安らぎを与えてくれる「描かれたミナミ」がいる。彼女との甘い日々は、まさに夢のようだった。しかし、その夢を続ければ、現実の世界で、本物のミナミの頬の傷は、きっともっと深く、そして消えないものになってしまうだろう。 「描かれたミナミ」をタブレットから消せば、この甘い生活は終わりを告げる。彼女は、存在しなくなる。だが、そうすれば、本物のミナミの頬の傷も消えるかもしれない。彼が望むのは、本物のミナミの笑顔であり、彼女の無垢な美しさだった。しかし、「描かれたミナミ」もまた、彼にとって大切な存在になっている。 夜、眠りについた「描かれたミナミ」の寝顔を見つめながら、健太は決意した。たとえどれほど辛くても、愛する人を傷つける選択はできない。彼は、震える手でタブレットを手に取った。画面には、幸せそうに微笑む「描かれたミナミ」のデッサンが映し出されている。 「ごめん……」 喉の奥で絞り出すような謝罪が漏れる。愛と痛みが入り混じった複雑な表情で、健太はゆっくりと、しかし迷いのない指で、画面に表示された**「削除」のアイコンをタップした。**彼の指先が触れた瞬間、タブレットの画面が眩い光を放ち、ひび割れた部分から光の粒子が立ち上るように散っていった。そして、光が収まった後には、元のひび割れた黒い板が残された。まるで、夢から覚めたかのように、何もなかったかのように。 その瞬間、「描かれたミナミ」が座っていたベッドの隅が、**まるで最初から誰もいなかったかのように、ひっそりと静まり返った。**彼女の残り香も、温もりも、すべてが消え去り、ただ空虚だけが残った。健太は、胸の奥を抉られるような喪失感に、思わず膝から崩れ落ちそうになった。しかし、その痛みこそが、彼が正しい選択をした証だと、自分に言い聞かせた。 翌朝、健太は重い足取りで学校に向かった。そして、いつものように廊下で本物のミナミとすれ違った時、彼は目を凝らした。 本物のミナミの左頬に貼られていたはずの絆創膏が、消えていた。 彼女の頬は、以前と変わらぬなめらかで、一点の傷もない美しい肌に戻っていたのだ。ミナミは、いつもと変わらぬ無邪気な笑顔で、健太に「おはよう!」と声をかけた。その笑顔は、かつてないほど輝いて見えた。 健太の心に、安堵と、そして言いようのない寂しさが同時に押し寄せた。彼は、愛する人のために、夢のような生活を手放した。それは、確かに辛い選択だったけれど、後悔はなかった。 奇跡は終わりを告げた。しかし、その奇跡が彼に教えてくれたのは、本当の愛の重さと、かけがえのない選択の尊さだった。 数日後、美術部の活動で、次のデッサンのモデルが発表された。またしても、ミナミが選ばれたのだ。健太の心は、微かな希望と、そして過去の苦悩が交錯する。今度こそ、傷つくことなく、彼女を描けるだろうか。 ところが、声をかけられたミナミの表情は、どこか浮かない。そして、彼女は小さな声で、しかしはっきりと、部長に告げたのだ。 「すみません……私、今回はモデル、遠慮したいです」 部長やクラスメイトたちが驚きの声を上げる中、ミナミは、そっと自分の左頬に触れた。そこに絆創膏はもうない。しかし、その指先には、見えない傷跡を確かめるかのような、繊細な動きがあった。 「あの……最近、肌の調子が悪くて……。この前も、頬に変な線ができちゃって……その記憶が残ってるみたいで……」 小さな声で言い訳するミナミの言葉を聞きながら、健太は息を呑んだ。彼女は、あの「傷」のことを覚えている。そして、それが理由で、デッサンモデルを断ったのだ。 健太は、愛する人を守るために、確かに「描かれたミナミ」を消した。傷も消えた。だが、その傷がミナミの記憶には残り、彼女の心に影を落としているという現実が、彼に重くのしかかった。 そして、その日の放課後。健太が美術室の片付けをしていると、隣の部屋に住む、気の置けない同級生の部員が何気ない様子で話しかけてきた。彼とは、壁一枚隔てただけの仲で、普段から他愛のない会話を交わしていた。 「なあ、知ってるか? ミナミちゃんさ、ちょっと前、急にほっぺに変な傷ができてたらしいよ」 同級生は特に悪気もなく、面白半分で話しているようだった。 「なんか、変な線っていうか、ひび割れみたいだったってさ。すぐ消えたみたいだけど、本人も気にしちゃっててさ。だから、モデルも断ったんじゃないかって、みんなで話してたんだ」 その言葉は、健太の心臓に、冷たい氷の矢を突き刺すようだった。彼が必死に隠し、誰にも知られないはずだった「奇跡」の代償が、確かに現実世界に影響を及ぼし、ミナミ本人だけでなく、周囲の人間にも認識されていたのだ。しかも、その情報源が、壁一枚隔てた隣の部屋に住む友達だったという事実が、健太の背筋を凍らせた。 「そういえばさ、おまえの部屋からも最近、女の子の声が聞こえてきた気がするんだけど、誰か連れ込んでるのか? 寮は女禁止だぞ」 隣の部屋の友達は、ふと何かを思い出したように、悪戯っぽい目で健太を覗き込んだ。その一言が、健太の全身を硬直させた。心臓が張り裂けそうなほど大きく脈打ち、喉がひりつく。まさか、あれほど気を付けていたのに、隣にまで声が届いていたなんて。 「え、いや……気のせいだよ。誰かテレビでも見てたんじゃないか?」 しどろもどろになりながら、必死で平静を装う。顔が熱くなり, 汗が滲む。友達は不審に思ったのか、じっと健太の顔を見つめていたが、やがて肩をすくめ、「ふーん、ならいいけどよ」と、それ以上は追求せずに去っていった。 間一髪だった。しかし、その一言は、健太の心を深くえぐった。奇跡の「甘さ」と引き換えに、本物のミナミが傷ついただけでなく、自分自身も、いつ規則違反がバレるかという恐怖に常に晒されていたのだ。あの生活は、まさに綱渡りだった。 彼が手放した「甘い生活」が、本物のミナミに残した爪痕は、彼が想像していたよりもずっと深かった。物理的な傷は消えた。だが、その記憶は、ミナミの心に、そして周囲の認識の中に、確かに刻まれてしまっていた。 健太は、重くのしかかる現実に打ちひしがれながらも、一つだけ決意を固めた。この痛みと向き合い、ミナミにこれ以上傷を負わせるようなことは、二度としない。しかし、だからといって絵を描くことを諦めるわけではない。彼は、ひび割れたタブレットにではない、彼自身の感性と技術で、いつか傷つくことのない、真に美しいミナミの絵を描くことを、心に誓った。そして、その絵が、いつか彼女の心の傷までも癒せるように、と。 彼にとって、あの奇跡は、甘い夢であると同時に、深く重い十字架となってしまった。しかし、その十字架は、彼が真に描くべきもの、そして癒すべきものを教えてくれたのだった。健太は知っていた。このひび割れが、彼の絵に、そして彼自身の人生に、新たな深みをもたらすだろうと。