第88話:心、既に奈落の底にあり
ギュンターは2つの棺を背負いながら、散歩道を歩く様に結界をくぐる。思えば結界とは何と曖昧な物なのだろうかと、彼はその最中に思う。
破壊行為をするか否か、敵意があるか否か、それを簡単に判別して弾けるシステムがあるのならば、彼にとっては地球にいた頃からあって欲しかったものだった。だが、現実にあっても結局のところは穴を突いてそれに弾かれずに悪意と理不尽を翳した者が現れた事だろう。事実として、今ギュンターは結界を抜けた。集落で少し馴染んで、生活をして、そこで生きた者に、わざわざ特別悪意を抱いてここをくぐれと言われる方が難しい。
『へー!ノアの人に助けてもらったわけでもなく1人でここまで!?よく無事だったな!』
『儂等はここで暮らしておるのじゃよ、畑を耕し、木を切り、小さい魔石も時々見つけては集め、生活をしておる。お主にとってもここが生活の出来る良い場所となれば良いと思っておるのじゃよ』
『え、えっとね、お兄さんがいつも水やりしてるから、私もお花に水やり、してみたかったの……怒ってない?本当に?』
『妻を、病で亡くしてな。もう大分前の事で、妻の洗ってくれた服もすっかり香りが変わってしもうたわ……気持ちが分かる?若いのに気の毒な事だ、分かる様になるのはまだまだ後で良かったろうに……』
──覚えているとも、皆に血が通っている事も、皆がただの贄ではない事も、覚えているとも。交わした時間が胸の内に今もあるのだから
──だが、その時間が本物だと思う程に。彼等と関わる毎に、あの現実が遠のく程に、あの悪夢の事件も共に遠のいていきそうに感じられた。それが恐ろしかった
あの瞬間、撃たれた瞬間からまだ夢を見ていて、今でも本当はディーケも無事で、ギュンターが目を覚ましたら赤子と共に笑顔で出迎えてくれるのかもしれない。
そうでなければ、また妻と会える。また子供と会える。あるいは、抑圧された恨みを今度こそ終わらせる事が出来るかもしれないなどと、そんな的確すぎる誘惑が、それを叶えられる手段が実際にあるはずがない。あればもっと早く助かる命が、心があったはずだというのに。
しかし、それがあるのならば、そう考えた男は、それ以外最早持たない男はそれを求めた。強く求めた。屍で組み立てられた橋の先にある物が、確かに自分の望む物であるはずだと信じて。
そんな風に使徒は、男は思わざるを得なかった。やり直せる、今からでも引き返せるなどと、少しも考えた事はなかった。
『そんな貴方も、やはりこうなるのか……ッ!』
──通信で聞こえた君の言葉に、返せるものはなかった。責められるべき行いをしている者が、責められるの仕方ない事だ。欺き、殺し、その後にそれすらも仕方なかったと思うだろうから、尚更に救いようがない。
彼は自分の八つ当たりがいかに愚かしいかを分かっていた。復讐と言えば聞こえが良いが、関係のない大勢を相手にやるそれは、ただの傷害、ただの殺害、正当性などありはしない。彼は自分が裏切られ、家族を奪われた怒りにただ突き動かされているに過ぎない。
だからこそ八つ当たりなのだ、相応しい罰を受けるべきと指を差しながら己自身も罪を重ねる。その罪と罰を焚べた先にまだ夢はある、希望はある、まだ振り返っていないと思いながら男はただ道を歩くのだ。奇跡を信じて。
『退院したら、貴方の好きな物をお腹いっぱい作ってあげるからね。早く元気になってね』
ディーケの心の時計はあの時止まっていた。しかし、入院してから初めて彼女と顔を合わせた時のその言葉がギュンターの中でこびりついていた。衰弱していく前だったとはいえ、その瞬間の彼女の言葉はやけに鮮明で、穏やかだったのだ。彼女のヒーローでありたいと、彼女との約束を守り続けたいと、強く湧き上がったあの時間がどれほど尊かったか、失われる事で実感させられた。
それ以降の彼女を知る程、思い出す程、ギュンターの中でかつてのディーケの姿が奪われたものであるという意識が強くなる。胸が痛くなり、取り戻す余地すらも与えられなくなった今が苦しく、息が出来なくなる。ひと時だけの、一粒の奇跡だけじゃ全然足りなかった。
──ディーケ、ディーケ。君がそう言ってくれた様に君が生きてくれたら、それで良かったと言いたかった。でも、君が失った、ボク達が失った子供の事を思うと、言えなかった。
──ディーケ、どうか謝らせてほしい。そう言えなかったボクの情けなさを許さなくても良いから、どうか謝らせてほしい。
──そして、どうか、どうかもう一度抱きしめさせてほしい。あの瞬間の様に、もう一度笑顔を見せてほしい。泣き虫だと笑ってほしい。
──ディーケ、ディーケ、ディーケ
そう、強く乞い願う程に、そのすべての可能性を奪った者への恨みは募る。それを生かす者への恨みは募る。彼女のヒーローである為に頑張ってきたのに、こうも簡単に、彼女の事を知りもしない、誰でも良かった者に奪われるなどと、血管ごと掻きむしって裂いても、その程度の自傷でこの怒りや憎しみは止まってくれそうになかった。
やはり裁くしかないのだ。こうするしかないのだ。他に道はないのだ。彼らに罪を実感し、罪を伴いながら命を絶ってもらうしかないのだ。男の時もまた、きっとあの瞬間から進んでいない。進むわけにはいかなくなった。
だから、境界を跨ぐ。ステュクスの川の様に死者と生者の世界の境を作る花々を跨ぐ。ここから先は死者の為の世界、罰を受けるべき死者がいる世界。生者も、冥界から逃げ出そうとする亡者もいてはならない場所。
そして、冥界よりも深い場所。彼は彼自身もまたそこへと堕ちるものとして定義し、ここから先を完全に区切り、断つ。
「柔らかな風も、涙の歌も、それは君のためだけにある。君は楽園で笑っていておくれ。しかし、私はそこへは行かない。私は歌を知らない。私は未来を見れない。私は彼女を奪った不条理を許せない、許す事はない。故に、私は冥府に在ろう、冥府に君がいるのならば私は柘榴を喰もう。
贄を捧げられたとて、蜂の死に終わりはなく、この恨みは底を知らない。等しく罪禍に死が微笑む。“苦艱・奈落の監獄”」
*
集落はこの世界には不釣り合いな光景があった。木々を抜けた先、RPGで敵とのエンカウント頻度の高い場所を抜けた先でようやく辿り着く村の様な、声を出して息を吐き出せる様な安心感のある光景。歩いてるのは異形達ではなく人々で、外で雑談を交わす光景すらも見る事が出来る場所。現実では当たり前だったそれが、この世界においては異彩を放っていた。
しかし、そんな安心出来る場所すらもこの異世界の中にある場所でしかないのだと突きつける様に、首をどれだけ上に向けても届かない程の、重く、高い青銅の門が現れ、集落を覆い尽くす。空は暗闇に支配され、そこから滴る様に生まれ落ちたハゲワシのような形状をした鳥は人よりも大きく、頭ぐらいならば収められそうな嘴と獰猛さを感じさせる歯をチラつかせながら、青銅に囲まれた集落を自在に飛び回る。辺りにある地形が湖だった物が沼に変わり、家があった位置には拷問器具が家具の様に辺りに設置されている。
船の上から見ていた民間人は、集落という最古の望み、最後の平和を塗り潰さんとする光景に言葉をなくしていた。
なにより、これまで継ぎ接ぎにされた化け物達の呪詛が、後悔が、苦しみが、罰が、青銅の内側に刻まれているのだ。
【こんなはずではなかった】
【ただ生きていたかった】
【死にたくない、だから異形を殺した。その罰としてこんなに苦しみが与えられるのか?】
【罰せられるに相応しいほどだったのか、罰する者は罰するに足る程綺麗なものか?】
【家族に一目会いたかった】
それそのものに魔術的な効力は特にない。ただ言葉が無数に書かれているだけだ。しかし、これは魔力という欠片になってしまった数多の魂達の嘆き、その代弁が行われている。これまで使ってきたものが、かつては人であったのだと実感させられる。死者に言葉は持てないが、この世界は死が近くに感じられる世界なだけに、戯言だと切り捨てられない。
先程まで嫌悪し、ただ恐れていた相手である化け物達や、その元となった者の心が刻まれている様子は、集落の民達のみならずノアの人間にとって苦々しかった。それによって罪悪感を引き出せると思われている事、それもまた事実であること、その心までも利用して全てに罰を与えようとする使徒。全てに対して集落の民の心にもまた不条理への怒りは浮上する。
「だそうです、ライさん」
「俺達ぁ裁判抜きで極刑ってか」
「その様ですね。さしずめ、ワタシ達は生きてる罪ってところでしょうか」
「クソがよ〜!つまりアイツは罰を与えたい。罰を実感して死んで欲しいからあの化け物の特性があったっつー事か。それにしちゃあダメージの幅にはムラがある様だがよ」
「それにも何か理由があるのか、否か……どのみちそれがいずれまた襲いかかってきますよね。もうこの辺りボロボロな時点で、また襲来されてはたまったものではありません。私は皆さんをもう一度船内に避難させなければいけません。想撃砲にも少しクールダウンが必要ですし」
「んま、あのゾンビ共の様に初見殺しぶち込んできやがってたら困ったモンだし、役者が不足してる感じは否めねぇが、その間はヒーローでも務めてやるよ。」
「お願いします、死んだら許しません。100連発の刑ですから」
「なにの!?」
「はい、皆さん聞いておりましたね。船内に戻りましょう。精神衛生上良くない景色なんて無視して、美少女クロエちゃんについてきてください」
戸惑いと恐怖と微かな義憤のせいなのか、クロエの誘導にはこれまでよりも、一周回って落ち着いて受けていた気がした。
だが、一方でライは心の中で降臨したタルタロスに舌打ちをしていた。現在ノアが停泊している付近、集落の中でも中心の方だけならば魔力は一時的に希薄になっているが、結界内全体に及ぶ程ではない。それだけに、使徒がこの範囲内に入っていたとしても、化け物を召喚されてそれを盾にされてしまえば返り討ちに遭うのは目に見える。加えて、今この場で魔術をこちらは行使出来ない以上は、防護等による補助も不可能。以前のクライルの例と違ってこれは結界ではない以上は、ライの心器で割る事も出来ない──
「!?」
そして、そこに更なる追い討ちをかける様に耳をつんざく様な咆哮が響き渡る。
異形や魔物の叫び声とも異なる。聞いた瞬間から、人間の死に対する警戒心や恐怖心を最大にまで引き出される様な、強烈な死を呼ぶ声。喉を涸らし、緊張の汗を凍りつかせ、立ち続ける生者に膝をつかせんとする。
その声の主はそこにいる者達に心の準備をさせる間もなく、集落の中心に降り立ち、姿を現す。
「ご機嫌よう、罪人達」
三つの首を持つ四つ足の生物、ケルベロス。しかし、その身体は骨で構成されていた。そして、骨同士を接合する様に巻き付いた毒蛇は尾として、たてがみとして無数に伸びている。蛇の一匹だけ見ても、皆のよく知る蛇の大きさや長さとは異なり、全てがアナコンダの様に大きい。
骨だけで出来ている身体のはずなのに、目の奥からはやけに澄んだ青い瞳が押し込められており、舌の代わりに口から飛び出てくる蛇の出す毒液は唾液の様に興奮を示し、生き物の様な表現が歪に成されたその化け物は皆の心に等しく不快感と、恐怖感を与える。それは咆哮を聞いた時と同じ感覚、否、感覚以上に明確に生者達に恐怖感という足枷を与えてくる。そうした力を持っている。
ケルベロスの背に乗っていた棺を担ぐ男、それがケルベロスを従えている人間、使徒だった。使徒が自ら攻め込んで来たのだ。
頭を下げ、いかにも紳士的な雰囲気を装った男。それが本人にとっても、本気で最低限の礼節を弁えるつもりでやっている事なのだから、ノアの面々がそれを知れば気味の悪い存在だろう。
「我が愛おしき三つの遺骨、花嫁から作られた我がケルベロス。だがこの姿では、死者に対する尊厳を壊す様な存在と指を差されても何も言えまい」
自嘲気味に語りながらも、禍々しい番犬の首を撫でる表情はやけに穏やかだ。
「──ご存知かな。三つの首には、死者の辿る道が示されている。保存、再生、霊化。これから貴殿等の辿る道とも言える。頭の隅に留めておくと良いだろう。もっとも」
防御隊が構えている間に、ギュンターは棺に繋がる鎖を振り、その内の1人を捕縛する。
「え──」
回避、防御、そんな発想が出る前に、彼からすれば既に捕えられ、そして気付いた時には──
「とても悲しい事で、とても理不尽な話かもしれないが、火を焚く為の薪の様な物である貴殿等には辿る事の出来ない道かもしれない。前もって、謝罪させてもらおう」
ケルベロスの餌にされた隊員は悲鳴をあげる間もなく、気付けば身体だけが地に伏していた。その残された部位すらも貪り始め、その際に唾液代わりに垂れ流される毒液に混じった血液が悪臭を生み出す。その様子に理解が追いついた同じ防御隊の人間は吐き気に襲われる。
「申し訳ない、死んでくれ」
謝罪をもって、断罪は始まる。審判者と己を定義した傲慢な殺戮が始まる。
それを合図に飛び込んで来たケルベロスは、己の体躯そのものを武器にする。押し潰す様にのしかかられた者は、盾を構えたまま地面との間に挟まれる。
「ぎ、ぃあ゛あぁぁぁぁ!!!」
「くそ!!離れろッ、ぅ、ぐあぁ!!」
仲間を助けようと接近した者も尾を鞭のように振り回されただけで吹き飛ばされ、中には毒液を浴びて悲鳴をあげる者まで。
「防御を固めろ!!毒液に触れてはならんが、アレに恐れをなしては船への道を開ける事になる!弓兵隊は使徒に向けて構え、頭から落とす様に狙え、撃てぇ!!」
ダルガにこの場を任せられた防御隊の副隊長ノイバートは声を張り上げる。皆と同じ感情を抱いているが、負傷したダルガの言葉が彼を突き動かす。それでも、心はともかく身体は思うようにならない。
(くそ、何でこんなに身体が重い……ッ足も上手く動かない。何だこれは!!)
心器、断罪者の嘆棺アマルトロス。
この能力の1つとして、生者に対する肉体的な枷を与える能力がある。それは通常時の場合、武器と接触した者にのみ付与される物だが、この場所においてはこの空間にただ居るだけでその制限を受ける。重くなる身体と、人類が生存の為に生まれた時から持つ根源的な死に対する恐怖心に纏わりつかれながら戦わなければいない。生者にいるべきではない空間、そこに居る者達に与えられる共通の試練と罰。クロエの言った生きている罪を具現化した様な場所と化している。
「ここは生者の為の場所ではない。故に、こちらに狙いをつけるのもまた一苦労だろう」
故に、ギュンターは虫でも振り払うように棺を振り回すだけで矢を簡単に弾いてしまう。
彼の能力の本質は罪の自覚を持つ生者への枷と罰。自らによって力を失い、傷を受けさせる事。防御とそれを利用した反射能力が本質。攻撃する側の攻撃が生半可なものにさせられるのに、生半可な攻撃ならばこの世界への順応が極めて進んでいる使徒相手には簡単に対応されるのだ。
「我が番犬にのみ働かせるわけにもいくまい」
そして、ギュンターもその直後には棺を振り上げながら地を蹴り、防衛隊に接敵。棺を振り下ろし、弓兵隊は力任せに殴られる。ただの棺ではなく武器として使われ、生み出された棺は躊躇なく振り回されれば頭蓋骨にヒビを入れるのも容易い。
「うわ、うあ、ぁぁぁあああ!!」
「く、くそ!!アイツ!!船に乗り込むつもりだ!止めろ!!」
ギュンターは弓兵隊にそれで隙を作り、船のアンカーチェーンに自分の鎖を引っ掛け、軽い身のこなしで船の上へと上がっていく。その為にも、対空能力を持つ弓を少しでも麻痺させたかった様だ。ケルベロスとギュンターで大型の戦力は二分されたが、それは決して吉報ではない。
援護射撃をしていた後方火力が直接叩かれる状況になったのだから。
「来やがったな……また使徒とご対面か、ついてねぇな」
砲撃隊とライの前に使徒が降り立つ──




