第87話:その瞳は太陽を見ない
ギュンター・エスマンという男もまた普通に生きていた人間だった。
迷子で泣きそうだった自分と幼馴染の前で手を差し伸べてくれた人の様になりたいと、そう願いながら彼は警察を目指した。
『ギュンターは警察にどうしてなりたいの?貴方って喧嘩も強くないし、危ない事って好きでもないじゃない。やっぱり格好良いから?』
『うーん、格好良いのは、格好良いのは確かにそうかもしれないけれど……』
『けれど?』
『守れる人になりたいって思っているんだ』
『守れる人って?何を?あっ、分かったわ!貴方のママとパパね!私達はまだ子供だけど、大きくなったら今度は守りたいって事でしょ!』
『そ、それも、それもそう、なんだけど……』
『えぇ?じゃあ私には分からないかも、他に何か大切な物があるの?もしかして……あるの?』
『うん、あるよ。あるけど、でもね、その、ディーケが心配する事はないよ』
『……そうなの?』
『うん、だってボクがずっと、ずぅっと守りたいものはね──』
幼い頃の約束、幼い頃の誓い、幼い頃に抱いた夢、大きくなる毎に身の丈が分かる様になって、少しずつその装飾は剥がれていく事の方が多いが、ギュンターのそれが剥がれる事はないまま、育っていった。
身体も鍛え、武道を学び、勉強もし、警察学校に入り、彼は夢を叶えた。映画の様な派手な事件に遭遇するわけでもなく、最初は先輩の対応から学び、実践を繰り返す日々。だが、夢を見ていたとしてもそれにギャップを覚える事もなく、夢を叶えている最中である事と、この1つ1つが大切な仕事である自覚、彼のロマンチストさと生真面目さが上手く合わさっていた。
なにより、多忙な日々の中で彼には大きな喜びがあったのだ。幼馴染である女性ディーケと結婚をし、帰れば昔から好きだった彼女が待っているのだ。
『どうしたの?なんだかニヤニヤしてるわ』
『いや、その、照れ臭いんだけど……』
『なに?照れ臭い事を言ってくれるの?』
『君が、おかえりと言ってくれる日々がすっかり当たり前になってる事が、とても嬉しいなって思って』
『あら!それを言うなら貴方にただいまと言える日々が当たり前な私の喜びも負けないわよ』
『じゃあ、ここはおあいこかな?』
『……いいえ、私の方が今日は勝つかもしれないわね』
『それはつまり……?』
『うふふ、3人家族になるのよ』
『!!』
『まだ男の子か女の子かは分からないけれど、きっと素敵な子になるわ、貴方と私の子だもの。って、ちょ、ちょっと呆けてないで何か言ってよ』
『あ、ああ……ごめん。夢の様な気分で、嬉しくて頭が追いついてなかった』
『しっかりしてよね、貴方はお父さんになるんだから。パパがしっかりしてないと、お腹の子に笑われちゃうわよ』
『はは、そうか、お父さん。ボクが、そうか……本当に夢みたいだ。きっと最高の家族になれる。ありがとう、ありがとうディーケ』
『ありがとう、なんてそんな……まだ少しだけ気が早いわよ。でも本当に嬉しい。貴方とうちの子と、皆で沢山の思い出を作れるんだもの。2人でいる日々も素敵で最高だけれど、更にきっと新しい素敵な日々が待っているわ。楽しみね、貴方』
その後、妻の為、そして産まれてくる子供の為、ギュンターは以前にも増して仕事に気合が入っていた。その頃には後輩に教える側の立場になっていただけに尚更だ。
『子供さんが!お、おめでとうございます!!』
『ありがとう、自分が父になる日が来るとは分かっていた、分かっていた事だが、その日がこうして訪れると不思議な気持ちになるな。嬉しい様な、少し緊張する様な』
『子供、すっごく可愛いですからね!姪っ子が自分にはいるんですが、それはもうっっっっっっ可愛くて!!』
『その溜めからよく伝わってきたよ……こういう時だからこそ、浮つかない様にしなくてはならんな。格好良い父である為に』
忙しくない方が平和である証拠であると分かっていてもそれで犯罪の件数が減るわけではなく、後輩に指導をしつつ、以前よりも違反等にセンサーを張り、鋭く取り締まりや声かけを行っていた。これは、自分自身が子を持つ様になった事で、自分の守るものがより多くの家庭というものを守ることに繋がるという実感によって発生した良い意味での緊張感がそうさせたのだろう。その実感は、かつて自分達を助けてくれた警察に近付ける道にも思えた。
しかし、そんなある日──
『立て籠もり犯の動きは!』
『現在人質を1人取ったまま動きはありません。しかし、ここからでは姿が見えません。エスマンが現在犯人に投降する様に呼びかけていますが……』
犯人はスーパーに立て籠もり、1人の女性を人質に取っていた。そして、その人質の女性はギュンターの妻であるディーケだったのだ。
妊娠から10ヶ月程が経っている彼女のお腹は既に大きく、赤子が居るのは目に見えている状態だった。犯人がどれ程錯乱していても分かるであろうだけに、ギュンターは相手の卑劣さに内心で歯噛みしていた。彼女でなければ、妊娠している人でないならば良かったと思っているわけではなくとも、そうした苛立ちや焦りは生まれてしまうのだ。
『あ、貴方……!』
『人質は勝手に喋るんじゃねぇ!警察のテメェも変な動きをしたら撃つぞ!!金と車を用意しろ!!それが出来ないならこの女を殺す!!』
(ここで逃がすわけにはいかない。だが興奮状態のままだから武装を解除する気配もない……ッディーケ!!)
この犯人を包囲しているが、それを強調する事で追い詰められたと判断した相手が何をしでかすか分かったものではない。人質も、犯人にも怪我をされるわけにはいかない。
だが、犯人は最初からずっとこの調子で興奮状態のまま5時間は経過している。自分達を指して化け物だなんだと喚き立てている様子は明らかに異常だった。薬の可能性もあるのだとすれば、どうすれば。ギュンターの頭の中は忙しなく動いているが、事を動かす事は出来ない。
『ゔっ……ぐ、ぅうぅっ!!』
その最中、ディーケの陣痛が来たのだ。状況が状況だけに、お腹の子の為にもディーケは声を抑えようとしたが、その激痛に漏れた呻きと苦しむ様子に犯人は反応した。されてしまったのだ。
『か、勝手に喋るなって、言っただろ!!こ、この化け物めえぇぇぇ!』
『ッやめろおおぉぉぉぉ!!!』
犯人が手を動かすより先にギュンターは銃を向けた。しかし、それで犯人の意識はギュンターに銃を向けられているという方に向き、ディーケは突き飛ばされ、銃口は彼に向けられた。
そして、発砲──
その後に彼が状況を認識出来るようになった時には左目が見えなくなっていた。何が起こったのか分かっていなかった。
『ギュンター!意識が戻ったのか!!』
『エスマンさん!意識を取り戻したのですね!先生、エスマンさんが──』
上司と看護師の安堵の声にも最初は思考が追いついていなかった。彼にとっての直前の記憶とは、立て籠もり犯に投降を呼びかけていた所で止まっていたのだ。
『……自分は、いや、そう……そうだ!!ディーケは!!犯人はッ』
『動こうとするな!2週間意識を失っていたんだぞ!お前は、犯人に撃たれたんだ。いや、それを考えればすぐにそれだけ話せるのが奇跡だな……』
その時は意識を取り戻した直後だった事もあって、事情を聞く事も、その時間もなかったが、そこから数日後にギュンターはその後について聞く事となった。もっとも、ここに至るまで家族の話を聞いていなかった時点で、彼の胸の中で不安が一種の恐怖心として渦巻いていた。聞かなければいけないと分かっていたが、聞いてしまう事で確定することを拒否している自分も、彼の中にはいた。
ギュンターが撃たれた直後、彼もまた犯人の持っている銃に向けて発砲し、相手の手から銃を弾く事に成功していた。その後、スーパーに機動隊が突入し、無傷で犯人は確保された。しかし、ギュンターは片目を撃たれ頭部の損傷で意識不明の重体に陥り、人質だったディーケは突き飛ばされた影響で身体を強く打ち付け、棚が倒れてきてしまい──
『ディーケさんの命に別状はなかったが……』
ギュンターはまだ自分が悪い夢を見ている最中なのではないかと考えた。彼はそう信じたかったが、それならば何故こんなにも耳の中がうるさく、息が苦しく、なのに体温が10度下がったと錯覚してしまうほどに冷たいのだろうか?その疑問こそが答えだった。
『──犯人の罪状は』
『いや……それは確定出来ていない。何せまだ事件が起きてから2週間だからな』
『まだ……まだ?家族が、子供が殺されたんですよ。妻が傷つけられたんですよ。それで、2週間が、まだ、ですか?』
『ギュンター……いや、すまない。やはりまだ話すべきではなかった事かもしれない』
ギュンターも分かっていた。それは自分にだけ社会が特別に動くものでもなく、同じ様な立場になった事がある人もまたこれまでも、そして悲しい話だがこれからも居るであろう事も分かっていた。
しかし、そう言わずにはいられなかった。
『とりあえず、今はゆっくり休め。良いな』
ギュンターの頭の中は真っ白になって、発声の仕方も忘れたかの様になっていたが、落とした視線の先、自分の左手の薬指にはめられた指輪が目に入った。
そうだ、それでもディーケは生きているのだ、と。それでも、それでもディーケは生きてくれていた。それだけを支えに、ディーケを守るという誓いを胸に、退院して落ち着いたら彼女と静かに過ごそうと考えた。
『ねぇ、あなた。このテーブルクロスが完成したら、つぎはあの子のための靴下をつくろうと思うの……』
彼女の心が少しでも穏やかでいられる様に、彼女の悲しみと苦しみに少しでも寄り添える様に。
『ディーケは器用だね、手芸とかやり方が分からないから教えてくれるかい?一緒にあの子の為に作るよ』
それが癒えないかもしれなかったとしても、一生側で支えると誓ったのだから。
『ふふ……ありがとう、きっとよろこぶわ。うまれてくるのが楽しみね』
『そうだね、どんな名前にするか、早く決めないとだね』
自分よりも彼女の方が辛いのだから、と自分の中に生まれた苦しみを押さえ込んだ。
しかし、ディーケは数年後に衰弱してそのまま亡くなった。立て籠もり犯の男はギュンターが思わず望んだ刑罰が彼に下る事はなく、精神に異常を来していたと言う診断が下され、施設に送られて現在治療中、犯人は今も生きていた。
彼は妻子両方の命を結果的に奪った犯人を、そして約束を守れなかった自分への、相応しい罰という物を自分の感情から強く望んだ。
*
「化け物達の再出現の予兆は現時点で発生していません!」
「人魚達も帰還、民間人のどちらも被害なしです!」
エレンは内心で、あくまで内心で胸を撫で下ろしていた。まだこれからという時に、艦長の余裕のなさを見せるわけにもいかない。
「アダム、何故貴方やブランを小屋の方に行かせていないのか気になるわよね」
「ああ……いや、予想はつくが、そこへ行った時と行かなかった時で違った時のリスクの差が大きいのでな」
化け物達の魔力の行き先である小屋の下。ギュンターの仕掛けたであろう罠の内の1つ。その魔力の行き先は放っておけば、それによって何らかの成長、あるいは起動に繋がる事は目に見えている。ならば、対応が遅れたといえる状況だとしても、それを破壊しなければならない。
時間を与えれはどうなるか。集落の中に紛れて過ごしていたギュンターは、その結果小屋の地下での事件を起こし、その前準備として集落の人間の一部を洗脳し、誘導した。どこまでが使う為の物で、どこまでがそれに注意を引かせる為だけの物かも分からない。それを考えた時、その罠を明かし、その罠を破壊出来た方が安全ではある確率が高いのは間違いない。
「──貴方の考える事はもっともよ、でも私なりの考えが少しあるの」
「その考えとやらは?」
「まず、聞いていた例の花のこと。花は集落を囲う様に植えられているみたいだけれど、集落の範囲の指定の基準は結界である事は確かよね」
「ああ」
「我々が結界で集落と外の境を作っている様に、相手もその境を作る為にそれをする必要がある。ただ狩場として分かりやすくする為だけではなく」
「儀式場である、と」
「そう、それでね気になったことがあって、エミナからその話を聞いてから彼女の生み出した使い魔の内の1体を結界の外に出そうとしたら、それが出来なかった。弾かれたのよ」
「なに……?」
「ある時までは私達は出入り出来ていたけれど、ある時を境に出来なくなっていたんだと思う」
小声で話してこそいるが、その語調からは半ば確信めいた物をアダムは感じた。それ故に、何を指しているのかはすぐに彼にも通じていた。
「使徒の降伏勧告に対して否を突きつけた時か」
「ええ、そうだと思う。ただそれまでは私達は花については気付いていなかった。だから、もうここから外と内側に行き来出来るのは使徒達にしか許されない物にされた……そんなところだと思うわ」
降伏勧告を出された時と、その後の拒否の時とどちらの時かは分からないが、どちらであったとしてもその間のどちらかであり、どこかであり、起きた事である以上はどちらでもこの際別に構わなかった。
だが、こうなった以上は相手のフィールドで戦う事になるのは止められない物と考えている。使徒がそれによって得た利で、ノアを一掃し得る大魔法だとか、葵を殺し、ヌシ老人達を殺した様な例の召喚術を使用してくる可能性も否めない。
「だから、少しでも仲間の分断を避けたかったの。小屋の方に仕掛けられた物の存在にこちらが気付いて、それで動く場合危険の多い相手である事が分かってるから精鋭を向かわせる。でも、到着する前に相手の張った陣と言っても良いそれによって、手前で必ず足止めを食う。加えて、それで向かわせるとしても少数精鋭の形になるから、少数を相手に奇襲を相手は仕掛ける。そうする事による消耗を避けたかったの」
「……成る程、それは理解した。だが、アオイとリンドは──」
「彼等も、返事をする前から使徒の追跡と追撃に回していたから、分断されてしまった事になるわ……」
冥界の花とも呼ばれるその花自体は、今この瞬間にどんな役割が与えられているのかは知らない。異世界においても、植物は植物であり、元が人だったものが異形に変異しただとか、植物の形をした魔物でない限りは、あくまで草花なのだ。
しかし、その花は使徒であるギュンターの作り上げた、皆を阻む為のそびえ立つ壁に等しい。葵達はその壁の外に置いて行かれたのだ。
「艦長!ミハエル技師長から通信が!」
「全体の方に変えて、どうしたの?」
『エレン、空の様子が、いや辺りの様子がおかしい!!』
「!!」




