第70話:拓け匣よ
「どうしたんだ?入ると良い。探し物ならあるかもしれないじゃないか」
葵の背後で張り付けたような笑みを携えながら顎で促す男、魔王は挑発の様にそう口にする。
「罠ではないとも、部下の思い出の家に罠を仕掛けるのは土足でアルバムを踏みつける行為だ。私はそんな事はしたくない」
「それを信じられたら良いのですが、自分は臆病なのでね。貴方が背後にいる限りは心は休まりません」
そう言われ、魔王は葵の横を通り抜けて書斎の扉を開け放つ。これでは尚更に意図は読めない。
葵が逃げ出す手伝いをするメリットはなく、罠と考えた方が正しいのは間違いないかもしれないが、やはりそれ以前に目の前の男が何を考えているのか分からない不気味さが葵の中で強まる。
「早く入るが良い。レンリは貴殿に逃げられた事で少し気が立ってる様だから」
鳥肌がどちらにせよ止まらない。使徒を相手に欺ける時間は限られているとは思っていたが、想像よりも早くバレた事で迷う時間すら与えられない。動き出した以上はやり切らなければ徒労にも程がある。
掌の上で踊らされている様な感覚はあれど、葵は意を決して書斎の中に飛び込む。そして、それを見てから魔王は扉を閉じる。
葵の心臓がバクバクと鼓膜ごと震わせながら脈打っている。扉を隔てて魔王がいる上に、彼女の気配まで恐ろしいまでの速度で接近してきているのだから。
「ま、魔王様!?お休みになられてなくて良いのですか!?」
間もなく、聞こえて来た声は連理の物で、想像していたよりも逃げ込むのは紙一重だったらしい事を実感しながら、思わず胸を撫で下ろした。もっとも、また何一つ安心出来ない事をすぐに思い出し、息を潜める。
「貴殿の焦り、勇者の焦り、両方がよく聞こえて来たのでな」
「も、申し訳ありません!勇者に脱走する隙を与えただけでなく、魔王様の安らぎの時間を奪ってしまうなどと──」
「構わぬ。貴殿こそ、休みなく監視をしていたのだろう。そんな中で私だけが休むわけにもいくまい?」
「とんでもありません!だって貴方様は……」
「レンリ」
連理が言いかけた内容は続かず、魔王が被せる様に呼んだ名前には静止の意味が強く含まれていた。扉の先にいる人間に聞かせる必要のない事柄を漏らそうとしていた事は、彼女が言わずとも分かった。今回の場合は、心を読まずとも。
無論、その事情を知らない連理は目を丸くするが、そんな彼女のフォロー代わりに小さく手を上げる。
「私自身が気にするなと言っているのだ。あまり、難しく考える事はない。勇者の捜索には私が当たろう、私には聞こえるからな」
「ならば私も!」
「そうだね、じゃあこの家の外を見て回ってくれないか?」
「はい、お任せください!」
こういう時に怒らない人である事を分かってはいても、怒られなかった事に内心で罪悪感を覚えながら、その分少しでも役に立とうとすぐに外へと走り抜けていく。
それを見送ってから魔王は書斎の中に入ると──
「そう来ると、分かっていたからね」
書斎の中には既に葵の姿はなかった。
*
葵は家を囲う木々の中に潜みながら小さく息を吐く。
「ふぅ、何とか出られたか」
身体がこちらに来てからの状態のままであれば、転移で窓を抜ける手も使えなかったかもしれなかった。
しかし、葵は休んでいるという状態を偽装する事でそれが可能な状態に戻したのだ。相手に怪しまれない様に、ベッドに跡が残らない様に、人生で初めての、舌を噛み切るという方法を使って。
(流石に2度もやりたくはないな、思い出したくもないし……バレていたら本当に苦しみ損になるところだったな)
自害する事で身体を復帰させる際、苦しんでる様子を少しでも目撃されない為に必死に我慢をする事となった。なにより、舌は柔軟で、歯は脳の躊躇で力が入り切らないしで、その方法自体が言葉にするよりも苦労は多かった。苦労で済ませてしまえば、それこそ地球に帰りたい者としては失格やもしれないが。
思い出しながら身震いと冷や汗が滲むが、葵はその結果得られた成果を取り出す。
(これなら、俺も集落の方面に帰れる方法が見つかるかもしれない)
地下通路があって、そこから行き来して葵を運んだ可能性を考えていたが、実際はどうだろうか?
ギュンターの追慕そのものとも言えるこの家を、忍者屋敷さながらの魔改造を施すか否か。やれと言われればやらざるを得ず、勇者達を倒すためならそれぐらい手段を選ばない可能性は十二分にある。だが、使徒達はいつも拘りが足を引く。地球の頃の縁によって、足を引かれている。
そう考えれば邪神の人選は彼等を試す様だとすら思える。利用されている様だとも。
(でも、今の問題はそれではない。常識に囚われ、通路がある前提だった事が過ちだったかもしれない事だ)
葵の手の中にある、星の写本と名付けられた物だった。
書斎にあった物のほとんどは背表紙を流し見した限りでも魔術の記録だとか、誰かの記録だとか、この世界で手書きされたであろう物ばかりだった。だが、途方も付かない情報量を蓄える邪神に、近い場所にいる者達の記した記録、その中にある知識には大きな価値があるはずだと葵は考えた。
中でも、この本は不思議と目についたのだ。ただの直感ではあるが、本そのものが手招きをした様に、妙な確信めいた物があった。
「写本、って事は原本がどこかに……この世界の中にあるのかな」
この世界には文化らしい文化は後付けの物以外は見当たらず、刺さってるビルや電灯は、用途が分からないが興味のある物を玩具箱に入れている子供の様にすら思える以上、にわかには信じ難い話だ。ましてや、視覚を通して記憶する為の媒体がこの世界の主やそれに準ずる生物に必要とも思い難かった。
だが、写しならば同じ地球人の記した物の可能性は大きく、それなら言語の壁さえ越えられたら読める物になってるだろう。思えば、当の言語の壁もこの世界で感じた事がないわけではあるから、その問題さえもないに等しい。事実として、授業で英語を習った事はあっても、それを会話や読み書きで実用性を持てるレベルではない葵は、普通に日本語で話しているが、皆も言葉が分かっていて、同じ言語で話している。
そして、実際本を開いてみた限りでも、幸いな事に書かれている文面は読めそうだった。が──
「っゔ!?」
それが読める物だと認識した瞬間に、強烈な頭痛と眩暈が襲いかかり、壁に身を寄せて、しばらくしてから鼻血まで垂れてきたものだから、頭痛で思考が散りながらも葵は困惑した。
(何だ、何故、これは罠なのか!?)
この本が気になり、これを手に取る様に誘導されていた可能性は十分に有り得る。精神的な誘導、それに近い事は魔王なら特に出来る可能性はある。
あるはずだが、葵はまた不思議な既視感を覚えていた。この世界に来てから何度か既に感じた事のある物。経験が、あるいは自分の中で、とある結論を説く者がいる。
──強くなる為の訓練で身体に負担がかかるように、欲しい物を得る為に金を払う様に、これもまた知識を得る為の代償が必要なだけに過ぎない
そう考えるとこの苦痛にも納得が出来た。納得出来てしまう事にも違和感を覚えたが、騙る者と対峙した時の術といい、この既視感は大体は役に立ってきた以上はそれに従う事に間違いはないはずだと、葵の中で結論は出ていた。
加えて、その既視感の正体、その可能性である者は最近になって見当がついている。先代勇者アオイ。あくまで可能性ではあるが、同姓同名の勇者同士たる彼が何らかの手段で葵を導く為に残した足跡の様な物かもしれないと葵は推察している。
この本だってそうだ。ならば、ここには何か必要な物が記されているはずだと、ページをめくる。
(魔王も俺が外に逃げた事にはすぐ勘づくはず。そしたら連理も差し向けるはずだ、どのみちこんな事で時間を食ってる余裕なんてない!)
記したメモの様な内容の紙を一纏めにした様な本をめくる、ギュンターの観察したこの世界における星の動きとそれによる規則性について。地球にて活動しているかもしれない他の神について。遺体を呼び出す術について。様々な記述こそあれど、1つ1つに目を通せば先程の苦痛がぶり返してしまう以上、今最も求めている物にのみ狙いは絞らねばならない。
「!これか」
行き着いたページには誰かがそのページを開いた時の特有の開き癖がついていた。その点からもこれが目的の物と考えて相違ないだろうと、葵は読み始める。
【名称“砂の遊歩道”
陣を描き、詠み、陣に触れて魔力を捧げる事でその陣は道として開かれる。その後、出口のイメージを強く、そして正確に頭の中で確立させなければならない。そうする事で距離を無視してその先へ辿り着けるだろう。詠唱の中身は後述を参照。
なお、描いた道を歩く最中にも念じる事をやめてはならない。平衡感覚を完全に損なった状態で吊り橋を渡るに等しい行為であり、その瞬間道から虚空へ捨てられるだろう。そして、虚空を歩いてるという理解を持ち過ぎてもならない。それもまた出口を喪失するに等しい。加えて、捧げた魔力による欠落は不治の物になるだろう。使用をする際にはその点をよく理解しての行使をしなければならない。
何より、理解しなければならないのは、これは我々人類の想像力によって補われた術ではなく、それを超越した存在の影響を受けた者の遺産とも言える物であるということ。リスクは背負って当たり前だと分かっておかなければならない。人としての禁忌を犯すに等しいのだ】
この内容を見るに、安易に何度も使って行き来出来る物ではないという事は確かだった。この欠落はあくまで使用者にとっては感覚的な物だが、魔力を体内に通す為の器官が狭まるに等しく、それこそ行き来をしようと思ったら、行きは出来たとしても振り返った時には道がない様な状態に陥る可能性がある。それこそ、基礎の魔力を通せる器官が大きい葵ならともかく、極端に相性が悪い物ならば、それだけで魔術の行使が封じられてしまう程のことだろう。
だが、葵は一刻も早く帰らねばならない以上迷ってる暇はなかった。葵を回収したという事は、使徒が集落に来ている状態で、来れる状態なのだから。手遅れかもしれなくともこの危機を伝えなければならない。
(今から陣を描くのが間に合えば良いんだけれど──)
その時、葵は思いついた様に意識を集中し、周囲の魔力の痕跡を探り始める。
(ギュンターさん自体は居ないように感じられる。身体能力のみで離れたにしては早すぎる。だとすれば、この術を行使したはず。なら、まだギュンターさんの行使した陣そのものがあるかもしれない!)
ましてや、これだけの代償がある術ならば、気配は大きいはずと踏んでのものだ。これで仮に追っ手であろうと、異形や魔物であろうと、遭遇して魔力の気配が散ってしまえばどうしようもない。
しかし、気配を辿っていると魔力の気配が上から感じられるのだ。上に一体何があると言うのか。それとも既に気配が霧散して──
「見ぃつけた」
「!!」
声が聞こえたと同時に葵は飛び退き、その次の瞬間には既に彼が立っていた場所は1人の少女、飛鳥連理が足を振り下ろし終え、そこに立っていた。
「ったく、チョロチョロと逃げ回るんじゃないわよ。後、勝手に人の所から物を持っていくのは犯罪よ、は・ん・ざ・い」
しかし、それでも船の上での戦いよりは初撃には手心が加えられていた。近くにあるギュンターの家の事、そして葵が自害による身体の復帰をまだ知らない事から安易に殺そうとしていない事、その2つの理由から今の葵ならば多少の骨折で済むくらいの威力で済んだものだっただろう。
無論、それは葵の分かる事でもなければ、葵の目的と一致するものでもないから関係のない話なのだが。
「……それは申し訳ないとは思うけれど、俺は帰らないといけないから。大人しく俺を帰してくれるなら本を返すのもやぶさかではないんだけど」
「ダメね、本1冊でわざわざここまで来てくれた魔王様をガッカリさせるなんて、全然割に合わないもの」
言う最中にも連理は葵の動きを目で見ていた。手心を加えていたとはいえ、失神はさせるつもりで攻撃をした以上は簡単に避けられる想定はしていなかった。だが、足元の灰色の土に引きずった跡はなく、それでも完璧に距離を取った以上、ほぼ間違いなく身体は正常な状態に戻ってると考えて良いだろう。
書斎から戻り、ギュンターが部屋から出た後はベッドに入って静かなものだった。つまり、もうその時には彼はまた死んでいたのだ。
(そうとしか思えない、でも想像出来るわけがない……!!)
だが、そもそも死なないというイレギュラーもさながら、それを手段として利用するという発想など連理には出なかった。死は絶対の物であり、そこから戻れると分かっていても恐怖に打ち勝てるはずもない。ましてや、その際に生じる痛苦を自分の手で生み出すという事、それ等を加味したら普通は出来ない。
(いや、でも……前戦った時、アイツは私相手に自分諸共死ぬ事を前提とした落下による撃破を狙ってた。元からやりかねない奴だったんだ……ッ!)
連理の身で考えれば、幼い弟を平気で斬首した男なのだから、そうした有り得ない事をする可能性は考慮に含んでも良かったはずだった。だが、連理の基準ではそれを想像出来なかった。
「なら、次は四肢をもぎ取って自殺出来ないようにしておかないと、ね!!」
地面を抉る様に足を振り上げ、刃となった風が襲いかかる。文字通り葵の四肢を奪うつもりの様だ。その勢いを増したまま、葵のいる位置に激突し、砂埃が舞う。回避動作は見えなかったが、連理はもうそれで油断はしない。
その側面から出現した葵の斬撃を心器を纏った片足で止める。葵もその刀を横に滑らせ、拮抗状態から抜け出し、その後も上から、下から、横からと連撃を加える。
「そんな考えなしな攻撃を続けていても、状況は好転しないわよ!下手くそ!」
「そうかもしれないね……っ」
葵の足元が爪先の方に集中している事が見え、わざと一撃だけ頬を掠るようにして連理は体勢を崩したフリをして身を倒れる様に後ろに行く様にする。
「!!」
(かかった!!)
葵の攻撃は前のめりになり、体勢が崩れる。このチャンスを逃さずに回し蹴りの動きに移行しようと軸足に力を入れ、身を反時計回りに回してその遠心力と風で加速した足を打ち込もうと──
「っ!?これ……これって!」
足が直撃する寸前に葵は刀の切先を地面に浅く刺し、土を巻き上げていたのだ。その結果、彼がやった事は。
「元よりは、頼りない物だけれどね!」
下から巻き上がった土を浴びた連理の足は、そこを巻き込む様に下から足の所までの高さの土の壁が出来ていた。
「これ、クライルのやつに似てるわ……!ムカつく!!」
「正直俺も乗り気ではなかったよ」
連理を欺くために使ったベッドの人の形をした枕も、この能力を使っての物だった。
葵の夢で聞いた言葉に従うのは本意ではなかった。殺した人の魂を、そしてその人の願いそのものとも言える能力を借りる事は冒涜に等しいのではないか、そんな己自身の感覚による拒否感が大きかったからだ。
しかし、もう手にかけてしまった。そして、魂を取り込んだ。そうなったのは全て葵自身の選択なのだ。その分の責任を果たす為にも、彼はこうする事を選んだ。
クライルの物と違い、無機物にのみ作用する事と、自身の身長よりも大きい物は変質させられない弱点を抱えるが、この能力は汎用性が非常に高い。
現に、足元で箱を展開しておき、連理の視界に入らない様に準備を整え、いざ攻撃が来てから巻き上げた土の幅に箱を広げて変質。そうする事で連理の足を封じる防御行動に繋げられたのだから。
「くそっ、何これ!外れないっ!!」
連理の足が取られてる間に考える。先程の上から感じた魔力は連理の襲撃による物だと思っていたが、葵が集中し始めたタイミングよりも後に連理は攻撃をしかけて来た。ならば、その上と感じた物は。そう考えたと同時に葵は見上げる。
「屋根──」
それに気付いた瞬間、連理はもう片方の足の風で土の壁を破壊し、その壁を暴風で葵に向けて飛ばしていた。
「!!」
刃を飛ばそうにも風圧の影響で上手く飛ばないであろう力。転移を使ってその影響の範囲外に逃れ、刀を構え直す。
「はぁ〜本当、本当に、腹立つ」
真紅の髪を掻き上げながら、彼女は今にも舌打ちでもしそうな表情で葵を睨みつけていた。
彼女の怒りを既にこれだけ買った状態かつ、魔王の動きも読めない中、屋根に登り、詠唱を済ませて行き先のイメージをしなければならない。とんでもない難度だ。1人でこれを成し遂げなければならない。
(でも、待ってる人達や、今集落で恐怖と戦ってる人達と比べれば、この程度の試練!!)
勇者はそう心の中で己を奮い立たせるのだ。
「アイツが腐れ男とはいえ、流石にアンタみたいな敵に猿真似をされるのは面白くないわ!!腐っても使徒同士だったわけだし……だから、後悔させてやる!!」
「いいや、俺は前進する!!彼等を殺したからこそ、後悔以上の前進を!だから、道を開けてくれ!!」




