第69話: 哀憐、しかし相容れず
現在、魔王と魔王の使徒達が同じ屋根の下にいる状況にある葵は、当然の事だが気が気ではなかった。魔王との対面を経て、使徒達に連れられてまたベッドの上に戻されているわけだが、このままこうしているつもりは彼にはない。
「シーツをくくって、それで外に降りて行けば出られそうだ……その後の事は分からないけど、ここに居るよりずっと良い」
シーツをロープ代わりに、テレビなどで見た手段ではあるが、仮にそれが失敗してもこの高さならば死にはしないだろうという前提があった。
もっとも、そうするにあたって2つの問題があった。1つ目は降りた直後に周囲の魔物達に包囲されて騒ぎになろうものなら、すぐに連れ戻される可能性が高い事。もう1つは──
「ま、窓が開かない!?」
脱走される事はやはり織り込み済みなのか、接着剤でも付けられたかの様に、窓は押そうが引こうがビクともしなかった。
身体が本調子ではない中、全体重をかけて開けようとしたからか、すぐに息が上がる。肩で息をしながらベッドの横に置いてあった丸椅子を手に取る。
「開かない方が悪いし、理由もなく閉じ込める方も悪いし、今回は仕方ない。仕方ないんだ……」
今更な事ではあるが、窓を割るという行為は緊急時でなければ悪い行為としての認識が拭えていない。罪の度合いで言えば、物を壊すよりも恐ろしい人を殺すという行為を既に経験してしまっているわけだが、それでもこの17年間で培った経験や常識が完全に覆るわけではない。
故に、自分で自分に言い訳を口に出して繰り返しつつ、葵はこの丸椅子を窓に向けて振りかぶる──
「出来れば、それは避けてほしい限りだな」
「えっ」
その途中で部屋に入ってきたギュンターの静止の声に、葵は驚いて手から椅子を滑り落とした。
まずい所を見られたと思い、滑り落とした椅子をベッドの横に戻しつつ、言い訳を必死に考える。逃げようとした事がバレれば、万に一つの脱出の可能性は絶たれるだろうと。
「いや、何をしようとしたかは置いておくとしても、この家は結構再現が出来た方なんだ。出来れば、あまり壊さないでもらいたい」
どうやら、行動よりもこの場所である事の方が問題だったらしい。しかし、それを訝しむ葵はギュンターから目を逸らさずに警戒の目を向け続ける。警戒した所で、今出来ることは限られているとしても。
だが、座る様に促されて渋々葵はベッドに腰掛け、ギュンターもまた鈍器にされかけていた椅子に腰掛ける。
「……ここは、患った妻の静養の為に建てた別荘、に似せて作った場所だ。地球への未練はないが、女々しいと分かってはいてもね、ここはせめて大切にしたいんだ」
「奥さんの……?」
「意外か?」
「いや、意外では……ないですけど。俺の知る使徒は、皆地球にいた頃の縁や、絆の影響を強く受けてる気がするので」
連理はこの世界で大切な弟と2人で暮らす為に使徒になる事を選んだ。そして葵を憎むのは、実弟である翼を殺されたから。
クライルは愛する紅音とまた会いたかったか。そして、自分の手の届かないまま、美しいまま、側で見ていたかった。それを叶える為に使徒である必要があった。
地球での日々、元の世界を捨てる選択をした者達はその選択に至る過程に必ず地球での縁が結び付き、離れる事はない。これまでの戦いでそれを知った葵は、目の前の男もまた地球の人間であるという事が分かっている。嫌でも。戦い辛くなるばかりで、辛くとも。
だから、今更意外だと驚く事もない。
「ゼーベルアは知りませんが」
「しかし、彼も同じだろうとも。地球での縁も、記憶も、何も持たない人間はいない。赤子であっても、その目が既に思い出を綴り始めている」
(それなのに、地球を滅茶苦茶にしようとする邪神に手を貸すんだ……)
「地球は──」
一瞬、魔王の様に心でも読まれたのかと思って驚いたが、彼の様子を見るに違う様だ。
「どこまでも現実的で、全てと向き合わなければならない。祈りも、願いも、叶いも届きもせず、起こる結果と起こった物と、ただ折り合いをつけなければならない。だが、誰もが簡単にそれを割り切れるわけでも、誤魔化せるわけでもない」
「だから、奇跡があるこの世界が良いと言うんですか?」
「そうさ、子供の我儘の様であったとしても、叶わない方が耐えられない。君も、地球での記憶の全てが良い物ではないだろう?」
「確かにそうですけど……」
言ってしまえば、それこそ使徒達の経験や、ノアの人達の経験した事と比べれば、小さい事かもしれないが、葵にとっては耐え難い事は幾らでも思い出せる。
「でも、それはきっと皆そうですから。その人にとって受け止められる重さが違うから、皆違って、皆嫌な記憶はあると思います」
「そう言えたら、良かったのだがね。自分は、思い出せる妻の姿がベッドの上で痩せ細った姿であり続ける事に、耐えられなかった」
「……」
「この部屋には、額縁があったんだ。妻が時間をかけて作ってたクロスステッチを飾る為にな。それすらも、未完成に終わってしまった。その作りかけの物が、次目覚めたら少しでも作り進んでいたら、などと夢見たものだよ」
なんとなく、彼が使徒である理由の察しがついた。そして、葵も小学生の時の事を思い出していた。彼女の事を思い出そうとしても、焼き付いて離れないのは校庭を走る霊柩車の姿。あの記憶が蓋をして、中に詰めた思い出の方が朧げになっている。恐らく、ギュンターもそうした事情なのだろうと。
「それでも、静養してらっしゃった別荘の方を作ったんですね」
「その方が、妻の姿を鮮明に追えるんだ。だから、逃げ出そうとも自由ではあるが、この家をあまり壊さないでほしい。これはただの個人的な頼みに過ぎないがね、君がそれを受けてやる理由もないのだから」
確かにそれを受ける理由も守る理由もないのだが、本気でここから脱出したいと思ってこそいても、そう言われて実行出来る性格ではなかった。そんな自分の甘さに対する葛藤による逡巡、その末に肩を落としながら返事をするのだった。
「分かりました……墓を壊す様な真似をする人間には、なりたくないですから」
「ありがとう、と言うのもおかしいがな。不便を強いている側なのだから」
「そ、それより、何の用事で俺の所に?」
「ああ、それがだね。あのお方の誘いも断り、殺せすらしない事で少し困っていた君の今後についてだが」
殺せるものならとっくに殺していたであろう言い方にショックは今更受けないが、直前までの平和的なやり取りから地続きで出てくるものだから、苦い顔をせざるを得ない。自分もそれくらい分けられたら楽ではあるのに。
しかし、その苦さも今から殺し合えと言われたら、いずれはやらなきゃいけない相手だから戦えるのだろうなという、最近の自分への確信に対する色が濃いだろう。
「あの方は、もう一度だけ君との対話を望んでいる。それから考える方針らしい。それまでは少し時間があるから、身体を休めておくと良い」
対話、これ以上粘っても相手の望んだ答えが出てこない事は、魔王の心が読める力さえあれば分かる事だろう。あるいは、それが分かってるからこそアプローチを変えてくるか。
どちらにしても、厄介事が続くのは間違いない。
「それを伝えに来た。それだけだ」
「どうも……」
葵の返事を聞きながら、その反応は想定の範囲内だったからか特に気にする事なく立ち上がる。そして、視線はサイドテーブルに置かれたトレイの方へ。
魔王と葵の会話の後、彼を部屋に戻した時に持って来た食事が、手を付けられていないまま残っているのだ。警戒されているのも当たり前で、三大欲求を満たす瞬間とは隙を見せやすいタイミングでもある以上、食べれば良いのにと言う事はなかった。
互いに、目の前の人間を今ここで倒せるのならば、話が早い立場なのだから。
だから、ギュンターは黙って部屋を出ていくのみだった。彼は彼で、喋り過ぎたと感じた様だ。
「……」
1人きりに戻った葵は、考える時間を得ていた。ベッドの上に寝転がりながら、顔を両手で覆う。
(人間、人間、人間ばかりだ)
自分に向けてであろうと、無かろうと、感情を向けて来るのは人間的で、その思考回路に対して自分の中で理解が含まれると、尚更にそう感じられる。
それが悪いわけではない。だが、都合が悪い。もっと、敵という生物だと思える程度に、彼等が邪悪なだけの人ならばどれ程簡単だったか。
(でも、望みの為に罪もない人々の魂捧げちゃうんだよね……)
そんな彼等にも地球での縁があって、その人達の事が心に焼き付いているから取り戻したくて、あるいは手に入れたくて邪神にその代償として魂を捧げる。自分の目的に対して執念があるからこそ、それも一種の人間味と言えるのかもしれないが。
(優しく見えても、人間的に見えても、彼等にとって俺の家族は、死んだ婆ちゃんは、あの子は、全部目的の為の養分?多くの内の1つ?)
顔を覆うのに使っていた手が爪を立てる。
(そんな事しなくても、死と向き合ってる人がいっぱい居るのに、そんな手段がある事を知っていても、地球の為に戦う人がいるのに──)
一個人に優しく出来ても、人を簡単に犠牲に出来る事はどのみち悪である事に変わりないではないか、と。
それは、目的や意味合いこそ異なれど、これまで殺してきてしまった、自己を嫌悪する様でもあった。
だが、爪を立てる為にこの姿勢を維持する腕すらも少し疲れる。怒りも、不満も、抱いたところで意味を成せない状況。
『そうだ、お前は無意識の内に私の真似事をしているのだ。悍ましいと思うか?否、それは羽化の為の工程なのだと理解すると良い。そしたら、此度の様なつまらない命の使い方などしなくなるだろう……故に、お前は自由を謳歌し、私にお前の道を見せてみろ。もっと、もっと、笑わせてくれたまえ──』
思い出すのは悪魔の囁きめいた言葉。アレにただ従うだけでは待つのは破滅、あるいはもっと酷い結果のみかもしれない。
だが──
「命の、使い方……」
今はただ、出来る事を考え、やるべき事を考え、行動に移す事。他者の思考の動きに文句を言ったところで何にもならない。
敵地でただ助けを待つか?敵の慈悲を待つか?そんな事が許されて良いわけがない。葵は勇者なのだから。
「……はぁ、よし」
*
「アスカ、勇者の監視は今日はお前に任せる」
「私ぃ!?」
「連日ですまないが、こちらにも少し野暮用があってな……仮眠は取ったか?」
「ま、まぁ……こんな事もあろうかと一応ね」
空すらもノイズと極彩色で移り変わるこの世界で、それが正確かは分からないが、それでも夜は訪れる。魔王の使徒であろうとも睡眠を取らねば支障は出る。異世界での順応が進めど、人である事に変わりはない。
だから、ギュンターもバツの悪そうな顔を浮かべる。
「すまないな、魔王様もそろそろ帰られるとは思うが、それまでに彼に逃げられるわけにはいかない。最低1人は監視をつけておきたいんだ」
「そうね、あの方の期待を裏切るのはごめんだし……まぁ、ゼーベルアとかクライルとかと違ってアンタに頼まれるなら、流石に聞かないとだし。翼の事、すごく面倒見てくれたもの」
2人がこの世界に来て、魔王の陣営に属する事を決めて迎え入れられた時、小学校に入ってるとはいえまだまだ幼いと言える時期の翼の面倒を頻繁に見ていたのは、トムスとギュンターの2人だった。
中でも、トムスと違ってまだお兄さんと言える年齢と立場のギュンターは翼にも懐かれており、子供好きな彼は翼も連理も自分の子の様に接していた。
「面倒を見たなんて程ではない、ツバサは幼いがしっかりした子だったからな。だが、子供が出来たみたいで嬉しかったものだよ」
「翼も、多分兄が出来たみたいで嬉しかったと思う……私は、しっかりした姉じゃなかったもの」
「アスカ──」
「翼が死んだのは、私が弱かったからって、分かってはいるもの。この前負けて、実感したわ」
「……自分を責めるな。ツバサにとって好きな姉は、しっかりしてるから好きだったのではなく、お前だったからだ。お前が支えて来た事実は勿論あるがな」
「ありがとう……それなら、良いな」
まだ記憶が薄れるほどではないが、疑いは考える時間が生む。自分自身が不甲斐なかったから、あるいはもっと早い段階でその要因があったのでは、そうした考えがぐるぐると過ぎる。無情ではあれど、後悔しても戻る命はないのだが。
「ごめんなさい、変な時にナイーブになっちゃって!じゃ、私は監視に行ってくるとするわ」
「ああ、頼む」
故に、その迷いを振り払う様に動き出す事にした。監視対象であり、翼の仇である男、滝沢葵の事を憎んでいれば楽なのだから。
*
(まず、寝てるかしら……起きてたら怪しい動きをしそうだから寝てる方が楽なんだけれど)
出来る限り音を立てない様に扉を開け、隙間から中の様子を伺うが、懸念していたような事は特に起きておらず、当の葵は大人しくベッドに入っている様だった。
それをしばらく見て、確認を終えれば扉を閉め直して大きく息を吐く。
(敵地であんな呑気によく寝られるものだわ)
内心でそう毒吐きながらも、今回は先程のように彼に攻撃をしかけに行きはしない。一度実行したから溜飲が下がっている事が要因としては大きいが、また同じ事をして魔王やギュンターに咎められるわけにもいかない。ましてや、先程のやり取りで今は自罰が憎悪より勝っている以上は、手を出す気力すらない。
「仇討ちも満足に出来ないお姉ちゃんでごめんね……なんて、私はただ私の為にそうしたいだけなのにね」
翼は人を害する気持ちがない子供だった。年齢よりも少し幼い印象を受ける所はあれど、正義感と善意で出来ていた子供が、自分を殺した相手への害意による負の感情に飲まれるとは考え難かった。
それすらも、想像の範囲に留まるかもしれない。そう考えて連理は扉を背に座り、膝を抱える。
片翼では、鳥は上手く飛べないものなのだ、そんな実感が、仇が近くにいるほど理解出来るのだ。敗走の記憶もまだ新しいだけに。
「ふぁ……」
だが、そんな悩みなど知ったこっちゃないという風に小さいあくびが出る。元の世界の名残など、良い気持ちにはならないが、早寝早起きを心がけていただけに、癖は抜けてくれないらしい。
「ったく……迷惑ったらありゃしない。寝てる奴を見てないといけないんだから──」
そこでふと気付く。寝ている奴、確かにそうではあるはずなのだが。
「寝てる、奴?」
使徒はこの世界への適応が進み、身体能力は総合的に優れてる者が多い。無論、それは五感に関しても敏感になる事が多いということ。
その結果、連理は自分の出したあくびの音も合わせて考えた時に大きな違和感を覚えたのだ。外の異形や魔物も敵対する対象がいない状況と、使徒達の制御下にある限りは大人しいのだ。だから、些細な音もよく耳は拾いたがる。
だからこそ、何故、寝息がしない?連理は己の中に湧いた疑念を晴さんが為に扉を開けてベッドまで駆けていき、その姿を見る。
そこにあったのは人の形状をした枕だった。
「──こんなの、どうやって?」
部屋のどこにもあった記憶はない、外に出た様子もない。だというのに。
しかし、連理はそれに頭を悩ませる余裕はない。葵が脱走を図ったのだ、ギュンターの時の未遂ではなく、今回は姿を消している。逃がしてはならないという話をした直後でコレは、あまりに情けない。足元に風を吹かせながら急いで追跡に向かう。
(身体の状態は良くない、それならまだ遠くまでは行ってないはず!!)
*
この家はどこにあるのか、どこまでの距離にあるのか、何も判明していない。これが分かれば仲間への良い土産話になったかもしれないが、情報を探る事は結局出来てなどいない。
だから、とりあえず生きて帰還する事こそが最優先であり、その為の術を探す事こそが今の1番の使命。葵はその使命を達成する為にそこかしこに触れ、探り回っていた。
寝ている演出作りの為に慣れないことをしたから微かな疲労はあるが、先程までと比べたら疲労とすら言えない程度の物だ。折角そうまでして作った隙を無駄にするわけにはいかない。
(行き来が簡単な行えるわけがない。何らかの通路とかがあるはずなんだ)
しかし、調理場や物置きや、リビング、どこも普通の部屋で隠し通路の入り口らしき物は見つからなかった。加えて、魔王との会話をした時と違ってどこも灯りがついておらず、壁掛けの燭台の灯りすらもまばらであるだけに視界が悪く、探索に不向きな状況が出来ているのだ。
灯りがあっても見つかりやすくなるリスクが高く、今見つかるとすれば1番可能性として高いのは連理相手。脱走を図った事が2度目の発覚で彼女相手とあらば、次はどうなるか葵としては分かった物ではなかった。
(あと行ってないのは、書斎か……)
魔王がいた場所。今は彼がいるわけでもなければ、この家の中にいたとして書斎を陣取り続けているとは考え辛い。
まだ連理が追いかけて来てない段階、しかし警戒する様に周囲を見回してから書斎のある奥まった廊下を進んで──
「静寂には程遠いね。口よりも余程喋ってるではないか」
連理以上に遭遇したくない者の声が背後からした。振り返るわけにはいかない。無視して走って、怪しい場所を見つければあるいは、などと。悪巧みすらも筒抜けなのだ。
「──魔王」
銀髪の男は、赤い瞳を細めながら微笑みを浮かべていた。




