第52話: ただ、守る為に
「ライさん!」
「ミア、街の住民は今この辺りにいるので全員か」
「はい、先程それぞれの地区の人魚さんが確認して下さっていました」
「緊急時ってのに偉いもんだな」
純粋な感心の言葉を漏らしながら、辺りを見渡す。
「これから、どうなるんだろう」
「私の溜めたコレクションが……」
「ねぇ、エリアは?エリアが居ないじゃない」
「あ、あっちは私の家のある方!やっぱり、もう帰れないのかしら……」
精神的な負荷で思わぬ行動をする者もいなければ、叫ぶ者もいない。予想していたよりも、彼女達に落ち着きがあるのは公開処刑、そして解除された盲信、それらによって遠からず自分達の日々が崩壊する覚悟はあったのかもしれない。
訪れると分かっている災いを前に、それが必ず来ると分かっている事と、実際に起きて冷静で居られるかはまた別である。彼女達は自分達では対処しきれない事柄だと理解しているからこそ、自分達に出来る事を今しているのかもしれない。その姿が今の様子なのだろう。何より──
「アンタ達、こんな所で折れるんじゃないよ!アタイはまだまだ酒が飲み足りないんだからね!!むしろ飲まないと力がそろそろ抜けそうな頃合いまで来ている!!」
「仕事の間ぐらいお酒については我慢しなさいよ……」
「でもでもシエルぅ。こんなぁ、時までぇ、アルコール臭がするところがぁ、一周回って安心と思わなぁい?ヴィルガ、酒くっさぁ♡」
「ああ、確かにそれは、そうかも」
「よぉし、整列しな。今からまとめてホームランすっからよぉ!!」
これで安心感を与えられるのかどうかは分からないが、警備隊が継続して民間人を守る立場として取り乱していないのが大きいだろう。そうする事で、突然異世界に放り出された状態に戻されるのではなく、この街の住民としての立場が維持される。何より、今の状況はまだ何とかしてもらえるかもしれないという希望を抱いていられる。
元クライル親衛隊の人員も、多少の後ろめたさを抱いている様だが、その分だけ皆を守ろうと気丈さを保っている。
(だが、それがずっと続けられるわけでもない。出来る限り早い決着の方が良いのは間違いない事だ)
そうして、像の方に視線を向ける。葵の作戦のタイミングを待つ様に。
*
その頃、葵は像の腕から腕を乗り換え、魚達を撒きつつ、箱を破壊しつつ、時には踏み台にしつつ、クライルの居る肩まで間もなく来ようとしていた。踏み台にしていた箱を突然消されても接近してくる魚に刀の先端だけでも当てて転移を繰り返し、高度を取り戻している。葵の能力を考えたらここから接近戦に持ち込まれるまで時間を要さないだろう。閉じ込める能力による奇襲も一度見せてしまった以上、ゼロ距離での戦闘は得策ではない。
「でもぉ、そこに弱点がある」
そう、葵の着地点もルートも、クライルの制御下とも言える。しかも好都合なことにゴール地点が明確だ──
「っぐぅ!?」
葵がクライルの元に辿り着く寸前、彼に向けて伸ばされた手は、木の棒の様を持つかの様に容易くその身体を握る。
弾力のない手は握り込めば、皮も肉も緩衝材にはならず、その形状のままの圧倒的な質量と密度が細身を砕かんとする。
「ぁ、うああぁああ゛!!がぁぅうっぶぐ……ッ!!」
「目前だったのに、惜しかった物だねぇ」
ミシ、ギチ、と人体から普通は鳴ってはいけない音が葵の身体から響く。歪な折れ方をした骨が内臓に損傷を与え、葵の呻き声は声にならず、途中から吐血に取って代わられる。これでも瞬く間に握り潰さずに手加減しているだけなのか。それとも、それが出来ないからこうして徐々に身体を破壊されていくのか。そのどちらであったとしても、苦痛という耐え難い感覚が常に張り付いて来る事は間違い無いだろう。
白く、滑らかな像の手の上が赤で彩られていく様子を、目前で見ながらクライルは口元を手で覆い、笑みを閉じ込めていた。
「くひひひぃっ、今からでも降伏したらこれ以上苦しめたりはしないよ。ああ、しないとも。苦しめたいわけではないからねぇ……どうかな?」
「ぐ、がぁっゔっ」
「返事は、まぁ出来ないよねぇ」
何度も降伏する様に求めるのは、女々しさというべきなのか、執着と言うべきなのか、そんか自分自身に肩をすくめる。だが、このまま鑑賞する気もなく、その手で握り潰してしまえと最後の決断を下す。
滝沢紅音の姿をした偶像が血で汚れようとも、片腕の手首から先が消えようとも心は動かなかった。だが、現在進行形で血を流している彼を見ながら滝沢紅音の姿を思い浮かべている。何とも複雑怪奇な物ではないだろうか?動くほど、話すほど、紅音から遠のく彼に紅音を見出して止まらないのだから。
だから、彼は滝沢紅音になるべきはずで──
「……は?なに、その、顔」
赤い泡を口から鼻から絶え間なく垂らしながら、出ようと直線まで必死にもがいていたのは何だったのかと思わせる葵の顔が、クライルを唖然とさせた。額からも、口からも鼻からも、血を流したまま、その両目がクライルを捉えていたのだ。偶然目が合ったわけでも、恨めしげに見つめてくる敗者の目でもない。敵を捉えている、戦士の目のまま、クライルを見ているのだ。
そして、クライルにバレない様に閉ざしている葵の口の中、舌の上で転がしている物が、微かな光を灯していた。血に濡れているが間違いない、魔石だ。銀の女神に頼んだ物が完成したらしい。
「街の皆!!聞こえてるだろうか!!」
街に張り巡らされた魔力回収用の魔石、そこに繋がった爆破の術式が込められた魔石欠片達。最も大きい所を通信用の魔道具と同じ術式へと変換すれば、街の中にも使われているピラー、魔石があるからか、街に居れば必ず言葉の届くスピーカーと化す。
「こんな、こ、どにっ、げほっ!!……ふうぅぅ、こんな事に、なって申し訳ない」
*
「今の、アオイ君〜?」
「その様だが……」
『そして、皆に感謝をしたい。皆を守ってくれてありがとう、お互いを助け合ってくれてありがとう』
戸惑いながら辺りを見渡す人魚や、続く言葉を待つ様に見上げる人魚、反応はまばらだ。
『だけど、あともう少しだけ力を貸してほしい。君達の力を合わせて、君達にのみ与えられた魔術で、この街を浮上させてほしいんだ。あの像は、俺が引き剥がす』
そして、当然ながら皆の戸惑いは強くなる。使い方は分かっていても、協力して1つの魔術を行使した経験がない。言ってしまえば当の葵にだって経験のない事だ。それをいきなりやれと言って、皆がすぐに出来るわけでもなく、ましてや集中力が必要な魔術をこんな不安と混乱の渦巻く中で行使をしろなどと。これまで静かに生きて来た彼女達にそれを強いるのは無茶と言えるだろう。
『君達の今の不安の種は、きっと色々あると思う。その全てを払う事は出来ないし、俺が出来ることは、その不安の一部を物理的に払う事、クライルを倒す事だけだ』
人魚達にとって、クライルは一時的にでも保護してくれた人間だ。だが、この声の主が公開処刑の時に、自分達を逃がしてくれていた事も覚えている。そして、今この瞬間も戦っているのは彼だ。
『だが、その分だけ君達の不安の1つを、俺が確実に払う。君達は君達だからこそ守れる物を守ってほしい』
それは、人々の心を打つ力がある物が特別あるわけでもなく、掴む為のノウハウもその中にはない。加えて、彼女達のクライルに対する感情、それと繋がる街への感情、葵という部外者に対する感情、それぞれの蓄積した信頼という貯金を彼女達がどう使うかを確実に左右する事など出来ない。
「…………」
人魚達の間で考える様に暫しの沈黙が生まれる。
彼女達はようやく、完全に自分の意思で考える事が出来るようになった。この大事な時にその重要な選択を託すリスクも分かってはいても、それをまた操るような真似など、出来たとしても葵はやりたくはない。
だから、彼はただ頼んだだけだ。頼む事しか出来ない。
「──ねぇ」
1番最初に声を上げたのは、警備隊のシエルだった。
「私は、貴方達を守る事を第一に過ごして来たわ。今だってそうよ。でも、ただ無心に、こうしていれば間違いないんだって、そんな風には突っ走れるかは、今は多分違う」
真実の全てを知っているわけではないが、捕えた男達を親衛隊に引き渡した事も、処刑に立ち会った事も、何度もある。それ故に、クライルに対して感じていた胡散臭さも、今となっては靄が晴れた様に納得に変わっている。
そんなシエルにとって、短い期間ながら葵と行動を共にしていた時間がある分だけ、彼への困惑よりもクライルへの不信の方が上回る。
「でも、だからこそ私は尚更、自分の意思で貴方達を守りたい」
「シエルゥ……」
「だって、今すごく頭がスッキリしてるのよ。それでも、この街の外が、この川の外が化け物だらけって分かっていてもなお、そう思える自分をちゃんと、今ここで証明したい」
ライやミア、ヴィルガは言わずもがなだが、他の仲間はどうか、と見遣る。同じく武装している親衛隊も含めて。
そして、次にその視線は同胞達へと。
「もし、皆が不安で動けなくて、出来なくても私はやるわ!1人でも、アオイの言っていた事をやる。この街が後、どれだけ保つのかもわからない。それでも、今ここにあるわ、何より貴方達がいる!私には迷う理由のない話よ」
それは皆の迷いを責めるためではなく、自分の意思表示に近かった。腹が立っている、騙されていたことや、それに気づけなかった事。困っている、これからはどう生きるか、街を諦めたとしてこの下半身はどうなるのか。考える事はあるが。
何もかもひっくるめて。契約しなければいけないほど、その魅力に負けるほどにお淑やかな女じゃないと、叫びたいのだ。
「私は、戦うわ!!」
シエルの宣言に小さく頷く者、呆れた様に肩をすくめながらもやる気を見せる者、警備隊の反応は揃っていく。そして、親衛隊もゆっくりと頷く。より近くでクライルの方を見た者として。
「だから、皆を守る。だから、貴方達も互いを守ると思って、切り抜けちゃいましょ、ね?」
そうである。この街がどのみち助からない事は薄々分かりながらも、それでも自分達はそれで終わるわけじゃない。むしろ、手のひらで踊らされ続けて、ここで諦めてしまえば、残るのは何より惨めさだ。
「わ、ワタシだってやりますわ!!」
「そうだ!私だって!!」
「人魚舐めんなよ!!」
シエルの言葉に感化され、湧き上がる人魚達を見て、ミアは手を強く握り込んだ。上手くいくようになるという保証と、彼女達の地球の頃からあった生きる意思を感じて。
「合図は俺が出す、俺がこの街を覆う結界を撃ち抜く」
「その為の街の浮上ね、確かにあの規模の結界を張り直せる人もいないし……でも待って。何の為に結界を壊すの!?」
「……あの馬鹿の必勝法さ。アンタ達が気にする事はない。良いな」
微かな緊張の面持ちとなったが、首肯はする。葵自身がこちらは何とかすると言い切ったのだから、それを疑う理由も余裕も、彼女達にはない。
(葵さん、死に向かわないで──)
ミアは1人、それを思い握る手を強くしていた。聞こえて来た声の間から苦しそうな吐息が聞こえた。限りなく普通に喋ろうとしていたのは分かれど、それでもミアの耳には聞こえてしまった。
そうして、無事を祈るように、彼から貰ったリボンを握っていたのだった──
*
「……喋りすぎたねぇ。こっちの事についてあまり言わなかったのはぁ、まぁ手加減ってところかい?」
クライルの退屈凌ぎの問いかけの最中も、像の握り込む手は強くなっていた。出来る限り平成を保って喋るのも相当苦しかった。息の代わりに血、紡ぐ言葉の代わりに血反吐がとにかく出て来ては、身体の痛みも含めて、かなりの無茶だった。
「まぁ、良いさ。満足したみたいだし、やっちゃって」
最早勝ちが決まっている立場だからか、どこか無気力に、そしてどこか渇いたように。こんなはずではない、ここからが本番なのに。だが、何でも良い、滝沢葵さえ捕まえれば最高の水族館が生まれる。紅音を展示品とした美しい水族館が。
「全く、申し訳ないったらありゃしない。君を綺麗に、丁寧に捕まえてあげられないのがね。ごめんねぇ、紅音の素体──」
彼に対する尊厳も、存在も無視した呼び名はクライルにとっての賛美で、葵にとって最も不快な呼ばれ方だった。
だが、無慈悲にも像の握力は強まっていくばかりだ。
「っゔ、ぐあ、あぁああっ……!!」
「くひひっ、死ぬまでその時間を暫し、お茶の代わりに堪能してねぇ」
もうどれほどの骨にひびが入り、時には折れ、葵の臓腑に負担がかかっていることか。今の時点で痛みで意識を奪われてもおかしくない。
──普通なら。
「!?」
これが、この状況に甘んじた事こそが明確な油断と言えただろう。
「捕まえた」
そう言われて視線を下ろした瞬間にはもう遅かった。葵の切先がクライルの脇腹を微かに、ほんの微かに刺していた。
彼にはそれで十分だった。相手に何かをさせる前に、すかさず鏡を展開、転移。
「くっ……!!な、にが!?」
クライルを襲う浮遊感。そう、何故浮遊感に襲われているのかに思考が先に奪われたのだ。
葵は像に掴まれ、握り込まれる寸前に人差し指と中指の間から腕を伸ばしていたのだ。刀に少しでも刺さっていれば、転移に巻き込める。その結果、クライルと像の2つを巻き込んで街の外へと傾き、落下する様に仕向ける事が出来た。
だが、当然像は間に異物が挟まっているからと、決して加減はしてくれない。挟まれた葵の腕の骨がどうなっているか、想像に難くないが、あまり想像したくない様子になっているだろう。それでも、接近出来た。今度はこちらがようやく捕まえられた、それならば良いじゃないか、と。
「紅音の顔で、そんな無茶をして良いとでも思っているのかいぃ!?」
「滝沢葵の意思でそんな無茶をする事を、決めた!!」
像ごとの転移だったからか、葵は拘束をこそ抜け出していないが、操り主のクライルの混乱もあって、力で指をこじ開けられるぐらいにはなった。膝を無理やり間に押し込んで、無事な片手で開き、クライルへの追撃の為に宙へと身を投げる。
「もう逃がさないぞ、クライル!!」
「逃げていないとも!だって、こんなにも、こんなにも、こんなにも!!待っていたのだから!!」
滝沢紅音と水族館で出会った日から。自分の中で最も美しいと思った物を知ったあの日から。あんなに美しい人を水槽に閉じ込めたいという昏い欲望も、ずっと、ずっと、色褪せずにここにあった。
その達成の日を待って、待って、待った末がこれだ。
「違う!!貴方は、お前は、逃げ続けてる!!」
「っは!!諦めているとも、彼女との再会も難しいだろうとも、言った。聞いただろぉ!!そんな、そんな相手に、その言葉が効くと思うのかい!!」
「そうして、お前は低解像度の滝沢紅音でとりあえず満足して、お前の中の本当の彼女の記憶を、徐々に忘却していく事になるんだ!!」
「!!!」
「いつか来る紅音を待ってるって!?劣等感のあるお前が、また会った時の彼女に幻滅されるのがただ怖いのに、出来るのか!?」
「素体が、よく喋るねぇ」
「残念ながら俺の姉さんはな、ブラコンなんだよ!!いっつも、いつも、俺にベッタリで!!そんな事すら知らないのに姉さんを作ろうなんざ百万年早いんだよ!!」
「……口が、過ぎたようだね」
幸い、まだ像もバランスを崩してる最中。結界の上に着地出来ればクライルの救出と、今度こそ葵を倒すのだって可能だ。これはチャンスになり得ないのだと教えようとした。
その最中だ。
パリィン、そんな音が、響き渡って。辺りの水が鮮明な色を映し始めた──
「は、は?」
そして、葵とクライルを置いて泡を纏った街が上昇を始める。
何が、何か起きたのだろうか?自分の手のように足のように分かるはずの、自分の領域が、苦労して生成した物が勝手に活動するは、勝手に破壊されているのだ。遂に、水族館の人魚達は自由に泳ぎ出したというのだ──
「クライル!!!!」
突如として水中戦になった2人。そして、クライルの心の乱れと領域が遠のいた事によって、思うように稼働しなくなった像が沈んでいく。相応の質量を持つなら、浮けない。偶像は水底へと落ちていくのみだ。
「は、はは、はははは!!でも、せめて、君さえ、君さえ居れば!!!」
クライルは葵に向けて両の手を伸ばす。だが、それはこれまでの様な彼に対する勧誘の意味合いではない。
「な゛、ぁ──」
伸ばした手、その指にはいつもアクアマリンの指輪が嵌められていたが、葵に気付かれない様に変化をさせていたのか、棘の様に細く、鋭くなっていた。それが、葵の胸を貫く。
ゴポリと、葵の口から赤い泡が溢れ出すした──




