第49話:乙女の夜明け
もしも、もしも勇者がここで敗北したらどうなってしまうのか。此度の戦いでは、死ぬだけならばまだマシかもしれない。葵が敗北し、彼に捕獲されればその勇者としての役割を取り戻せる事はなくなる。その瞬間から、滝沢葵の名は奪われ、滝沢紅音とされるだろう。そこから解放される可能性があるとすれば、滝沢紅音本人がこの世界に来てしまい、彼女がクライルの手に落ちて用済みとなった時だ。それで解放される可能性も高くはない。葵は死ねない以上、その後はどうなるのか。魔王か、邪神に差し出されたらどうなってしまうのか。
──そう呼ばれるほどの存在だ、俺を本当に殺す事だって容易いかもしれない
むしろ、そうした存在すら殺せない。死んだ後にまだこうしてここにいる事すらバグの様なものなのだから、それですら殺せなかったらどうなるのか。そもそも、そうした存在が意図してそうなる様に仕向けた物だったら?
そしたら、いや──
──何だ、これ。既に俺は死んだ方が、死ねた方がマシだと思ってないか?
自分が負けたらどうなるか。負けた時のことなど考えてはいけないはずだった。あの宣戦布告は?勇者になりたいと願ったのは?どれもが茶番になるではないか。しかし、今回の使徒相手の敗北の意味するところ、相手は暴力で満足する人間ではない事がそれを強く意識させた。ただ争いを楽しんでいたゼーベルア、肉親を殺された復讐に燃える連理、これまでの使徒と比べれば丁重に扱われるかもしれない。
だが、いや。だからこそと言えるだろう。これまでの戦いを甘く見ていたつもりはなかったが、この時に強く意識したのだ。敗北の意味するところを。生死の先、続いていく世界のその先を。残された人々の事を。
──そう、そうだ。だから、だから俺は処刑の時に新たな力に目覚めたんじゃないか
人が当たり前の様に死ぬ事も、当たり前の様に殺す事もまかり通ってはならず、死後もその命が弄ばれるなんてあってはならず。
ある意味で、クライルの飾っていた人魚達は、クライルの計画の一端は、葵にそれを強く実感させる事に一役買ったと言えるだろうか。
──そうだ、姉さんがアイツに捕まったら。俺がここで負けたら、ミアやライは。リンドは。ノアの皆は。地球で今も日々を生きている皆は。俺が、殺した人々は
『そして、勇者はその親玉への道を開ける存在。勇者がいて初めて我々はこの世界に戦いを挑める』
それは、葵が背負う物を意味する。自分の生んだ犠牲も、他者の生んだ犠牲も、増えれば増えるほどに言葉の意味が強く、重くなるのだ。背負う物の尊厳も、生命も、負ければ次なる勝者に自由にさせてしまう。
責任を取らねばならない。勝たねばならない。殺したからこそ、死を見たからこそ、勇者であるからこそ、それを果たさなければならない。
──そうだ、俺がどうなるかじゃない、今、この時にかかっているのは、皆がどうなってしまうかじゃないか
立ち上がらなければ、早く、早く。
本物の世界を取り戻す為に──
*
「…………」
葵の全身を閉じ込める長方形の水槽、その中で眠る彼を眺めながら、クライルは本来喜ぶべき状況のはずなのに眉を寄せていた。
「何故、まぁだ変化が始まってない?」
そう、本来ならば意識が絶たれたこの時点で変化が始まる頃のはずだった。これが双方の同意がある状態、相手がそれを受け入れる状態ならば閉じ込めた時点で変化が始まるが、それは無論戦闘時の様に不意打ちでの使用の際に成立するものではない。
故に、当然ながらそれ以外の手段は存在している。そも、この世界における身体とは本来精神あってのものであり、精神が身体を成すならば、まずはその意識の部分を絶ってからでなければ変化の力は作用しない。逆に言えば、相手を精神的な抵抗力を持てない状態にさえ出来たらこの能力は適用される。そして、この能力は条件さえ整えられたら必勝と言っても過言ではない。精神的な拘束力がなくとも、相手が戦えない状態に変質させられるのだから。
しかし、まだ目の前のそれは何にもなっていないのだ。
(やっぱり、勇者ってものはぁ、何らかの例外がぁ?いや、そんな例外があったらぁ、こっちとしてはもっとバランスを考えて欲しいところだけどぉ)
もしもを考えた場合、今の間に彼の仲間を先に捕獲してしまった方が確実かもしれない、そう思い至る。邪魔が減る上に、まだ何かが葵の意識を保っているのならば、彼等の身を使えばそれを折る事も出来る。片方は使い魔のジャックこそ出来るが非戦闘員寄りであろう事、もう片方は心器使いとは言え手負い。幾らでも捕獲の手段はあるだろう。
そうして、行動に移ろうと──
「……うん?」
一瞬目を離した隙だった。葵を閉じ込めてる水槽の前に、クライルの目を引く美女がいるではないか。無論、彼の好みは紅音で、紅音以外の至高は存在しないが、それでもなお強烈な存在感を放つほどに美しかった。紅音の黒髪とは正反対の銀の髪に、宝石の様な赤い瞳の美女が、突如としてそこに出現していた。
その美女の姿は何度もノイズに掻き消され、身体の形状を何度も保てなくなりそうになりながらも、自分の身体にも、クライルに目もくれず、ただ1つの目的の為に動いていた。
「起きなさいな、休んで良いのは使徒に勝ってからよ」
そうして、水槽をすり抜けて葵の唇に自分の唇を重ねる。リンドの酸素を、吐息を、葵に託す。
(馬鹿ね、私)
クライルに認識されていない一瞬を狙っての行動。そうでなければ、2人の間をこの壁が阻んでいただろう。
だが、ここは最新部。リンドの身体の維持がほぼ出来なくなってる事を思えば、この魔力の濃度の中この為だけに飛び出すのは自殺行為に等しい。この身体が霧散してしまえば、リンドという存在の先はない。それでもこの瞬間に賭けるだけの価値が、意味があった。
(私との約束の為にも命を彼が賭けてくれるのなら、私だって賭けなければ対等じゃないもの)
都合の良い女じゃない?本物が欲しい?自分はねだって終わりか?それが叶う前に消えるリスクの方が高いから何だというのだろうか。それを葵が聞いていれば、無理をしなくて良い、命を優先した方が良いに決まってると言うだろう。だが、譲られて、守られて、待つだけは彼女の在り方に反した。
唇を離し、届かない笑みを浮かべる。彼女の身体が光の粒に変わっては消えて、再生成されなくなっていく。
「黎明を見せて、アオイ──」
リンドのその言葉はまるで、世界の平和を託す静かな願いの様だが、彼女の望みは最初から変わらない。夢を終わらせて本当の世界を見たい、葵の語る世界を知りたい。その為にこの邪神の作った世界を破壊したい。それが彼女の願い。
彼女の望む夜明けは静かに訪れるものではなく派手で、破壊的なのだ。
葵も同じ目的を抱く様になったのだ。ここで応えない理由があるだろうか?
「──っ」
葵の瞼が微かに震え、その隙間からは青い瞳が覗く。意識を取り戻したばかりで、脳も当然活動を再開したばかりで頼りないはずだ。この一瞬呼吸が出来るようになったからどうだというのか、そんな状況のはずなのに。
確かに彼は曖昧な意識の中で抱いた決意を胸に、今にも消えそうなリンドを見ていた。
「らあ゛ぁぁぁあああ゛あ゛あ゛!!!!」
折角託された酸素を全て吐き出しそうな咆哮。それ自体に意味のある行動ではないのかもしれないが、今の彼はそれを気力に出来る。
故に、自分を閉じ込める水槽を刀の柄で破る事だって容易かった。
「……へえぇ。そういう事が出来る精神力がぁ、湧いてくるタイプだったなんてねぇ」
上半身しか残っていない、しかも腕すらも消えてる状態のリンドを片手に抱き寄せながら、葵は刀を握りしめる。
「アオイ、遅いじゃない」
「うん……いつもごめんね」
だが、2人のそんなやり取りをクライルがただ眺める理由はない。半ば舐めていると取られてもおかしくない享楽じみた挙動は幾つかあったが、それは彼の演出みたいなものであって、予定外の事にまで付き合う理由はない。なにせ、彼もまた目的は変わらず、葵を捕獲する事が最優先だ。
「無粋だなぁんて、言わないでおくれよ」
体力の戻ってないであろう今を狙って箱を展開。上下左右今度は四重で封じ込める事でより確実に捕獲する。1回、既に脱出されたのだから2回目3回目を警戒して厳重にしていて損はない。ましてや、相手は勇者なのだから尚更だ。故に、そこに加えて更に外側から魚達の包囲網も作る。
さぁ、これで満身創痍の少女を抱きしめながら戦えるか?
「リンド……ッ」
だが、葵とてこれにまた引っ掛かる理由はない。この能力の本懐は正面から放たれる事ではなく、不意打ちで使う事にこそ意味がある。
故に、地を蹴り正面の箱を踏み台にして跳躍し、まず1つ目の包囲を抜ける。しかし、それでも魚達が包囲から接近、1匹は足を、また1匹は首を、また1匹はと、余さずに葵達に敵意を向けて襲いかかってくる。
「……君の言っていた通り、俺は心から普通の女の子と言い切る事は出来なかったと思う。命を賭けて守られたし、そもそも俺の中に隠れられちゃったり、とんでもない力を持ってたり、そもそも君が邪神に狙われる事情があったり……色々と、沢山」
クライルに接近する様に背を地に向けながら落下、その最中に刀を振りながら一回転。刃の黒き煌めきが軌跡を残す……否、それはそう見えるだけではなく実際にその軌跡の中に刃が光っていた。
「おやぁ、アレは……ッ」
魚がそこに接触した瞬間、刃が破裂、拡散。これまで遠距離でのみ使用していた物を機雷のように利用したのだ。拡散した刃は側に居た魚も巻き込んで迎撃し、包囲を未遂に終わらせる。
「でも、同時に君が普通の女の子みたいに見える所も沢山見て、考えたんだ」
先程までよりも技の使い方に慣れがある気がするのは何故か。あるいは、戦いに心が向かう事への躊躇いと恐怖心を克服したのか、押し込められたのか。今の彼にはより明確な戦う為の意味が根底にある気がした。
「だからこそ、君自身が自分というものに戸惑うからこそ、聞きたいって。そう思ったんだ。君自身が、何になりたいかを」
葵の片腕の中に残されているのは最早光の粒のみ。視線が合ってるのかも、そこに彼女がいるのかも分からない。
それでも、居る、彼女との繋がりが消えていない確信がまだ残っている。
「俺がそう思えないと成立しないって分かっている。今ならきっと、君の望みに応えられる気がする。今なら、今の俺は出来る気がするんだ。だから──」
誰かにそういうものだと言われてそうなるだけと言うのは、ましてや記憶を持たない彼女にそれを強いるなどと、それを許してしまえば個人を尊重するとは2度と言えなくなる。彼女が葵の意思を尊重する様に、葵もまた彼女にそれを返したかった。
急がねばならない時で、彼女の命を握っている状況で、それでもその問いかけをするのはきっとエゴだろう。だが、リンドとは気が強く、自我が強く、強くあろうとする人だった。それならば、その全権を託すなど、らしくないと思ったのだ。
葵は覚悟を決めた。彼女はどうする──
*
リンドの意識は狭間にありながら、彼の言葉を聞いていた。彼女は葵がまだこの世界に来た直後の時、自分を何だと思っていたか。何になりたいと思っていたか。
ただ、この世界が不愉快だった。ただ、贋作で満足させようとされてるみたいで、贋作で満足しようとしているみたいで、それが気に入らなかった。だから壊したかった。何故、何で、そんな理屈は、記憶と共にどこかへ行ったのかもしれない。この世界の主たる邪神のやり方が気に食わない。そして、それに対抗する為には1人では何も出来なかった。その為のパートナーとして、鍵たる自分の使い手として、葵でなければならなかった。
そして、仮のまま葵に所有者になってもらった。仮のままの関係で来て、彼に所有者という立場の意味も実感をあまり与えないままここまで来てしまった。現世とこの世界を最も簡単に繋げる方法、そして繋げられる存在。鍵。それを1人の人間に背負わせるということの重みを。
この世界の人の命は、枝の様に容易く手折られる。自分の命の保証と引き換えに、魔術、現実離れした身体能力、そして時には心器の様な物を持てる事もある。それら全てを引っくるめた、異世界が故の万能感が夢で終わらずに、現実にも持ち込める、現実をこちら側に引き込めるという事はかなりの魅力になってしまう。夢が終わらない、夢が現実になり、何でも出来る可能性を持つ自分が本物になるのだと言われたら、その欲望に耐えられるだろうか?
意識の狭間、彼女に問いかける様に巡るそれは、避けて通れない事実だった。
滝沢葵は一般的な現代の日本人だ。彼の抱く彼自身ではどうしようもない苦痛となる悩みも本当はありふれていて、そのありふれた悩みから解放出来るかもしれない存在でもあるのがリンドだ。手軽に、世界を滅茶苦茶に出来る権利が彼女だ。その手軽さという物は一度手を出せば戻れず、そしてその一度で後戻りが出来なくなる。そして、それだけで良くも悪くも特別になれてしまうのだ。彼女の存在そのものが麻薬の様な物だ。
そんな世界滅亡スイッチの様な存在であるリンドを、成人してすらいないただの子供が正しく扱えるのか。記憶のないリンドが何となくで選んだ結果がこんな物であったと後悔しないと言い切れるのか。
そして、そんなただの子供である彼にとって、人類の命運を握る鍵などという物が、余計な重荷ではないと本当に言い切れるのか。彼女が本当にそうした存在であると納得出来る理由もない中で。
記憶がリンドの判断を、葵の判断を、正しかったと保証してくれるのだろうか?
リンド自身が世界を望む理由も分からないのに──
「そうね」
だが、その狭間の中であっても彼女の声はいつものと変わらず迷いがなかった。
「私自身、そういう風に自分が作られただけなんじゃないかって悩む事もあるわ。だって、この夢の世界と、中でも地球が出口になるのよ?あっちの世界だってそれよりも広いだろうに、何でわざわざ?そこに人為的な物が入っていないなんて、言い切れない。まして、記憶喪失?都合が良すぎるわよ」
自己分析をしていたものの、それでも答え合わせは訪れない。それに対する不安がなかったわけでも後ろめたさがなかったわけでもない。
「それに、アオイはお願いと言われたら断れない性格よ。私があの時庇って、恩ある相手の頼み事を断る事も出来ない。だから、好都合な人間性と言えばそうね。まぁ、この街では極めてレアなアオイの断る時があったわけだけど」
だから、騙せてしまったと言っても過言ではないのかもしれない。世界を賭けた戦いに、身の丈の合わない人を──
「でも、そんなわけがないじゃない?」
それでも、リンドは否定する。
「最初から私は私の利益の為に動いてたし。そしてアオイをこの戦いに呼び込んだ。私の目的は変わらないから、後悔なんてするには遅すぎる。それに──」
絹の様な銀の髪を手で払いながら、上を向く。
「私はね、私を正しく使えそうにもない男を選ばないの!道具にも言い分はあるし、男を見る目がないみたいに言われるのはとぉっても、不服で不愉快!!これが私のネガティヴ感情だと言うなら今から速やかに、無駄なく始末してやるわ!」
片手を腰に当てながら、もう片手を問いかける自分、あるいはネガティヴに指を向ける。
「アオイは、馬鹿で、人使いも荒いし、自分の意見は言わないし、自信もないし、無茶ばかりするし、すぐに感情移入するし、悩むし、とにかく悩んでばっかりだし、なのにたまに勢いが良すぎる、そんなどうしようもない奴よ」
差した指が、彼のダメな所が明かされるに従って、立てる指の本数は増えていった。言葉だけ切り取れば、やはり間違いだったのではないかと思われる程にボロカスな内容だ。
「でも、そんな彼だからこそ、尚更私は彼の為の鍵になっても良いと思える」
彼を所有者と指名した少女、そこに明確な動機はまだなかったとしても。
「彼が良いと思った。彼になら任せても良いと思った。彼なら託せると思った。きっと、いずれ本当の選びたかった理由が出てきても、それを補強するだけになるわ。賭けても良い」
地球の物語を知ってくれている事に喜ぶ葵。地球に興味を持ってくれてる事に喜ぶ葵。心身共にまだまだ未熟な彼だが、そんな彼だと知ったからこそ、リンドもまた地球を本当の意味で知りたくなれた。
「だから、グダグダ悩むのなんておしまい!今必要な事じゃないわ。いずれ私は私と言う存在を知る。その時にまた考えたら良い。そんな事よりも、今必要なのは私のなりたい物よ、もう散々聞いてもらった我儘だもの、聞いてもらうに決まってるじゃない」
存在、どんな存在になるかの話だ。葵の望むものになるはずだったのに、思わぬ時に彼の我が出たものだから、リンド自身が決めなければならなくなった。所有者にどんな道具かを定義してもらうはずが。
だが、自分の大事な時に彼のエゴを見られたのは満更でもなければ、確かにその方が自分らしい。道具に名前を書くのは自由だが、どんな見た目の道具かを決めるのは所有者の仕事ではない。
「だから、やっぱ決めた」
そして、当人もあっさりと決めた。
「私は凡人の女じゃない、そんなの似合わないわ。私達は狩人、夜明けを見る為に邪神という悪夢を狩り続ける狩人だもの、だから──」
これまで葵が戦ってきた事。これからも戦う事。そして、彼の様にこの世界を脱して未来を取り戻し、地球へ帰る彼等のために。
「私は、彼を導く、彼の為の至高の鍵になりたい」
その彼女の答えが出した決意、そこからその意識の狭間は音を立てて割れていく。
開き直りで良い、滅茶苦茶でも良い。それは彼女がリンドとしての生き方を選んだのだから。




