第42話:月下美人は摘み取れず
赤黒い体液を地面に吸わせながら身動きしないクライル。葵にとってこれ以上ないほどの好都合な展開ではあるのだが、気味の悪さを感じずにはいられない。本当にこれで死んでいるのか?死んでいるとして良かったと安堵するところなのか、正直なところで言えば、相手が誰であれ死んで清々したくもなければ、する事はないだろう。
だが、葵の心境を置くにしても、あまりに唐突な事態に困惑するの間違いない。迷った末に、せめて死亡確認を、と葵は男の首から脈を確認することにした。
(まさかこんな事する機会が来るとは……)
元の世界にいた頃、遺体と顔を合わせる時には側には医者、あるいは棺の中だっただけに、当然葵が生死の確認をする必要はなかった。むしろ、触れるのが少し怖かったのだ。触れた時にまだ温度が残っていると分かったら、死んだのだと実感する時が苦しすぎるから。祖母の時も、そして──
『葵君、友達になってくれる?』
今でもその声が離れない。今でもその約束が離れない。もうとっくに友達だったのだと伝えられなかった後悔がこびりついている。その身近な死が彼の中の他者の死という概念に対する苦手意識を生んでいた。そんな忘れられない、忘れたくない身近な死であっても、クラスメイトからすれば無関係な事だったのだと、校庭を一周する霊柩車を見る皆の目と、祖母の葬式で学校を休んだ事に羨望の言葉を口にしたクラスメイトによって葵は理解した。授業とは違うイベントで、しかし数日後には忘れてしまう様なもの、それが人の死なのだと感じた時の虚しさと、行き場のない怒りが──
「っ!今は、そんな場合じゃない……落ち着け、落ち着くんだ、俺」
しかし、想起しそうになったものに対して首を横に振る。苦手意識と言っても人を斬る様なハードルの高さはないのだから、早めに済ませる方が良いだろうと脈のある位置に指を当ててみる。
「心配ご無用だよぉ、お嬢さん」
「っ!?」
直前まで動いてる様子がなかったのに、ごく自然に声を放ったものだから思わず刀の柄に手をかけながら飛び退く。
葵の焦りに反して当人は緩慢な動きで起き上がり、片膝を立てて座りながら正面を見据える。頭から血を流してこそいるが、顔が多少濡れてしまったという程度の様子だ。それが尚更に不気味に見えた葵は、戦慄の代わりに抜刀をする。
「あぁ、いやいや、ビックリさせるつもりはなかったんだよぉ。ただ、お嬢さんを宣言通りお茶会に誘いたいと思っているだけなんだから」
そう言い、葵に投げ渡された物は弾丸だ、拳銃と比べると明らかに口径が大きい。いつの間に撃っていたのか、そしてどこに潜伏していたのか、葵は思わす辺りを見渡すが、クライルにこれを渡された時点で彼は失敗したことを示す。葵には分からない手段で弾が掠る程度で済ませたのだろう。
内心でライの身を案じつつも、一度だけ息を吐いてから小さく頷く。
「俺も話をしておきたいと思っていたから丁度良いよ。俺と見間違えた紅音さんについて俺も聞きたいし、話したいと思ってるから」
「それはまた、素晴らしい茶菓子を用意してくれるじゃあないか。互いに腹を割って話そうかぁ」
これも罠の可能性は高いが、彼の言う紅音の葵の思う紅音が同一人物ならば、あそこでわざわざその名を口にする程に何らかのこだわりがあるはずだろうと踏んだ葵は、そこを利用して少しでも探りを入れることにした。
戦うにしたって、それならばその後でも出来るのだから。
*
クライルの屋敷の内部。廊下を通っている時に葵が感じたのは人魚の彫刻や美しい魚達の絵画などがよく飾られているという事だった。彼が人魚達を地下で飾っていた事も思えば、相当なこだわりがあるのは分かる。
(それが、納得出来るとかそんな風に思えないし思いたくもないけれど……)
そして、現在その男とテーブルを介して向き合っていた。しかも、そのテーブルにはティーカップが置かれた状態で、である。お陰で宣戦布告を経た後とはいえ、堂々と向き合えるかはまた別のことであり、温かなお茶も、上品な家具等も葵の心を落ち着かせる効果はなかった。
「砂糖の代わりになるぅ、ひと味があったとしたらどうするかなぁ?」
「飲まなければ良い、それだけだよ」
「まぁ、飲んだところで君は死なないんだろ」
やけに明瞭なその言葉に思わず目を丸くした。葵がこの世界では死ねず、死なないことを何故知っているのかと問いかけそうになった。だが、ここで相手に先手を取られてはならないと己を制し、ティーカップをようやく手に取る。
「自分は、貴方を殺さないといけない」
「こっちは別に殺さなくても良いんだよねぇ、邪魔さえしなければ」
「貴方の言う通り、俺はこの世界では死なない。そして俺は邪魔をする事をやめない。だったら、貴方も俺を殺さないといけないだろうね」
「そ〜いうことに……なるけどねぇ」
男の深い溜め息にこれまでの様な演技っぽさも、嘘も感じられなかった。それが一体どういう心境なのか分からず眉を寄せる。
「自分が紅音さんに似ているから?」
「そうだぁ、そうだよぉ、そうでしかない。滝沢紅音、あれ以上に美しい人と会った事はない。今だって、向けられたあの声を忘れられない」
間違いない、葵を姉の紅音と重ねて見ていたらしい。こんなに害のある男が、こんなに人を犠牲に出来る男が、こんな男が、自分の身近な人間のことを知っているという不快感と緊張感が湧く。だが、それとはまた違う理由で葵の表情は明らかに鋭くなっていた。あくまでこれは彼個人の感情による物であって、クライルとは何ら関係のない事柄なのだが。
その表情を無論相手が見逃す事はなかったが、あえて言及しないように先程の言葉の続きを口にする。
「まぁ、彼女との出会いの話を聞いておくれよぉ。ちょっとした昔話さ」
誰にも語らなかった男の地球人としての名残、どう言語化しても陳腐にしかならないその出会い、そして魔王の使徒ではない自分という足跡、語るほどに積み上げたこの世界における自分という人間が希釈される事を彼は嫌っていた。だが、それも紅音か、あるいは、葵相手ならば語る事を躊躇する理由はなかった。
男は水族館が好きだった。手は届かず、触れられず、そんな煩わしさすらも、その先にある魚や水槽を彩る珊瑚達の非現実的な美しさを際立たせる物になっていた。手は届かないほどに綺麗なのに、水槽の中に入っている生物。それを不自由であると男は思う事はなかった。綺麗な物が詰められたその場所は、自分にとって自由に美しい物に近付ける場所だったから。男はその光景を思い出しながら恍惚と語る。
「そして、辿り着いたのは君達の国にある水族館だった。留学中の事だったかなぁ」
クライルと同じ様に水族館に1人で来ていた女性がふと視界に入った。いつもなら周囲の人間は目に入らず、水槽のみを見つめていたはずなのに、彼女からは目を離せなかった理由をあえて言うとすれば運命を感じたというべきだろうか。
烏の濡れ羽色の長い髪、水を思わせる様な透き通った色素の薄い青の瞳、雪の様な白い肌、ピンクのトレンチコートの下から見えるスラリとした長い足、服の上からでも分かる形の良い豊かな乳房、彼女を構成する全てがクライルを魅了した。思わず魚を見つめる事も一旦やめて、彼女に声をかけてしまうほどに。
「突然声をかけられたにも関わらず、彼女は笑顔で返事をしてくれたんだよぉ。言葉も拙かったし、緊張して舌だってもつれた、普通なら気持ち悪がられるところだろうけれど、それでも彼女は優しく、美しかったんだぁ……」
綺麗だと思う魚の話をしてみたり、クライルが早口で語る魚の生態について興味津々な顔で聞いて、時には関係のない雑談を交わしてみたり。だが、水族館の中でだけの関わりでそれ以降の繋がりがあったわけではなかった。連絡先も知らなければ、住所も無論知らない、唯一の手掛かりはそんな彼女の名前。初めて明確に意識した漢字、そのたった4文字が芸術の様だったのだ。
あの美しく、自分の愛した水族館という場所で出会ったひと時の幻の様な女性。それで良かった。良かったはずだったが──
「日を追うごとに思いは強くなった。日を追うごとにもっと見つめていたくなった。きっとこれが恋ってやつだったんだろうねぇ……でも、それと同時にまた会う時に言葉を聞くのが怖くなった」
「……何で?中でも言葉って」
「それはねぇ、自分の中で会わない間に大きくなる彼女への神聖視が原因だったのさ。こうじゃない、こんな人じゃなかったと思うのが怖かったのさ、自分の中にある理想の、あの水族館の彼女のままであって欲しいと思ってしまったのさ。ヒヒッ繊細なんだよぉ」
「そんなの、身勝手だよ。自分の方が失望されるのが怖いならともかく、自分が失望する事が怖いだなんて」
葵としてさらに付け加えるならば、実の姉を勝手に自分だけの理想の女性に変換されて、理想と少しでも異なれば失望すると思われたなどと、彼の主張を間で何度否定しそうになったことか。ここで機嫌を損なえば話を聞くどころではなくなるというのに、我慢出来そうにもない。
だが、その言葉で機嫌を悪くする事はなく、不気味な笑みを浮かべるのみだ。
「臆病者だからねぇ、それに……自分の手に簡単に入ってしまう程の物じゃなく、高嶺の花であって欲しかった思いもあるし、複雑な気持ちだったのさぁ」
「じゃあ、その思いを昇華する為にこんな街を?」
「……諦めだったのかもしれないねぇ」
「その人との再会を諦めたという意味で?」
無言の首肯と共に男は神妙な顔で指を組み替える。
「故に彼女と同等……いや、それを上回る程の美しさが欲しかった。所作、声、顔立ち、体型、考え方、言葉と言葉の間、とにかくどれか1つでも勝る子を見つけたかったんだ」
「それで、地下のアレを?」
「こぉれは驚いた、結構好奇心旺盛なんだね。そうだとも、理想の彼女を作り上げるための……まぁ、材料だと思ってもらえたら」
カップをソーサーに置く時、葵は耐えきれず大袈裟なほどの音を立ててしまう。演技であっても今の言葉を流す事は出来なかった、それを少しでも同調したのだと思われる事すら我慢ならなかったのだ。常軌を逸した発想に理解が追いつかなくなるところだったが、少なくともそれが葵の思う人道に反している事だけは確かだ。
まだ淹れたての温度を保っていた紅茶が手にかかり、瞬間的な痛みと、その後の継続する痛みが葵を襲うが、そんな事は些末な問題だった。だが、クライルにとっては些末ではない様だったらしく、ハンカチを差し出すのだ。その奇妙なほどに紳士的に接してこようとする様子が、そしてそんな男が処刑や人魚を材料として閉じ込めていることが、ひどく不愉快だった。
「なぁに、君がそうなってるわけでもないんだから、年上の話は最後まで聞いて欲しいものだね」
「ここで取り乱さない奴の方がどうかしてる!今、俺にしては珍しく正常な反応をしていると自負しているよ!」
ほんの微かに男の片眉が上がったが、純粋な不愉快さや怒りとは程遠いものに感じられた。あれ程に紅音に対してこだわりのある男に一度その紅音と間違えられた以上は、薄々と男の奇妙な紳士さと今の納得出来ないという様な表情の理由も想像がつく。
「……紅音さんは。いや、姉さんは優しい人だ。自分と関わったからそんな事になった、なんて知ったらきっと悲しむ」
「そう、そうか……君は、滝沢紅音の弟の滝沢葵君なんだね。やっぱり、顔立ちや喋り方のクセがすごく似ている。君の言うように彼女は優しい人だ、そして君も優しい人の様だね。本当にそっくりだとも」
似てると言われて嬉しかったのはもっと小さい頃までだった。だが、葵の容姿や髪型が笑われる様になる時期は必ず訪れる、キッカケはあったものの、それがなくとも遠からずその日は来ていた事だろう。それでも紅音にとって葵の髪の毛を括るのは家族としての欠かせないコミュニケーションだった。そんな彼女の笑顔を否定したくないあまり、葵のコンプレックスはむしろ膨れ上がり続け、似てると言われる事を素直に喜べなくなった。
だが、それによって顔を歪める事はなかった。慣れているというのもさながら、先程までと違ってその話題の内容は自分が対象なのだから、気持ちの整理はつけ易い。一度の深呼吸で心を落ち着かせてから、口を開く。
「貴方が俺を丁重にもてなすのは、俺が姉さんの素材に丁度良いからだったんだよね」
「ヒヒヒッいやはや、相手から先にそれを言われるのは初めてだよぉ。まぁ、内容が内容だからそう簡単に誰にでも言えるものでもないからね……そうだとも、性別によって発生する相違を除けば君以上に似てる人は見た事がない」
「人魚達がそれを知らないままでよく保てているものだね、この街も」
「彼女達には安寧の証である主人という認識とこの街のルールを守る事、その程度しか手を加えてないよ」
「本当に?」
「もちろん、認知に関しては少なくとも手を加えてるのは自分じゃないからねぇ」
つまり、クライル以外にもこの計画を知っている上で手を貸している者がいる。言い回しから考えても連れていた男達の事を指してはいないだろう。彼等はある程度の事情は聞いていても認知に手を加えるような真似は出来そうには見えなかった。この街は当たり前のように人魚がいる非日常の街ではあるが、この世界として見るならばある程度の日常が形成されている。この世界という異常と万能性に適応するのは、この街を中心に活動する限りは難しいだろう。
「皆を人魚にしたのは紛れもなくこの、わたくしなんだけれどねぇ。そういう力なんだよ、良いものだろう?ふひひっ」
普通に考えれば、この場で葵にその力を使わない理由がない。そうしない以上はそう出来ない様な能力のルールが存在するのはほぼ間違いないだろう。
だが、それは恐らく葵の持つ刀等と同じ心器の類であろう事を考えた場合、どういった形状でどこまでの能力が出せるのかが問題である。葵の刀自体も、鏡の刃の投射、短距離転移が基礎の力として使える。それに加えて、殺した相手の魂を浄化した上で保持する力がある。クライルの場合は彼の考え方からどんな能力が、どんな影響力が出るのか読めたものではない。
「彼女達がただ、それで地球に帰れる日まで穏やかに過ごせるのみならそれも良い能力と言えたかもしれないね」
「持った夢を叶えられる世界の方が良いに決まっているのにねぇ」
「貴方みたいな人がいるから、無作為に夢が叶う世界が必ずしも正解だとは思えないんだ」
互いに譲るわけにはいかない一線、それこそが勢力が違う事を示す一線。それ以前からも仲間にはなれないとは分かっていたが、今の言葉でその断絶はやはり明確なのだと理解する。使徒とこうして面と向かって話をする時間を作る事自体が初めてだったのもあって、葵の内心では砂粒ほどの期待を抱いていた事は否定出来ない。
そして、その睨み合いを先にやめたのはクライルの方だった。組んでいた指を解き、カップの隣に置いてある蜂蜜の入った瓶の蓋に手をかける。
「……ふぅ、君の言う通りで自己満足である以上はね、正解とか、不正解とか、正直どうでも良くないかな?」
瓶の蓋が回された瞬間、葵の座っているソファの真下から穴が空く。
「え?」
思わず、葵は場にそぐわない素っ頓狂な声をあげてしまう。彼の出してくる仕掛けはこれまで遠回しかつ、火傷の痛みの様にジクジクとした痛みを精神的に与える様なものが多かった。だからこそ、こんな直接的なものが出てくるとは全く想像していなかった。そんな葵を見送る様にクライルは穴の近くまで足を向ける。
「殺しに来ると良い。ただし、君を手に入れる事をこちらも諦めない。ヒヒッヒヒヒッ」
咄嗟に逃げるという動作が出来ずに、落下していく葵。しかし、その言葉だけはやけにハッキリと聞こえた。それは処刑前の宣戦布告に対する返事が今返ってきたからなのかもしれない。
なんとも格好のつかない様相だが、クライルの姿が見えなくなる前に、葵は相対する人間を見据えながら声を張り上げる。
「俺は絶対に、貴方の野望を打ち砕く!!罪のない人達を貴方にも、邪神にも、好きにはさせない!!絶対にっっ!!!!」
その叫びが反響するものの葵のいた場所は先程までの賑やかさごと閉じ込め、片付けてしまう様にただの床に戻っていた。名残は卓の上にある零れた紅茶のみ。その跡を見つめながら、彼の中で反芻されるのは水槽の明かりに照らされた愛しい女性の姿だった。
あの理想が、あの夢の様な時間の実現は遠くない。とてつもない偶然ではあったが、そんな彼女の弟がいて、彼が勇者としてクライルを放置出来ない立場で、紅音に顔がそっくりであったという幸運。笑いが止まらない、男は1人で、嬉しさと興奮でただ、不気味に笑っていた──
「この状況そのものが、我等が神のもたらした幸運、あるいは運命なんだと思うよぉ」




