第39話:夢路のエスコートを
エリアという少女は葵が思うよりも、いや、きっと誰もが想像していない程にこの街を愛していた。初めて自分が肩身の狭さを覚える事のない居場所だったのだ。
『大丈夫よ。お母さんもね、ピアノが弾けないからって笑われた事があるもの』
『それに、お前に出来て他の人には出来ない事もいっぱいある。皆が皆、そんな中で生きているんだ。焦る事はない、分からない事があれば、母さんも父さんも、何度でも教えてやるからな』
『そうよ。貴方には貴方の知らないたくさんの可能性が詰まってるんだから』
彼女の両親はいつでもそうして励ましてくれていた。
『ありがとう……頑張るね』
それでも、人が思うよりも上手く出来ない自分が形成されていた彼女はいっそ、不出来な娘だと思われた方が良かったのだった。小さな事かもしれない、ものすごく些細かもしれない、それでも彼女は自分に失望している以上、それが過分な期待に感じるようになってしまっていた。いっそ、見放してほしい。友達との距離の取り方も、勉強を覚えるのも、いつもワンテンポ以上遅れる自分。周りで普通の速度で当たり前をこなす人々に囲まれる自分。そんな彼女が唯一譲りたくない歌というものが、彼女の象徴としてこの街では受け入れられている。
歌を歌う人魚、歌を愛する人魚、それ以上の期待をされることも無いこの街を、エリアは愛している。
「君が、この街のことが好きなのはとても感じられる、よく知っている。だから、君は俺達に助けを求めに来たんだよね?」
「ええ、そうです」
「なら、心配する事はないよ。ちゃんとこの街の事件解決のために色々と事は進んでるんだ。だから、安心して──」
「それは、事件解決の末にこの場所は、人は、どうなりますか?街はちゃんとこれまで通りに過ごせるんですよね?」
「……」
「──そう、やっぱり、そうなんですね」
失望と悲しみを含んだ抑揚のない声に、いまだ血の滲む指を強く握り込む。
「で、でも、ちゃんと、君の望みは叶う」
「わたくしの望みは、貴方がそれを可能に出来るのなら止めてくれる事。最初から、そのつもりです」
「なら、今も互いのやろうとしてる事と望みは同じはずだ。なのに、一体何でそんなにも不満そうなんだ?エリア、俺には分からないんだ」
「不満じゃ、不満じゃありませんけれど……ッこの街は、無くなるのでしょう?」
「それ、は……きっと、そうなる。この街は蜃気楼みたいなものだから。確証はないよ。ないけれど、元のままなんて事は少なくとも……なくなる」
エリアの今にも泣き出しそうな顔を見ていられない気分だった。だが、彼女の望みで、彼女の案内でここを訪れて、それを果たそうとして怒られては葵もどうすれば良いのか分からない。だが、これだけの激情に駆られている以上、何らかの方法で葵の行動を知ってはいたのだろう。
そうだとすれば、この街の人道に反したシステムの存在を飲み込み、葵の事を止めようとする方が余程おかしな話になる。無論、それは理屈の話であり、今のエリアに理屈でだけ物を語るゆとりなどあるはずもない。
「タキザワさんは、嫌いですか?この街が……」
「…………」
思い返す、この街でやってきた事を。
「楽しく、なかったですか?」
思い返す。まだ、この街に来てからの時間は日数に換算すれば長いとは言い難い。1週間にも満たない時間だろう。だが、過ごした物が浅いことはなく、この街を生きる人々という物への実感を得るに短い時間ではない。葵としては失敗続きと言える出来事が多くはあったが、その分だけありのまま自分で時間を過ごせたのかもしれないのだ。
「わたくし、デートなんて初めてだったんですよ。貴方には、取るに足らない出来事でしたか?」
思い返す。酒場で賑やかに笑う人々、葵を快く迎えてくれた警備隊、食べた温かい食事、そしてエリアの案内してくれた時間。どれも、旅の最中にひと時立ち寄った場所だのように扱うには、葵は情に脆く、割り切る事が苦手だ。そうだ、そんなはずがないのだ。取るに足らない、所詮は紛い物だと割り切るなどと。
「──決して、嫌いではないよ。君が、この街の綺麗な場所や、良いところを教えてくれたんだから」
「タキザワさん……」
「時計塔から見た景色とか、なんかドラマのワンシーンみたいに思えたし、いや……俺、ドラマって見た事あんまりないからアレだけどさ。それだけロマンチックで綺麗だったし、喫茶店とか、装飾店とか、久々に人の生活を見れたって感じで、安心したし、楽しかった」
「じゃあ──」
「だからこそ、尚更俺は君に頼まれた事を完遂しないといけないと思ったんだ。俺がそうしてくれるって信頼してくれたから、君は俺を頼ってくれたんだろう?」
割り切れないからこそ、その日々とこの街に生きる人々を、その全てを蜃気楼だと断じられないからこそ、葵はエリアの望みを叶えなければならない。なにより、この街を肯定してしまえば、リンドの望みを裏切る気がしたのだ。
変わらない。この世界という夢を終わらせるのも、平和で華やかな街の夢を終わらせる事も。ここがその覚悟を決めるための試練と言っても過言ではない。だからこそ、完遂しなければ、停滞をしてしまう事は許されないのだ。
「君の中の命が、歌、が今だけじゃなくこれからも続いていく為には、その情熱が続いていく為には、俺はこの街を救わなければならないと思っているよ。だから、俺が街を好きか嫌いかなんで、そんな聞き方をする事は無意味じゃないか。君は、夢を叶えたいんだろう?君の歌をもっと色んな人に知って欲しいんだろう?」
彼女の語った夢に対して抱いた気持ちはその時から変わる事はなかった。夢を追い続けるならば、追い続けたという意思があるのならば、尚更に囚われたままであってはならない。
「夢ならここでは叶います、叶ってます」
彼女も奥底でそう思っているのだと考えていたが、その狭間には致命的な齟齬があったらしい。彼女の諦観と楽になりたい気持ちという外郭が夢への情熱を覆い隠してしまっているから。彼女自身、その熱に気付かないほどに。
「貴方に、分かりますか?自分にとって替えの利かないたった1つの物すらも、ダメになってしまった気持ちが、それのどうしようもなさが。そんな気持ちは貴方にありましたか?夢を叶える場所がどこかなんて、それはもう、小さい問題なんですよ。ずっと、ずっと」
だからこそ、彼女の気持ちはいつまでも崖っぷちで、この街を逃せば死も同然だったのだろう。
「君の言っていた。自分達を助けてほしいって言葉は、嘘だったわけじゃないんだろう?」
「嘘じゃ、ありません」
「じゃあ、どうして」
更に問い詰めようとする葵を遮るように顔を近付けてくる。その先を言うのも、認めるのも、考えるのも、きっと疲れているのだろう。
「…………タキザワさん。タキザワさんも、あの方に正式に認めてもらってこの街の人になりませんか?」
だから、葵の精神的な疲弊と善性に直接的に揺さぶりをかけようとするしかない。それ程になりふり構わないのだろう。彼女は対等な友人であっても、このどうしようもなく感じる憐憫が、その関係性を自分の中で崩壊させる気がした。きっとそれはエリアにも分かっているだろう。分かっていても、止まる事はない。
「貴方も、この街が好きになったなら、仕方ないです。この世界で生きていくのはとても大変ですし、怖い事ばかりです。だから、きっと、諦めても仕方ない、ので……貴方も、ここでずっと、暮らしませんか?」
突拍子のない話だ、そんなふうに感じると同時に、葵の胸の奥で息を詰まらせるような悲しみが溜まった気がした。彼女自身、冷静な判断から口にしている言葉ではない事を自覚しているのだろう。震えている瞳が、人に握られた命綱にぶら下がっているかの様に危うい。
この街にいれば、幸福だろう。いずれ破滅が訪れるのだとしても、痛みや苦しみを感じないままでいられるかもしれない。破滅が訪れないのだとすれば、ここは新たな居場所となるだろう。不思議な力もあって、現実にはない景色があって、それでも現実にある人々の生活がある。理想的な場所と言えるかもしれない。それを否定する理由を今の葵は持っていないかもしれない。
「わたくしの、願いを叶えて……」
この街という楽園で生き続けるという願いと、この街に落とされた影を払って欲しいという望み、それは二者択一である事を分かりながらも彼女はその矛盾を捨て切る事は出来なかった。
その願いに縋る手の弱々しさと、それが最早葵以外に託せないほどに追い詰められているのだ。だが葵は首を縦に振る事はなかった。
『私に本物を頂戴』
脳内で再生される声は、気の強い、好奇心も強い、不思議な魅力と人間離れした美貌の女性の姿。そうだ、彼女も待っているんだから、エリアの申し出を取れば悔やむ結果になるのだ、必ず。
「君の望みを叶える為に、俺は来た……君自身が一番分かっているはずだ」
だから、尚更に後は葵自身が決めるしかない事だった。彼女は葵にその選択を託してしまった以上、これは避けられない事だったのだ。
「君の願いを叶えたいのなら、俺をこの場所に呼ぶべきでは……なかったんだ。最初から」
呼吸を繰り返しても、思考が透き通ってはくれず、息をするほどに苦しくなるばかりだ。彼女に対する明確な否定の意思を示す事で、どれだけ悲しませるのか、どれだけ苦しませるのか、いつだって何かを断る時にはそれが連想されてしまい、いつもの言わなければ良かったという思考が入り混じる。それでも、今回ばかりは後悔してはいけない。いけないからこそ、彼女から目を逸らさなかった。
「──そう、ですか」
恋破れた少女の様な顔で、唇を噛みながら湧き上がる感情の濁流を我慢したエリアは、何度も言葉を飲み込んだ後に、ようやく見せた顔は意外なことにも、笑顔だった。
「ありがとう、ございます」
矛盾の塊であったとしても、矛盾であることと両方が本音ではない事は別であると示す顔だった。
「じゃあ、本当に何があっても、貴方はこの街に抗ってください。貴方はちゃんとコンビニがある世界に帰らないといけませんから」
まだ、困ってる人魚と頼られた人間でしかなかった頃の言葉を、別れ際に宝を見せるように口にする。
ただ、彼女は葵の返事を聞かずに身を翻して泳いで去っていく。手を伸ばし、駆け出そうとしても空を泳いでいく彼女に対して、地面に足をつけた葵では決して届く事はない。そうさせたのは自分なのだから、無意味になってしまったその手は罪悪感に対する慰めにしかならず、すぐにその手を握り込む。こうするしかなかったのだ。
『この光景に見慣れていく程、この光景に情が移るほど、アンタには覚悟が必要になる。いずれアンタが通る道だとしてもな』
ヴィルガの言っていた言葉の意味を深く、より深く理解した気がする。自分が、今何の為にここにいるのかを、何の為に戦うのか、その終点を思って──
「……うん?」
貝殻の首飾りから音が鳴っていることに遅れて気付く。まだ、そこにエリアがいる気がして罪悪感と不思議な余韻を思って、一瞬の躊躇があったが、葵は急いで貝殻に耳を当てる。巡回の交代の時間ではないだけに、内容に緊急性が高いことは違いないだろう。
「アオイです、遅くなりました」
『アタイだ、ヴィルガだ。ようやく出てくれたか!アンタだけ出るのが遅かったからどうしたかとちと心配したぜ』
「も、申し訳ない……」
『うんにゃ、謝る事はねぇよ。それより、警備隊の仕事で伝えたい事があるんだが……今から詰め所まですぐ来れそうか?』
「あ、はい。大丈夫だよ、すぐ行く」
『じゃ、頼んだぜ。もう皆来てっからな、ちゃんと今から緊張しとけよ』
「したくない緊張だね!?」
ヴィルガの高笑いと共に終わった連絡に溜め息を吐きながら、空を見上げる。警備隊のアオイに戻りたいと思っていた、その通りになったというのに、嘘をついたような後味の悪さが抜けきらない。
*
「よし、全員揃ったな」
机を囲うように立っている警備隊の面々。その机に広げられた羊皮紙にはクライルの屋敷の庭が描かれている。皆の様子を伺うに、これまでにも増してかなり重要な仕事であろう事は想像に難くなかった。
「明日、急遽例の催し物を行う事が決定した。つまり、アタイ達は明日はそちらの方に見張りの大半を割かなければいけないっつーわけだが……」
頭を掻きながら、次の言葉を濁す。周囲の苦く険しい表情から感じ取れるのは、まだ何も分かっていない葵にとってもあまり気分の良い内容にならないという事は確かだろう。
「アオイは初めてだから端的に今度の仕事の内容を説明するが、催し物を妨害されないように見張りをするってのが今回のアタイ等の仕事だ。もしも不審な行動をする者を見つけた場合、そして妨害行為に及ぶ者がいた場合、武力行使に出る事も許可される。これはクライル直々の依頼だ、手を抜く事は許されない」
仕事の内容としては複雑な事はないのだが、端的に話す事で端折られた内容をあまり先送りされるのも落ち着かなかった。どのみち当日に分かることでもあり、立場で言えば運営の側に近い役職である以上は、葵だけ知らない状況は良くないだろう。無論、ヴィルガもそれを理解していないはずもない。サプライズと言うなら話は変わるかもしれないが、そしたら皆の表情が真に迫りすぎている。更に付け加えるならば、1番当たり前の前提の話になるわけだが、葵にサプライズを行う必要性がないという事だ。
彼の視線を感じたヴィルガは地図の中心となる物に指を置く。
「普段は景観の為に置かれていないんだが、この時だけ男達を動員して準備させるんだよ。催し物なんてものとは今のアタイ達の価値観では思えないもの。アオイ、ここに置かれるのはな、断頭台なんだよ」
一瞬、言われたことを飲み込むまで時間を要した。早くその全貌を知りたいと思っていたのに、いざ言われるとその内容に反してアッサリと口にされたものだから、葵は混乱の中でそれを許容している様にすら思えるヴィルガに対して一気に恐怖心と理不尽とすら言える嫌悪感が湧いてしまう。発散し難い感情がやけに動きを見せてくるのだ。
「っ!?だ、だんとう、だいって……ど、どういうことなんだ!」
「何に使うかは、知ってるだろ。現在投獄中のあの男の公開処刑が行われる、それが失敗に終わらない様に、何事もなく終わらせるのがアタイ達の仕事だ」
今にも爆発しそうな感情が、まるで雨にでも変わったのではないかと言わんばかりに葵の全身に冷や汗を発生させた。
何が行われるのかは断頭台から想像がついていた。だが、誰が処刑されるのか、その人物が選ばれたことに、それを仕組んだ者の狡猾さが出ていた。
──俺が、俺があの時、捕まえたから。こうなったのか?
葵の捕獲した男は、あの時エリアに襲い掛かろうとしていた。捕まえた事が間違っていたなんてことは客観的に見ても、否と言えるだろう。葵自身もそれは理解しており、もう一度あの状況に遭遇してもやる事は変わらないだろう。
だが、理屈としての部分よりも、自分の捕まえた人間が、自分が捕まえた事をきっかけに、今この時代においては考え難い公開処刑が行われようとしているのだ。
──俺の
──俺の、せい、なんだ
この街に葵が来たことで、エリアは不安定になってしまい、起こり得なかった処刑が催し物として見せ物になる事となった。相手がこちらの意図を把握していると分かりながらも探りを入れた結果、どれだけ慎重にしていたつもりでもこの結果なのだ。
それでも、来なくとも既にこの街の事件は起きていた。それを放置していればどうか、報酬としてか更なる進化のためか分からないが、その人魚達は自由を奪われる。1人ずつ減って、この街はそれを嗤う。変わらなかった、だが葵が来てその醜悪なところが加速してしまった。
落ち着きのない呼吸をする彼は、周囲の視線も無視して自分の配備予定の位置を見下ろす。最も近い位置に自分の名前が記載されているではないか。
「──こ、れは、処刑に至った理由は」
「それを、アタイ達が知る必要はないけど。まぁ、景観を壊したってとこだろうね」
「た、確かにあの人は、悪い事をした人なのは間違いないけれど、だからって……」
「まぁまぁ、落ち着いて落ち着いてぇ。結局ぅ、この立場に立ってる以上はぁ、職務を全うするっていうのが、1番ベターなのは間違いないのよねぇ」
「アオイ、貴方は警備隊に入った事の意味をちゃんと分からないとダメよ。外から来た人だからこの街について色々と飲み込み辛い事は多いとは思うわ、でもね私達はこの街の秩序を乱した人間を捕まえるのは当たり前なのよ。私達は秩序の側、だから今ここで戸惑うべきではないわ」
違う、秩序という言葉はこんな時に使われて良いはずのない言葉ではないのか。葵の口がそう叫ぼうとその形に歪むが、必死に口を閉じる。そうだ、彼がどんな目的でこの街を訪れたのかを知っているのはヴィルガのみで、同僚の人魚達からすれば、この街に来た上で自主的に警備隊に入隊した人間という事になっているのだ。そうである以上は、シエルの指摘に対して何か反論をする事は出来ない。
「……すみません、でした」
少なくとも、そうした議論は今やるべきではない事なのは確かだろう。ヴィルガもそれを分かっているからか、謝罪に対して小さく首を振るだけにして話を続ける。
「で、だ。全員朝の設営の手伝いはしなくて良いが、設営時には既に配置についてる事。だから当日の配置に入ってるメンバーは夜中からそのまま見張りって形にならない様に調整する。この場にいるメンバーで言うなら、アオイ、シエル、ネル辺りは今夜の巡回の分はそのまま仮眠の時間とかに使う事。あと、当日はちゃんと制服を皆着用してくるんだそ、アオイの分はこの会議の後に──」
警備隊のアオイとして、注意すべきポイントや自分の立ち位置は頭に入れていたが、それ以外は抜け落ちていく感覚が明確にあった。
どうすれば、どうすれば良いのか、何をしなければならないのか。この街の裏で起きている事、エリアの望みと願い、使徒との向き合い方、思考の迷宮の抜け方をまだ、葵は分かっていない──




