第1話:勇者のプロローグ
人の一生とは、人間から見たら途方もない寿命を持つ星という名の生物から見れば瞬く間の事であり、その中でも群衆のうちの1人の一生は当人と関わらなければ同じ種族同士から見たとしても冷血漢でなくとも関係などない瑣末な事になる。無論、そうは思わない者も中にはいるかもしれないが、それは貴重な例であるのもまたそうだった。
だが、それでも当人にとってその一生は一度きりで、未知の終わりに向かって生の始まりから走り続けなければならない。その中で起きる事象はどれも大なり小なり背負い、抱き、糧としていく、それに対していかに向き合えるか、逃避せずにいられるかなど途方もない話である。
3年生高校生男児、受験の時期にある17歳の少年もまたそのたった一粒として思うのだ、こんな思いを何年まで靄として抱かねばならないのかと。ただ、そんな靄もあくまで小さい積み重ねがそこにあったのみだった。
「葵ちゃん今日髪の毛サラッサラじゃない、どうしたの?もしかして好きな子でも出来た?」
そんな人並みの悩みを抱く少年は現在姉である滝沢紅音に髪の毛を毎朝の恒例として弄られていた。
紅音はどんな元気のない日でも、嫌な事がある日でも、半泣きになっている日でも、弟の髪を弄りながら会話をしていたら元気が出るらしく、これが彼女にとっての精神安定剤であり、日常と化していた。
「多分姉さんが昨日やってくれたやつの影響だと思うけど。なんかほら、あのプチってやるやつ」
「ああ、あのヘアオイル!効果抜群だったみたいで良かったぁ〜香りがすごく好みだったから髪に合えば嬉しいなと思ってたの、葵ちゃんの髪をいつも弄らせてもらってる分少しでも髪のケアを出来たらって思ってたから」
「気にしなくて良いのに、俺は男なんだから。勿論、気持ちはありがたいけれど」
「葵ちゃんがお姉ちゃんの為に髪を伸ばしたままにしてくれてるの、分かってるもの。遠慮しないで、ね?」
2人のうち片方しか知らない人に会っても姉や弟である事がすぐ分かるほどによく似ている影響だろうか、髪質までよく似ているらしい。それもあってか、気になるシャンプーやコンディショナー、トリートメント等々こうしたお試しをよくされている。
葵自身使えるなら別にそうした物にこだわりはなく、なんでも良いという主義であるだけにそれに対しては不満は特に抱いていなかった。
「姉さん、それは…」
「ああ、この髪紐?これは友達から貰ったの、今日だけで良いから使ってみて良い?きっと葵ちゃんに似合うと思うのよ」
いつも使われていたのはシンプルな黒いヘアゴムだったが、今回は房付きの赤い飾り紐。男子が使うには相当派手だ。その飾り紐を見て暫しの沈黙と瞬きをした後手元のトーストの方に視線を戻して葵は頭を差し出す。
「……どうぞ」
「ありがとう!これでくくるの初めてだから痛かったりしたらちゃんと言ってね」
「姉さん慣れてるからそんな事は起きないだろ?」
「どうだろう?この前もいつもと違うヘアゴム使った時に髪の毛プチプチいってたからお姉ちゃん心配なの」
「え?」
「あ、私の時の話ね?葵ちゃんの時はちょっと5〜9本ぐらいもっていっただけだから」
「あ、うん。いや、まぁ、あるある?かな?」
「だ、大丈夫よ!多分枕の方がよっぽど髪の毛食べてるから、ね?ね?元気出して!」
言葉にするほどショックを受けているわけではないが、長年の付き合いになると思われる細い同胞の密かな殉職を悼む。もっとも、それも登校中には忘れているぐらいのものではあるだろうから同胞というには少々遠い仲である。
「はい、出来た!うん、さすが私の葵ちゃんによく似合ってるわ!」
「ありがと」
「紅音、それは良いけど時間大丈夫?今日ちょっと早いんじゃなかった?」
台所から顔を出した母、美鳥の言葉に大急ぎで壁掛けの時計を見て青ざめる、先程まで葵の髪を満足な形に出来て頷いていた顔は瞬く間に危機感を貼り付けた顔に変わっている、百面相だ。
それでも手元は葵の髪の位置の最終調整で動かしているのは執念とすら言えるだろう。慣れているからか、葵は今更あえて髪はもういいのではないかとは言わなかった。
「ってあぁ!?本当だ、もうそろそろ出ないと!ごめんね葵ちゃん好き勝手やるだけやって去る姉を許してね!」
「いや、俺は単に髪くくられてただけだから別に良いよ。それより、焦ってるからって怪我しちゃダメだよ姉さん」
「ありがとう葵ちゃん!じゃあ行ってきます!」
慌ただしく出ていった紅音を残された2人はいってらっしゃいを言い終えたあとは視線を各々戻そうとした…が──
「紅音!!紅音!!携帯置いたままだぞ!」
紅音の忘れ物を届けようと疾走する父、竜一によってまた視線は戻る、なにせその父の姿は着替え途中のパンツ一丁のままだったからだ。このままだと外に出た紅音をパンツ一丁で追いかけかねない焦りようだ、紅音の慌てやすい性格は父親似らしい。駆ける竜一、目を疑う葵、泡だらけのスポンジ片手に疾走し始める美鳥、いつもの朝の中に些細な混沌が展開されていた。
「あなた!!あなたぁ!!!警察のお世話になるぐらいなら私の手で仕留めるから!!!」
「見たくないなぁ、両親が別々の理由で警察の世話になるところ」
物騒な言葉と共に竜一を追いかけて台所から駆けていった母も見送る、何かと言いたい事をものすごく堪えている人間だけが取り残された。
「ごちそうさま」
こうした当たり前を象徴する言葉は誰に言うでもなく1人であっても言うのは一家の暗黙の了解となっていた、言葉にする事で何かにしっかりと届いているのかもしれないという思いも少なからずある。神というものの実在性はよく分かっていない、むしろそう考えている時点で敬虔という言葉からは離れるが、お天道様が見ているというのはこの国に住む人間として何となく信じているのかもしれない、それが日常のこうした部分に出てくる。
もしも、神というものがいるのならば今はどんな風にこの世界と関わっているのだろうか、それは少しだけ、ほんの少し気になっていた。それを証明したいとか、そういう域の話ではなく、ただの好奇心や幻想を信じる者として。
「はぁ、はぁ……もう、次から気をつけてよね、あなた」
「す、すまん……身体が先に、動いて…ぜぇ、ぜぇ」
食器を片付け終えた頃に息を切らしながら帰ってきた両親を横目に、葵は通学鞄を取りにテーブルの方へ足を進める、その最中に置かれていた紅音の卓上ミラーの中の自分の姿と目が合う。
色素の薄い青い目、普通の高校男児としては目立ってしまう紅音がくくった長い黒い髪、その見慣れたはずの自分の姿と目が合った時に抱いた感情は言語にも行動にも何か出るものではない、だが鞄を取るついでに鏡に背を向けさせる。
「母さん、父さん、いってきま……」
「あっ、待って葵!ついでで悪いけれどゴミを捨てておいてくれる?」
「…うん、分かった」
母から燃えるゴミの袋を受け取り、葵はそのまま家を出る。その背に両親のいってらっしゃいの言葉を受けながら扉を開く事を合図に、彼のいつもと変わらない日々が始まる。
このいつもと変わらない日々という物。
変わらない日々を構成するのは外的な要因のものがやはり大きい。例えば、一軒家、カーブミラー、ブロック塀、歩道、予定通りに光の色を変える信号機、その間同行者と会話をする人や手元のスマホに視線を落とす人や対岸を眺める人、ビル、走る車、鳥、電線、曇り気味の空、雨の降りそうな匂いのする空気、熱気が徐々に落ち着いてくる10月の温度。
当たり前にして些細なその全てがいつもと変わらない日々を構成している。冷気が例え自分を外という世界から否定する為の温度に感じようが、夏の蝉の鳴き声が自身を責め立てる声に聞こえようが、桜の花が自分を迎え入れてくれる様に感じようが、金木犀の香りが自分と足並みを揃えてくれてると感じようが、その全て各々の感じ方であり、各々の当たり前の季節の到来を感じさせる、やはりそれもまた外的要因と言えるだろう。
それ等が気付いた時にはそこにあって当たり前に変わっていて、気付いた時にはそこに自然と存在するものになっている、地球における緑の様に、人と自然の作り出した光景と音と匂いが全て当たり前を五感に教育されている。だが、当たり前というものは日々維持されているものであり、知らない数多の誰かの尽力が必要不可欠だった。まさに現在家を出てから少し歩いたところの交差点、信号待ちをしている葵はそれを受け取っている身だった。
メールを受信したスマホの震えを鞄のポケット越しに感じて一瞬驚くが、その内容も確認せずただぼんやりと目の前を眺めていた。当たり前に対して渇いてるわけではないが、それに対して気力を感じる理由もない、メールもメルマガか何かだろうと決めて急いで気にする事もない、そんな様子だった。凡庸的だろう、どこまでも。
だが、その当たり前とは意外にも儚く脆いものであり、そうと気付かないままに一生を終える事も多く、気付かない事もまた幸福なのかもしれない。何故ならそれを最も実感する瞬間とはそれを失う瞬間と失うかもしれないという感覚を得るだけの経験がそうさせるのだから。
「……ん?」
そう、事件や事故、周囲に限らず起きてほしくもなければ起きなければ良いと願うもの。それは突然訪れる喪失と崩壊を告げる、だが日頃だとテレビの中の出来事に等しいと感じる人も少なくはないだろう、無論それを軽視するものではなくとも身近には感じられない。だから、いざその時が訪れるとどうすれば良かったというのだろうか?否、咄嗟にどうこう出来なくても責めることは出来ないだろう。
イヤホン越しでも聞こえてきたやけに賑やかな音、人の悲鳴、ブレーキをかけていない車によって強烈な音を鳴らすタイヤ。
「え──」
そして道路の向きより斜めに突っ込んできた自動車は信号機の側に立っていた葵の方へと──
*
大きな衝撃を受けた信号柱は相応のへこみと傷はついた、だがそれでも折れたり曲がったりする様な事はなかった。その代償、代償という言葉では軽すぎるものが間に挟まった影響だろう。
減速せずにぶつかってきた車と信号柱に挟まれた葵は運悪くすぐに意識を手放せず、治療も最早間に合わない状況のままその時を待っていた。
耳鳴りという言葉では済まない音が響いて止まない、周囲の声は聞こえない、視界はブレて霞んでマトモに機能していない、身体が思い通りに動かない、強烈な熱が頭を破壊せんばかりの感覚としてぶつかってくる。
──身体、どうなってるんだろう
視線すら動かせず、上半身が車のボンネットの上に寝転ぶ様に折れ曲がったまま動かない。ただ、冷たくなっていく事と、黒の上下のブレザーに赤黒い色が染色されていってる事だけは分かる。
骨や臓器がどうなっているのかまでは、あまり考えたくはなかった。冷静に考える事も最早出来ない中で考える必要性もなかった。
意識が遠のいていく、肉体は既に生命活動の停止の手前である以上意識を繋ぎ止めているのは何なのか。
──身体、繋がってるの?これ?
──冷たい?熱い?いや、何、なんだろう?どうなってるんだ、俺
──家族を困らせる?
──ずっと困らせてきたか
──それなら、別に
──どうしてこんな事に
──熱い
──死ぬんだ
──死ぬんだ、これ
散り始める思考、ここから奇跡的にこの命が助かる事はない。
そんな状態の彼を深い所から何かが見ていた、その意識を繋ぎ止めているものがそこから離れる時を待つ様に。
深いところから、あるいは極めて近くから、そして奥深い所から見つめていた。こんな状態だからなのだろうか、葵はそれと目が合った気がしたのだ。
「ぁ、あ゛……ッ」
かろうじて脳の信号がまだ仕事をしてくれているのか腕が自分の物ではない様に重くても動いてくれた、震えて、伸ばす先も分からないままだが車のボンネットの上で縋る様に伸ばされていた。
「…ぉ゛、わ……いっ」
諦観を割いて現れた大きな恐怖に脳を支配された葵は血の泡と鼻からも出てくる血に溺れながら最後の言葉を口にしていた。
助けて、見ないで、嫌だ、そんな言葉じゃなかった。ただ、ただ、怖いという言葉を最後にその何かに伝えて遂に葵は事切れた。この間長針も動かないほどのわずかな時間だった、それでもこの一瞬にも近い時間が葵の魂の運命を変えたとは誰も予想がつかなかっただろう。
『』
見ている何かが、信号を発した。
それは笑っている様でもあれば笑うという生物的なものでは量れない、醜悪で、しかして魅入られる様な何かは返事をしていた。
その存在を理解して仕舞えば不可逆的な破滅が、理解出来ないままならば何も分からないままの破滅が、そうしたら存在がその魂に触れて周波数を人類に合わせる。
『恐怖と認知、私は貴殿の供物に礼を支払おう』
これが、死よりも悍ましい侵食と彼の舞台の始まりだった──