74 死に戻り令嬢と王太子、気持ちを確かめ合う
夜。
……濃密な一日だったわ。
記念すべき婚約式の日なんだから大変なことになるとは予想していたけれど、想像を超えて大変だったわね。
本当は婚約式が終わったら、一旦領地に戻るつもりだったんだけど。
……両親への報告とかをするためにね。
さすがにそんな元気もなくて王城に泊まってしまったわ。
私のために用意された部屋は、本格的に王太子妃の間になるという。
今日婚約したばかりなのに気の早さが光のごとしね。
「眠れないのかエルトリーデ」
一人窓から夜空を眺めていると、声がした。
男性の声。
王太子妃の間に断りもなく入ってくれる人なんて一人しかいない。
私の夫となる王太子のキストハルト様しか。
「女性の部屋にノックもなしなんて、不調法ですわね」
「夫婦なのだから少しは多めに見てくれてもいいだろう。妃の間は王太子の部屋と続きになっているんだ。ほとんど同室みたいなものさ」
たしかにそうかも。
でもやっぱりノックぐらいはお願いしたいものだわ。
二人並んで寄り添いながら、輝く月や星々を窓越しに眺める。
「キミの決断は意外だった」
「何のことでしょうか?」
「水の精霊を許したことだ。オレだったら絶対に許せなかったと思う。本当にふざけたヤツだったから」
キストハルト様ったら、まだ昼間の憤懣を引きずってらっしゃるのね。
だから眠れなくてこちらを訪ねたのかしら?
「相手は精霊ですから、人によって裁くよりも精霊自身の手に裁きを委ねた方がいいと思ったんです」
幸い他の……地や火や風の精霊はそこそこ良識的なようですし、二度と風の精霊を現世に関わらせないと約束してくれた。
強制送還させられた水も、今頃御三方によってこってり絞られていることでしょう。
「それに、ヤツのしたことで致命的な犠牲者も出ませんでしたし。あれくらいがちょうどよい量刑と思っただけのことですわ」
ただ一人、ヤツの最大の被害者と言うべきはシャンタル・ウォルトー嬢でしょうね。
水の精霊が抜けて彼女本来の人格が戻ったら、気の毒なほど恐縮して謝り通しだったわ。
元来は気が弱くて控えめなお嬢様だったらしい。
ウォルトー家は代々水の精霊と密約を交わして、求められた時に血族の身体を明け渡す。その代償としてより多くの恩恵を精霊から引き出していたらしい。
農適地が少なく貧しいウォルトー家は、そうして嵩増しされた高い魔力を示すことで公爵位を守り続けていたのね。
精霊とさらなる契約を結んだことは別に法を犯すことではないし、幾人の野心家をそそのかして犯罪に走らせたことは精霊が行ったことで彼女自身への罪は問われにくい。
それでも王家が本気になれば降格なり領地の没収なり罰することはできたでしょうけれど。それも私からお願いしてやめてもらった。
今回で当然水の精霊との密約も消え失せ、ウォルトー家は今度こそ独力で領地を治め繁栄させていかなければならない。
元が痩地な上に、水の精霊に頼りきりで領主に必要な技術知識を学んでこなかった彼らにとって苦難の道のりになるのは間違いない。
それこそを罰だと思って、しっかりとやり直してもらいたいわ。
「だからいいのです。すべては取り返しのつくことだったのですわ」
「今世ならばそうだろう。しかしあの水の精霊は時間が戻る前から長きにわたってキミを苦しめてきた。その償いに一度や二度殺したぐらいでは飽き足らない」
そう、キストハルト様は知ってしまったのよね。
詳しくは知らないけど、一旦水の精霊との戦いで致命傷を負い、生死の境を彷徨った折に死に戻り前の出来事を見たらしい。
そんなことができるのは時間の概念から自由な精霊だけ。……本当に光の精霊は余計なことをしてくれたわ。
「前世での罪を持ち出すなら、私にそれを裁く資格はありませんわ。もっとも多くの罪を犯したのがわたしなのですから」
「それは違う。キミは水の精霊に唆されただけじゃないか。しかもそうなるように周囲から追い込まれ続けた。キミの罪は、他すべての人間が共に背負うべきものだ」
慰めてくれるのねキストハルト様。
そうしてくれるのは彼が私を愛してくれるから。でも前世での私は愛される資格もなかったのだわ。
「醜かったでしょう、前世の私は?」
「それは……」
「周囲を敵視し、憎しみを振り撒いた。皆に自分を認めさせなければ自分に意味はないと思っていました。だから王太子妃となることに手段は選ばなかったのです。ヒトを蹴落とすことも、陥れることも、命を奪うことすら厭わなかった」
自分の利益のために他人を害することができる人間こそがもっとも醜いのだと思うわ。
「確認させてくれ。最初、オレの求婚を頑なに拒否し続けていた理由は、時間を遡る前に犯した間違いのせいか?」
キストハルト様の問いに、私は無言で頷くことしかできなかった。
どんな言葉を言えばいいかわからなかったから。
「前世では王太子妃となるためにたくさんの人を騙し傷つけた。そんな私がやり直しで王太子妃になってはならない。そういう思いがあったことも確かです」
「かつて言ったな、『愛する人から拒絶される絶望を知ったら、もう二度と人を好きになれなくなる』と。拒絶の理由が自責の念だったならアレは方便だったのか?」
「いいえ、それも私の真意です」
「光の精霊に見せられた過去の……過去と言っていいのかどうかわからないが、ここにいるオレではないオレを見た。キミのことを手酷く拒絶していた」
そう言われて、心臓がキュッと鳴った。
「アレを見てやっとキミの言葉の意味がわかった。キミのことを拒絶し、あまつさえ命まで奪った。冷酷にもキミに処刑判決を言い渡し、わざわざ処刑される様を見届けに来ていた。そんなことをしたオレのことをキミが嫌うのは当然だ」
「いいえ……いいえ。嫌いになんかなれません」
いつの間にか頬から涙がこぼれ落ちていた。
二滴三滴と、頬に線を描いていく。
「好きなんです。前世で最初に出会った時から。たとえアナタに殺されようともこの気持ちは変わらなかった。……いえ、前世での私の死は自業自得なんだから、そもそもアナタに結び付ける謂れはないわ」
でも拒絶されたことは悲しかった。
こればかりは自業自得といえども悲しい気持ちは留められない。
「だからきっと臆病になってたんだと思います。時間が戻ってから、アナタが好きだという気持ちに必死に目を背けてきました。アナタは光り輝く王子様で、私は醜くて邪悪なケダモノ。光に近づいただけで霞んで消えてしまう、って……」
「オレは……!」
キストハルト様の声に苦渋が交じってきた。
宵闇でよくわからないけれど、表情にも苦々しさが宿っているように思える。
「オレは……、あの時間に分け入って、あの時間の自分を殺してやりたい!」
「えッ!?」
「エルトリーデの孤独も、エルトリーデを追い詰めた周囲の理不振も、エルトリーデの心の奥底あった美しさも、何もかも見ようとせず独りよがりの正義を押し付けてきたあの時間のオレを。襟首掴み上げて、顔中がパンパンに腫れ上がるまで殴って、その上で首を斬り落としてやりたい……!」
「キストハルト様……!」
「わかっている。アイツはオレ自身だ。オレが吐き気を催した、アイツの高慢ちきな独善さは、きっとオレの中にもあるんだろう。この新しい時間の中でキミと過ごした間だって、それでもって無意識にキミを傷つけたこともあったかもしれない」
そう……かもしれない。
否定しようとして言葉が出なかった。
キストハルト様と過ごす時、いつも胸はときめいていたけれど、一方で自分のどす黒い部分を制御できなくなる瞬間は幾度かあったわ。
「オレは、オレならばエルトリーデを幸せにできると信じて疑わなかった。他の誰でもないオレだけがエルトリーデを幸せにできると。でも、……でもあのおぞましい情景を見て信じられなくなった。オレは、オレはエルトリーデを幸せにすることはできない。むしろ不幸にするだけなんじゃないか? オレは……、オレは……!」
キストハルト様が震えている。
すべてにおいて自信に満ち満ちて、自分のすることに間違いないと顔に書いてあるようなキストハルト様。
そんな堂々としたアナタが大好き。
常に自分を信じることができない私にとって、何より眩しく羨ましかったから。
「私は、アナタと一緒にいられるなら不幸でかまいません」
「オレが嫌なんだ! 愛する女性を傷つけることしかできないなんて……! オレという男には価値がなさすぎる……!」
苦しんでいるのね、私のせいで。
私は静かに彼の手を握った。
「私は、どうせキストハルト様と結ばれなければもっと不幸です。でもキストハルト様と一緒なら、それよりはマシですわ」
そもそも私は幸せになる権利など持ち合わせていない。
私は死に戻る前の人生で多くの罪を犯した。たとえ時間が戻って罪も含めたすべてが消え去ったとしても、記憶に残っていることをなくしてしまうことはできない。
そう思っていた。
「だから、どうか傍においてくださいませ。私はもう逃げることはやめました。アナタを愛することから、もう逃げません。アナタに不幸にされるなら私は本望です。私を罰する権利を、アナタだけに持っていてほしいのです」
前世と同様に。
もし今回の生でもアナタによって斬首されるなら、私はそれを幸せと思うことができます。
「エルトリーデ……、キミは、キミという人は……!」
キストハルト様の両腕が私の背に回された。
「キミは、どうしてそこまでヒトに優しくなれるんだ……!? こんなにもキミを拒絶してきた世界を、そうまで愛することができる……!?」
「恨みは、前世に置いてきてしまったのかもしれません。前世で恨み尽くしたのなら、あとはもう愛するしかないじゃありませんか」
でもキストハルト様。
アナタのことは前世からずっと愛してきました。
やっぱり私は幸せです。
幸せになってはならないとしても今とっても幸せです。
こうして今アナタの腕の中に、いることができたのだから。





