神様、あなたは何でも知っていて、心悪しきひとを打ち負かすだろう。
久しぶりに香貫山に登山したのだけれども、山頂附近の状況は一変していて荘厳な雰囲気に妖艶な煙ズ、霊廟のような建造物、黄泉の人間にしか判らないような文言の千社札のようなものが貼られているアーチ状の屋根を備えた玄関スペースの柱。ここは社務所かなんかか 。そして、展望台としての役割をおそらくは担っているのであろう岬のように突き出たエリアから鈍曇りのなか見晴らすと、遠くの街ではなくすぐ麓の街からは巨大なサグラダファミリアのようなゴシック建築が天に向かって突き刺すように伸びていてそれがまた異世界間を醸し出しているのだけれども、それを見てあそこへ行きたいー!無邪気にはしゃぐ 。社務所のような建物に向かい、柱に貼られていた千社札数枚を俺は何の躊躇いもなく勝手に剥がして封印を解き、這入るとすぐ眼前に廊下が在った。「快楽室」と書かれた部屋に這入ると其処は果たして給食室で、麓の小学校の子供たちの給食づくりに専念している給食のぉばさんたちが汗を流す。とんだ快楽事業だ。もうここまで来たのだから、後には引けない。給食のおばさんたちの物凄い熱気と気迫に圧倒されながら、何もすることがないかと思いきや、いやいやまだ時間が早過ぎると思い、売店でも見に行こうと歩いて向かう途中で、背後にひとの気配を感じ誰かがいると思ったらぬっと現れたそれは麓に住んでいると思われる老婆であった。何故かこちらが振り向くと、急に顔を覆って何処かへ行ってしまった。なんだか怖くなって、そのまま一気に社務所から飛び出した。いつもとは様子がまるで違う山頂で風音のみが虚しく吹き過ぎて行く。売店は既に終了していた。視界は開けているのだけれども、何故か、広場の片隅に朽ち果てる寸前の、山門の門戸だけが存在しており、その扉を開けると、先ほどの老婆が佇んでいて、只、只管、こちらを睨みつけている。髪は灰色のざんばらで、身なりはひどく粗末なものだった。この老婆だけでなく老婆同様、数人の何者かが俺を見張っていて他の場所からこちら睨んでいるような気がして振り返ると、何処にも誰もいなかった。無言で俺と対峙し、佇む老婆に対してなんだか気まずい空気が流れ出したので、…こ、こ、こんな山のてっぺんのこんなところに、如何してこんなものが設置されているのですか?見るからに、かなり昔から在るみたいですけど…?老婆は何も答えようとしなかった。そして、あたかもそう俺に訊ねられることは既に判っていたかのような素振り、しかし、判っていながらも、いざ、そのときが来ると緊張しだして何処かに恥じらいらしきものがあったような老婆は、顔を真ッ赤にしながら、俯いてしまった。口を利こうとしない老婆を呆れて見ていると、急に眼配せをしたかと思うと、片手で手招きして道案内をしてくれるようだった。薄暗い道を老婆の後ろからついて行く途中、片側が崖のようになっている で少し奇妙な感懐を抱いた。それというのも、突然、見晴らしのいいエリアに出たかと思うと、すぐにその見晴らしのいい景色は消え失せてしまう。うまいこと言語化出来ないのだけれども、チカチカと のように交互に移り変わる景色はなんとも不思議な体験だった。「…そー言えば、あのときも、 だったなァ…? 」そんなことをふと考えていながら歩いていたら、老婆が案内したい目的地に辿り着いた。その場所にはなにもなかった。
この世界には遺すべき価値すらないものばかりが後世に遺されるらしい…。
…まぁ、当然というか、如何もその話があまりに深遠過ぎて、俺には到底、理解出来なかった。だから、その場所で聴かされた話を、正直に言って殆んど憶えていないのだけれども、しかし、ひとつだけ、はっきりと記憶に残っている話があって、それは、こんな話であった。男は、自らが信仰する宗教の教義を信じていた。或る時、教団の教祖から呼び出され、なんでも重大な話をしたいのだという。そこで男は、言われた通り指定された場所へと赴いた。そこは小さな会議室のような部屋で、椅子と机が理路整然と並べられ置かれているだけの簡素な作りだった。其処に男が這入っていくと、既にそこには数人の信徒が椅子に座っていた。男は自らの席であろう場所に腰掛けた。すると教祖はおもむろに話し出した。「この世界には遺すべき価値すらないものばかりが永久に遺される…」まず、初めにそうことわってから話を始めたらしい。やがて男は、自分は教祖に心酔し、日々祈りを捧げてきた事を伝えた。それから、教祖は自らが主催する宗教団体の教義について改めて語り始めた。それによると、この世界は神の創造物であり、本来はこの世に存在しているものは総て必ず何かしらの意味があり、遺すべき価値のあるものしかなかった。それは楽園のような生態系の世界であったのだけれども、それを人間が掻き乱し、滅茶苦茶にしてしまったのだと。しかし、そのことに既に気づいている選ばれし人間たちがいる。それが、我々なのだと。遺すべき価値のあるものと、遺すべき価値のないものの選別が出来るの能力を有するのは我々だけである、つまり、我々の精神だけがこの世界で唯一崇高であり、その理論に則った行いを行使することが出来るのは我々の特権であると、熱く語った。そして、私には特別な力が授けられている。それはそれこそはこの世の真理を見抜くことが出来るというものであり、私が半眼で世界を見渡せば光が顕現する。それじっと見つめているだけで、私は世界の総てを把握することが出来る。なんて素晴らしい能力だろう。これほどのしあわせはないとは思わないか?そうして教祖は暫くの間一人で喋り続けた。未曾有の感染症の蔓延による人類の危機はそのトリガーなのだと。犠牲を伴い、純粋培養されている を解き放てば、世界は救われることだろう。その頃、その部屋の外で待機していた他の信者たちは何事か?と声をひそめて互いなにかを囁き合っていた。その中には、老婆も含まれていた。教祖の話は熱を帯びヒートアップしてゆき、それはマントラを唱えてるかのように言葉の意味は次第次第に殺ぎ落とされ、狂気を孕んでいった。そうこうしている内に、到頭、我慢の限界に達したのかトランス状態に陥った一人の信者が寄声を上げた。それに呼応するかのように他の信者達も次々に騒ぎ出すようになった。しかし、それでも、尚、教祖の話はやむことを知らなかった。逆に勢いづいていったのだった。遂に、堪忍袋の緒が切れた一人の信者が部屋に駆け込みこう叫んだらしい。お前は狂っている!と。すると教祖はゆっくりと振り返り、こう呟いた。あなたもですよ…と。こうしてその翌日、謎の集団自殺が起きた。教祖は建物の外に植えられていた松の木で首を吊った状態で発見され、その後、死亡が確認された。あの山門の一部のような門戸はその事件の名残りで、社務所のような建物は、当時はまだなくまったく関係ないらしい。また、その建物の周囲には人骨が散乱しており、事件性があるとして警察が捜査に乗り出した。しかし、身元不明で、事件は、結局、迷宮入りとなってしまった。只、ひとつだたけ確かなことは教祖と思われる男の遺体は首吊りの状態で発見されたものの、それ以外の物的証拠なようなものはなにひとつとして見つからなかったということだった。同時多発テロを阻止する為、自殺を装いながら、信者の誰かが教祖を殺めたのか?真相について老婆はなにも語らなかったが、老婆はその宗教団体の唯一の生き残りであって、そんな由縁がこの場所にあったことなど俺はまったく知らなかったので、恐怖を感じた。そして、同時に今まで信じて疑わなかったものを根底から覆されるような感覚に陥った。