第3章
紅華国の都、陽都。
紅華国の中央に位置し、皇帝直轄の地域を包含した大都市である。
首都といっても単なる一都市ではなく、その規模は州ひとつ分と変わらない。
四方はぐるりと山脈が囲むように連なり、陽都に入るには要所に設けられた関所を抜けなければならない。
都の中心部までは街道が整備され、街道にそって、地方市の規模の集落が点在している。
気候的にも穏やかで、水源にも事欠かず、紅華国の中で最も住みやすい安定した地域が陽都であった。
陽都の要にあるのは言わずと知れた、皇帝の居城『暁城』。
暁城を守るように、陽都中心部を巨大な壁と運河が囲み、有事の際には陽都主要部そのものが巨大な要塞となる。
始祖陽帝がこの地に紅華国を開闢して以来、陽都は地の利を活かして外敵から守られ少しずつ巨大化と繁栄の一途をたどり、現在の規模に至る。
六百年の間、皇帝の政の舞台として、居城として、何度も改築や増築を繰り返してきた暁城。
その名は陽帝が初めてこの地に城を建設したときから同じ、その屋根の紅色から発した名であると言われている。
暁城の屋根には、紅華国北部の山から産出される特別な赤土で焼かれた紅い瓦が葺かれている。
この赤土で作られた瓦や焼物は優れた耐火性を持ち、いつまでも色あせることなく、しかも丈夫で硬い。
少量しか産出されないこの希少な赤土をふんだんに使った瓦を、城の全ての建物で使用できるあたり、この国の過去の皇帝の権力の巨大さが窺い知れる。
一方で、暁城の名はその屋根の紅さからだけの所以ではないとする説もある。
暁城の東側には広大な湖、碧永湖がある。
陽都の主要な水源であることはもちろん、美しい碧永湖を従えた暁城の姿は堂々たる景観を成していた。
日の出の際、暁の紅色に染まる空の色が碧永湖に反射し、暁城の白い壁を紅く染める。
紅い屋根とあいまって、城全体が暁の空のように燃える紅色に見えるのだ。
その城と湖、空が競演する美しさは荘厳かつ優美で、古来から当代の詩人たちがこぞって題材にしているほど。
太陽が昇っていくほんのわずかな時、城は最も美しく輝く。
それが『暁城』なのである。
暁城を皇宮にいただく紅華国は四つの州と陽都から成る。
陽都を中心として東西南北の四方に各州があり、それぞれ地北州、東火州、西風州、水南州の四州である。
州は皇帝から任命された州長官を頂点に、ある程度の自治権を持って治められている。
州長官も皇帝の臣下であり、皇帝に忠誠を誓い、その任に当たるのであるが、長官の地位はほぼ世襲制が踏襲されており、代々築かれた伝統と貴族制度から大きく逸脱することはなかった。
つまり、時の皇帝が親政を以って善政を施こうとしても、州長官や、その配下である貴族たちの専横は続き、その財力、権力は保持され、富めるものは常に富み、貧しいものは永に貧しい。
皇帝に面と向かって叛旗を翻すわけでもないから、皇帝もそんな貴族たちを処罰もできない。
大きな内乱などがなくても、民は満たされず、貴族ばかりが肥え太る長い長い慣習は、小さな砂粒が降り積もるように少しずつ民の心に蓄積されていく。
そんな民の唯一の希望は、やはり皇帝なのだったが、ここ数代の皇帝は暗愚か、放蕩か、傀儡かのいずれかで、いつか自分たちの暮らしを皇帝陛下が良くしてくれるという民の思いは叶えられぬまま今に至る。
それが紅華国の実態であった。
暁城の最も奥、そして最も華やかで壮麗な場所、まもなく新皇帝のものとなる後宮の一角は、現在、各州から集められた三百人余りの女性たちの審査場兼宿所となっている。
すでに八割がたの娘たちは一次審査で侍女となることが決まっており、配属先を決められるのを待つ者は宮廷作法などの教育を受け、帰郷を望んだわずかな者はすでに後宮から出されていた。
女官として採用されるべく残り五十人余の娘たちは次の審査のために待機していた。
州ごとに宿所として割り当てられた棟の一つ。
漣花のいる水南州の棟はちょっとした騒動になっていた。
「だから無理ですってば」
「無理もなにも、漣花殿は水南州から妃候補が出ないままでよいとお考えか?!」
「そうではなくて、私では到底合格しないと言っているんです」
「そんなものやってみねばわからないではありませんか!」
無理、いや無理じゃないの漣花と英達の押し問答がもう半刻以上続いている。
遠巻きに侍女となることが決まった娘たちや、英達の部下が、ハラハラと成り行きを見守っていた。
事の起こりは一次審査の終了後に始まった。
そもそも、女官審査とは名ばかりで、皇帝の妃を選抜する審査をも兼ねている。
慣例であれば、このあと二次審査が行われるのであるが、ここで落第するものはほとんどいない。
なぜなら、一次審査で残ったもののほとんどは貴族の令嬢たちであり、あとはその中にいる、時の実力者の娘が皇妃に選ばれ、貴妃以下の妃については皇帝が選ぶことができるのだ。
あくまで『名目上の公正を保つ』ために、二次審査において成績の良かったものが皇妃候補になり、州長官および尚書職五官の承認を得て、正式に皇妃となることになっていた。
つまり、審査や試験での選抜は形式上だけのものであり、皇妃になるのはほぼ誰かというのは暗黙の了解で決定済みの事項なのである。
このたびの新皇帝の皇妃と目されているのは、最上官職である丞相の娘で、名を麗岐という。
眉目秀麗、教養高く、幼いころから皇妃たるべく教育を施されてきた丞相自慢の娘が彼女である。
台本どおりに、麗岐が皇妃となる、そんな筋書が粛々と進んでいるかに見えていた。
しかし。
突如、新皇帝が物申したのである。
「一次審査を合格したものは女官として採用し、皇妃は太老師 による別途試験を用いて定める。ついては四州それぞれから一名ずつ推挙を許す」
太老師とは、名を太禅といい、皇帝の幼少時からの学問の師であり、紅華国随一の学者である。
齢はもう八十に近いと言われているが、矍鑠とした物言いはつねに公明正大で、かつ仁徳にあふれ、国じゅうから尊敬を集めていた。
皇宮の高官たちはほとんどが太老師の教えを一度は受けており、太老師には頭が上がる者がいない。
この皇帝の命に慌てたのは皇妃選抜の担当である宮内尚書麾下の官達である。
もともと審査は形式上だけのもの。
審査内容は公表されず、賄賂や忖度が横行し、審査の点数は高い高い下駄を履かされたりして、なるべき者がなるべくして皇妃になってきたのである。
それを、全くの第三者である太老師が審査するなどと、前例がないことを盾に、丞相はじめ皇宮の高官たちはこぞって反対した。
が、新皇帝はなおも言った。
「皇妃たるものの資質を問う審査を、当代一の見識を持たれる太老師にお任せすることになんの反対があるか。太老師は我が師。老師の目にかなうものでなければ、我が隣席に座することなど叶わぬ。五十有余の女人の審査の手間を省いてやろうというのだ。反対する理由などあるまい」
そう言われてしまうと、官達は口をつぐむしかなかった。
皇妃はすでに決まっていて、審査は形式だけのものです、などとは言えなかったからである。
そしてもう一つ、たとえ太老師の試験であろうと、高度なお妃教育を受けてきた麗岐が飛びぬけた成績を修めると予想されたことも、反対の声を小さくした。
なにより、麗岐の父である丞相が、我が娘の秀でた美しさや教養に絶対の自信を持っており、反対の意をそれ以上唱えなかったということも、前例のない皇妃試験実施の後押しとなった。
そこで困ったのが水南州の面々である。
一次審査を合格したのはたったの二名。
桃胡と、漣花である。
桃胡は一次審査に合格しただけで卒倒するほど驚き、その後の皇妃試験の話を聞くと、自分が水南州の代表になるなどとんでもないと泣き出した。
それもそのはず、他の三州の推薦を受ける令嬢は皆とびきりの美しさで大貴族の娘ばかり。
その中には丞相の娘、麗岐も地北州の推挙を受けて混じっている。
商家の娘でしかない桃胡はすっかり怖気づき、自分は辞退するから推挙は漣花様に、自分は故郷湖桂に帰らせてくれと泣きながら寝込んでしまった。
水南州の娘たちを引率してきた英達にしても、よもやこのような前例のない事態になるとは思っていなかったが、英達の見込みどおり、漣花が一次審査を合格していたのは幸いだった。
そこで英達は皇妃試験に臨むよう、漣花に申し渡したのであるが。
「無理です」
当の漣花がこれである。
無理ですの一点張りで英達と火花を散らすこととなったのだ。
「私はお妃教育などは受けてきていません。私のような単なる田舎者が公の前で皇妃試験に出るなんて、それこそ水南州の恥になります」
「しかしですな、漣花殿とて由緒正しきお家柄。他の令嬢方にお血筋では劣るものではありませんぞ」
「皇妃は血筋でなるものではないでしょう?それに我が家はもうすっかり没落貴族ですから」
「そういうことではありませぬ。ここで水南州から誰も推挙しないとなれば、漣花殿を見込んで女官候補に推した長官様の顔に泥を塗るばかりか、やはり水南州は貧乏州よと蔑まれること必至です」
英達は、とくとくと漣花を諭した。
自身の出世もかかっているが、これは水南州にとっての千載一遇の好機ではないか。
たとえ皇妃に選ばれずとも、妃の一人には遇されるかもしれぬ。
そんな考えが英達の頭の中にはあった。
一方、漣花は水南州長官、綜波の顔を思い浮かべていた。
綜波は先代長官であった父の後、長官になった人物で、長く父の補佐官をしていたから漣花とも親しく、叔父と姪のような関係であった。
もしも漣花が男でもう少し年長であったなら、父と同じく官職を得て、長官を後継していたかもしれないが、漣花の父は世襲を良しとする人ではなかった。
権力は優れた人材が使ってのみ、民のために活かされるとは父の口ぐせで、父は長官府の人材の中から綜波を後継に指名した。
貴族の世襲が常である長官職において、綜波の抜擢は他州からは驚かれたが、一人娘である漣花がまだ幼かったこと、漣花の父が高齢で引退を決意したこと、なにより綜波が長官職に足る優秀な人物であったために、水南州の人事は綜波の長官就任をしなやかに受け入れた。
綜波は人当たりがよく、温厚で、人望厚い人物である。
水南州の女官候補の一人として漣花を出してくれないかと、父を訪ねてきたのは三か月前。
漣花が承諾したときの綜波のほっとした顔が忘れられない。
漣花としても、小さい時からなにくれとなく面倒を見てくれた綜波には恩義を感じている。
幼くして母を亡くした漣花にとって、綜波の夫人、涼葉は母代わりのようなものだ。
漣花が陽都に行くことを、子どものいない涼葉は自分のことのように喜んでくれ、あれこれと旅の支度をしてくれた。
漣花様ならきっと女官になれる、こんな田舎で埋もれているにはもったいない才をお持ちなのですから、と涼葉は涙を滲ませながら漣花を送り出してくれた。
「長官の顔に泥を塗る」と言われて、漣花の心も揺らいだ。
「では漣花殿は、桃胡殿を皇妃試験に出せというわけですな」
英達が決定的な言葉を発した。
いくら前向きな性格の桃胡でも、皇妃争いなど精神がもつとは思えなかった。
貴族同士の権力争いの代替のような様相の試験に、桃胡は耐えられないだろう。
「……わかりました。受けるだけ受けます」
せめて水南州の恥にならぬよう…!
これだけが漣花の確固たる決意だった。
漣花が皇妃試験を受けることとなり、四州から皇妃候補が出揃ったことになったが、漣花の決意はすぐにくじかれることになる。
***
水南州の推薦者は漣花である旨、宮内尚書に伝えに行った英達が、慌てふためいて漣花の元に戻ってきたのは、水南州の棟を出てわずか一刻後であった。
漣花は、漣花が皇妃試験に出ることに決まったことを聞くや否や、すっきりと床から起き上がった桃胡を見舞っていた。
さっきまで泣きじゃくっていた顔はどこへやら、桃胡は明日の皇妃試験に際しては、自分が持参した衣装から漣花様に一番似合うものを自分が見繕うと張り切りだす始末だった。
元気になったならよかったと、桃胡や他の娘たちと笑っていたそこへ、英達が息せきって駆け込んできた。
「漣花様、た、たいへんなことになりました!」
英達の慌てぶりに反して、さっきまで『漣花殿』と呼んでいたのに、もう『漣花様』になっているのはどうしたことかしらと、漣花は呑気に思っていた。
「なにかあったのですか?」
なるべくゆっくりと落ち着いた口調で、漣花は英達に尋ねた。
桃胡を始め、房にいる皆の目が英達に注がれる。
「すっ、推薦状が必要になりましたっ」
「推薦状?」
まずは落ち着くようにと漣花の目配せで、侍女の一人が英達に水を差し出した。
英達はそれを手に取るとがぶがぶと一気に飲み干して、ふーっと息を吐いた。
「漣花様、明日の正午までに皇妃試験を受ける各州の候補は、貴族二名以上からの推薦状が必要とのことになりました」
「…それは…どういう…」
英達に尋ねながら、漣花はなんとなく事の次第が見えてきていた。
自分の娘を皇妃の座につけたい丞相が先手を打ってきたのかもしれない、と。
丞相は先帝の時代から長くその地位にあり、財力、権力ともに絶大で、先帝はほぼ執政権を失っていたというのが噂だ。
それに、先日会った青嵐も、新皇帝も丞相の傀儡だと言っていた気がする。
どちらにせよ、丞相に対しては暴政をふるう官ではないにしても、野心と権力欲の強い人物であり、漣花は良い印象を持つことはできなかった。
英達は、おもむろに懐から錦の布にくるまれた書状を取り出した。
「これは水南州長官様からの推薦状でございます。このようなこともあろうかと、推薦する方の名は空白にして、長官様がわたくしめに持たせてくださいました」
うやうやしく丁寧に、英達は卓の上にその書状を置いた。
促されて漣花がそれを開くと、誰を推挙するとは書かれていなかったが、確かに水南州長官の署名と押印がなされていた。
「湖桂を出立する前に長官様から託されたのです。役に立つことがあるかもしれぬと」
誰をとは書かずに英達に託したのは、英達の目と判断を綜波が信用してのことだろう。
もしくは、もしかしたら漣花が女官に任じられると、あるいは妃の一人に選ばれると、綜波も考えていたのかもしれない。
綜波の先見の明に漣花はあらためて尊敬の念を抱いた。
遠く陽都にやる我が州からの娘たちを、我が子のように思っての綜波の気遣いにも感謝した。
「一名からの推薦状では認められぬということなのですね?」
漣花が確かめるように英達に問うた。
新皇帝陛下は『各州からの推挙を許す』と命じられたはず。
なのに、貴族二名からの推薦状が必要などという条件が付されたのは、なぜなのか。
「陛下は各州からの推挙を許すとおっしゃいましたのでしょう?なのになぜ今更、二名の推薦が必要だなどと」
皆の思いを代弁するかのように桃胡が言った。
英達が、苦々しく口を開く。
「このたびのような皇妃試験は前例がないことゆえ、丞相が陛下に奏上なさったそうです。各州の代表として皇妃の座を競うとなれば、州同士の争いの様相を呈すると。そのようなことのないよう、皇妃試験を受けるものには各州長官からの推薦とは別に、出身の州以外の貴族からの推薦も求めてはと」
この丞相の奏上は一見、州同士が火花を散らすことのないよう、穏便な手段を講じたかに聞こえる。
実際、その場にいた高官たちはそろって賛同し、皇帝自身も反対する理由もなかった。
「他三州の候補の皆さまならば、そのような推薦状の一つや二つ、簡単なことにございます。しかしながら我が州は、皇宮内に有力な伝手を持ちませぬ…」
確かにそうだった。
皇妃の第一の候補と見なされている麗岐は丞相の娘。
丞相は地北州の前長官であり、その息子が現長官である。たとえそうでなくても、絶対的実力者である丞相の娘への推薦状となれば、我こそがと進んで推薦者となるだろう。
東火州、西風州はもともと親密な関係にある州同士であるから、互いに推薦し合うことで要件は満たされる。
水南州とて皇宮内に他州の貴族の知り合いがいないわけではない。
しかし、誰もが丞相の目を気にするに違いないし、まして州長官の推薦状に並ぶのであるから、単に貴族であればよいというものではない。
州長官か、それに並ぶ高位の官である尚書職相当の地位にある者に自然と限られてくる。
英達が知る限り、五人の尚書はなんの見返りもなく、ましてや丞相に反目すると見なされる危険を冒してまで、漣花を推薦してくれるとは思えなかった。
「もしも…もしも二人目の推薦を受けられなかった時はどうなりますの?」
桃胡が震える声で英達に尋ねた。
「…我が水南州からの候補者はなしということになりますな…」
「そんな…!漣花様がせっかく皇妃試験をお受けくださいますのに!」
その場がざわざわと異を唱える中、漣花は妙に冷静だった。
おそらく丞相は、水南州の候補者が誰からも推薦状をもらえないと予想していたのだろう。
娘の麗岐を少しでも有利にするために、一人でも候補者を減らす算段なのだ。
東火州と西風州の令嬢はどちらも大貴族の娘。
以前から皇宮には出入りしていたであろうから、どんな令嬢かは見当がつく。
その二人であれば麗岐が勝てると見込んでいるのだ。
しかし突然現れた水南州の漣花だけは、どのような娘かもわからない。
悪い言い方をすれば『得体が知れない』漣花を、念のために排除しておく。
これが丞相の真の意図なのではないか、漣花はそう考えていた。
かと言って、はいそうですかと引き下がる漣花でもなかった。
おかしなもので、あれほど拒否していた皇妃試験だというのに、いざ出るとなれば、奇妙な対抗心のようなものが芽生えていた。
「ともかく」
漣花がキリリとした口調で言葉を発した。
英達の話にうなだれていた全員がハッと漣花を見つめる。
「もし誰にも推薦をもらえなくても最善は尽くしましょう。長官様が私たちに託してくださった推薦状を無駄にするわけにはいきません」
そう言うと漣花はその場にスッと立ち上がった。
「英達殿は幾人かの部下を連れて尚書がたを回って推薦をお願いしてください。それから、少しでも関わりある貴族の方がいれば尚書へのお口添えを頼んでください」
てきぱきと漣花は指示を出した。
手をこまねいていても仕方がない。やれることは全部やってみなければ。
漣花とて、皇妃試験を受けると決意した以上、門前払いされるのは嫌だった。
どうせなら太老師の試験というものを受けてみたい、そんな気持ちも働いていた。
「さあ、今夜もそう遅くまでは動けません、急いで」
「は、はい!行ってまいります!」
漣花の覇気と威厳のようなものに圧倒されるように英達は、部下の宦官を幾人か連れてバタバタと房を出て言った。
英達が出ていくと房に残された侍女たちを漣花は見渡した。
水南州から一緒にはるばるここまで来た同志ともいえる娘たち。
一次審査に落第し侍女になることになったけれど、故郷を同じくし、2か月もの間、同じ宿で寝て、同じ食事をしてきた仲間。
友人とも違う、家族のような連帯感さえ、彼女たちとは育んできた。
漣花はそんな彼女たちの希望も背負っている。
「皆は明日の私の試験のための準備を手伝ってください。衣装に髪型、それにお化粧も選んで。私をなんとか見られる格好にしてほしいの」
「で、でも漣花様、もし推薦が受けられなかったら…」
おずおずと桃胡が言うと漣花はにっこりとほほ笑んだ。
「私は受けます。明日、皇妃試験を。皆もそう信じて」
その毅然とした言葉に、一気に一同の顔が晴れ、弾かれたように漣花を最も魅力的に見せる方法を探しに奔走し始めたのであった。
***
一時も静かになることを知らないのではと思われた暁城も、静まる時があるのだなと漣花は思っていた。
宿所にしている棟には広い庭もあり、小さな池のほとりに四阿が建っていた。
昼間の喧騒はどこへやら、すっかり夜も更けて、静かになった後宮は、風情のある灯りが灯るほかはしっとりとした闇に包まれている。
夜の闇にぼんやりと浮かぶ暁城は、昼間の鮮やかな紅色ではなかったが、夜は夜の美しさと荘厳さを持って星空を背景にそびえたっていた。
一人、四阿に座り、髪も夜風に吹かれるがままに、池の水面を眺めていると、誰かが近づく気配がした。
「お寝みにはなれませんか」
英達であった。
「英達殿」
漣花がそう呼ぶと、英達は首を横に振った。
「どうか英達と。殿、はもう不要でございます。あなたは皇妃候補なのですから」
「まだ候補であって皇妃でも、妃でさえありません」
「いいえ。何事も形からと申します。漣花様は我が水南州の推挙するたった一人の方です」
この時間までに、漣花の二人目の推薦者は得ることができなかったことを双方とも知っている。
英達もできうる限りの知己を頼り、頭を下げ、漣花のために、水南州のために奔走した。
しかし、五官のうち、宮内尚書、戸部尚書、礼部尚書、兵部尚書には断られた。
理由は様々に言われたが、要は丞相にたてつくような真似はできないとのことだった。
おそらくこんなに走り回った日は英達にとって初めてだったろうに、疲れたような顔をせず、漣花の様子を見に来た英達にお疲れさまと言うのはなにか違う気がして、漣花は再び水面に視線を落とした。
「考えていたのです」
「なにをでございますか?」
「新しい皇帝陛下は、どうして慣例にならわず、このような皇妃試験を言い出されたのだろうと」
漣花は新しい皇帝の顔も知らない。
自分が仕えるはずの、いや、もしかしたら夫になるかもしれないその人の顔も人となりも知らないのだ。
聞けば新しい皇帝は皇太子の住まう東宮殿にまだ居していて、皇妃試験の命を出した後は、なんの沙汰もないという。
単純に太老師を信用しているのか、自分の妻を決める審査だというのに、興味がないのだろうか。
しかし、皇妃選抜の慣例を破る命を出したほどである。
全くの無関心ではないと思うのに。
「英達ど……英達はお側近くでお仕えしていたのでしょう?陛下はどんな方なのですか?」
漣花がそう問うと、英達は少し困ったように頭をかいた。
「お側近くと申しましても…陛下は、あまり人をお側には置かれないのです」
「…?なぜなのですか?」
「わかりません。わかりませんが…おそらく臣の中で、陛下が絶対の信頼を寄せておられるのは、国軍左軍の将軍と太老師だけかと思います」
「…それは…あまりに少ないのでは…」
「ああ、もちろん、わたくしども皇宮にお仕えする臣下はすべて陛下に忠誠を誓っております。しかし、陛下はお心の内は、あまり明かされません」
「でも、このたびは皇妃試験について、命を出されたのでしょう?」
「ですから、わたくしどもは驚いたのでございますよ。そのように、ご自分のご意見を発せられるような方ではなかったのですから」
漣花は意外に思った。
慣例を破るようなことを言い出す皇帝だ。きっと革新的な考えの持ち主なのではと思っていたのに。
漣花の中の皇帝の印象がまたぼやけてしまう。
「皇太子であられたときはずっと、あまりご自分のご意見など言われず…このような言い方は不遜なのですが、影の薄いお方でございました」
「…先帝が崩御されて、ご自覚が芽生えたのでは?」
「わたくしもそうも思ったのですが、なにぶん陛下はめったに東宮殿からお出にはならず、お見上げする機会もめっきり減りましたゆえ、なんとも判断しかねております」
不思議な皇帝だ、と漣花は思った。
この国の唯一にして至尊の玉座を手にしたというのに、なにかにおびえているかのように人を寄せ付けない。
かと思うと、慣例を破るような言を発して、あの丞相の気を逆なでする。
やはり漣花には、皇帝がどうしてこんな皇妃試験をするよう命を出したのがよくわからなかった。
「しかし…」
英達が、暁城の灯りをゆらゆらと映す池に目をやりながらつぶやいた。
「わたくしは、思っているのです。陛下は、この国を変えようとなさっているのではないかと」
「この国を変える?」
唐突に出た英達の意外な言葉に漣花は鸚鵡返しに聞き返した。
「はい。わたくしなどは、陛下をよく存じ上げているわけではありませんが、もしかしたら陛下は…」
稀代の名君になられる方ではないかと、という言葉を英達は飲み込んだ。
明日、皇妃試験を控えている漣花には言わない方がいい気がしたのだ。
変に気負わせる、とも考えたし、おそらく陛下については、漣花がこの先ひとつひとつ知っていくことになる、そう確信めいたものが英達の中にあったからだ。
「…英達?」
言いかけてやめた英達を訝しんで、漣花が促すように声をかけた。
陛下についてはこれ以上言わずとも、漣花には言っておきたいことがある、と思い直して英達は口を開いた。
「漣花様」
「はい?」
「わたくしは、漣花様こそ、陛下のお側に、お仕えすべき方だと思っております。ですからどうぞ明日は、漣花様らしく太老師の試験をお受けください」
英達の真剣な目に、漣花は背筋が伸びる思いだった。
明日の試験の内容はまだわからない。
その前にもう一人の推薦が得られるかどうかも。
でも綜波や英達をはじめ、自分の後押しをしてくれている水南州の皆の思いを無に帰したくはなかった。
「明日の朝、工部尚書にお会いして、漣花様の推薦をお願いするつもりです。なあに、まだまだわたくしは諦めてはおりませんぞ」
いつもの英達らしく、明るく話す声に、漣花はくすっと笑った。
「ですからどうぞ、漣花様は安んじてお休みになってください。よく眠らねばお化粧のノリが悪くなりますぞ」
「そうですね。休むことにします」
漣花の言葉に、英達が房への道を示した。
英達の前を通りすぎ、ふと漣花は立ち止まって、英達を振り返った。
「英達」
「はい」
「私も諦めていません。明日の試験、私も微力を尽くします」
「…はい!」
背中に英達の声を聞きながら、漣花はまだ見ぬ皇帝を思った。
不思議な二面性を持った皇帝。
一体どんな方なのだろう。
このまま雲の上の見知らぬ方で終わるか、この世で最も近しい方となるか、全ては明日の皇妃試験で決まる。
心なしか、後宮にいる人たちのぴりりとした緊張を帯びた夜の空気を大きく吸って、漣花は夜闇に浮かぶ暁城を見上げるのだった。
***
「水南州、藍漣花様、皇妃試験の間へおいでください」
正午前、宦官が漣花を呼びにきた。
桃胡は、支度を終えてから、静かに目を閉じ着座していた漣花を見た。
昨日、水南州の娘たちが寄ってたかって漣花様に最も似合う衣装、最も似合う髪型、最も似合う化粧をとあれやこれやと試したのだが。
自分たちが持ってきた中での最も豪華な衣装や、最も流行の髪型などは、いまいち漣花にしっくりこなかった。
どれもこれも漣花には、『余計なもの』のように思えたのだ。
豪華な衣装や飾りをひとつひとつ排除して、漣花が持つ気品やにじみ出る教養の高さ、素のままの美しさを希求した結果、今の漣花になった。
呼び出しの宦官の言葉を受けて、漣花がすっと目覚めるかのように目を開けた。
その姿に、桃胡は息をのんだ。
この方は、こんなに美しい方だったろうか。
単に美貌である、とも違う、まるで内側から煌めくかのような気配をまとっているではないか。
森の奥の神秘の湖の水面のように、穢れのない触れがたいほどの美しさ。
厳しい冬の雪の中で咲く花のような凛とした気高さ。
ああ、この方は、やっぱり私などとは違う…と桃胡は改めて思った。
純白の素衣に薄青の紗に白糸刺繍を施した上衣をまとい、銀の留め具で留めた。
首飾りはつけずに、銀細工の主張しない程度の耳飾りをつける。
髪は一部を結い上げ、つややかな長い髪を後ろに垂らしている。
結った髪には白い花を挿した。
そんな漣花のいでたちは、清楚でそれでいて上品で、漣花自身が持つ凛とした美しさを存分に引き出していた。
「はい、参ります」
漣花が宦官に応え、卓から立ち上がった。
「漣花様…」
漣花の周りに集まっていた水南州の面々が、祈るような目を向けた。
いよいよこの時間が来てしまった。
「大丈夫よ。皆、手伝ってくれてありがとう。さあ行きましょう」
漣花はそう言って微笑むと、案内の宦官について房を出た。
英達をはじめ、桃胡らもそれに従う。
公開試験となるため各州から十人程度の傍聴が許されていたのだ。
まっすぐ前を向いて歩く漣花についていきながら、桃胡は悔し涙をこらえるのに必死だった。
ついに、もう一人の推薦者は得られなかったから。
せっかく漣花をこれ以上なく美しく仕上げたのにと、自分たちの仕事が水泡に帰すことが悔しいのではなかった。
推薦者が足りないのはおそらく漣花だけ。
漣花が試験に際して、どんな思いをするかと思うと、悔しくてたまらなかった。
おそらく、桃胡の前を歩く英達も同じ思いだろうと桃胡は思った。
直前まで推薦状を得るために奔走していた英達の手が、ぎりぎりと音がしそうなほどに握りしめられていたから。
試験場となる広間の大きな扉が開いた。
居並ぶ高官や女官たち…そして最も上座にいるのが丞相であろう。
皇宮の重臣たちでぎっしりと埋め尽くされ、ピンと張り詰めた空気が満ちている。
中央に並ぶきらびやかな三人の令嬢が他州の候補なのだろう。
その三人の後ろ姿だけでもわかる華やかさが、この広間の中で異質にさえ思える。
一目その広間を見ると、桃胡は自分はお付きでしかないのに、もう緊張で顔を上げることさえできなかった。
こんなにたくさんの方々の前で…と思うと、桃胡は悔しいやら漣花がかわいそうやらでカタカタと足が震えた。
当の漣花は、すでに他三州の候補が並んだその横に、物怖じすることなく毅然と一人で進んでいく。
最大限、やれることはやった。
英達もできうる限りのことをしたし、桃胡たちも自分を手伝ってくれた。
水南州の面々がこれほど一体感を持って事にあたったことがあったろうか。
綜波には申し訳ないと思う。
推薦者が足りず、自分はここで落第する。
でも、精一杯のことはしたのだ。恥じることはない。
せめて、水南州の代表として、堂々と、自分らしく、しっかり挨拶をして去ろうではないか。
その時、コツ、コツ、と杖の音がして、広間の横から一人の老人が現れた。
一同が次々に恭しく頭を下げていく。
この方が太老師なのかと、漣花は自らも頭を下げながら老人の様子を見た。
長く白い顎鬚と後ろで束ねた白髪が印象的だ。
立派な学者と聞いていたからもっと厳しそうな方を想像していたのに、柔和で優し気な老人に見える。
老師はどんな試験を準備しているのだろう。
自分がその試験を受けられないことが、漣花はやはり惜しくて仕方なかった。
太老師は、ゆっくりと漣花たちの前の壇上にあがり、椅子に座った。
太老師の着座を確認すると、進行役らしき宦官が、手にした紙を読み上げた。
「それでは、皇妃試験を始めます。まず皇妃試験候補者と、その推薦者二名の確認をいたします」
広間にいる全員の目が四人の皇妃候補に向けられた。
「地北州候補、王麗岐様。推薦者、地北州長官王蔡儀、並びに礼部尚書超莫周」
「はい」
高音の綺麗な声が響いて、並んだ四人の候補の右端の女性が一歩前にでた。
広間の一同が、ざわめくのがわかる。
濃い薔薇色の上衣にさらに緑の肩布、首飾りや腕飾りはすべて金。
複雑に結い上げられた髪にはシャラシャラと背中にまで揺れる豪華な髪飾りを付けている。
肌が白く、黒目がちな瞳で、誰が見ても美人と称するであろう令嬢であった。
ちらりと麗岐が漣花に目を向けた。
ツンと、冷笑じみた視線を一瞬送ると笑みを浮かべたまま前に向き直った。
「東火州候補、楊春玉様。推薦者、東火州長官廓制儀、並びに西風州次官…」
読み上げられる候補者と推薦者の名前を、漣花はぼんやりと聞いていた。
淡々と、当然のごとくに呼ばれては一歩前に出る令嬢たちの衣擦れの音がやたら耳に響く。
視線を起こすと、斜め前方に、丞相の姿があった。
その口元にうっすらと嘲笑が見えた。
ここで漣花が去るのを待ち構えているかのように。
「水南州候補、藍漣花様。推薦者、水南州長官高綜波」
この後に続く二人目の推薦者はいないのだ。
漣花は、老師に一礼してこの場を退出しよう、そんな心の準備をした。
「並びに左軍将軍、李青嵐」
は?と思わず声が出そうになり、漣花は慌てて「はい」と前に一歩進みでた。
あまりに驚きすぎて、どれから驚けばいいのかわからなかった。
二人目の推薦者が漣花も、おそらく英達も、いやこの場にいるほとんどが知らぬ間に現れたこと。
それが左軍将軍という全く自分と関連のない高位の人であること。
しかもその人があの「青嵐」であること。
どきどきと鼓動が自分自身の耳にまで響いてくる。
この広間に入っても緊張などしなかったのに、今は指先までもが小刻みに震えた。
驚いたのはこの場にいる者ほぼすべてで、広間全体がざわついている。
なにより、丞相その人の視線が、漣花を苦々しく射抜くように向けられていた。。
あの丞相でさえ、漣花の推薦を「青嵐」に対して止めることができなかった。
返していえば、「青嵐」は丞相の威光など意に介さない立場だということなのか。
その名前と、あの森で出会った青年とが、どうしても結びつかない。
青嵐はこの広間にいるのだろうか。
見回したい気持ちをこらえて、前を見据える。
四人の皇妃候補が並んだのを見て、太老師がゆっくりと立ち上がった。
「では皆々、この四名の候補にて、皇妃試験を行います。よろしいですな」
太老師の言葉に、異を唱えるものは誰一人いなかった。
---皇妃試験が、始まる。