第2章
ギシっと音を立てて、馬車が止まった。
他の馬車も次々に止まる気配がする。
「…?休憩ですか?」
まだ日も高いし宿泊には早いのではと思い、馬車を降りる支度をする英達に漣花は尋ねた。
「いいえ。陽都にはあと半日もかかりませんからな。ここで皆、身なりを整えていただきます」
英達が馬車の扉を開けると、そこは瀟洒な屋敷の前だった。
皆が馬車に降りると門から中へ案内され、ぞろぞろと英達についていく。
屋敷は豪華なとは言い難いが、それなりの上流階級が住まうにふさわしいと思えるような広々とした建物だった。
しっかりとした石造りの壁にぐるりと回廊が施され、いくつもの館が繋がっているようだ。
庭も広々としていて、植栽は派手さはないが趣きがあり、美しい屋敷を上品に彩っている。
水を湛えた池もあり、ほとりには小さな四阿が建っていた。
屋敷の周りにはあまり家屋などはなく、さながら静かな森の避暑地のようだ。
英達の後ろを歩きながら、漣花は尋ねた。
「ここは…?」
「水南州の州長官用の別邸の一つです。陽都の中にももちろん州邸はありますが」
水南州も貧乏とはいえ、紅華国四州の一つには違いない。
それなりに体裁を整えるだけのものは持っている、というわけのようだ。
めったに人が訪れることはなさそうなのに、邸宅はきちんと手入れされ、付け焼刃で整えた印象は受けなかった。
漣花たち、女官候補の娘たちは、二、三人の組に分けられ、それぞれ今夜宿泊する部屋に通された。
ここまでの道中でも宿場町で宿に泊まることもあったが、護衛も含めた人数が人数だけに、馬車や天幕を使って野営することも少なくなかったので、こんなちゃんとした寝床は久しぶりだ。
英達によれば、ここで旅の埃を落とし、身なりやらを整えて明日、陽都に入るという。
陽都に着けば皇宮である暁城へすぐに向かうことになり、そうなれば、自由に行動することは制限されるだろう。
牢獄に送られるわけではないけれど、今まで自由奔放にやってきたことを思うと、城からむやみに出られるわけではない暮らしが今更ながら窮屈で不自由なものに思えてきた。
「漣花さまは行かれませんの?」
ぼんやりとこれからのことを考えていると、ふいにやや幼い印象の声がかけられて、漣花は声の主の方へ振り返った。
小柄でかわいらしい娘が、漣花に微笑んでいる。
旅の中で何度か同室になった桃胡だった。
「行くってどこに?」
「まあ、漣花様ったら。皆、先を争って行きましたのよ?明日、陽都に入る時の衣装選びですわ」
そういえば広間の一つに明日の衣装を用意しているからそれぞれ選ぶようにと英達から指示されていたのだった。
漣花は興味もなかったが、他の娘たちは我先に自分を少しでも美しく見せるための衣装を選ぼうと、戦々恐々としていたらしい。
桃胡も行きたいらしく、そわそわしている。
子兎のようにかわいらしい桃胡は薄桃色の肩巾がよく似合っていた。
「私は…なにを着ても同じだし、せっかくだから少し外を散歩してこようかと思って」
「外に?行かれるのですか?」
「ずっと馬車に揺られていたから、体がギシギシする気がして。私の衣装は余ったものでいいからついでに持ってきてもらえたら助かるのだけど」
「漣花様って、本当に…」
桃胡が呟く声に漣花は扉口から振り返ったが桃胡はそれ以上言わず、にっこりと漣花を見送った。
漣花が英達に見つからないよう様子をみながら出ていき、ぱたん、と軽い音を立てて扉が閉まると、桃胡は、ほう…と息を吐いた。
「本当に漣花様って変わってらっしゃるわ」
自分の衣装、髪型、化粧などなどが気になるのは女性なら皆同じだと思っていたけれど。
漣花はさっぱり興味がないらしい。
旅の途中でも漣花は、私はたいした器量よしではないし、と自分で言っていたが、桃胡にしてみれば、漣花の女性としての『素材』はとても良いものだと思えるのに。
私のように小柄でも、くせ毛でも、目が小さくもないし…と桃胡は部屋の鏡に映る自分を見た。
女官募集でやってきたとはいえ、漣花のように教養の高さも家柄もよくはない自分はたぶん侍女どまり。
でももし漣花様が女官かお妃の1人になられるなら、桃胡は漣花の側近くにお仕えしたい、と思う。
何度も旅の途中で同室になった漣花は、少々変わってはいたが、心優しく長旅に疲れた桃胡をいたわってくれたし、交わす話の端々には教養の高さがうかがわれた。
それになにより、桃胡は漣花に、自分はもとより他の誰にもない、特別な気配を感じていた。
単純に美しいとか気品があるというようなものではなく、漣花はなにか人を惹きつける奥深い気高さを自覚なく持っているように思えた。
桃胡の知識では、そのなにかに名前をつけることは難しかったけれど。
それでも桃胡は漣花に憧れと尊敬の念を感じてならなかった。
「どう見ても、漣花様と私では違いすぎるわ…」
鏡に映る自分を頭の先からつま先まで眺めて、桃胡は小さくため息をつく。
商家の娘である桃胡は他の娘たちより質の良い衣服を身に着けてはいたが、桃胡は自分の器量の欠点をよく自覚していた。
「でも仕方ないわ。生まれ持ったものだもの」
だからせめて、自分に一番似合うもので着飾って、精一杯頑張ろう。
そう思い直し、衣装選びの部屋に桃胡は足早に向かった。
桃胡の最大の美点はその性格の前向きさにあることを桃胡は自覚していなかった。
***
夏の太陽はまだ高いところにあった。
州別邸からこっそり抜け出した漣花は、裏手にある森の中を歩いていた。
広葉樹の樹々が、うまく日陰を作ってくれているので、盛夏の日で肌が焼けることもなさそうだ。
かき分けるような背の高い草が生えているわけではなく、樹々の間隔が丁度良い具合に空いているので森の中とはいえ明るく、散歩にはちょうどいい。
さくさくと下生えの短い草を踏みながら歩いていくと、野兎や栗鼠らしき小動物が時々びっくりしたようにひょっこり顔を見せた。
人が森に入ってくるのが珍しくて警戒しているのか、単に恋の相手を求めてさえずる季節なのか、鳥たちのさえずりもよく聞こえていた。
吸い込んだ空気は緑に浄化されていて、馬車の中の閉ざされた空間に飽き飽きしていた体にしみわたり、瑞々しく心地よかった。
と、夏のさわやかな森の空気の中に、漣花はさらさらと流れる水音を聞きとめた。
「近くに小川があるのかしら…」
自然にできた小道をそれて、水音を頼りに漣花は低い木の茂みを分け入っていく。
ほどなく、小さな小川とその先に広い泉が現れた。
水辺に近づいてのぞきこむと、水は澄んでいて、川底まで透きとおり、小魚が泳いでいるのが見てとれた。
木立からさす木漏れ陽が反射して水面が星の瞬きのように煌めいている。
どこから流れてきているのか、小川の上流はゆるゆると曲がり木立の奥に消えてしまって源はわからなかったが、こんな透明で澄んだ水を前に、漣花が入ってみようと思わないはずもなく。
ふわふわと若い草の上で沓を脱ぐと、漣花は素足のつま先を少し水につけた。
小川の石はまるくころころとしていて、漣花の足を傷つけることもなさそうだ。
「つめたっ!」
しばらく歩いて火照った足に清涼な小川の水はキンと冷たく、漣花は思わず声をあげた。
しかし、一度足をつけてしまうと、その心地よさにほっと顔がゆるむ。
足首まである薄手の巻衣のすそをたぐって持ち上げ、長いそでも肩までまくりあげた。
どうせ見ている者とていないわけだし、少々大胆になったところで大丈夫とばかりに、ちゃぷちゃぷと小川のなかほどへ進んでいく。
「いい気持ち…」
脛のあたりまで水に入りながら漣花はすうっと深呼吸をした。
見上げれば、青い空には雲一つなく、緑の葉が強い日差しに玻璃のように透き通っている。
時折そよりと吹く風も、小鳥たちの声も、小川のせせらぎも、なにもかもが美しく、漣花は生き返るような心地だった。
明日には陽都に入り、暁城での暮らしが始まるというのに。
こうしていると、そんな明日が遠い遠い未来か、全く別の世界のことのように思えてくる。
これから先、暁城で暮らしていくことが、おそらく新皇帝が崩御するときまでずっと皇宮で働いていくことが、いやだというわけではない。
それが故郷のためでもあるし、なにより皇宮で働くなど、名誉な仕事だ。
漣花はさしてなりたいものもなかったし、ただただ変化のない毎日を凡庸に過ごしていくのだろうと思っていたから、突然降ってわいた女官候補の話に面食らっただけなのだ。
2ヶ月も旅をしてはるばるここまでたどり着いた、今この時になっても。
もし後宮の女官になれば、おそらく普通の女性としての生活…たとえば結婚などはできないのだろう。
皇帝の「妃」ではないにせよ、後宮の女はすべて皇帝のもの。
おいそれと他の男性に出会う機会もないだろうし、自然と結婚などとは遠ざかるはず。
いわば後宮と結婚するようなものなのだ。
そう思うと、漣花も「らしくない」とはいえ、年頃の娘であることには違いなく、いつか好きになった人と結ばれたかったな…とも思わないでもなかった。
しかし、もう陽都への道はあと少しになってしまった。
引き返せない道を、漣花は歩みだしてしまっている。
英達は侍女になるのが嫌なら故郷へ帰れるようなことも言っていたが、自分を送り出してくれた父の顔を思い出すと、帰るなどということは考えられなかった。
漣花とて、旅してきた2か月で、覚悟も諦めも希望もないまぜにして、ここまできたのだ。
漣花にも、意地のようなものがふつふつとわいていた。
水面に、家にいた頃とは少し違う自分が映る。
漣花はおもむろに、自分が映る足元の水を両手ですくって、宙にほおり投げた。
細かい粒になった水の珠が、星屑をばらまいたように光ってまた水面にぱらぱらと落ちる。
水しぶきが髪や衣服を濡らすのもかまわずに、漣花は何度も水をすくっては高く高く投げた。
どの滴も同じに見えてそうではない。
大きさも反射する光もそれぞれに違って、それぞれに異なる輝きを放つ。
私もこの水のしずくの一滴のようなもの。
漣花はそう思った。
たった一滴にすぎなくても、それが集まらなければ、大河にはならない。
新皇帝の御代という大河の一滴に、自分もなるのだ。
大きな河の中に吸い込まれて形をなさなくなってしまっても、確かにそこにある一滴。
せめて煌めくこの水の珠のように、自分らしくに輝いていたい。
これで最後!とばかりに思い切り水を投げた。
「…っきゃ!!」
腕をぶんっと振った勢いにつられ、よろめいた。
ぱしゃーーーーん!と派手に水しぶきがあがる。
水の中の小石に足を滑らせ、漣花は見事に小川の中で尻もちをつくことになった。
気が付けば、頭から足の先までずぶぬれで、小川の真ん中でへたりこむ娘が一名。
漣花は急に可笑しくなってぷっと吹き出した。
「あははははは、くっくっく、ふふふふっ…」
まるでくすぐられてでもいるかのように、漣花は笑い続けた。
笑いすぎて涙がにじむほどに。
「こ、こんな娘がっ…皇帝陛下の、女官候補だなん…てね…」
自分自身に呆れるように笑いながらなんとか呼吸を継ぎ継ぎ、漣花はひとりごちた。
普通はこんなところでずぶぬれになっている娘などいないだろうし、いたとしてもまさかこの国の皇帝陛下の女官にはならないだろう。
やれやれ、やっぱり私には女官など向いていないかもしれない。
英達さんには悪いけれど、侍女として働くのがせいぜいかなと思った。
ひとしきり、笑い転げた後、ふうと息を吐いて、漣花はようやく立ち上がろうとした。
水を吸った衣服は夏向きの薄物とはいえずっしりと重く、足にまとわりついて立ち上がるのも厄介だ。
こんななりでは、今日の夕食にも入れてもらえないかもしれない。
英達が怒る顔を思い浮かべた、その時。
「手をかそう」
ぱしゃんと、小川に水音がして、後ろから声をかけられた。
驚いて振り返ると、三歩ほど離れたところから、手を差し出す青年が立っていた。
水音は、沓が濡れるのもかまわずに小川に足を踏み入れた者の足音で、声の主のものだった。
「あ、ありがとう、ございます…」
差し出された手に素直に応じて手を伸ばしてしまったのはなぜなのか。
その時の漣花には知る由もなかった。
***
青年の見た目にそぐわず強い力でぐいっと手を引かれて、漣花は川からざばっと立ち上がった。
青年は頭一つ分ほど漣花より背が高く、見上げると逆光になって顔がよく見えない。
「怪我はないか?」
はきはきとした、綺麗な標準語でそう尋ねられた。
顔はよく見えないまでも、悪い印象は受けず漣花はなぜか安心した。
「はい、大丈夫です」
「そうか、それはよかった」
青年はそう言うとくるりと踵を返して、漣花の手を引き岸辺に向かう。
すたすたと男の歩幅で歩かれると、衣服が濡れているせいもあって、漣花は再び転びそうになった。
それに気付いて、青年が振り返る。
「ああ、すまぬ。わからなかった」
わからなかった、というのは、女性の歩調に合わせたことがないので歩く速さを調整しないといけないということがわからなかった、という意味かなと漣花は思った。
青年の言葉は短くて端的だったが、不思議と気持ちを落ち着かせる響きを持っていた。
ゆっくりになった歩みについて岸辺につくと、青年は再び振り返り、漣花を水から引きあげてくれた。
ようやく青年とはっきりと向き合うと、青年の方も漣花を見つめていた。
青年に正面からまっすぐ視線を合わされて、思わず漣花は目をそらした。
なぜだか青年の瞳は、漣花の瞳の奥の奥まで届きそうに思えて鼓動がひとつ跳ね上がったのだ。
手をつないだままだったことにはっとして、慌ててぱっと手を離す。
すると、おそらく漣花より2、3歳は年上のように見える青年は、さっさと歩いて行ってしまった。
手を振り払ったつもりはなかったが、気分を害してしまったかもしれない、と漣花は後悔した。
でも、漣花とて、あのくらいの歳の若い男性にはとんと免疫がない。
故郷の家での家人も少なく、父と同じくらいの歳の者ばかり。
漣花は変わった娘と言われていたから、人付き合いもほとんどなかった。
とはいえ、手助けしてくれた人に対して漣花の態度は失礼だったかもしれないとうつむいてると、頭からふわりと布が掛けられた。
「…え?」
「夏とはいえ、濡れたままでは風邪をひく。それで髪を拭くといい」
機嫌を損ねたわけではなく、近くにつないでいた馬に着けた荷物から手布を取ってきてくれたらしい。
明るく嫌味のない声に漣花はほっとした。
それと、と青年は付け足す。
「男物で悪いが、濡れた衣は着替えた方がいい。誰も来ぬよう俺が見張っておくから」
そう言って、衣服一式を手渡された。
なぜか青年の声には強い口調ではないのに抗いがたいものがあって、漣花は小さくはい、と返事をして、手近の茂みに隠れて着替え始めた。
手渡された衣服は彼のものなのだろうが、飾り気がなく清潔でさらりと手触りもよく、男物でも着ることに抵抗はなかった。
ただ、さすがに大きくて、袖や裾をまくったり、腰紐をぎゅうぎゅうに縛らなければならなかったが。
濡れた自分の衣をまとめながら、俺が見張っておくからってあの人だって男性には違いないのに、と警戒心をまるで持たなかった自分に漣花は少し驚いた。
「あの…ありがとうございました」
がさっと茂みから出てきた漣花に青年が振り返った。
漣花を見ると、少し目を見開いたのがわかって、どこかおかしいところがあるのか、と漣花は自分を眺める。
「やはり大きかったな、衣はそこに干しておけばすぐに乾く。しばらくそれで辛抱してくれ」
「いえ、辛抱だなんて。ありがとうございます。助かりました」
どうやらおかしい格好ではないらしい。少し驚いたように見えたのは気のせいかなと思うことにした。
もしかしたら、男物の服が妙に似合いすぎてるのかも、などと考えて複雑な気分になった。
とはいえ、あんな濡れた衣のままで州邸に戻るには少し距離があったし、英達にどんなお小言をくらうかわからないことを思えば、多少でも衣を乾かしてから戻れそうなのはありがたかった。
漣花は示された日当たりのよい木の枝に衣を干すと、しわが残らぬようぴっと裾や袖を整えた。
「乾くまで少し聞きたいことがあるのだが構わないか?」
「はい?」
漣花が衣を干し終わったところを見て、青年は水辺の木陰に腰をおろして濡れた沓を脱ぎつつ声をかけてきた。
やわらかい草の上に裸足でいるのは気持ちよさそうで、漣花も青年の隣に座った。
もちろん淑女らしい距離を保って。
「あの、聞きたいことというのは?」
裸足の足を投げ出して黒髪が風に吹かれるままにくつろぐ青年に尋ねた。
漣花自身も結っていた髪をほどいて、つややかな長い髪が背中を覆っている。
「さっき、川で何を笑っていたのだ?」
「えっ!見ていたんですか?」
「ああ、馬に水を飲ませようと思って来たら、水の音がしたものだからな」
「ええ…あれも見て…」
漣花はとたんに赤面した。
いい年をして子どものように水遊びしていたと見えていただろう、たぶん。
誰もこないと思い込んで、ずいぶん恥ずかしいところを見られてしまった…。
しかも盛大に尻もちまでついて…。
恥ずかしさに手で顔を覆う漣花に青年が言葉をかける。
「いや…そなたが水を投げているところは、なかなかに美しかった」
「お、お恥ずかしいところを…」
「だから少しうらやましかった」
「うらやましい?」
「俺は最近、あんなふうに笑ったことがない」
その言葉に、漣花は顔を覆っていた手を降ろし、青年の方を見た。
青年は小川の水面を見つめている。
その横顔が少し寂しそうで、漣花は気になった。
「なにか…お辛いことでもあったのですか?」
「まあ、あるにはあったが、たとえそれがなくても腹の底から笑うということはなくなったな…」
漣花に話すというよりは、自分が笑えなくなったことを他人事のように語る。
重く沈黙しそうになる空気を漣花が明るく阻止した。
「自分自身に笑っていたのです」
「自分に?なぜ?」
青年は興味深そうな瞳を漣花に向ける。
「私、新しい皇帝陛下の女官になるべく、水南州から来たのです」
「…新しい…皇帝の」
「他にも水南州から来た娘たちと一緒なのですけど、せっかくここまで来たので、少し散歩しようと抜け出してきてしまいました」
「なるほど、それでこの小川を見つけて、…こんな美しい場所なら入ってみずにはいられなかったと」
「ご明察です。そしたら、見事にずぶぬれになったのは御覧になっていた通りで」
「ああ、なかなかに見事なはまりぶりだった」
青年はなおも漣花の話を促すように続きを待っている。
真摯な瞳は漣花を優しく包んで、時折漣花をどきりとさせた。
「引率してきた旅団長によれば、女官たるもの、教養高く、礼儀正しく、気品と美しさ、しとやかさを兼ね備えた女性であることが必須だそうです」
「ほう」
「なのに、私はこんな森の中で、川の中でずぶぬれでへたりこんでいて…って思ったら、あまりにそんな女性像とはかけ離れていて、おかしくなってしまって」
「確かにな」
「こんな私が皇帝陛下の女官候補だなんてって思ったら、笑ってしまいました。どれもこれも私にはないものばかりなんですもの」
「そうか、それであんなに笑っていたのだな」
「はい。くだらない理由で期待外れだったらごめんなさい」
「いや、実は、滑って転ぶ一部始終を見たもので…悪いが笑ってしまった」
「ひ、ひどい」
漣花は笑いまじりに抗議した。
二人は顔を見合わせると、笑顔を交わす。
青年が無造作に髪をかき上げる仕草を漣花はつい目で追った。
この人はたぶん、それなりの身分の人なのではないだろうか。
そうでなくてもそのへんの村人では決してないだろう。
青年の所作や言葉の端々に、洗練されたものを感じてなんとなくそう思えた。
「では、あなたも久々に少し笑えたんですね」
「ああ、そうだな。笑わせてもらった。感謝する」
ふうと息を吐いて、青年は空を見上げた。
空の高いところを鳶がゆっくり円を描きながら飛んでいた。
「母が、昔言っていました」
「ん?」
「笑いの種も、哀しみの種も、そこここに落ちているんだと。でもそれを見つけて拾い上げるのは人それぞれで。笑いの種を拾う人もいれば哀しみの種を拾う人もいると」
「種…か」
「だからあなたは笑いの種を見つける人になりなさいって。哀しみの種は拾わなくても勝手に育ってしまうものだから、笑いの、幸せの種を一生懸命探しなさいって」
「よいことを言うな、そなたの母上は」
「はい。だから私、後宮に行ってもそうするつもりです」
漣花の言葉を聞いて、気のせいか青年の表情がほんの少し曇った。
「…新しい皇帝は、幸せの種ばかりを撒けるとはかぎらないがな」
「では幸せの種を作るお手伝いをします」
「手伝う?」
「まだなにができるかわかりませんけど、なにがしか、新皇帝陛下のお役に立てねば、幸せの種を拾うことができなければ、私の幸せを願って家を出してくれた父や故郷に顔向けできません」
「…しかし…」
青年は少し言いよどんだ。しばらく考えて形の良い唇から言葉をすべりださせる。
「新皇帝は、丞相の傀儡だ」
「陛下をご存知なのですか?」
「…もっぱらの噂だ」
吐き捨てるように言う青年がなぜか新皇帝には思うところがあるらしかった。
もしかしたら、城仕えをしている人なのかもしれない。
よく見れば、腰には剣を帯びていた。
「…でも、新皇帝陛下の御代はまだ始まってもいません。陛下は至尊の冠を戴く方。きっと世の中を正し、民を幸せにしてくださいます。私はそのお手伝いをしたいのです」
「そなたは、おもしろいな…。そな…、ああ名前は?名前はなんという?」
気が付けば、お互い名も名乗らずに話していた。
「…漣花。藍漣花といいます」
「漣花…さざ波の花か。そなたによく似合う」
青年がそう言った時、強めの風が吹いて、漣花の髪を揺らした。
自分の方に流れてきたその豊かな髪を一房手に取って、青年はさらさらと手の中から落ちる漣花の美しい髪を見つめた。
それは特別な儀式のようで、漣花は自分の髪が青年の手から滑り落ちるのから目が離せなかった。
「あの…あなたのお名前は?」
名乗ったのだから、聞かせてほしい。ただそれだけの理由で漣花は尋ねた。
青年は少し迷うように目をそらし、口を開く。
「…青嵐」
「青嵐…。陽都におられるなら、どこかでまた会えるかもしれませんね」」
「ああ、そうだな」
なんとなくぎこちない歯切れの悪さに、聞いてはいけないことだったのかなと、干した衣を見上げると、夏の気温と風にすっかり乾いたのか、ひらひらと衣が揺れている。
青嵐の横を辞し、さきほどの茂みで元の衣に着替える。
「あの…お借りした衣服はどうしましょう?洗ってお返ししたいのですが」
「いや、かまわぬ。そのままもらう」
「すみません、お言葉に甘えます」
今度いつ会えるかわからない人だ。申し訳ないけれどご厚意に甘えることにしよう。
そう漣花が思った時、遠くにピーッと笛の音が聞こえた。
はっと青嵐が顔を上げる。
「ちょうど連れが来たようだ。俺はこれで帰るが、宿には戻れるか?」
「はい。大丈夫です。本当にありがとうございました」
青嵐は、馬を連れてきて軽やかにその背に乗った。
「…漣花、また会える日を楽しみにしている」
「はい、その時がありましたら、ぜひ」
息災でな、と言い残し、青嵐は笛の音のした方へと去っていった。
漣花はそれを見送ると、ふううと深く息を吐く。
不思議な印象の青嵐。
どうしてだろう、また会えるような気がしてならなかった。