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第1章

大耀 (だいよう)という元号は、皇帝が即位した年、陽都(ようと)の空に大きな星が現れ、東西に一直線に天を裂き瞬き消えたという件に由来する。

時の大官達はこれを吉事ととり、『大きな星が陽都に現れた』という意味の『大耀』と元号を定めた。

『陽』という字ではなく『耀』としたのは、この紅華国(こうかこく)の始祖陽帝(ようてい)にはばかったものだ。


その大耀の時代はこの日四十二年の幕を閉じた。

皇帝が崩御したのだ。


民は一応の涙を流し、皇帝の喪に服した。

しかし、涙を覆う手の下は安堵と期待に満ちた顔が半分、諦めと失望の顔が半分だった。

諡号を岳帝(がくてい)と称すこととなった前皇帝は、誰の目にも優れた皇帝ではなかったからだ。


愚かな皇帝の放蕩と、官吏の専横によって荒れつつあるこの国の次期皇帝は自分たちの暮らしをどうしてくれるのか。

人々の関心はそこにあった。

次の皇帝陛下はきっと暮らし向きをよくしてくれると信じる者、誰が皇帝になったところで変わらないと諦めている者。

民の様々な思いが交錯する中、新皇帝の即位が告げられたのである。




「であるからして…」

陽都へと向かう旅路について、2か月。

何度同じ話を聞かされたかわからないくらい繰り返し繰り返し、「女官の心得」をとくとくと語られていた。

語り部は、やや貧相な色白の顔に細い目の官吏。名を英達(えいたつ)といい、後宮に仕える宦官である。


もう一息でようやく陽都に着く。

思えば故郷の水南州(すいなんしゅう)の州都である湖桂(こけい)から長い旅路だった。

出立したときはまだ夏の初めだったのに、季節はすっかり盛夏になった。

陽都より南に位置する湖桂はもう暑くなっていることだろう。


この紅華国の首都であり、皇帝が住まう皇宮暁城(ぎょうじょう)のある陽都。

始祖陽帝がそこに都を開いてから六百年余り。

一度も都は遷されることはなく、脈々とその歴史を紡ぎ続けている巨大な都が陽都だ。




「お聞きですかな、漣花(れんか)殿!」


馬車の窓から外をぼんやりと眺めていた漣花ははっと我にかえった。


「だ、だいたい聞いていたと思います…けど」

「だいたいではいかんのです、だいたいでは!」

「でも、私が妃になれるなんて思っていないですし…」


漣花と呼ばれた娘は他人事のようにつぶやいた。

呆れたように英達が首を傾げる。


「はあ?誰が漣花殿がお妃になれるだなどと言いましたか?」

「え…だって私を含めてみな後宮に入るために陽都に向かっているのでしょう?」


一行には二十人ほどの漣花と同じ年頃の娘たちが同行していた。

州長官が発布した「新後宮の女官募集」で応募してきた娘たちである。

後宮とは皇宮の奥深く、妃から使用人に至るまで千人もの人間が皇帝一人を世話するために集められ、その頂点にいるのは皇帝の正妻となる皇妃である。

新皇帝の即位にあたり、後宮もまた一新されるのだ。



「よいですかな、漣花殿」


コホンとひとつ咳払いをして英達が居住まいを正した。


「我らが故郷、水南州は…貧乏です」

「う…」


いかにも唐突な物言いなのだが、実際水南州は貧しい州であった。

水に恵まれ、太陽にも恵まれながら、乾いた土地が少なく、川はよく氾濫し、穀物の収量が少ない。

水南州を治めることは水を治めること。

水南州に生まれたものは、否応なく水とうまく付き合うことに人生の全てを費やすことになる。

特にこれといった産物もなく、人々は細々と日々つつましい暮らしを営む、よく言えばのんびりとした、悪く言えば貧しさに慣れた地方なのである。


水を金に変えることができたなら、とは不可能を意味する水南州特有の自嘲めいた格言である。




「今回の後宮一新は水南州に収入を得る好機なのです!」


後宮の女官になれば、一定の給金がもらえる。

それは一般の農民などに比べれば破格の金額で、それを一部でも故郷に送ることができたら、水南州の外貨収入の助けにもなる。

さらに女官をつてに、皇宮に仕入れられる衣食住に関わる物品を取引できることもある。

女官の職は単なる「出稼ぎ」ではなく、州の今後を左右すると言っても過言ではない。

皇宮内に、州の者がいるといないとでは、人事的にも経済的にも、影響力の大きさが違うのだ。

ましてや、万が一にも女官ではなく、皇帝の妃の一人にでもなれば、州への貢献は高まること間違いない。


しかし、長きに渡って水南州から妃が立ったことはなく、出身の高官や女官も少なかった。

水南州の貧しさは、土地の不利さもあるが、そういった人的繋がりの薄さにもあるのだった。


英達はそんな中でも珍しく水南州出身の宦官である。

皇太子に仕えていた宦官の一人であったのだが、このたびの即位にあたり、晴れて皇帝のそば近くが彼の職場となる。

見た目は男に相違ないが、後宮に仕えるため、宦官は男性器をもたない。

なぜ英達がそんな道を選んだのか漣花には想像もつかないが、英達には英達の事情があったのだろう。


「漣花殿は、お血筋のしっかりした方。叶うならば女官に選ばれ、あわよくば…あわよくばですぞ、お妃の末席にでも加わっていただけたら、水南州にも利が…!」


英達の希望というより野望の星が漣花というわけか。

漣花は気付かれないくらいの小さなため息を漏らした。


漣花は姓を(らん)という。

藍家は祖をたどれば皇家の一角にあたる。

その昔、位を追われた身重の妃の一人が水南州に逃れ、そこで生まれた子が興した皇家の分家筋なのだ。

今でこそ水南州全体の貧しさにのまれすっかり没落したとはいえ、父はかつては州長官も務めていたほどの旧家である。

逆に言えば、血筋の確かさだけが漣花の取柄であり、容姿とて、絶世の美女というわけでもない。

しいていえば髪だけは美しく、豊かな黒髪は頭の高いところで簡単に結い上げられ、白いうなじがまぶしかったが、十八歳という歳ごろを考えれば特に目立った美しさを持つというわけでもなかった。

貧しさゆえに名家でありながら家人の足りない屋敷の家事を取り仕切り、しとやかな令嬢だとか、深窓の何某だとかいう言葉は、漣花とは遠く離れたところにあった。


そんな時、突然国中に発布された「後宮一新」の報。

水南州でも早速に年頃の娘たちを集めるべく、布令が出された。

しかし。

女官募集に集まった娘たちのあまりの貧相さに、州長官が藍家にやってきたのも無理はない。

家柄だけでも確かな漣花をぜひ我が水南州出身の女官に…!と懇願されて、老いた父も一人娘を出すことにした。

漣花が十八という歳にもかかわらず意中の人がいるわけでなく、芳しい縁談の一つもなく、毎日家計の帳簿と向かいあっているのを嘆いてのことだったかもしれない。

このまま湖桂にいて、平凡以下の人生を送らせるよりは、都で少しでも華やかな世界を体験してほしいとの願いもあっただろう。

とにかく、慌ただしく支度をして、漣花も女官募集の旅団に加わることになった。

旅団の中では漣花が最も家柄はよいため、旅団を率いるため都から戻ってきた英達が漣花の馬車に同乗している。



「妃の末席というと、才人(さいじん)ですか」

「左様。妃とはいえ皇帝陛下の臣下。『妃』の位が与えられるのは五階位あります」


建前は女官募集だが、その中からの幾人かは妃となるのだ。

漣花には興味のない話だったが、娘たちはもしかしたら自分が妃に、と期待に胸が膨らむ者も多い。


後宮にも掟がある。

そのすべてを書き記したのが『後宮規範』。

五百頁にも及ぶ分厚い冊は本好きの漣花にも読むのに骨が折れた。

その第一章に書かれているのが、妃の五階位についてである。

五階位とは上から、皇妃(こうひ)貴妃(きひ)淑妃(しゅくひ)貴人(きじん)、才人。

皇妃はいわずもがなただ一人、皇帝の正妻であり、皇帝と同列に扱われる。

貴妃以下の定数は定められておらず、皇帝によりその数はまちまちであった。

過去には貴妃以下、数十人の妃を配した皇帝もいたという。


「今回、私たちは二十人余りで陽都に向かっていますよね。一人くらい妃に選ばれるのではないですか?」


馬車の揺れが心なしか少なくなった。

陽都に近づき、道が整備されている地域に入ったのかもしれない。

外が気になりながらも漣花は前向きに言った。

水南州から来た娘は二十数人もいるのだ。漣花自身がとは言わずとも、他の誰かが新皇帝に見初められるかもしれぬではないか。


「甘い!甘いですぞ、漣花殿」


英達はなにを馬鹿なと言わんばかりの勢いで、声をあげた。

決して広くはない馬車の中の気温が英達の勢いで上がった気がする。


「甘い…とは?」

「後宮一新の報で、こたび暁城に集う女官候補の乙女たちはだいたい幾人だと思われます?」


英達に逆に質問され、漣花は『水南州の麗しき睡蓮』と呼ばれた母に唯一似ていると言われていた瞳を彷徨わせた。


「四州からそれぞれ二十から三十は来るのでしょうし、多くて百数十人というところでしょうか」


漣花はざっと見積もってそう答えた。

家計の帳簿を管理していただけあって、算術は得意なのである。


「三百人はゆうに超えます」

「ええっ!」


英達はにべもなく漣花の答えの倍の数を言った。

三百人もの女性が皇帝一人のために集められるだなんて。


「ですがその八割は第一関門落第して侍女になり『女官』にはなりませんな」

「八割も?!」

「お妃にも階位がありますが、女官も官吏と同様、階位がございます。女官は皇帝陛下、皇妃殿下をはじめ、お妃がたやいずれお生まれになる皇子や姫君のお世話もするのですからそれなりの者でありませんと」


自分もそのお仕えする『それなりに選らばれし者』の一人なのだと言外に英達は匂わせた。

少々得意げな表情が鼻についたが漣花は黙っておいた。

英達は続ける。


「まずは見目のよくないもの、体型のよくないもの、出自不明のもの、顔はもちろん体に傷や病の痕跡のあるものはまず落第。さらに、一般的な教養の不出来なもの、作法ができていないものなどなど、このあたりで八割がた消えますな」

「ではとりあえずは後宮での仕事はないから故郷へ帰されることはない、ということですよね?」


ここまできたのだ、女官に落第したから帰れなどとはひどすぎる。

せめて後宮の侍女としての働き口だけでも与えてくれないと、2か月も旅をさせておいて酷ではないか。


「まあ侍女としては後宮で働けます。侍女がいやなら帰郷するということも可能ですな」

「そうなると、皇宮は新たに三百人も召しかかえるということになるんですか?」

「漣花殿、全く私の話を聞いておられませんでしたな?」


ぼんやり窓の外を見ていた間にされていたのはそういう話だったのか…と漣花は心の中でしまったと思った。

やれやれといった風に英達が再度解説してくれたのは幸いだった。


皇帝の私邸とも言える後宮に仕える者は妃、宦官、女官、侍女などでおよそ千人。

皇帝が代わると宦官も一部刷新されるが、女官、侍女たちは、およそ半数は新皇帝の即位式までに解雇される。

自ら辞めるもの、辞めさせられるものなど事情は様々であるが、解雇された分新規に登用され、後宮に住まうものの数はほぼ変わらないのだという。

即位式まではおよそ半年。

この間は前皇帝の女官、侍女たちは後宮に留め置かれる。

半年の間に次の仕事の口を都合するなり、故郷に帰るなり、身の処し方を決めるため、とは表向き。

前皇帝の子を宿している可能性を完全に払拭してから後宮を出されるのだ。

妃たちはそろって、階位からは外れるが、そのまま後宮から出ることはかなわない。

皇子や皇女の母であれば、その生母としてそれなりの処遇を与えられるが、妃たちのほとんどは未亡人として出家するのが習わしであった。


辞めずに残る女官や侍女たちは、新しくやってくる者たちの先達として指導、伝承にあたり、後宮は速やかに新皇帝の生活を支える基盤として機能するのである。


「長らく皇妃様がおられませんでしたからな。後宮に皇妃様が御座されるのは喜ばしいことです」

「もしかして…もう皇妃になられる方は決まっていたりするんですか?」

「そうではないですが…皇妃となる御方は、見目麗しく、教養高く、気品にあふれた女人と相場が決まっております。そうなるとおのずと絞られてきますな」


英達には他州の皇妃候補に心当たりがあるのだろう。それが漣花でないのは明白なことだだが。

ふと、漣花は興味がわいて英達に質問した。


「前の皇妃様はどんな方だったのですか?」

「それはそれはお美しい皇妃様でらっしゃいました。新しい皇帝陛下の御母君ですが…。陛下が五歳の頃に病でお亡くなりになり、その後皇妃の座は空席のままで」


夢見るような表情で語る英達の素振りからすると、亡き前皇妃はその位に足る見事な女性だったのだろう。

漣花が侍女か女官になって仕えることになるだろう新しい皇妃もそんな方だといいなと思う。

どうせなら心映えの美しい御方にお仕えしたいものだ。

妃にはなれないのだったら、せめて尽くしたいと思わせる御方に仕えたいと思うのは不遜だろうか。

そのくらいしか楽しみが…と思って、漣花はふと自分がこの旅団に加わることを決めたきっかけを思い出した。


「あの、後宮の書庫には膨大な書物があるのですよね?」


突然なにを言い出すのだこの娘は、という顔で英達は漣花を見た。

そういえば、漣花殿は少々変わった令嬢だとのうわさは耳にしていた。

名家の子女でありながら、家事全般をこなし、老いた父の世話をしながら、近所の子供たちに文字や算術を教えたりもしていたとか。

歌舞音曲には全く興味を示さず、暇さえあれば本を読んでいるとか。

湖桂で変わった娘と言えば藍家の漣花と決まっているらしい。

そんな娘が水南州からの女官候補の頂点だなどと…。

英達は今回も自身の出世は見込めないか…と落胆を覚えた。

しかし、新皇帝はあの皇太子様。

今まで浮いた話の一つもなく、女嫌いとのことだったが、このような変わった娘もお好みかもしれんではないか。

一縷の望みを糧に、英達は目を輝かせて尋ねてくる漣花に向き直った。


「書物なら書庫にそれはそれはたくさんありますぞ。なにせ後宮の書庫は天井まで書架になっておりましてな、上の方の書物を取るには梯子を使わねばならぬほどですから」

「後宮に入れば、その書物が読みたいだけ読めるんですね…」

「漣花殿、あくまであなたは後宮仕えのために陽都に行くのですからな!わかっておいでか?漣花殿!」


漣花は英達の説教などもはや耳に入らず、うっとりと視線を宙に向けた。

天井までの書架…古今東西から集められた珍しい書物の山…。

本好きの漣花にとって、当面の楽しみは後宮の書物を片っ端から読むことにあったのである。

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