伯爵令嬢の禍福得喪は舞踏会の音楽と共に(67)
突風のような一日だった。
どこかふわふわしたまま、グレイシーやユージェニーと岐路についたナターリアは翌日に微熱をだした。
心と体のバランスが崩れたのだ。
フロランスが帰り際に心配していた通りだ。
彼女が届けてくれたハーブティーをベッドの中で飲みながら、ナターリアはこれからのことを鈍く痛む頭で考える。
ゲオルクの最後の発言についてはとりあえず不問にする。
きっと、体調の悪いナターリアに元気を出して欲しかっただけ。
まず、しなければならないことは、アーサーとの婚約を無かったことにすること。
この場合、破棄ではなく解消ですけれど、物語と現実は違いますもの。
それから、マデリンから遠ざかりたい。
カントリーハウスに戻るというのはどうだろう。
領地ではマデリンもついてきそうだった。
これが、四百年も昔だったら、修道院で花嫁修業ということもできましたのに。
宗教改革で修道院はほとんど無くなっている。
女子教育が家庭でとなったのも、その影響だった。
グランドツアーに出掛けるのは?
大陸で別の文化に触れれば、今ある痛みも薄らぐのではないかしら。
それはとても良い考えに思えた。婚約の解消はやはり外聞が悪い。ほとぼりが冷めるまで外国へということなら、両親も許してくれるかもしれない。
あとはマデリンの身分を高めることだけれど。
女男爵位を叙爵されたレディ・ミランダの例もある。
ナターリアもデビューし、クロヴィスもあと一年と少しで寄宿学校に入る。
マデリンのガヴァネスとしての役目は無くなる。
両親は、その後、マデリンに良い縁談を勧めつつ、ナターリアのコンパニオンとして働いてもらうつもりだった。
もし、マデリンが結婚しなかったら、コンパニオンとして、嫁ぎ先にも付いてきてもらおう。
彼女が結婚して、赤ちゃんがいて、自分も結婚して子供を産んだとしたら、彼女に乳母になってもらえないかしら、などと夢想していた自分をナターリアは自嘲する。
なんとなく、ナターリアはマデリンはずっと自分の傍にいてくれるような気がしていたけれど、改めて考えれば、彼女との別れは目前に迫っていたのだ。
でも、もし。
ナターリアが何も知らず、アーサーと結婚していたら、マデリンは自分に付いてきたかもしれない。
熱のためではない震えがナターリアの身体に走った。
嫌な想像ですわ。
そんな想像をしてしまう自分が嫌で、二人を恨めしく思ってしまう自分を嫌いになりそうだった。
二人きりで会いたいとアーサー様に手紙を書かなくては。
◇◇◇◇
アーサーからの返事を待つ間、ナターリアの心は混迷していた。
マデリンは不誠実な殿方は苦手と言っていた。
わたくしという婚約者がいるアーサーを愛するだろうか。
いえ、いえ。わたくしとアーサーの婚約は破棄を前提にしたもの。マデリンはそれを良く知っている。
ナターリア自身が“仮初の婚約”とよく口にしていたではないか。
真実の愛を二人で見つけるための。
だから、アーサーは誠実だ。真実の愛を見つけたのだから。
婚約破棄。
真実の愛
二つの言葉がナターリアの心に重くのしかかってくる。
アーサーが自分の事を愚か者と言っていたけれど、一番愚かなのは自分だ。
愚かで、幼稚。
けれど、自分は幼い子供だったのだともナターリアは思う。
「お父様は正しかったのですわね」
ベッドの中で、涙ぐみそうになるのを、ナターリアはぐっと堪えた。
今は少し忙しい。
そんな返事が来て、もう五日。
じりじりする気持ちを持て余した彼女は、彼の住むバイアール公爵邸を訪ねることにする。
まだカルプ大公夫妻がロンディウムに留まっていらっしゃる。フェリシア夫人に表敬訪問をしてアーサーの動向を把握するとナターリアは決意した。
アーサーと違ってレディ・フェリシアへの訪問の受諾はすぐに届いた。
「園遊会ではあまりお話しできなかったから、うれしいわ」
バイアール公爵邸には、ほとんど歩き始めたばかりの頃に来たことがあるらしい。
ロンディウム屈指のタウンハウスは、美麗だ。ビヨンヌ伯爵の屋敷と比べるとやや優雅さに劣るが、すっきりとしたデザインが多い室内は却って洗練されている。
ナターリアは居心地のいい比較的小さな部屋へ通された。
バイアール公爵夫人の私的な居間だという。床に敷かれた絨毯は薄い茶色と白。古いものだと思うが、手入れが行き届いている。
「将来は貴女のものになるのよ」
部屋を見渡すレディ・フェリシアの言葉が痛い。ナターリアは婚約を無かったことにしようとしている。
「信じられませんわ」
ナターリアは軽くかぶりを振った。
薄い磁気のティーカップは遠い東の国から渡ってきたもの。
異国の子供が遊んでいる。
「でも、残念ね。アーサーは私達の滞在中は、ナイツリズのタウンハウスにいるの」
ナターリアがアーサーの様子を知りたくて来訪したのだということは、レディ・フェリシアにはお見通しだった。
「ここのところクラブに通っているらしいから、もうすぐ服を着替えにタウンハウスに戻るはずよ。今から行けばちょうどではないかしら」
「ありがとうございます」
そして、ごめんなさい。
心の内で謝りながら、ナターリアは席を立って辞去の挨拶を口にした。
「メアリーアンは馬車で待っていて」
御者がアーサーのフットマンにナターリアの訪問を告げている間に彼女はメアリーアンに言った。
驚いた顔の彼女に、
「アーサー様はお出かけになるのだから、わたくしも30分もしないうちに戻ってよ。中にはバイアール家のメイドもいるわ」
と納得させた。
ナターリアが一人で扉を潜ると、ドローイングルームではない、奥まったところにある書斎に通された。
「ロードがレディ・ナターリアはここにお通しするようにと」
案内してくれた従者が説明してくれる。確かにナターリアにとってはこちらのほうが居心地が良い。
「ありがとう」
礼を言うと、彼はちょっと目を見張り、恭しくお辞儀をして退出した。
こんな時だというのに、ナターリアはアーサーの心遣いに感激する。
いえ、こんな時だからこそ。
数分待つと夜用の衣装に着替えたアーサーが姿を見せた。
そんな姿は際立って魅力的だ。
「急な訪問で驚いたよ。ああ、でも会えて嬉しいよ。ただ、残念なことにあまり時間がない」
少し困ったような、それでいて喜色を表してアーサーが話す。
「そんなにお時間を取らせませんわ。急いで聞いてもらいたいお願いがありましたの」
「お願い?それも急いで?」
訝しむアーサーにナターリアは一息に告げる。
「わたくしたちの婚約を無かったことにしていただきたいのです」
「却下」
間髪を入れずにアーサーが答えた。
「どうしたの。ナターリア。さては、夢中になったロマンス小説の影響かな?」
笑い含みにアーサーは彼女を引き寄せようとした。
彼女は一歩退いてそれを避けた。
「わたくしは本気です」
「どういうことかな」
アーサーは短くなった髪をかき上げた。
「わたくしも社交界にデビューいたしました。ここで、仮の婚約を取りやめて、本当のお相手を探す方が良いと考えました。いつまでもわたくしに縛られているのは不便でございましょう?」
「不便とは思っていないけれどね。婚約者がいたほうが、なにかと外聞がいい」
アーサーが少し苛立ったように言う。
「それではいつまでたっても真実の愛を見つけられませんわ。すぐに婚約を取りやめるとはいかなくても、アーサー様は、わたくしよりだいぶ年上でいらっしゃるし、何か行動を起こしませんと」
愛するマデリンと結婚できるように。
「それは、私が君以外の女性と逢瀬を楽しんでいいということかな」
皮肉気にアーサーの唇が歪んだ。アーサーが別の女性をエスコートする場面が頭をよぎる。
苦い。何も口にしていないのに、舌に苦いものを乗せているようだった。
今までだって、ジュデェットやマデリンと二人きりで一緒にいたのでしょう。
苦い舌がそんな言葉を乗せようとした。ナターリアはぐっと手を握りしめてそれを飲み下した。
「かまいませんわ。真実の愛を見つけるためでしたら」
いや、彼はすでに見つけているのだ。マデリンという女性を。
けれど、彼の公爵という立場が今の彼女と結ばれることを許さないだけ。
でも、今から二人が準備をすれば、わずかだけれど、可能性はあるのだ。
「寛大な言葉をありがとう。そう、だが、まだ、婚約破棄はしないよ。君も真実の愛を見つけていないのだから。私はバイアール公爵家に責務がある。その責務を共に担える人、そして誰からも非難されることのない人と私は結婚するつもりだ」
アーサーの緑の瞳がこんなに暗い色を帯びるなんて。
苦しみを称えているのは、マデリンとは結婚はしないと決意しているから?それに私と婚約を解消してしまえば、マデリンに会う機会が減ってしまうから?
それが、二人を祝福したいと考えるナターリアの心にも影を落とした。
でしたら。
どうか、マデリンを忘れるようなレディを見つけてくださいませ。
どうか。わたくしが慕い、裏切られたと感じてしまう女性ではなく、神の前で婚姻を結び、わたくしも心の底から祝福をできるような遠い人を。
「どうぞ、お好きに。でも、自分も相手も苦しめるような恋はなさらないほうがよろしいと思います」
「もしかして君は、そんな恋をしているというのか?」
アーサーの瞳の色が変わった。
「いいえ、まさか」
否定の言葉を口にしたのに、アーサーは彼女に近づいて強引に自分の腕の中に引き寄せた。
「だから、こんなことを言い出した?」
「違います」
「では、何故、急に」
「真実の愛のためにです」
あなたとマデリンの真実の愛のため。
ナターリアはアーサーの瞳から目を逸らさずに見つめ返した。
恐ろしいほどそばにアーサーの顔がある。ほんの少し動けば唇が触れ合うほどの距離に。
彼の吐息がナターリアの唇に当たる。
アーサーの指に力が入るのが解かった。
口づけされる?
そう思って震えるナターリアに彼が口づけたのは、彼女の決壊しそうな瞳の上。
「ごめん。怖がらせてしまったね」
アーサーの腕の力が緩み、抱擁が解かれた。
安心したのに、なぜか淋しいような気持ちにナターリアは襲われた。
「婚約は続ける。だが、できる限り真実の愛を手に入れる努力はするよ」
それでいい?
アーサーの瞳に、声に暖かさが戻ってくる。ナターリアはこくりと頷いた。
「だけどね。ナターリア、覚えておおき。もともと恋とは喜び苦しみを与えるものだよ」
そんなことはもう知っている。
にじむ瞳を見られたくなくて、ナターリアは俯いたままでいた。




