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伯爵令嬢の禍福得喪は舞踏会の音楽と共に(50)

 レモネードがある。


 ナターリアはジャンブル・セールを思い出し、切れ込みからそっと手を伸ばす。

 左手で、布を持ち上げて、右手の手首まで出すと上手く取れた。

 切れ込みはかなり大きく、大抵のものは取れそうだった。


 レモネードは少し凍っていて、布を被ったナターリアに心地よい冷たさを与えた。


 これだけの館なのだ。

 ビヨンヌ伯爵はかなり大きな氷室を持っているにちがいない。


 水に硝石を入れて冷やす(すべ)は、十六世紀にエルタニア半島の大学の教授が広めた。

 わがアンゲリアにもそれは伝わって、さらにわが国の高名な学者が塩でも似たような反応が出来ると広めた。


 ナターリア達が王宮から自邸に戻ったばかりの頃、クロヴィスと一緒に潜り込んだ台所で、先代のコック、ジョンソンに聞いた話だ。


 しばらく、クロヴィスはいろいろな液体を凍らせることに熱中して、氷室の氷をたくさん使い、両親に叱られていた。


 そのクロヴィスは大胆に腕を出して、食べ物や飲み物を取っている。

 ユアードとピエールもそれに習っていた。

 三人の腕には服は無く、素肌がさらされていた。

 ナターリア達の被っている布は足首まであるが、彼らは膝ほどしかなく、膝から下も素足だった。さすがに裸足ではないが、エギュプト風のサンダルを履いていた。


 肌はわずかに日焼けしたいるが、腕や足は、かなり白い。それがかえってメジャトの不可思議さを強調していた。


「この冷製スープは絶品ですね」

 飲みやすいように小さなカップに入っている。

 取っ手(ハンドル)はない。


「カラ焼きですわ」

 グレイシーが呟いた。

 テーブルの上に並べられた食器。薄く白い磁気達には、赤紫で尾の長い鳥が描かれていた。


「それぞれのテーブルに別の食器をお使いになっていらっしゃるようです」

 ユージェニーの囁きにナターリアは近くのテーブルに視線を送る。


 紳士一人と淑女二人。その手には東洋の花が鮮やかに描かれたカップが乗っていた。

 淑女はまっすぐな黒い髪の鬘を被っていて、ドレスもエギュプト様に絞った形だった。

 腰に絞められた帯には、神聖文字が並んでいる。

 大きめの仮面は、エギュプト壁画の女性横顔。

 半輝石を用いたネックレスは繊細に作られ、纏ったドレスを引き立ていた。


 もう一人はスフィンクスを模していた。

 ファラオの頭巾(メネス)を被り、ライオンの瞳に似た女性の顔の仮面。

 金色のバッスルドレスの胸元は薄く透けるオーガンジーで覆われているが、大きく開いており、盛り上がった腰にライオンの尾をつけていた。

 かなり挑発的な雰囲気だった。


 紳士はシルクハットに大きめの金のエギュプト十字を飾り、羊の仮面をしていた。

 よく、目を凝らせば、カフスにも金のエギュプト十字を使っていた。

 すっきりとした洗練された仮装で、なかなか素敵だ。


「ウォルター様ですわ」

 グレイシーが紳士の名を呼ぶ。

 声が聞こえたのか、くだんの紳士がこちらを向いた。

 彼が軽く笑い声を立て、隣の淑女を伴ってナターリア達に近寄ってきた。

 一人はフロランスだと判るがもう一人は?


「秘めた私の名を呼ぶのはどなたでしょう」

 ウォルターの芝居がかった声。

「わたくしですわ」

 グレイシーが名乗りをあげる。

「では、名を当てた貴女に私は奉仕をしなければなりませんね」


 すなわち、今日、パートナーとして付き添うということだ。

 グレイシーがフロランスではない方の女性に目を走らせた。

「ごきげんよう、白い方々」

 仮面の向こうから挨拶したのはミフィーユだった。いつもの可愛らしいドレスとは違う、大胆な仮装で判らなかった。

 ミフィーユの声は弾んでおり、この園遊会に参加出来ることを喜んでいるのが、手に取るようにわかる。

「ごきげんよう。麗しのスフィンクス」

 クロヴィスが如才なく返事をした。


「ごきげんよう、よく解らない神様、でよろしいのかしら?」

 フロランスが心許無げに言う。

「はい。こう見えて、由緒正しき神です」

 ピエールが背を伸ばすようにする。

 白い布の下で胸を張っているようだ。


「だが、名を読んでいただいて良かった。そうでなければ判らなかった」

 ウォルターがグレイシーの傍らに寄りながら、小声で話す。

「それが仮装の醍醐味ですから」

 言いながらユアードはパテの乗った薄切りパンに手を伸ばした。

 ナターリアも追従するように、それを口に運ぶ。


 レバーのパテには、まるで臭みが無く、素晴らしいお味である。


「それにしても、不思議な格好だね。本当にエギュプトに関係がある神なのですか」

 ウォルターは半信半疑だった。


「もちろんですとも」

 大きな声で肯定したのは、メジャトの格好をしたナターリアではなく、別の人間だった。


◇◇◇◇


 ユージェニーは、会話に割り込んできたニコラス・ジャン・ローエを見上げた。


『それにしても、ずいぶん珍しい神を選んだものだね』

 挨拶もせずに彼はテーブルのワインに手を伸ばした。


 第一声こそアンゲリア語だったが、彼はすぐにパリーシャ語に切り替えた。

 見学会で話したオック語でなく、正しくシャルルマーニュで話されているオイル語の発音で。


 ローエ氏はエギュプトの庶民の姿をしていた。

 腰に巻くシャンテとお守りのスカラベの指輪。

 さすがに素肌をさらしているわけではないが、壁画の人々のような赤茶の肌を思わせるピッタリとした肌着とタイツだ。

 仮面もそれに合わせた、壁画に似せた人の顔だが、覆っているのは目の回りのみ。

 すらりとした足が、シャンテの下から伸びていた。


「ごきげんよう。ミスター。先日のメネフィス碑文の見学会は興味深く拝聴しました」

 ウォルターがアンゲリア語で挨拶を返した。

 ローエ氏の唇が歪んだ笑みを浮かべた。


 ウォルター様がなんだか挑戦的ですわ。

 普段とは違う彼の態度をユージェニーは不思議に思った。

 ローエ氏はウォルターにどう答えるのか。


 アンゲリア語か、パリーシャ語か。

「そうですね。ここには私をアンゲリア語の美しさに目覚めさせた詩の女神がいらっしゃる。私もその前にひれ伏しましょう」


 詩の女神とはおそらくグレイシーのことだろう。

 けれど、ローエ氏とグレイシーとにどこに接点が?

 当のグレイシーが何も言わないので、ユージェニーは目を左右に動かして、ウォルター、グレイシー、ローエの三人を見る。


「先日の詩の夕べで暗唱した、“to dress my hair”(髪を結い上げて)には感銘しました。繊細な女性の胸の内を吐露した言葉が、私に強く訴えかけたのです」

 熱意ある表現だけれど、ローエ氏は誰が誰か判っていないらしく、目をさ迷わせている。


 ユージェニーが若手の詩人達の詩の会に参加したのは知っていた。

 ユージェニーやナターリアは都合が悪く聴きに行けなかったけれど、ウォルターとフロランスはその朗読会に出かけていっていた。

 そこにローエ氏もいたのだ。


 グレイシーの詩と朗読する透明な声に魅せられたのは無理もないですけれど。


 グレイシーが一番、美しく見えるのは、まさにその時なのだから。

 詩人仲間の間でも、彼女に魅せられた殿方は少なからずいるけれど、グレイシーの身分と身持ちの固さでなかなか近づけないらしい。

 と、兄のオリヴァーが話していた。

 オリヴァーはわりと詩の会やら、音楽会やらへ出かけていく。踊るのが得意ではないので、舞踏会にはあまり出ない。なので、そういった会で未来の花嫁を見つけたいらしい。


 オリヴァーも、その朗読会のグレイシー詩を誉めていた。

 誉め言葉の半分以上は、ご友人の受け売りだとユージェニーは推測した。

「さすがは我が妹の親友だな。僕も鼻が高い」

 と、なぜか自分のことのように、誇らしそうなオリヴァーの思考は不可解だけれど。


 さて、グレイシーは割り込んできたローエ氏へどう対応するか。

 ふとユージェニーは、いたずらっ気を起こして、グレイシーが動く前に、淑やかにお辞儀をた。ローエ氏がユージェニーのそばに寄ってきた。

「レディ、今日いちにち、ご一緒してもよろしいですか」


 こんな展開は予想していなかった。どうしましょう?

 ユージェニーが困って、辺りを見回すと、クロヴィスがフロランスに何か囁いていた。


「メジャト神は口なき神ですので、直接返事はできません。私が代わりにお答えします。

 メジャトは多数にしてひとり、ひとりにして多数。我らメジャト神に付き従うならば、それを許しましょう」

 個別のバートナーとしては認めない。

 集団と一緒なら、そばにいてもかまわないということだ。


 でも、それですと、ウォルターとグレイシーも二人きりではいられない。

 それに食べ物には手を出しているではないか、と言われるのではないだろうか。


 クロヴィスがユージェニーに近づいて、“屈んで”との身ぶりをした。

 彼女は指図のままに屈むとクロヴィスが耳元で囁いた。

「一緒にいるのを許したのはメジャト神ですから、バステト神ではないですからね」

 ユージェニーは納得の印に、布地の上からクロヴィスの腕を軽く二度叩いた。


◇◇◇◇


 ローエ氏が寄って来たのをきっかけに、遠巻きにナターリア達を見ていた人々が寄ってきた。


 “口を利けない”とクロヴィスがフロランスに入れ知恵して、宣言してしまったので、会話はもっぱら、ウォルター、フロランス、ミフィーユ、そして、大部分をローエが引き受けている。


 その間、ナターリア達は身ぶりで対応する。

 合間に、テーブルの上のアイスクリームに手を伸ばした。


 アイスクリームは氷菓の王様ですわ。

 甘く滑らかな口どけにナターリアは“アイスクリーム、アイスクリーム”と頭の中で節をつけて歌った。


 ◇◇◇◇


 大勢の人が集まって来たため、瞬く間にテーブルの上に並べられていた飲み物と食べ物が空になる。


 クロヴィスはテーブルを囲む一同を見回した。


 姉のナターリアも空になった皿やボトルを見ている。

 彼女はレモネードとパテを一切れ、アイスクリームしか食べていない。


 足りない。

 正直に言って足りない。

 ナターリアだけではない。

 自分達も食べ足りない。

 ピエールとユアード、それにクロヴィスは育ち盛りだ。

 旺盛な食欲を持つ年代なのだ。

 特にピエールとユアードは、寄宿学校の質素(粗末ともいう)な食事ではない今日の日を楽しみにしていた。

 王宮の茶話会の上品なお菓子もよいが、今日は様々な種類の料理を食せると彼らは楽しみにしていた。


 クロヴィスはさすがにそこまで、がっついて(ピエールが教えてくれた言葉)いないが、評判の高いビヨンヌ伯爵家の料理には期待していた。

 期待通り口にできた料理は素晴らしかった。


 ナターリアが白布を少し広げてからお腹を押さえる仕草をした。

 お腹が空いているという意思表示だった。


 ミフィーユがすぐさま反応してくれる。

「メジャト様は、もう少しお供えが欲しいとの仰せです」

 さすがに姉の長き友である。たぶん彼女も物足りないと思っているのだろう。

 何せ、八人分の代わりに口を動かしているのだから。


「メジャト様、あちらのテーブルが空いておりますわ」

 ミフィーユに示されてちょっと離れたテーブルに向かう。


 群れていた人々が二つに割れて、クロヴィス達を通してくれた。

 その様はまるで。


「まるで、海を渡るモセスのようですね」

 ローエがクロヴィスと同じ連想をしたのか、ユージェニーに言っている。


 彼はまだ彼女をグレイシーと思っている。

 後ろには本物のグレイシーとウォルターが並んで歩いていた。


 みんなは布の下でどんな顔をしていらっしゃるのかしら。

 きっと自分と同じくちょっと悪い顔かもしれない。

 いや、淑女達はすまし顔だろうか。

 でも、こうなったのは挨拶も無しの不躾さが悪い。


 クロヴィスは子供の無邪気さと貴族特有のわずかな傲慢さを持って考える。


 ローエの功績、知識に頭は下げるが、アンゲリアの民の上に立ち、その名誉を守るのは自分達貴族なのだ。

 ローエの態度は、アンゲリアへの侮辱だとクロヴィスは感じた。

 おそらく、同道していたみんなも。


 穏やかなウォルターでなく、もっと血気盛んな紳士だったら、決闘騒ぎになるところだ。いや、自分が大人だったら、そうなっていたかもしれない。


 自分はもう少し冷静な性格だと思っていたのだけれど。


 ユージェニーのいたずらは、クロヴィス達にとって、格好の意趣返しになった。


 ローエはいつ彼女がグレイシ嬢ーではないと気がつくのか。

 そのとき、彼はどう反応するだろう。


 怒り出すか、笑い出すか。

 クロヴィスは母によく似た濃い菫色の瞳でローエを見つめた。


◇◇◇◇


「そうです。彼らは、死者の書と呼ばれる絵巻物に描かれております」

 ユージェニーの横でとうとうとメジャト神について語るのは、ローエ氏だ。


 仮装を提案したクロヴィスではない。

 古代エギュプトの専門家が語る話に集まった人々が関心して聞いている。


 クロヴィス様は、自分で説明なさりたかったでしょうに。


 ユージェニーは何度か自分が話したくても出来ず、ミフィーユやフロランスに代弁して貰う彼を見ていた。


 クロヴィスは様々なことを知っていて、その事を話すのが好きだ。

 そこが血気盛んな少年らしくて、ユージェニーは好ましかった。


 ただ、ローエ氏とクロヴィスには逆転できない年齢の差がある。

 クロヴィスは今、まさに知識を吸収しているところであり、ローエ氏は年齢の分だけ知識を積み重ねてきた。


 それに加えて、クロヴィスはゴールディア伯爵家の嫡男で、ローエ氏は貴族ではない。

 クロヴィスが学ぶべきは、政治と領地の統治、経済であって、言語学や考古学っではないのだ。


 家のウォルターはその事を良く解っていて、まだ爵位を継いでいない嫡男が政治に参加するための手段。

 庶民院の議員になるべく、来年は領地の中の一地区から立候補する。


 ウォルターは理想家だが、実際的な手腕にも長けていると、ユージェニーはここ最近の交流で感じていた。バソロミューの孤児院や病院への関わり方を聞いているとそう思うのだ。


 いや、ウィンテッド家そのものが手堅いのかもしれない。

 そもそも、国が設立している救貧院ではない孤児院を援助していることがそうだ。


 御方を信ずるもの(クルスタニティ)が持つべき徳のひとつ、慈悲により、かつては教会や修道院が行っていた貧民救済は、教会分離の混乱の中で、その役割を担えなくなった。

 その後、王が貧民のために定めた救貧法は、様々な改革を経て今に至っている。

 だが、貧しさが怠惰のためか、病気や怪我などの自らの意思では改善できないものなのか、見極めは厳しい。

 怠惰によると判定されれば、労働を与えることになっていた。


 近年、貧しき人々が増えつつあり、国の財政に負担を与えていると叫ばれて、救貧院への手当は減らされる傾向にあった。

 しかし、ユージェニーが興味をもって調べたところ、国の財政をもっとも圧迫しているのは戦費である。それは会計報告で明らかであるのだ。


 その辺りも、彼女が社交嫌いになる一因でもあるのだが、最近は少し意識を改めつつある。


 ウォルター達は、自らが動くことによって、人々の意識を変えようとしている。

 人の意識を変えるには、相手に働き掛けることが必要なのだ。



 ウォルターは着実にその道を歩んでいた。


 まともに育った孤児達はバーソロミュー教会とウィンテッド家に感謝するだろう。

 病院の医師や看護婦、そして患者も。

 彼らは、ウィンテッド家のロンディウムでの支持者になる。

 ウィンテッド家の使用人は、ほぼ孤児院出で結束が固いと評判だった。

 それは、ウォルター達に力を与え、やがては国を動かすことになるかも知れない。


 そこまで思って、ユージェニーはウォルターの人柄について考えを修正する。

 信仰心と教育、そして癒し。

 貴族の責務、慈悲、その心でウォルターが、フロランスが、動いているのはよく解る。けれど同時に、ウィンテッド家を守り存続させるための仕組みがそこにはあった。


 むろん、それは貴族の誰もが多かれ少なかれ行っていることではあるけれど。



 それに比べれば、クロヴィス様はまだまだ無邪気ですわね。

 ゴールディア伯爵家の伝統的な資質もあるのかもしれませんけど。


 コールドミートが挟んであるサンドイッチを布の内側に入れたクロヴィス達三人を見て、ユージェニーは密かに微笑む。


 つらつらとユージェニーがそんなことを考えていると賑やかな一団が彼女達に声をかけてきた。


 軍の音楽隊の一人、ビーチャム氏とパーシー家の二人のご令嬢とオックスブリッジの学者、タルボットとドルトンの五人だった。

 五人は一同に挨拶と礼を取って会話に参加した。


◇◇◇◇


「これはなんと面妖な。おかしな姿だ。ゴースト、いや、エギュプトでは、バーというのでしたか。いや、バーの形は鳥でしたな。では、カーの方ですか」

 軍人らしい率直さで、ビーチャム氏はユージェニー達の仮装を評した。


「カーとバーをとっさに出すとは、さすがに王太子の茶話会に呼ばれた方ですな」

「これは、ムッシュー・ローエ。専門家の前でお恥ずかしい限りです」

 ビーチャムは、鰐の仮面の下で恐縮する。

 上半身はピッタリとしたシャツだけ。

 エギュプトの腰布、シャンテに見えるよう工夫された半ズボン(ブリーチーズ)

 逞しい体にエギュプトの扮装が良く似合っていた。


「バーとカーとは何でございますの?」

近くにいた貴婦人が不思議そうに言った。

ローエ氏が愛想よく説明をする。

「古代のエギュプト人は魂が二つあると信じていました。それがバーとカーです。一つが我々が思うところの霊魂に近いバー、バーは死が訪れると肉体から飛び去ると考えられていたのです。一方、カーはこれは死後も肉体に留まると考えられ、肉体にバーが戻れば、死者は復活するとされていました。それゆえにマミーが作られたと伝えられています。ただ、これは後の人が伝え聞いた話なので、神聖文字の解読が進めば、古代エギュプトの死生観、生と死と魂と肉体についてどう考えていたか、もっと詳しく解かるようになるでしょう」

 ローエ氏が空になったグラスを振ると、近くにいた給仕がワインを注ぎにきた。


 そう言えば、ローエ氏はあまり食事を取らずに、ワインばかり口に運んでいた。

 パリシア人の例に洩れず、相当なワイン好きとユージェニーはローエ氏の情報を更新した。


 学者同士、通ずる者があるのか、ローエ氏はドルトンとタルボットとの会話が弾んでいた。


 ロレインとエリザベスはメジャトを取り囲む別のグループの淑女紳士に話かけられている。

 普段はオックスブリッジで暮らしている彼女らは、ロンディウムの社交界に頻繁には顔を出していない。

 十九と十七歳の二人は、花の盛りの美しさだ。

 今回の王太子の茶話会の件で、耳目を集めて何人かの男性がオックスブリッジまで足繁く通うようになっていた。


 ユージェニー達はいつの間にか、会話の外にいた。


 メジャト神は口を利きませんものね。


 物珍しさが過ぎれば、会話が出来る方を優先するのは、どの舞踏会でも一緒だ。


 美しく装ったフロランスとミィフーユも次々に声をかけられ、話す相手にこと欠かない。


 ユージェニーはメジャト達を見回した。

 ナターリアが小さなミートパイに手を出していた。

 香辛料をふんだんに使ったミートパイはとても美味しかった。


 パイは、いくつもの種類があり、食べやすい小さな形で提供されていた。

 料理人はユージェニー達の仮装を予測していたわけではないだろうが、手で摘まんで、二口、三口で食べられるパイは、メジャト達に取って最適だった。


 ナターリア達の付添人、メアリーアンも仮装をまさしく隠れ蓑にして、大いに美味を堪能しているようだった。マデリンは、淑女らしく控えめだが、スープ、サンドイッチ、パイをいくつかとワインを一杯は口にしている。


 ウォルターは甲斐甲斐しく、グレイシーの世話をやいていた。

 彼女に何か囁いては、食べ物や飲み物を取ってあげていた。


 ちょこっとだけでる手が可愛らしく写るのか、ウォルターの唇はずっと笑みを浮かべたままだ。

 ユージェニーが二人を眺めていると、急にローエ氏が彼女を振り返る。


「申し訳ありません。メジャト神への奉仕をおろそかにいたしました。何なりとお申しつけください」


 別に奉仕など期待していない。

 ユージェニーはふるふると(かぶり)を振って必要ないと意思表示をした。


「お怒りなのですね。どうすればお許しいただけるのでしょう?おお、そうだ。今日だけでなく、後日、改めてご奉仕させてください」


 意訳すれば、

 また、会う約束をしましょうと言うこと。


 学術的な話に終始するなら、ユージェニーとしては、うれしい申し出であるが、ローエ氏は目の前のメジャトをグレイシーと思っているのである。

 約束など出来ようはずがない。


 ユージェニーが困っていると、ナターリアが寄ってきた。メアリーアン、マデリン。

 クロヴィス達三人、やや、遅れてグレイシーも。

 メジャト達はローエ氏の回りをくるくると回りだした。


 何事が起きたのだろうと、回りの人々が息を飲んだのが解った。


「最初にも伝えたが、メジャトはいちにして多、多にしていち。そなたの言はまかりならぬ」


 フロランスとミフィーユが巫女よろしく言いはなった。


 中身がユージェニーでも、グレイシーでも。

 一対一では会うことは許さない。

 メジャト達はローエ氏について、そう判断したわけだった。


◇◇◇◇

 ユージェニーを含むメジャト達が回るのを止めて彼から離れる。

 すると、当の本人の口から笑いが洩れた。


「参りました。メジャト神は厳しき神。見た目の面白さ、不可思議さに“打ち倒す瞳”という本質を忘れておりました」

 ローエ氏がパリシア風の派手なお辞儀をして、謝意を表す。


 重々しげに頷いているのは、おそらくナターリアだ。


「どうやら私はメジャト神のご不況を被ったようです。お詫びして、今は、御前から身を退きましょう」

 では、とローエ氏がメジャトとそれを取り巻く一団から離れていった。

 何人かの人々は彼の後を追う。

 ユージェニーとグレイシーの取り違えをローエ氏は気が付かないまま行ってしまった。

 彼女は何となく拍子抜けする。


「なかなか面白い一幕でしたね、そう思われませんか」

 声に笑いを乗せて、館の(ぬし)であるビヨンヌ伯爵がタジネット夫妻に話しかけた。


 なんて珍しい取り合わせでしょう。


 ユージェニーはまじまじと彼らを見つめた。


 ビヨンヌ伯爵はトキの頭を持つ知恵の神トートに扮していた。

 仮面はつけず、三角帽(トリコーン)に羽根などを付けて、書記の守護者でもあるその神を表現していた。

 白い巻き毛の鬘が帽子の下から覗いていた。

 アビ・アラ・パリシャーズのコート、ウエストコート、ブリーチーズの三つ揃いには、トキを思わせる刺繍とビーズで華麗に彩られていた。


 タジネット侯爵は聖なる牛、アピスの仮面。

 衣装は奇をてらわず、黒いフロックコートに銀の星が散っている。

 対するタジネット侯爵夫人、ミランダは緋色の帽子にライオンの仮面、緋色のドレスに金のビーズの首飾りと華やかだった。

 レディ・ミランダは容貌は絶世の美女とは言えないが、姿形(すがたかたち)の良さ、動作の優雅さは群を抜いている。

 それは、タジネット侯爵が見出だし、磨いたもの。


「本日はお越しくださりありがとうございます」

 ビヨンヌ伯爵が挨拶をすると、周囲の招待客が次々に挨拶をしていく。

 ユージェニー達もお辞儀をした。

 腰を落とす淑女の礼だが、クロヴィス達も同じ真似をしている。


 クロヴィス様、さすがに少しやり過ぎでは。


 ユージェニーは心のうちで思ったが、声には出さない。


「お楽しみいただいているようで何よりです。いえ、白い方々にはわたくしが楽しませていただいている。お礼を申し上げます」

 ビヨンヌ伯爵は目を細めてメジャト達を眺め回すと、あっさりとその場から退場した。

 それと共に人が動く。

 ローエ氏に付いていった方々より多くの人がメジャト達の回りから離れた。


 クロヴィスら三人が布を持ち上げてパタパタと体の脇を叩いた。


 ビヨンヌ伯爵が去るとタジネット侯爵が夫人と共にメジャト達の近くに寄った。


「単純だが、斬新だね」

「ええ。思いきりの良さが際立っています」

 レディ・ミランダが夫の言葉に同意する。


 誉められたと思ったのか、クロヴィスが胸を張る仕草をした。

 レディ・ミランダが声を立てて笑い、他の人々も笑った。


 完全に道化役ですわ。

 でも、仮装そのものが道化たことですもの。


 ユージェニーはクロヴィスに習ってパタパタと脇を叩いてみた。


「まあ、なんて可愛らしいこと」

 細く高い声が上がった、

 ビヨンヌ伯爵の後ろから付いて来ていたカンタンベリー子爵令嬢シュゼットだった。

 彼女はその場に残っていた。

「お話はしませんの?」

 彼女はメジャトに問いかけてから、辺りを見回した。

「メジャト神には口がありませんから」

 ウォルターがナターリア達の代弁をした。

「ウォルター様」

 シュゼットがウォルターの名前を呼んで甘やかな笑顔を向けた。


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