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伯爵令嬢の禍福得喪は舞踏会の音楽と共に(44)

 室内楽の四重奏が客の耳を流麗に通り過ぎていく。

 カンタンベリー子爵家のタウンハウスは、一棟建ての屋敷ではないので、ホールはさほど広くない。

 ルネサンス様式のホールにいるのは30名ほど。


 室内楽は、明け方まで演奏されて、客の入れ替わりもあるので、通算では倍近くの人数にはなる。

 今も曲が終わると、別の集まりに行く客が席を立った。

 社交シーズン中は、あちらこちらで、演奏会や舞踏会など、いろいろな集いが行われ、日程が被ることは日常茶飯事だった。

 高貴な、あるいは有名な人物は、いくつかの会に掛け持ちで顔を出すので、人気の人物は、半時間もいないうちに帰っていく光景もありふれたものだった。


 今、出ていかれたのは、ハンフリー卿でしたわね。

 彼の肥えた口にはここの料理は合わなかったらしい。


 美食家と名高いハンフリー卿は、やって来るなり音楽を聴かず、食事が用意されている別室に向かっていった。

 曲が三曲終わってから、ホールに戻ってきて、お義理で一曲だけ聞いて帰っていかれた。

 ナターリアは食事室にはまだ行っていないので、評価はできないが、演奏はそう悪くないと思う。


 曲の合間に、交わされる会話は音楽だけのことではない。

 様々な話題が、時には曲の最中にも交わされる。

 特に聞こえてくるのは、社交界で今一番の話題になっているビヨンヌ伯爵家の仮装園遊会のことだった。

 どんな仮装をしようかと悩む貴婦人がいると思えば、相手の仮装を聞き出そうとする方もいる。

「古代のエギュプト人は腰衣のみだったようですぞ」

 意味ありげに貴婦人に一人の紳士が声をかけた。

「それは男性に限ってのことでございましょう」

 貴婦人の答えはにべもない。

「お若い方なら、それもよいでしょうけれど、その出で立ちなら、トール・ダーク・アンド・ハンサムでありませんと、ね」

 恰幅がいい紳士は少し鼻白んだ。

「貴女のご贔屓のオペラ歌手は、金髪碧眼でしたがね」

「彼は、ウィーンから参りましたから。オペラはラムラスかミランと言いますけど、ウィーンの台頭は著しいですのよ」

 わたくしは音楽通なのですと匂わせて、紳士を撃退する。

 その貴婦人はナターリアも知るマダム・テレーゼだった。

 人気があるテレーゼは、多くの取り巻きと共に現れ、ナターリアを見つけると、挨拶をして、すぐ近くに座った。

 今日の演奏会には、一番親しくしている友人達の顔が見えないので、少し心細かったナターリアだったが、テレーゼが近くに来てくれたことが嬉しかった。

「レディ・ナターリア、少し喉が渇きませんこと?」

 紳士から顔を背け、テレーゼがナターリアに声をかけた。

 席を離れたいという意思表示だった。

「さようでございますね。集中して聞いていたからか、飲み物が欲しくなりました」

「ついてこなくてもよろしくてよ」

 一緒に立ちあがった取り巻き達にテレーゼは言いおいて、ごめんあそばせと二人で別室に向かう。


「紅茶を」

 冷やした白ワインを手にしたナターリアとは違い、テレーゼは紅茶を選んだ。

「お飲みになりませんの?」

「これから、わたくし、あと三つの集いに参りますのよ。たくさんの会場を回る時は、お酒は最後と決めております。馬車は揺れますもの」

 ナターリアが手にしたグラスを置こうとすると、

「遠慮なされないで。お若い方は何でも馴れておくことが肝要よ。飲まなければ、自分の限界も知ることができませんもの。それに、貴女はこの会だけでお帰りになるのでしょう?」

「そのつもりでおります」

「ゴールディアの誠実。招待先は一夜にひとつ。でも、あちこちの会に行くのも楽しくてよ」

「代々、めんどくさがりなのですわ。誠実と言えば聞こえは良いですけれど、ゴールディア家の者は機知があまりないのです」

 わたくしを含めまして。

「ゲオルク殿下の茶話会の噂はわたくしにも届いておりましてよ」

「それは、あらかじめ、調べておいたからです。テレーズ様のように当意即妙とはいきませんもの」

「あらあら、我が従兄を救った方が自信のないことね」

「救ったなどと、とんでもないことです。ゲオルク殿下達の茶話会で、自分がいかに浅学で、機知がないことを思い知りました」

 それに。

「食通にもなれませんわ。私にはこのお料理が美味しく思えますから」

 話の合間に、いくつか口にした料理をナターリアは美味しくいただいた。ハンフリー卿がおそらく不味いと断じた料理を。

「ハンフリー卿のこと?あの方は、バターをたっぷりつかった、こってりとしたお料理を至上と思っていらっしゃるから」

 テレーズは手近にあった小さなシーフードパイを口にした。

「なかなかなお味ですわ。魚介の旨味がよく出ておりますし、いくつかの素材を組み合わせると雑味がつきものですけれど…」


 味について細かく表現するテレーズを見て、ナターリアは、やはりわたくしには食通にはなれませんわ、と思う。

 こんなにバリエーション豊かに食べ物を表現できませんもの。

 詩的とさえ言える表現をするテレーゼにナターリアはしきりに感心をした。


「麗しいレディ達がこんなところで密談ですか」

 張りがあり、抑揚のある男性の声。ナターリアはこの声を知っていた。

「あら、ホールがざわめいていたから、どなたがいらしたのかと思っていたら、レイモン、あなたでしたの」


 十歳は年上だろう、ビヨンヌ伯爵をテレーゼは名前で呼んだ。

 彼がこのような小規模な会に姿を現したのにも驚いたが、彼を囲む紳士や貴婦人方の多さにナターリアはもっと驚いた。


 ホールから半分以上がこちらに来ていらしゃるのではないかしら。


 主催者のカンタンベリー子爵ご夫妻やご令嬢の姿もあった。さすがにカンタンベリー子爵の跡継ぎであるケルシー男爵はホールに残っておいである。

 奏者を気の毒に思ったナターリアは、ビヨンヌ伯爵と会話をするテレーゼに声をかけた。

「テレーゼ様、わたくし、ホールに戻りますわ」

「レディ・ナターリア、ではご一緒しましょう」

 さりげなく腰を落として礼を取ったナターリアを呼び止めたのはテレーゼではなく、ビヨンヌ伯爵だった。

 動揺を隠してナターリアはビヨンヌ伯に笑いかける。

「お連れの方に叱られますわ」

「ご安心を。すでに叱られて、ここには一人で参りました」

 手は差し出さず、彼はまるで従僕かなにかのように、こちらへと促す。

 テレーゼやカンタンベリー子爵達が好奇の眼差しを送ってくる中、ナターリアはビヨンヌ伯爵に従われて、ホールへと戻った。



 席に着いたナターリアの隣にビヨンヌ伯爵は当たり前のように座った。

 彼の取り巻きも移動して周りに座る。カンタンベリー子爵夫妻と令嬢の視線を強く感じる。

 ビヨンヌ伯爵に奥方はいらっしゃらない。

 まだ決まった方のいない令嬢にとってはとても魅力的に映るだろう。


 そいうえば、わたくしも、婚約者がいるけれど、いないようなものなのですわね。


 十年前から宮宰を務めていたビヨンヌ伯爵は、アーサーとの馴れ初めを元より承知だろう。

 艶福家のビヨンヌ伯爵なら、ナターリアの“真実の愛”など鼻で笑いそうだ。


 アーサーも貴婦人には、とても、すごく、人気がおありだけれど、特定の方とお付き合いしたという話はここ数年はございませんもの。


 ナターリアは自分の仮初の婚約者の弁護を心の中でする。

 ときおり仮初であるということを忘れてしまうような彼の言動。

 このまま、彼の花嫁になる未来を否が応でも想像してしまう。


「夢見るようなまなざしですね」

 ビヨンヌ伯爵がナターリアを注視していた。

「その視線を向けられる男は幸運だ。ほら、貴女の眼差しに見惚れて、ビオラの奏者がこちらを見ている」

 別に彼を見ていたわけではないので、ナターリアは視線を降ろした。

「そのような態度は却って、男に期待させるものですよ。彼女は恥ずかしがっているのだと」

 ナターリアは苛立ちを感じて、ビヨンヌ伯爵に顔を向けた。

「やっと、こちらを向いてくださいましたね。西の離宮の小さな姫君(プチ・プランセス)

 紺碧の海を思わせる瞳に彼女は吸い寄せられた。

 寛いだ様子で椅子にかけているビヨンヌ伯爵は王宮にいる時とまるで違う。

 格式ばった話し方から解放されて、言葉を紡ぐ彼は気さくで、そして、どこか危うい。


 ああ、かつらを取っておられるからだわ。

 ビヨンヌ伯爵は白っぽいかつらを王宮で好んで被っている。

 赤の混じったような金髪。地毛のビヨンヌ伯爵は、一層若く見えた。

王女(プランセス)ではございませんわ」

「西の離宮にいた頃にそう呼ばれていたのをご存じない?」

「まったく」

 先ほどのテレーゼを見習ってにべなく答える。


 これで引き下がってくださるとよいのですけれど。


 待っているのに次の音楽はなかなか始まらない。

「バイオリンの弦が切れたようですよ」

 替えのバイオリンはないのだろうか?普通なら予備の楽器を用意しているはずだ。


「申し訳ございません。次の曲を変更させていただきます」

 バイオリニストがお辞儀をしてから、バイオリンの弓を構える。

「楽器を変えずにそのまま弾くようですね」

 ビヨンヌ伯爵の声を合図にしたかのように曲が始まる。

 高くバイオリンが一声する。情熱的な響きがホールに満ちた。

 耳を、胸を打たれ、客たちの反応が一変した。聞き逃すまいと集中するのが解かる。ナターリアも音楽に身を委ねた。


 最後の一音が終わった時、客たちから拍手が湧きあがった。

「良い演奏、良い演出だ」

 ビヨンヌ伯爵が呟やくと、彼は立ち上げって、バイオリンの奏者に近づいて、その手を取った。

「素晴らしい演奏だった。ぜひとも、我が園遊会で、その腕を披露してくれたまえ」

「ありがとうございます。閣下」

 空いた席にテレーゼがするりと座った。

「相変わらず、レイモンは派手ですわね。けれど、カンタンベリー子爵はこれで大いに面目をほどこしましたわ」


 ビヨンヌ伯爵と奏者の間に入っていくカンタンベリー子爵夫妻と、ケルシー男爵。両親に呼ばれて令嬢のシュゼットが輪の中に入っていった。


◇◇◇◇


 メアリーアンは、ケイトリンからお下がりされたドレスを着ていた。

 今夜はマデリンではなく、彼女がシャペロンとなっていた。

 本来なら、もう少し歳かさの女性がシャペロンとなるのだが、ゴールディア家では、マデリンとメアリーアンがその役目を担っていた。

 これは、マデリンとメアリーアンへの信頼と共に、ナターリアへの信頼のしるしだ。


 ベージュのドレスについていたレースの飾りは外され、広く開けていた襟ぐりは慎み深く、襟高く仕立て直されている。

 直したのはメアリーアンとお抱えの三人のお針子、マーサとヘレンとジョアンだった。

 ヘレンとジョアンはお針子としての仕事のみをしていたが、マーサはランドリーメイドを束ねるランドレスを兼ねていた。

 ゴールディア家は、ドレスを仕立てるのにあまりテーラーを使用しない。デザインは、仕える二人のレディの希望を入れながら、ケイトリンのレディースメイドやメアリーアン、そして、時にはガヴァネスのマデリンが考案し、レディースメイドとお針子達の手で仕上げられる。

 新しいドレスを作るのは一ヶ月に一、二着ほど。

 あとは、以前に作ったドレスのアレンジが多い。

  ゴールディア家の収入なら、もっと作れるが、他の貴族も案外、アレンジで凌いでいる。

  その分、メアリーアン達にお下がりが来る率も低くなる。


 しかし、普通なら男の使用人達だけに支給されるお仕着せがメイド達にもあるのは、ありがたいだろう。

 お仕着せは、女性の場合は、ヘレン逹に手伝ってもらって自分で縫うのが普通だ。男の使用人の場合だけ、テーラーへ注文する。

 ハウスキーパーと執事、レディースメイド、そしてガヴァネスは、服地代として、月々のお手当てとは別に年に4回、支給されていた。

 時々、ケイトリンからのお下がりもあるので、服にかかる費用はほとんどなかった。

 三階のメアリーアンの部屋は幸いなことに一人部屋だ。ガヴァネスのマデリンは、主人一家と同じ階にお部屋を頂いている。


 演奏会の滑り出しは良く、ナターリアは楽しんでいらっしゃる。

 マダム・テレーゼと仲良く別室に行くときも、メアリーアンは影のように付き従った。

 しかし、平和は突然、乱された。


 あろうことか、メアリーアンの大事なお嬢様が、宮宰レイモン・ビヨンヌ伯爵に絡まれていた。


 メアリーアンはやきもきしながら、見守っていた。


 やがて、ビヨンヌ伯爵がバイオリン奏者に賛辞を贈った。

 チャンスだ。

 メアリーアンはナターリアに忍び寄った。

「ナターリア様、お顔の色が優れないようですが」

 ナターリアもすぐにメアリーアンの意図を理解した。

「ええ、素晴らしい演奏に、少し興奮をしすぎました」

 二人はさりげなく、辞去しようとした。

 カンタンベリー子爵夫妻に挨拶をしてホールを出る。

 すると。

 ビヨンヌ伯爵が「大丈夫ですか」

 と追いかけてきた。


 来なくてもよろしいのに。


 メアリーアンは表情を押さえて淑女の礼をした。


「ゴールディア伯爵家は、シャペロンもガヴァネスも洗練されていらっしゃる」

 流し目をくれるビヨンヌ伯爵にメアリーアンは、ナターリアをビヨンヌ伯爵の視界から隠して、ホホと笑ってみせた。

「お名前を教えていただけますか、美しい人」

「お教えするほどの者ではございませんわ」

 ビヨンヌ伯爵は、女に目がない。

 メアリーアンも噂を聞いている。


 メアリーアンは、ナターリアより五つ年上である。そろそろ、結婚を本気で考えないと、いけない年齢ではある。でも、ナターリアの結婚を見届けたいとも思っている。なにより、相手がいない。

 たまさか、ナターリアの付き添いで華やかな席に行ったときに、こうして、口説いてくる貴族はいる。

 大叔父がジェントリのメアリーアンは辛うじて上流階級に縁故がある、アッパーミドルの出である。

 しかし、垣間見た貴族の世界では、レディースメイドなど、手慰みにしか思っていない男がほとんどだ。


 ゴールディア家のおおらかさ、健全さに時おり忘れそうになるが、身分の隔たりは、意識の隔たりでもある。

 主であるナターリアの傍らで、名を聞いてくるビヨンヌ伯爵にメアリーアンは警戒を強くした。


「そう言われるとますます名を知りたくなる」

 つい、とビヨンヌ伯爵が近づいた。


「ロード・ビヨンヌ」

 わずかに声を固くしたナターリアがメアリーアンの陰から出てきた。


「わが家の者をお褒めいただきありがとうございます。ですが、このような場所で、お戯れはお止めくださいませ」

 凛然とナターリアがビヨンヌ伯爵を見上げた。

「戯れ、ですか」

「ええ、素晴らしい演奏に、少しお酔いになられたように思われますわ」

 違いまして?

 ナターリアが少し声を和らげた。ここで引き下がってという警告。

 ビヨンヌ伯爵はどうでるだろうか。メアリーアンは今一度ナターリアを庇う体制を整える。


「さようですな。少しばかり、酔ったようです。演奏にも。そして、ゴールディア家のご婦人方の麗しさにも。無礼をお許しいただけますかな」

 ビヨンヌ伯爵は引いた。ナターリアが軽く頷く。

「では、ビヨンヌ伯爵様、わたくし達はこれで失礼いたします」

「良き主従ですな。では、良い夢を、淑女方。我が夢にも、貴女方のような素敵な淑女が訪れるといいのですが」

 ビヨンヌ伯爵は、切なげなため息をついてナターリアとメアリーアンを見送った。


 メアリーアンも、悪びれないビヨンヌ伯爵に、密かにため息をついた。


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