伯爵令嬢の禍福得喪は舞踏会の音楽と共に(42)
夜の支度の前に、ナターリアはグレイシーの頼みをマデリンに伝えようと思った。
ベルを鳴らして、メイドを呼び、彼女にナターリアの部屋に来るよう伝えてもらおうとしたが、急に自分が彼女の部屋に行ってみることを思い立つ。
マデリンは使用人が使う三階ではなく、歴代のチェーターやガヴァネスと同じように、ゴールディア家の者が使う二階に部屋があった。
最初に紹介された頃には、自分もクロヴィスも小さかったこともあり、彼女の部屋に押し掛けていた。
"驚くかしら"
ナターリアは自室を出て、屋敷の北側にあるマデリンの部屋へ向かった。
使用人用の階段の近くだが、マデリンを含む上級の使用人何人かは主階段を使うことを許されていた。
合理的なマデリンは、わざわざ、遠い主階段を使うことはあまりなく、使用人用の階段を使っている。
ナターリアとクロヴィスも子供の頃は面白がって、よく使用人の階段を使った。
ナターリアは、ノックもせずに、いきなりドアを開けた。
「マデリン!」
“何事ですの?”
以前に飛び込むナターリア逹に向かって放たれていた言葉が響かない。
彼女は机に開いていたスケッチブックを閉じてから、立ち上がってこちらを振り向いた。
「ご用がございましたら、お呼び下さいませ。ナターリア様はもう子供ではないのですから」
「クロヴィスなら、マデリンの部屋に出入り自由ということかしら?」
「クロヴィス様は男性でございます」
そう言えば、クロヴィスは、マデリンに“僕だって男だよ”と主張していた。
「急いでいたのですもの。メイドを呼んで、マデリンにわたくしの部屋に来るように伝えて貰って、とするより、わたくしが来る方が早いでしょう?」
「秩序が乱れます」
「わたくしの家なのに自由に振る舞えないのね」
「使用人と言えど、他の人間がプライベートに使っている部屋に声もかけず、入る事を自由と仰りますか?」
「ただ、ちょっと、驚かせたかっただけよ」
「驚きました。わたくしは、間違った教育をしてしまったかと。他のお屋敷では、使用人を人と扱わないのが、日常的に行われておりますが、それはゴールディア家の流儀ではございませんでしょう?」
父や母からも使用人をいたずらに見下さないように、教え諭されてきたナターリアである。
「マデリン以外にこんな事しないわ。寛いでいる所を驚かせたのは、申し訳なかったわ」
子供の頃に、ちょっと戻ってみたかっただけですのに。
ナターリアは久々にマデリンに叱られて、しおらしくなる。
「次からは、外からお声をおかけくださいませ」
マデリンは、仕方ありませんと言うように、萎れたナターリアに声をかけた。
マデリンの部屋に来てはいけない、と言うことではないと理解して、ナターリアは顔を上げた。
「マデリンにお願いがあるの。聞いてくれる?」
マデリンは快く、ナターリアの頼みを引き受けてくれた。
「これをコンラート殿下からいただいたのだけれど、そのまま被るのではなくて、何か他に良い手立てはないかしら」
ナターリアはボンネット帽をマデリンに見せた。
「愛らしゅうございますわね」
マデリンはつぶさに眺めてから、ボンネットの利用方法を提案してくれた。
「バテスト女神は、籠を持っています。ボンネットを逆さまにして、型をはめて、籠としてお持ちになればよろしいのではないですか」
「マデリン、貴女は素晴らしいわ。そうね。籠として使えばよいのよね。そうすれば、耳も目立たないですし」
「ですが、バテスト神を模すなら耳は必要ではありませんか?」
「グレイシー様が頭に被るのではなく、仮面をつければよいとおっしゃってたわ」
「確かに、その方が洗練されたものが出来そうです」
マデリンの言葉をナターリアは頼もしく思う。
「古代エギュプトの服は細身でシンプルですけれど、そのままでなくてもよろしいですね」
何か思いついたのか、ナターリアの頼りになるガヴァネスが振り返ってスケッチブックを取った。
その拍子に机から、一枚の紙がナターリアとマデリンの間に落ちる。
何気なく下を向いたナターリアは、一瞬、凍りついたように動けなくなった。
水彩で色つけられたその絵には。
「これは眠るアーサー、ですわね」
マデリンが、絵を拾い上げて観念したように頷く。
「ほんのいたずら心で描きました。許可は取っておりません。ご本人にはおっしゃらないでいただけますか。ナターリア様がご不快なら、破って捨てます」
先程の厳格なガヴァネス振りとは違う、使用人としての言葉。
それが、ナターリアの心をささくれさせる。
“なぜ、そんなに狼狽えますの”
ナターリアは絵に目を落とした。
柔らかなタッチの絵は、作者のモデルに対する愛が溢れているようにみえる。
「素敵な絵だわ。破って捨てることはなくてよ」
「ありがとうございます。実は自分でも良く描けたと思います」
かすかに頬を染めているマデリンは、今まで見たことのない表情をしている。
わたくしの前でも、抑えられないほど、マデリンはアーサーを想っているのかしら。
疑念がナターリアの中で逆巻いた。
「すべて完成したら、ナターリア様に差し上げましょうか」
微笑み、申し出るマデリンは、婚約者であるナターリアの気持ちを配慮したからだろうか。
「いえ。それより、アーサー様に差し上げたら、喜ぶのではないかしら」
痛む心をおし殺して、ナターリアは楽しげな声を出した。
「お喜びになるでしょうか?」
「ええ、きっと」
ナターリアは請け合った。
「同じお名前だから、ついモデルにしてしまいましたの。実は、ゲオルク殿下やコンラート殿下もモデルにさせていただいて。不敬かとも思ったのですが」
ゲオルク殿下とコンラート殿下もモデルに?
マデリンの話すことに、ナターリアは目を丸くした。
「ご覧になります?」
「えっ、ええ」
マデリンが少し照れたような顔で、数枚の絵を差し出した。
中にはあるのは、鎧をつけて馬にまたがるゲオルクだった。とても凛々しい。
コンラートもある。少し成長した姿を想像して書いたのか、本当の彼よりも大人びて見える。
円卓に座る鎧を身に着けた男たちの姿。広がる赤い竜の旗。
「アーサー王と円卓の騎士の物語でしたのね。ゲオルク様は、第一の騎士ランスロ?では、コンラートは」
「聖杯の騎士、ガラハドでございます」
マデリンが着彩していない絵を差し出した。輝ける聖杯に手をかける騎士の姿。
「とても、良いと思うわ」
聖杯を手にしたガラハドの感激が伝わってくるような絵である
「王妃グエンフィルをナターリア様をモデルにしようかとも思いましたけれど」
「わたくしは愛する方を見つけたら、他の方に心を移さないわ」
有名なアーサー王の物語の筋立ては、アンゲリアの民なら誰もが一度は耳にする。
アンゲリアと呼ばれる前、まだいくつもの王国がブリトーン島にあった頃。
王の一人であったアーサーは、王としても騎士としても名高く、強く気高かった。彼は円卓の士と呼ばれる騎士の集団を従えて、ブリトーン、パリシア、遠くラームの一部まで征服した。
しかし、円卓の騎士の中でも、第一の騎士、並ぶことなきと言われたパリシアのランスロとアーサーの麗しの王妃グエンフィルが道ならぬ恋に落ちてしまう。
それがきっかけで、アーサーとランスロは対立して、その対立が、円卓の騎士とアーサーの王国を崩壊させる引き金となる。
ガラハドは、ランスロとエイレンという姫の間にできた息子だ。
ガラハドは癒えない傷を持つ、漁夫王のために、あらゆる病と傷を癒すことができるという聖杯を探して、他の二人の騎士と聖杯を見い出す。
グエンフィルは美しいゆえに、アーサー以外の騎士たちに想われ、誘拐などもされていた。
けれど、アーサー王とは想いあって結婚しながら、ランスロに惹かれてしまうのだ。
貞節とは言えない。
「恋は狂気と言います。ランスロは、物語の中で、まさに狂人となりますけれど。ナターリア様が嫌がっておいでですもの。グエンフィル王妃は後ろ姿で描きますわ」