伯爵令嬢の禍福得喪は舞踏会の音楽と共に(30)
ロビーに出ると、再びそこは小さな社交場と化していた。
見知った顔に軽く挨拶をしながら、間を縫ってナターリア達は外へと向かう。
「馬車まで送ろう」
アーサーがナターリア達を追いかけるようにして申し出た。
彼は、これから学者や研究者やそのパトロン達が集う、アテナウムクラブの持つクラブハウスで行われる夕食会に参加する。
一方、ナターリア達は、それぞれが屋敷に戻って、外出のための身仕度をしてから、夜の社交に出掛けるのだ。
ロレインとエリザベスはもともとロンディウム郊外に屋敷を持つ親戚への訪問。
「でも、こちらに来れて良かったですわ」
「うるさ型の伯母上から少しの間でも離れられましたもの」
おっとりして見えるが、歯に衣着せぬ物言いをするお二人。
ミフィーユは社交界のデビュー前なので、夜遅くまで出歩けない。
ユアードとピエールは寄宿学校の門限がある。
ウォルターとフロランス、グレイシー、そしてレディ・エマはハミルトン伯爵の夜会に行く。
ハミルトン家の夜会にはナターリアも招待されていたが、アーサーが参加できないのでナターリアはお断りをしていた。
ユージェニーもハミルトン家の夜会には出席しない。彼女はデビューして間もないが、社交に積極的ではないとの風聞がすでに立っていた。
兄のオリバーがその分、あちこちに顔を出している。そして、彼が頭が良くて勇敢な弟や可愛くて賢い妹を自慢することでも知られていた。
外に出ると外は薄っすらと曇っていた。夜になると雨模様になる兆候だ。
ロンディウムの天気は変わりやすい。
外では、一同の従僕やシャペロンが待っていた。
ナターリアはいるべき人がいないのにすぐに気が付いた。
「マデリンがいない」
クロヴィスが辺りを見回した。ナターリアも自分のガヴァネスの姿を探す。
「あそこに」
いち早くマデリンの姿を見つけたのは、アーサーだった。彼の目線を追えば、足早にこちらに向かってくる彼女の姿があった。
「申し訳ございません。模写をしていて、時間に遅れてしまいました」
マデリンが身を屈めて謝罪する。彼女は確かにスケッチブックを手にしていた。
時間に厳格な彼女にしては珍しいが、よほど描きたいものがあったのだとナターリアは納得した。
表情が硬いのは、自分に厳しいマデリンだから、必要以上に反省している証だ。
「ほんの僅かよ。気にしなくてよくてよ」
ナターリアが微笑んで声をかけると、マデリンが今度は謝意を表して礼を取った。
「お約束お忘れにならないで」
「再会を楽しみしております」
「今日は得難い経験をしました」
短い挨拶をして、友人たちが馬車で去っていく。
ゴールディア家の馬車にはまず、クロヴィスが乗り込んだ。普通なら、ナターリアが先だが、エスコートをしているアーサーが手を放してくれないのだ。
「わざわざありがとうございます」
ナターリアは、夕食会に遅れますよ?とアーサーを見上げた。
「婚約者として当然の義務だよ」
それも義務だというように彼は額に唇をよせた。
「お返しは?」
アーサーが返礼のキスをねだった。
馬車どまりには、次から次に人が来る。ナターリアは小さく頭を振った。
彼は軽く肩をすくめると、ナターリアを馬車に導いた。
彼女が席に納まるのを見届けて、アーサーはマデリンのために脇に身体を避けた。
マデリンが、ステップに足をかけると、馬が動いた。
マデリンの身体が揺れ、倒れかけるのをアーサーが支える。
マデリンの手にしていたスケッチブックが、道に音を立てて道に落ちた。
「申し訳ございません」
馬を動かしてしまった御者が慌てている。
「大丈夫だ。ああ、そのまま」
マデリンが落としたスケッチブックを拾おうと、馬車から降りて屈もうとするのを制して、アーサー自らがすばやくスケッチブックを拾った。
広がってしまったスケッチブックを手にした一瞬、描かれている絵に目を止めてからアーサーが「今度、じっくりみせて欲しいな」と微笑んでマデリンに戻す。
「ただのスケッチです。お見せするほどのものでは」
「謙遜しなくてもいい。よく特徴を捉えているよ」
マデリンが早口で支えてくれた礼とスケッチブックを拾ってくれた礼を伝えた。
アーサーが余人には余人には解からないような声で何事か言って、マデリンの手を取って馬車に乗る手助けをした。
ステップに片足をかけてアーサーが馬車の中を覗き込む。
「では、また」
彼は軽快な足取りで馬車から降りた。
マデリンを少し長く目を止めたのは、転びかけた彼女を気遣ったため。
ナターリアは自分へそう言い聞かせる。
馬車の中では、今日の見学会について、クロヴィスが嬉し気に語っていた。
ナターリアはそれに合いの手いれながら、我が女家庭教師の様子が気にかかっていた。
いつもならもっと、自分の意見を言いますのに。
むろん、マデリン見学会に参加していないが、ナターリア達の予習のために、いくつかの資料を用意してくれていた。
その内容についても、何度も話題になっている。碩学なマデリンがいるから、ゴールディア家では今までクロヴィスに専任の家庭教師をつけていない。
マデリンはパリーシャ語もラテン語もこなすし、数学もクロヴィスくらいの子供に教えるくらいには収めている。
生物や、植物にも詳しい。
それでいて、レディとしての礼儀作法、教養、乗馬もダンスも上手い。
「マデリンにも不得手というものがありますの?」
唐突なナターリアの質問にマデリンが目を瞬かせた。彼女はちょと考えてから答えた。
「強いていえば、男の方が苦手かもしれません」
ナターリアの想像していた答えとはまるで違う。今度はナターリアが目を瞬かせる番だ。クロヴィスも珍しくキョトンとした顔をしていた。
昔はよくこういう顔をしていたけれど。
「僕だって男だよ?」
「そうですわね。小さな紳士は、いえ、大きな紳士も、本当に紳士なら問題はないのですけれど……」
マデリンは美しい。
王宮で、夜会でマデリンを見つめる殿方がいるのをナターリアはよくわきまえていた。
マデリンならロマンス小説の主人公に十分なれますわ
改めてナターリアは彼女のガヴァネスを見た。
ロマンス小説の常道、身分差を越えて、貴族の若様が本気で愛する気持ちが解かるほど、マデリンは素敵だ。
けれど。
「マデリンは男の方が苦手なのですのね」
「ええ、女性に誠実でない方は特に」
マデリンの断言に、ナターリアは少し心が軽くなった。
スケッチをしていた時に男の方に少し不愉快な視線で見られたのかもしれない。
ナターリアにも経験があることだ。
それはそれで、心配ではあることだった。でも、マデリンは独歩を好む。
今までの経験から、マデリンは自分の身を守ることにも長けているはず。
でも、それとなく、彼女の安全に気をくばるよう執事に言っておこうとナターリアは決意する。
「僕は、紳士で誠実だよ」
隣で断言する弟がほほえましい。