伯爵令嬢の人格形成はロマンス小説と共に (5)
屋敷に戻ったゴールディア伯爵は、まっさきに妻の居室に向かい、ナターリアとアーサーが結婚の約束をしたのかと、ケイトリンを問い正した。
「結婚の約束はしておりませんわ」
ケイトリンの言葉にゴールディア伯爵は安堵する。
自分が思っていた通り、ごっこ遊び。求愛する騎士と姫ぎみをなぞって遊んでいたのだ。
「でも、アーサー様はナターリアに婚約の申し込みをされましたわ」
安心したのも束の間、ゴールディア伯は妻の言葉にしばし絶句した。
「アーサーから申し込みをしたのか」
「ええ、アーサー様は、破棄をするために婚約をすると、今は結婚する気がないから、お相手が現れるまでの婚約をとおっしゃっていました」
破棄をするための婚約。
あまりの馬鹿馬鹿しさにゴールディア伯爵は呆れてしまう。
幼いナターリアが言い出すならともかく、公爵家を継いだもうすぐ二十歳になろうという青年が言い出すとは。
伯爵は、コンラートと同じように、ナターリアがアーサーに申し込みをしたのだと考えていた。
そしてアーサーは、遊びに付き合うつもりで、婚約をする振りをしてくれたのだろうと。
「何でその場で反対しなかった」
苦い顔をしてゴールディア伯爵は妻のケイトリンに言った。
「ナターリアが嫌がらなかったからですわ」
ケイトリンは上品に紅茶を口にした。
「アーサーも何を考えているのだ。あまり派手なことをすれば、目をつけられる」
「多くの目を持つ方に?」
ケイトリンはレイモン・ビヨンヌ伯爵の渾名を口にした。
「ケイトリン」
ゴールディア伯爵は妻を嗜めるようにその名を口にした。
宮宰のレイモン・ビヨンヌ伯爵は体の弱いゲオルク王太子を大事にしていた。
幼い頃から、父である王より頻繁に接触する王太子もレイモンになついている。
王位争いをさせないためという理由で、コンラートはレイモンの差配の下で、やや冷遇された日々を送っている。
コンラートの名付け親で後見役でもあった前バイアール公爵が王宮を退いてからは余計にである。
ケイトリンの西の離宮からのいとまごいも、微妙にその辺りが関係していた。
もちろん、一番の理由はゴールディア伯爵自身が愛する妻と子供達と一緒に暮らしたかったからだが。
「アーサー様も、ご家族が遠くにいらして、お寂しいのではないのかしら」
ケイトリンが何気なく言う。
「寂しいものか、アーサーは並みいる貴婦人をとっかえひっかえ……」
ロマンス小説を愛するような、純情なところを残す妻に言う話でないと、ゴールディア伯爵は最期まで言わなかった。
「アーサー様が何人かのご婦人と親しくしていらっしゃるのはわたくしも知っておりますわ」
「なら、なぜ」
少年だった頃のアーサーは誠実で快活。幼い王子やその乳兄弟の相手を、嫌な顔もせずに行っていた利発な彼のままであったら、ゴールディア伯爵も、婚約にやぶさかではない。
下手な相手よりは、よほど好ましく、娘の相手は彼のような者をと思っていたくらいだ。
「アーサー様は、きっと初恋をこじらせてしまったのですわ」
お気の毒にとケイトリンが嘆く。
ゴールディア伯爵は妻の言葉で、アーサーの初めての恋と言われているジョゼフーヌ・ロアン夫人との一件を思い出す。
それは、彼が16になったばかりの頃の話だ。
その頃、ジョゼフーヌは夫のロアン子爵を無くした未亡人だった。
ジョゼフーヌは見事な金髪の優しげな美女だった。
さらにすらりとした体に豊かな胸。細い腰。
ミルクのように滑らかな肌。
宮廷の男達はこぞって彼女を口説いたが、彼女の身持ちは固いというふれこみだった。
アーサーがジョゼフーヌといつ出会ったのか、ゴールディア伯爵は知らない。
しかし、二人は出会い、人目をはばからず一緒にいるようになった。
レストランで、舞踏会で、劇場で。
アーサーは学生だったが、ジョゼフーヌと会うことを優先しているようだった。
けれど、破局はすぐに訪れた。
アーサーとジョゼフーヌの一緒にいる姿が、社交会で見られなくなった。
しばらくして、ジョゼフーヌは隣国パリシアの大使ジャン・バラスト男爵との再婚を発表した。
ジャン・バラストはパリシアの富豪。
壮年の好男子で、何よりパリシア仕込みの洗練された洒落者であった。
アーサーに追い討ちをかけるように、ジョゼフーヌはバラストと同行したやや品格の劣る仮面舞踏会で、バラストの取り巻きに、アーサーのことを訊かれると、
「女を歓ばせる技量もないのに、嫉妬と図体だけは一人前」
と揶揄したと噂がたった。
アーサーは面目を失ったが、しょせんは噂話でしかない。
彼は沈黙を守る。
二ヶ月後、彼が高等学院を飛び級して、大学に入ると、ジョゼフーヌは美しき天才を逃したと反対に言われるようになる。
同じ頃、ジョゼフーヌは任期を終えたバラストとパリシアに移った。
大学に入ったアーサーは、新しくできた友人達と遊び回るようになり、様々な夫人達と浮き名を流すようになっていた。
父が大公になり、自分が公爵位を継いだ後もそれは変わらない。
先だっても、とある貴婦人をめぐって、鞘当てをしたと噂されている。
「今のアーサーに大事な娘をやるのは」
「あげることにはなりませんわ。婚約破棄をするのですから」
ケイトリンが冷静に指摘した。
「君はずいぶんとアーサーをひいきするのだな」
「それは、少年の頃から親しくしておりますし、なんと言ってもフェリシア様のお子様ですもの」
かつての社交界の花、フェリシア・アルトブラン。
アーサーの母の名前をケイトリンは口にした。
アーサーはフェリシアの美貌を受け継いでいる。
「アーサー様を見ていますと、フェリシア様が男装なされているようで、胸がときめきます」
ゴールディア伯爵は妻のうっとりした表情を見て面食らった。
「それからコンラート殿下のためでもありますかしら」
「コンラート殿下の」
「そうですわ。乳兄弟の婚約者なら、離宮への送り迎えをしても、問題ではないでしょう?三人は仲良しさんですし、私も助かりますわ」
ケイトリンはいたずらっぽく人差し指を唇に当てた。
アーサーの父ウォレスが第二王子の後見役を実質的に降りてから、コンラートの後見役はいまだ定まっていない。
「わたくしのお乳を飲んだ王子が寂しい顔をしているのは、わたくし、とても嫌ですの。王家の方が乳兄弟と結婚できれば、ナターリアを差し上げても良かったのですけれど」
それは無理ですものね、とケイトリンは嘆息する。
「君はナターリアに幸せになって欲しくないのか」
コンラートにアーサー、どちらも宮廷での立場は微妙な現状だ。
「母として心から幸せになって欲しいと願っておりますわ。コンラート様もアーサー様もどちらも素敵な方ですもの」
「だが、アーサーとナターリアが望むのは破棄をする婚約なのだろう」
それが問題だ。
「エドモント、マイダリン、わかってらっしゃらないわ。婚約破棄の後は真実の愛を見つけてハッピーエンドですのよ」
確信を持ってケイトリンが宣言した。
ゴールディア伯爵は妻の言葉に少々気圧された。
「それから、あなた。明日の夜アーサー様が正式なご挨拶に見えられるそうですわ。早めに帰っていらしてね」
ケイトリンは最後の最後で肝心なことをゴールディア伯爵に告げた。