伯爵令嬢の禍福得喪は舞踏会の音楽と共に(23)
献上式は滞りなく進み、陛下の名前と共に次の文言がメネフィス碑文に刻まれた。
“アンゲリア王国の信仰の守護者のもとに、古き文明は暁の光を得て、甦えらん”
古代エギュプトが太陽神を奉ったことを踏まえて作成されたものである。
さらにヘンリック王はフレミア侯爵が、その身をもって呪いから王を遠ざけようとした思慮にお誉めの言葉を賜った。
フレミア侯爵はおおいに面目を保ち、深くヘンリック王の寛容に謝辞を呈した。
事にあたり、アーサー達はまず、フレミア侯爵に、宮宰であるレイモン・ビヨンヌ伯を頼るように忠告した。
フレミア侯爵はタジネット侯爵とアーサーがすべてを取り仕切ると考えていたらしく、その忠告を不思議に思ったようだが、結局は受け入れた。
「私の名前は出さない方がいい」
タジネット侯爵はそうも忠告した。ビヨンヌ伯爵は、タジネット侯爵が強く関わっていると知れば、却って、フレミア侯爵に罰を与えかねないと思ったからだった。
「バイアール公爵が事情を知っているのは、ほのめかせてもいい」
“リューイ”の上演にアーサーが深く関わっていることは周知のことだし、ロンディウム博物図書館の見学会を開催するには、率先してアーサーが動かねばならないからだ。
「まあ、あの御仁のことだ。私が関わっているのをしばらくしたら探り出すかもしれんがね」とタジネット侯爵はアーサーとゴールディア伯爵に漏らした。
「バイアール公爵、このたびは我が血縁が世話になったようですね」
献上式の翌日、アーサーはビヨンヌ伯爵に言われた。
「私は、同好の士に、“リューイ”の翻訳者を紹介しただけですよ」
「アンゲリアの学術的発展のためにも、ロバートのためにも紹介の労を取ってくださったバイアール公爵には感謝をせねばなりません」
「こちらこそ。こうまで早く、献上式と見学会が許可されたのは、宮宰であるビヨンヌ伯爵が後押しをしてくださったからと、聞き及んでおります」
「めっそうもない。陛下が良きことは早く行わなければならないと仰せになったからです。内閣の承認もすぐに下りましたしね」
ビヨンヌ伯爵は意味ありげに言葉をいったん置いた。
「まるであらかじめ知っていたように」
「陛下のお言葉に沿ってのことでありましょう。わたくしもロンディウム博物図書館の理事の一人として急ぎ動かなければなりません」
アーサーは軽く手を胸に置いて、王への敬意を表した。
「そう言えば、バイアール公爵は、ゲオルク殿下とコンラート殿下のメネフィス碑文の公開見学会へのご臨席を願われたとか」
「はい。非常に貴重で、二度とないかもしれないことですから。ロンディウム博物図書館にとっても名誉となることゆえ、両館長も熱望しています。両殿下にも快諾していただいております。むろん、ヘンリック陛下にも」
「本来なら、事前に私にご連絡があっても良いところですが」
「申し訳ありません。期日が迫っていることもあり、直接、陛下と両殿下にお話ししました」
「類縁の気安さでしょうな。筆頭公爵であるバイアール公と王家の方々が仲良きことは、臣にとっても喜ばしいことです」
階級としては公爵が上、地位としては宮宰が上。二人の会話は微妙にけん制し合って続いた。
「ところで、伝え聞くところでは、お父上もだいぶ健康になられたようですね」
「はい。カルプ島の潮風が存外、身体に合っていたようです」
「近頃では、船で島々を回られることも多いとか。バイアール公爵家は陸の勇、騎士のお血筋ですが、船乗りの才能もお有りなのですな」
「名誉法廷が開かれることを想定して、陸軍、海軍の両方に通じていなければなりませんから」
「そうそう、ウォレス大公は軍務伯であられた。」
では。と左右に別れたのは、話し始めてから、半時間に少し欠けるほど経っていた。
去り際にビヨンヌ伯爵が言う。
「ロバートが申しておりました。バイアール公爵の婚約者、レディ・ナターリアは純粋で賢く、得難い方だと。幼き頃の婚約の申し出を断られたのが悔やまれると」
「フレミア侯爵が我がナターリアに婚約の申し出をしていた?ならば、断ってくださったゴールディア伯爵に感謝をせねばなりませんね。私を選んでくれたナターリアにも」
アーサーはしらばっくれて返事を返す。婚約を承諾したのは、幼いながらもナターリアの意思だと匂わせて。
◇◇◇◇
「一番、残念がっているのは宮宰殿じゃないのかねー」
だらしなく、ソファの背もたれに体を預けたオースティンがアーサーを見上げて言った。
昨夜の放埓ぶりが良く分かる。
約束の時間に現れないオースティンの様子を自宅に見に来たら、彼は昨夜の服装のまま、ソファで寝ていた。
「マダム・テレーゼと一緒だったか」
「ん、明け方近くまで、カーランド家の屋敷でな」
カーランドは先代の辣腕で、財を成した資産家だ。二代目のジェフリーは貴族との繋がりを強固にしたいらしく、たびたび豪勢な夜会を催す。
「焼けぼっくいに火がついたか」
「そんなのじゃ、ないよ。旧交を温めているだけだ。けど、もし、そうなったら、火付け役はお前ってことになる」
「マダム・テレーゼにも礼をしなければならないな」
「それこそ、お前が一晩、付き合ってやればいいじゃないか。彼女は昔からお前の緑の瞳にぞっこんだ」
「婚約者がいる身だ。深入りするつもりはない」
オースティンが人の悪い顔で笑った。
「何もベッドに行けと言っているわけじゃない。夜会の一つも誘ってあげればいいだろ。まあ、あんな婚約者様がいたら、品行方正になるしかないか」
オースティンが一つ大きく欠伸をした。
「しかし、タジネット侯爵もお前も、あんな展開になるとは思わなかったろう」
オースティンが、フレミア侯爵を説得するつもりでいた女優たちとの食事会について触れる。
アーサーはフレミア侯爵とエリオットを引き合わせ、今、夢中になっている“リューイ”の女優二人と従姉妹であるテレーゼから口添えをさせて、ロンディウム博物図書館での、公開見学会を承諾させる心積もりだった。特に信奉者になっているエディットからの効果は絶大だとアーサーは踏んでいた。
テレーゼから、昔に聴いていた「ロバートは意外に女性の押しに弱いの」という評価とバイアール家の調査をもとに立てた計画。
エディットに話を通せば、エリオットは自分の恩人、女優を目指すことを精神的に後押ししてくれた人物だといい、「公爵と彼の役に立てるなら」と楽屋で言った彼女は、いつもの自信に満ちた女優、エディット・ファディだった。
だが、会食に現れたのは、まるでいつもとは違う彼女。
内気で臆病そうな。背の高いこと気にして自信が持てずにいるあの姿こそが、彼女がもともと持っていた性格なのだろう。
「エリオットが言っていた教育論は、エディットから導き出したものなのかもしれないな」
「そうかもな。だが、エリオットも聞いていた人物像と違っていたぞ」
「初めて会った時は、もっと気弱そうに見えたのだが」
「お偉い公爵さまと会う緊張感からじゃないか?」
それを考慮にいれるのを失念していた。
アーサー自身は身分に頓着しないが、これは自分が貴族であるためだと、改めて感じた。
階級の差、身分の差は、人と人との間に垣根を作る。
もう少し時間があれば、エリオットの人となりも把握できたろう。
彼が、博物図書館の臨時職員からなかなか脱却できないこともあり、自分の考えをあそこまで堂々と述べる人物だとは想像していなかった。
「メネフィス碑文が一部欠けているという推論は先に話しておいて欲しかった」
珍しく、アーサーが弱音を吐く。一緒に馬鹿もやったオースティンの前だから出せる言葉。
「けど、それで、フレミア侯爵の事情を引き出せたんだし、ナターリア嬢がフレミア侯爵を庇わなければ、俺達は彼を弾劾せざるを得なかった」
それは、本来の目的ではなかった。
フレミア侯爵の考えと行動を正直に公開して、陛下に再献上するなどという考えは、アーサー達には思いもつかない案だった。陛下に報告する時に、温情を求める請願を出す。できることはそれくらいだととっさに思ったくらいだ。
「純粋さと誠実さは、人を何より動かす力だね」
「まったくね」
エリオットにしろ、ナターリアにしろ、人として純粋であるからこその発言、提案だった。
「しかし、疑問に思ったんだが、どうして、軍務伯がお父上のままなんだ?それじゃあ、不便だろう」
「今の軍務伯の仕事は、軍事じゃなく、典礼や紋章に関してが主だからね。今は“宮宰”ビヨンヌ伯が宮廷の催しを支配している」
「ああ、そういうことか」
“宮宰”という称号は、王の秘書官の統括者への儀礼的な称号だ。
しかし、“宮宰”という呼び方が、実質的に宮殿内のすべての差配を可能にしてしまった。
ウォレスがカプル島に行き、その傾向は決定的になった。
「やはり、ビヨンヌ伯爵には注意が必要だな。気をつけろよ」
オースティンが少し真面目な顔になって忠告をしてくれた。