伯爵令嬢の禍福得喪は舞踏会の音楽と共に(19)
アーサーから、再び観劇の誘いが届く。
今度は二人きりで。の言葉通り、誘われたのはナターリア一人。
少し悩んだが、イエスと返事を返す。
もう一度、“リューイ”を見たいと思っていたから。
会場してすぐに劇場に入るとアーサーはすぐに席に向かわず、ロビーで飲み物を受け取った。
きらめくシャンデリアが人々を照らしていた。
アーサーは柱の脇にナターリアと二人で立つと(そばにはメアリーアンもいたけれど)
どこか物憂げな様子で人々を眺めていた。美貌の公爵の視線を感じた若い娘が、頬を染めた。
アーサーは人々の視線からナターリアをかばうように立っているが、ナターリアを見つめ続ける紳士風な男もいた。
ボックス席に座るような身分の者たちは、彼らに軽く挨拶をして立ち去っていく。
なぜ、アーサー様はここに留まっているのかしら。
アーサーが片手をあげた。
ナターリアが目を向けると、バーリー・オースティン・ロッドウェルが同じく片手を上げていた。
隣にいるのはマダム・テレーゼと呼ばれる貴婦人だった。夭折したジュドー・カスター子爵の未亡人だ。
子供はおらず、カスター子爵の爵位は前カスター子爵の弟ダニエルが継いでいた。
テレーゼ自身はパリシアの伯爵家の令嬢で、アンゲリアにある地所を持参金として嫁いできた。
持参金と亡くなったカスター子爵の別荘地を譲られて、夫の喪が明けた後は、華やかな社交生活を続けている。
オースティンがマダム・テレーゼを劇場にエスコートしてくるほど親しいとは知らなかった。
四人が挨拶を交わしていると、彼らの脇を紳士が通り過ぎようとした。
「ロバート、私に対して挨拶も無しなの」
テレーゼが大胆にも紳士の腕に手をかけて引き留めた。
紳士は仕方がないというように足を止め、テレーゼに向き直った。
濃い金髪がシャンデリアの下で輝く。
「こんばんは。テレーゼ」
明らかに気のない口調だった。
「ごきげんよう、ロバート」
テレーゼが相手の態度など気にも留めない様子であでやかな笑顔を向ける。
「こんばんは。フレミア侯爵。先日もここでお会いしましたね」
アーサーが彼に挨拶をすると、相手は一瞬だけ表情を動かした。
「バイアール公爵、お久しぶりです」
二人の挨拶が噛み合わない。アーサーは最近、会ったといい、相手はしばらくぶりと言う。
ナターリアは侯爵が手にしたステッキの柄頭の紋章に気が付いた。先日の観劇の折り、見かけた一頭立ての馬車はフレミア公爵のものだったのだ。
前の観劇の時、アーサーとフレミア候は顔を合わせたが、挨拶は交わさなかったのだろう。
フレミア侯爵はオースティンとも一言、二言、挨拶をして、最後にナターリアに視線を寄越した。
色の薄い空色の瞳。軍人らしく鍛え上げられた身体と姿勢とが相まって、どこか酷薄に見える。
三度の結婚の経緯もあって、彼が青髭候と綽名されていることをナターリアは思い出した。
ナターリアは軽く身をかがめて挨拶をした。フレミア侯爵の方が身分が上だからである。
「レディ・ナターリア」
フレミア侯に名を呼ばれて、手を差し出される。ナターリアも自らの手を差し出した。
相手に手を取られ、触れるか触れないかの軽い口づけを指先に落とされる。
フレミア候の手は暖かかった。そのことにほっとして、ナターリアは彼に微笑みかけた。
「ユア・グレース」
劇場の支配人がうやうやしくアーサーに声をかけてきた。
「ご希望の席をご用意いたしております。一階の十二列目の中央のブロックを空けております」
「わかった」
アーサーは鷹揚に返事をした。
「ボックス席じゃないのか?」
オースティンが尋ねたのも無理はない。普通なら二階に設えられたボックス席が貴族たちの定位置だ。
「たまには視線を変えてみるのも良いものだよ。それに、その席なら役者の表情も良くうかがえる」
「楽しそうね」
テレーゼが陽気に反応した。ナターリアも否やはない。
「いかがです?よろしければフレミア侯爵もご一緒に。お連れの方がいらっしゃるならご遠慮しますが」
アーサーが礼儀上のためか、フレミア侯爵を誘った。
「いえ、私は」
フレミア侯爵が固辞しようとすると、
テレーゼが「あら、誰かと待ち合わせ?」と興味津々といった風に尋ねる。
「いや、一人だが」
「なら、お言葉に甘えて、いらっしゃいよ。こんな機会はめったにないわよ」とさらに誘う。
「どうぞ、遠慮せず、中央の一列をすべて抑えてあるので、席は余っていますから」
筆頭公爵であるアーサーにこうまで言われて断れる貴族はいない。
「ありがとうございます。では遠慮なく」
「ランドリー、フレミア侯爵の席は当日券に並んでいる者にプレゼントしたまえ。フレミア侯爵、それでよろしいかな」
アーサーが脇に控えていた支配人に命じてから、フレミア侯爵に確認を取った。
「構いません」
フレミア侯爵は仕方ないというようにチケットを支配人に渡した。
「二人用のボックス席でございますね。幸運なお二人だ」
支配人が押し頂くようにしてチケットを受けとり、劇場の入口へと向かって行った。
用意された席は、前が中央通路。
アーサーが抑えたのは一列と言っていたが、すぐ後ろの席にはアーサー達の従者や付き添いが案内されて座った。
劇場側の配慮らしい。
中央にナターリアその右手にアーサー ナターリアの左隣に席を一つおいてフレミア侯爵が座った。フレミア侯爵の隣には、テレーゼが腰掛け、アーサーの横にオースティンが座った。
オースティンはテレーゼをエスコートしてきたのに、離れて座ってしまう。
「二人は従兄妹同士だから」
オースティンがナターリアとアーサー達にだけわかるようにささやいた。
アンコールも終わり、客たちが劇場から引けていく。
「近くになかなか旨いローストビーフを出す料理店がある」
今夜は、公爵邸ではなく、民間の料理店へ行くらしい。
フレミア侯爵もテレーゼに半ば強引に誘われて、一緒に食事を取ることになった。
本当に近くらしく、馬車を回さないで、歩いていく。
興奮で熱くなった体に夜風が心地よかった。
劇場からはきだされた観客が同じように周りを歩いていく。さんざめく声は今日、同じ体験をした人だと思うとなぜか親しく思えた。
アーサーが推薦した料理店は見るからに高級という店ではないが、富裕層のために個室も用意されていた。
当然、ナターリア達もそこへ通された。
他の客と共に食事をしてみたい気もするが、今日の着飾った格好では少し浮いてしまう雰囲気だ。
ジャンブル・セールの時くらいの装いなら、紛れ込むのも可能かもしれない。
二回目の観劇だが、ナターリアの目は新鮮な驚きでいっぱいだった。
「一度目は話の筋と主役の三人ばかりに目が行っておりましたが、今日は脇役の方の演技にも感じ入りましたわ」
大きな円形のテーブルに並べられた大皿。
先日の一皿一皿が順番に出てくるルーシー式の正餐とは違い、大皿に盛られた料理を、それぞれ取り分けてもらう。
「箱の中のボックス席とは、声の響きも違ってくるからね」
アーサーがゆったりとグラスを傾けた。
「劇場の隅まで声を響かせるのが良い役者の条件だと思いますが」
意外なことにフレミア侯爵がアーサーに意見した。
「それは、舞台に立つ者の最低条件ですね。“リューイ”の役者達の声はもちろん、三階の隅まで届きますよ」
「まるで、自ら確認したようなおっしゃりようですね」
「ええ、お言葉通り、二回目の観劇の時に三階の端で立ち見をしましたよ」
アーサーが貴族としては型破りな方だとは解かっていたが、ナターリアは彼がそこまで酔狂だとは思わなかった。
ナターリアはそう考えてから、ジャンブル・セールの時の生き生きとした彼を思い出す。
アーサーは下町訛りさえしゃべっていた。
アーサーはナターリアが知らない顔をどれだけ持っているのだろう。
「相変わらずねえ」
テレーゼが笑いを含んで彼の腕を軽く叩いた。最初から思っていたが、二人は随分と親しげ気だった。
「こいつは昔から変な奴だからな」
オースティンが言うと「だからお前と友達などをやってられる」とアーサーが返した。
「おや、俺を親友と、とうとう認めたな」
「親友とは言っていない」
楽し気な三人に、ナターリアとフレミア侯爵は輪の外に置かれてしまう。
「フレミア侯爵は演劇にお詳しいのですね」
思い切ってナターリアはフレミア侯爵に話しかけた。彼は目を少し動かしてから。
「詳しいとまでは申せません。軍務の合間に通っているだけですから。ただ、“リューイ”はたいへん好ましく思っています」
「わたくしは今まで、あまり芝居というものを見に来たことがございませんの。歌劇や音楽会には連れて行ってもらえたのですけれど」
「演劇の中にはなかなか、猥雑で刺激が強すぎるものもありますからね。たとえ、一六世紀の巨匠、ジェイク・ピアスの作品でもね。ゴールディア伯爵ご夫妻が、避けられたのでしょう」
「ジェイク・ピアスの戯曲はすべて読んでおりますから、残酷な復讐譚があるのは知っております」
「舞台になると文字で読むより、生々しくなりますから。リューイもそうですね。ただ戯曲で読むより、人間の機微が伝わってきます」
フレミア侯爵の舞台への熱意が伝わってくる。
詳しくないといいながら、フレミア侯爵はわが国の偉大な劇作家のすべての作品を観ているようだ。
「フレミア候は、ほぼ毎日のように、“リューイ”に通っていらっしゃるそうですね」
アーサーが内緒話でもするような低い声を出した。
「ええ」
それが、何かと言うようにフレミア候が答えた。
「支配人がありがたいことだと言っていました。ミス・エディットも熱心な観客がいると励みになると」
「ミス・エディットが?貴方に?ああ、バイアール公爵は確か彼女の後援者でいらっしゃいましたね」
「彼女個人というよりは、この劇場そのものを、ですよ」
「ですが、先日も彼女の楽屋を訪ねていらした」
「演技を見て、リューイの役に推薦した一人ですから」
「リューイの全ての役は、様々な劇団の中からオーデションという形で選ばれたんだっけな」
オースティンは空のグラスを振った。
「メルジーヌ侯爵夫人以外はね。彼女はシャルルマーニュのガルニエ劇場でマケーの芝居に何度か出演していたから」
アーサーがオースティンの言葉に答えた。
そういえば、タジネット侯爵はオーガスタがパリシアで女優修行をしていたとおっしゃっていた。
「オーガスタは、フランソワーズ・シュシュの演技を踏襲しているだけです」
グラスをテーブルに置くとフレミア侯爵が辛辣にオーガスタのことを批評する。
「フレミア侯爵はシャルルマーニュまで舞台を見に行かれるのですか」
オースティンが感心したような、呆れたような声をだす。
「パリシアには類縁もおりますから」
「あら、私の実家に顔を出したなんて聞いておりませんけれど?」
テレーゼは揶揄い気味にフレミア侯爵の顔を覗き込む。
「一昨年の秋にご挨拶には伺ったよ。君こそシャルルマーニュに逗留しても、顔を見せないとお母上が嘆いていらした」
藪蛇だったという風に彼女は肩をすくめてみせる。そんな仕草もコケティッシュだった。
「オーガスタの演技にフランソワーズの影響があるのは否めないが、メルジーヌ侯爵夫人とリューイの間の細やかな感情の動きは今回のほうが、いいと私は思う。フランソワーズの演技は、巧緻に長けた戦略家で、後ろを振り返ることのない戦士のようだったからね」
アーサーが今日の芝居についての話に引き戻す。アーサーもパリシアで“リューイ”を観たということらしい。
「それはエディットの演技が素晴らしいからです。彼女の演技がメルジーヌ公爵夫人の新しい側面を引き出した。彼女はもっともっと多くの人知られ、その演技を観てもらうべきですよ」
「彼女が素敵な演技をするには賛同するわ。あの男ぶりには女の私でも魅了されるもの。そう思うでしょ?」
テレーゼがナターリアに同意を求めた。
「ええ、確かに男装の麗人というのは心をときめきかせますわ。それに、コミカルなシーンは楽しく、シリアスなシーンは息を飲むほどでした」
ナターリアは熱心に賛同した。まじかで見た今日のリューイの演技は、自由自在に男と女を行き来していた。
「そうですとも。彼女は演じているのではなく、役そのものなのですよ。それが素晴らしい。エディット・ファディは文化だ」
「あら、まあ、最大の賛辞ね」
扉が開いて、よく通る声が室内に響いた。
タジネット侯爵にエスコートされてオーガスタ・スノーが室内に入る。
「エディット、恥ずかしがらないで入ってらっしゃいな」
少し振り返って、扉の外にオーガスタが声をかけると、ドレスに着替えたエディット・ファディが見知らぬ男性と共におずおずとした様子で姿を現した。
先日の楽屋でもそうだったが、オーガスタの登場は劇的なシーンを作り出す。
その華やかさ美しさは、舞台を降りても変わらない。
一方、フレミア侯爵に“文化だ”と賛辞されたエディットはこれが、舞台で、そして先日の楽屋で面会した人物とは思えないくらいに地味だった。
濃い茶色のドレスには飾り気はなく、女性らしい曲線を持たない彼女の姿を強調している。
背が隣にいる男性と同じくらいなのを気にしているのか、やや猫背気味だった。
ナターリアはエディットの、その姿に既視感を覚えた。
そう、舞台のリューイ、太って、内気で、地味だったリューイの姿が重なる。
二人の女優が来ることを知らされていたのか、テレーゼとオースティンは平然としている。
驚いているのは、ナターリアとフレミア侯爵だが、フレミア侯爵は半ば立ち上がり、そして顔を蒼ざめさせて座った。
「待たせたね。もしかして食事は終わってしまったかな」
「いえ、ローストビーフには間に合いましたよ」
オースティンがタジネット侯爵に気楽な調子で答えた。
オースティン・ロッドウェルは下院の議員だが、彼はヤンガーサン、ロッドウェル子爵の三男だ。
社交界でも、議会でも、タジネット侯爵とは交流がある。
「二人の女性は紹介するまでもないね。そして、こちらは、“リューイ”の原作を翻訳してくれたミスター・トーマス・ヤング・エリオット」
紹介されたエリオットは緊張した面持ちでぎこちなく正式な礼をする。赤茶色の髪は撫でつけてあるが、どこかおさまりが悪い。
タジネット侯爵が自ら椅子を引いてオーガスタを席に座らせた。
エリオットもそれを真似てエディットのために椅子を引いた。フレミア侯爵がその様子を凝視している。
「ほら、エディット、フレミア侯爵様にお礼を言いなさいよ」
軽やかな口調でオーガスタがエディットに話しかけた。ナターリアはオーガスタへの批評を聞いていなくて良かったと思う。
でなければ、オーガスタがフレミア侯爵に微笑みかけることはしなかっただろう。
「いつも、お花をありがとうございます。今日もお招きいただいて」
小さな声でエディットが礼を口にした。
「いや、私もバイアール公爵に招かれた身で」
「バイアール公爵様が」
楽屋で呼んでいたようには、エディットはアーサーをファーストネームで呼ばなかった。
アーサーが言っていた通り、劇場の中だけは別世界。そういうこと。それとも二人きりの時も?
ナターリアはそっと隣にいるアーサーに視線を走らせる。
つられたようにアーサーもこちらを見た。二人の視線が絡まって、アーサーの緑の目が柔らかに細められ、少し顔が寄せられた。
「君のためのサプライズだよ」
ナターリアにだけ届くように低くかすかな声。周りの人のことを彼女は一瞬、忘れる。
「ミスター・エリオットをタジネット侯爵、そして、フレミア侯爵にお引き合わせしたくてね」
アーサーがナターリアから視線を外して、一同を見回した。
「私に、彼を」
エディットをちらちらと見ていたフレミア侯爵が、アーサーに向き直る。
「彼は、“リューイ”の翻訳者だけれど、本来は舞台関係者ではないのだよね?」
エリオットに問いかけるようにアーサーは言う。
「ロンディウム博物図書館の末席に置いてもらっています」
ロンディウム博物図書館と聞いて、ナターリアは背筋を伸ばして、アーサーの話に集中する。
「専攻は?」
「考古学を、主に古代エギュプトの研究をしています」
古代エギュプトと聞いて、フレミア侯爵の顔色が変わった。オースティンをはじめ、周りの人も三人の会話に注目する。
フレミア侯爵がエギュプトからメネフィス碑文の一部を持ち帰ったのは有名だったから。
「これは、何の茶番だ。私は失礼する」
フレミア侯爵が静かに立ち上がった。
怒っていても冷静さは失わない。軍の指揮官として、それは得難い資質だとどこかで読んだ。
ナターリアはなぜ、フレミア侯爵が“青髭”と綽名されるような結婚を繰り返したのか不思議に思った。
「待ちなさい」
「待ってください」
「お待ちなさいな、ロバート」
「侯爵、お願いです」
タジネット侯爵、エリオット、テレーゼ、そしてエディットが、侯爵が立ち去るのを止めた。
エリオットとエディットはフレミア侯爵と同じように立ち上がっていた。
フレミア侯爵はエディットとエリオットを交互に見た。
「君たち、二人は……」
フレミア侯爵は何か言いかけて、一振り頭を振り、自分の従妹に目をやった。
「良いでしょう。お話だけはお聞きいたしましょう」
どこか観念したようにフレミア侯爵は再び着席した。