伯爵令嬢の禍福得喪は舞踏会の音楽と共に(9)
「コンラート殿下は半時間ほど前から、奥の書斎でゲオルク殿下とご一緒にパリシア語を学んでおられます」
コンラート様付の侍従長が慇懃に言った時、正直な話、ナターリアは耳を疑った。
「ゲオルク殿下とご一緒に?」
「さようでございます」
相手の言葉を疑う、ある意味不躾なナターリアの反応に侍従長は鉄壁な無表情で答えた。
実を言えば侍従長はかなりはっきりと喜怒哀楽を表現する。
コンラートと共に王宮で暮らしていた頃、厳しく、優しく、時にはユーモアを持って三人に接してくれていた。
その彼が、この顔である。侍従長も混乱していると思って間違いない。
「それは、コンラート殿下は喜ばれたことでしょう」
ナターリアは同行したクロヴィスの様子をうかがった。
弟がコンラートに会えるのを楽しみにしていたからだ。
案の定、見るからに気落ちしている。
「ただいま、レディ・ナターリアとクロヴィス様の来訪をお伝えいたします。しばらくこちらでお待ちいただけますか?」
そうするしかないだろう。
けれど主がいない部屋で、弟と二人、差し向かいでお茶を飲むのも手持ち無沙汰だ。
「カードかチェスでもお持ちしますか?」
「そうしていただく?」
ナターリアはクロヴィスに尋ねた。
「それでも良いけれど、僕、コンラート殿下とパリシア語を勉強したいな」
まさかの希望をクロヴィスは口にした。
「クロヴィス様は向学心がお有りなのですね」
侍従長は驚いたようだ。
クロヴィスはコンラートの学友として、ナターリアはその付き添いとして、ケイトリンが乳母役から離れた後もたびたび二人は王宮を訪れてはいる。
しかし、侍従長がよく知っているクロヴィスは、おっとりとして、姉のナターリアについて回っていた姿だから。
この歳にして、むさぼるように知識を欲する姿は、ゴールディアの屋敷にいる者達だけが知っている。
「承知いたしました。ご一緒できるか、私が聞いて参ります」
侍従長はまるで孫を見るような目で、(まだ、そのような歳ではないのだけれど)クロヴィスを見ると、踵を返してコンラートの書斎に向かった。
ナターリアの意向は一顧だにせず。
「王宮付きの教師に教わるなど滅多に経験できないことです。ゲオルク殿下達の許可が下りると良いですわね」
付き添いのマデリンが喜ばしげに呟いた。
「はい、ミス・マデリン」
元気な声でクロヴィスは答え、ナターリアは「そうですわね」とやや力なく返事をした。
「お二方とも快くお二人の参加をお許しくださいましたぞ」
侍従長はどうだと言わんばかりな顔をしてナターリア達に告げた。
クロヴィスは足取り軽く、ナターリアはしずしずと書斎に向かった。
「ゲオルク殿下、コンラート殿下、ゴールディア伯爵家のお二人を案内して参りました」
侍従長が扉の外から声をかけると「よろしい」と答えるゲオルクの声がした。
侍従長が恭しく扉を開けてくれる。
ナターリア達が入ると、二人に視線が集中した。
「本日はお二人と共に学ぶことをお許しくださり、ありがとうございます」
ナターリアが口上を述べ、姉弟揃って礼を取る。
「いや、二人とコンラートとの時間に割って入ったのは私だ。許しを乞うのは私の方だ」
「恐縮に存じます」
「あいにく、教本は二冊しかない。レディ・ナターリアは私の隣に座りなさい」
ゲオルクにそう言われ、ナターリアは二、三度瞬きを繰り返した。
少し、親密すぎるのではないかしら。
『Votre Altesse(殿下)』
パリシア語の教師が柔らかにゲオルクに話しかけた。
『Pouvez-vous me présenter?(ご紹介いただけますか?)』
『失礼。ムッシュー・ユベール。こちらはゴールディア伯爵家のマドモアゼル・ナターリアとムッシュー・クロヴィス』
滑らかなパリシア語でゲオルクは二人をユベールと呼んだ教師に紹介した。
『初めまして。私はユベール・ラ・ミゼリコルドと申します』
カールした金髪はパリシアで流行の鬘だ。
茶色の瞳は落ち着いていて、その知性を伺わせた。
名前に'ラ'が付いているので、彼はパリシアの貴族の血をひいていると言うこと。
『お会いできてうれしいです。ムッシュー・ユベール。今日はよろしくお願いします』
ナターリアより先にクロヴィスが挨拶をした。
『初めまして。ムッシュー』
控えめにナターリアは笑みを浮かべた。
『ゲオルク殿下、私は年上の方が下の方と組む方が良いと考えます。ですので、レディはコンラート殿下のお隣にお座りください』
ゲオルクはわずかに目を細めたが『よかろう』と言ってクロヴィスを自分の隣に座らせた。
『ありがとうございます。殿下』
クロヴィスが軽くお辞儀をしてゲオルクの横に腰を下ろした。まるで物怖じしない。
『ナターリアと一緒に勉強が出来てうれしい』
コンラートの弾むような口調のパリシア語は、発音が完璧だった。
『わたくしもコンラートとご一緒できてうれしいです』
少し物怖じしていたナターリアもコンラートの隣だと落ち着いてパリシア語が学べそうだ。
『では、皆さん、パリシア語を学びつつ、パリシアの歴史にも親しんでください』
歴史と聞いてクロヴィスの背筋がさらに伸びた。
『エルトニア半島の都市国家ラムラスがヤウロピアのほぼ全部と西アシアンの一部を統治したラーム帝国を作り上げ、その後、四世紀の初めに東西に分裂したのは御存知ですね』
会話よりゆっくりとしたテンポでユベールは講義を始めた。
まだ小さいコンラートとクロヴィスのため。
しかし、複雑な会話になると、聞き取りに今一つ自信のないナターリアにとっても大変ありがたい。
『ディオクレス帝が皇帝権をマクシアム帝に分与したのですよね』
クロヴィスが答えるとユベールはその通りと頷いた。
『西はラムラス帝国、東はピザンチームと通常呼ばれている』
ゲオルクは東西ラームの呼称を口にした。
『でも、ピザンチームの半分は、今は異教の王が支配しているのだよね』
コンラートが14世紀に陥落したピザンチームの今を口にした。
『そのお話はこの先で。四世紀の終わりに北方民族の流入を受けて、ラムラス帝国の皇帝は廃位させられて、更に分裂、力ある者達が覇権を争う時代になりました。さまざまな戦いがあり、ラ・セーヌ地方を根拠地とするクロビィス一世が、上パリシー、下パリシーを統一して、メルビンク朝を立てたことから、パリシア王国が始まります』
『クロヴィスの名前はそこから来ているのよ』
ナターリアが言うとコンラートはクロヴィスに顔向けた。
『パリシアとアンゲリアの歴史は複雑に絡まっておりますから』
ユベールは少し目を伏せた。
狭い海峡を隔てて隣り合う二つの国は交流も盛んだ。
民族的にも兄弟と言っても良い。
しかし、近いと言うのは争いも起きる原因にもなる。
ナターリアとクロヴィスが稀に他愛ないことで姉弟で喧嘩をするように、アンゲリアとパリシアは争っては和解を繰り返してきた。
ユベールはメルビンク朝の歴史の大まかな流れを解りやすく説明する。
四人に教本を音読させ、お互いに意見を交わさせた。
『では、本日はこれでお仕舞いにしましょう』
ユベールがそう言ったのはナターリア達が参加してから二時間近くも経った後だった。
『皆さん、とても素敵なパリシア語でした』
優雅な一礼をしてユベールが退室していく。
コンラートとクロヴィスは疲れたのではないかとナターリアは二人に視線を戻したが、二人は習ったばかりの新しい単語を使って話をしている。
元気ですわ。
ナターリアの方が男性名詞と女性名詞があるパリシア語を使い続けて、少し頭が重い気がするのに。
『ナターリア嬢はまだ時間がおありかな?お茶を用意させているが、一緒に楽しんでいくといい』
ゲオルク殿下までパリシア語の会話を続ける。
『ありがとうございます。一時間ほどでしたらご同席させていただきます』
ゲオルクに返事をしてからナターリアはクロヴィスに声をかけた。
「クロヴィス、ゲオルク殿下がお茶に誘って下さったわ。貴方からもお礼を言いなさい」
もちろん、母国語で。




