伯爵令嬢の人格形成はロマンス小説と共に (3)
中庭の隠れ家からナターリアとアーサーは、そっと抜け出した。
アーサーが差し出す手に導かれて、ナターリアはコンラート達の声を頼りに、彼らを探して中庭を歩く。
「これではどちらがおにか分かりませんわ」
大人を真似てナターリアはやれやれと首を振った。
「ナターリア、どこにいるの」
二人の耳に聞こえてくるコンラートの声がいよいよ切羽詰まってきた。
「ここよ、ここにいるわ」
ナターリアは、淑女にしては大分大きな声をあげた。
「ナターリア」
「おねえしゃま」
二つの足音がして、刈り込まれた生け垣の向こうから、ナターリアの大事な二人の弟が現れた。
ナターリアに飛びつこうとする二人の足が止まる。
コンラートとクローヴィスがナターリアと手を繋ぐアーサーを認めたのだ。
「アーサー」
「アーサーしゃま」
二人の目が揃って真ん丸に開かれた。
表情がそっくりで、そうしていると本当に血の繋がった兄弟のようだった。
「ごきげんうるわしゅう。コンラート殿下」
アーサーに挨拶をされて、固まっていたコンラートが、ぴっと背を伸ばした。
「ごきげんよう。バイアール公爵。今日はなにようでこちらへ?」
コンラートが精一杯に、正しい挨拶をしようとする。
ちょっと視線が斜め上になって、挨拶を思い出そうとしているのが、かわいらしいとナターリアは思った。
「ゴールディア伯爵夫人とご令嬢、そして、ご令息がコンラート殿下と面会されていると聞き及びまして、伯爵夫人にご挨拶をと思い、こちらへご訪問させていただきました」
「マアムに会いにきたの?」
クローヴィスがアーサーの空いている片方の手に触って言った。
ナターリアは、コンラートがちゃんと正しい挨拶をしたというのに、クローヴィスときたら。
二ヶ月もお兄さまなのにと、クローヴィスを心で叱る。
けれど、アーサーは気にしている様子はなく、クローヴィスに笑いかける。
クローヴィスのナターリアとお揃いの、ふわふわの亜麻色の髪をアーサーが撫でる。
クローヴィスの空色の瞳が嬉しそうにはにかんだ。
一人取り残されたようになったコンラート。
琥珀色の瞳が揺れる。
王子としての立ち居振舞いと、久しぶりに会った又従兄弟に甘えたい心。
それを汲んだのか、アーサーが「失礼」とナターリアとクローヴィスの手を離した。
彼は、おいでと誘うように腕を開く。
コンラートはまばたきをしてから、その腕に飛び込んだ。
アーサーはコンラートを高く抱えあげた。
きゃあ、とコンラートの口から子供らしい喜びの声が漏れる。
「しばらく来ないうちに重くなったね」
「背も大きくなったの」
誇らしげにコンラートが言った。
「そうか。では、そのうち私を追い越してしまうかもしれないね」
ナターリアとクローヴィスは、どちらともなく手を出して、二人で手を繋いだ。
この離宮では、コンラートが何より優先される。
ナターリア達の母の手も、アーサーの手も。あらゆる人の手がコンラートに差し伸べられる。
それに、ナターリアとクローヴィス自身もコンラートを大事にする。
コンラートは第二王子であり、何より二人の大切な乳兄弟であり、大きな子が小さな子を大切にするのは当たり前だから。
けれど、コンラートが何より望んでいるもの。
父である王と母である王妃、兄である王太子はこの離宮を訪れない。
会うのは、王宮の謁見室。あるいは王太子の住む東翼の一室。
ご挨拶をしておしまいだとコンラートが淋しげにナターリアに話したことがある。
その後、一度だけ、コンラートが王達ともっと一緒にいたいと言った時に、「第二王子は我慢する事を覚えてほしい」と王宮を取り仕切る宮宰にやんわりと言われた。
以来、賢いコンラートは王宮では自分の希望を話さなくなったと言う。
それをナターリアは自分達が昼寝をしている時に、話していた大人達の声を聞いて知った。
子供は案外、いろんな事を知っていたりする。
コンラートのはしゃぐ声に、遠巻きで見守っていた女官や近衛が近づいてきた。
アーサーはコンラートを下ろしてケイトリン、ゴールディア伯爵夫人に挨拶した。
「お久しぶりですわ」
「すっかりこちらにも御無沙汰しておりました。ゴールディア伯とは、議会でお会いしているのですが」
「爵位継承したばかりですもの。今もお忙しいのでしょう?」
「まあ、いろいろと」
アーサーの父、ウォレス前公爵は先頃、急な病を得て療養することを選択した。
病のため、体が震え、視力もかなり衰えた。
王は長年の王室への貢献の褒美として、南にあるカルプ島を一代限りの大公領とし、ウォレスに下賜した。
大公となったウォレスは、夫婦でカルプ島に移り住み、それまでの公爵位と領地を一人息子のアーサーに譲り渡した。
新たに公爵となったアーサーは、貴族院に議席を連ね、領地を回る。
さらに二十歳そこそこの若き美貌の公爵の誕生に、社交界は色めきたった。
もともと人気があった彼だが、以前にも増して社交のお誘いが絶えない。
今も女官達がアーサーに熱い視線を送っていた。
アーサーが下ろしたコンラートはナターリアの脇に立ち、空いている手を握る。
それを認めたアーサーの目が微笑んだ。
ケイトリンもだ。
「相変わらず、三人が仲良しで安心しました」
アーサーがケイトリンや女官達に言った。
その仲良しの三人は、もっと遊びたくて、少しそわそわしている。
「お母様、ブランコをしてもいい?」
ナターリアはケイトリンに尋ねた。
庭にしつらえられた四阿の横にブランコはある。
そこなら、母もアーサーも座って話せるし、自分達も楽しく遊べる。
ナターリアはそう考えた。
「それは良いですわ」
ケイトリンの傍らに控えていた女官長も賛成した。
「コンラート様は、いかがですか?」
ケイトリンがコンラートの意向をきいた。
「ブランコ、大好き」
はずむ言葉にみなは一斉に移動を開始した。
「アーサー、見ててね」
枝振りの良い木に吊るされたブランコに座って、コンラートはアーサーに言った。
足を振り出し、コンラートは懸命に漕ぐ。
しかし、五歳児の力ではブランコは大きく揺れない。
「お手伝いしますわ」
ナターリアは、コンラートの後ろに回って、コンラートの背中を押す。
コンラートが一人で漕ぐよりは少しましな程度、非力な幼い令嬢の力では仕方なかった。
それでも、コンラートは嬉しげな笑い声をあげた。
「代わらせていただけますか?レディ?」
アーサーが四阿から出てきてナターリアに申し出た。
「ええ、お願いいたしますわ」
ナターリアは脇に引き下がって、順番待ちをしているクローヴィスの隣に行った。
退屈なのか、クローヴィスは少し眠そうだ。
もう少し、待ってあげてね。
ナターリアは心の中でクローヴィスに声をかけた。
ブランコに乗ったコンラートの背中をアーサーが軽く押す。
高すぎず低すぎず、絶妙な力加減。
アーサーは子供を喜ばすことも上手かった。
コンラートが声を立てて笑う。
ひとしきり漕いだ後、コンラートは自ら降りると言って、クローヴィスにブランコを譲る。
むろん、アーサーはクローヴィスの背中も押す。
クローヴィスの控え目な笑い声を隣に来たコンラートと再び手を繋いでナターリアは眺めていた。
コンラートの手が熱いのは運動したせいかしら、それともおねむかしらと考える。
「ナターリアは乗らないの?」
コンラートが問いかけた。
「わたくしはお姉さまですから」
本当はとても乗りたい。けれど、ドレスが捲れたら?
アーサーが淑女らしくないと呆れたら?
ナターリアは心配でブランコに乗るとは言えなかった。
ブランコが止まる。
「ありがとう、アーサーしゃま」
クローヴィスがアーサーにお礼を言ってブランコから降りた。
「どういたしまして。では次はナターリアの番だね」
「わたくしは乗らなくても……」
「そうなの?じゃあ、私が乗るかな」
アーサーはいたずらっぽく瞳をきらめかせた。
「アーサーさまは大人なのに」
ナターリアがびっくりして言った。
「大人だってブランコに乗りたい時もあるよ」
アーサーはブランコに乗って勢いよく漕ぎだした。
ブランコが大きく揺れる。
前へ後ろへ。
何回かブランコを揺らして、アーサーはブランコから飛び降りた。
鮮やかに着地を決める。
振り返り、揺り戻ってくるブランコを片手で止めた。
「やはり、ブランコは楽しいね。ナターリアは本当に乗らなくてもよいの?」
ブランコを掴んだまま、アーサーがナターリアに笑いかけた。
「コンラート殿下は?もっと乗りたいのではなくて?」
ナターリアはコンラートに問いかけた。
「ナターリアが先に乗って?」
コンラートの琥珀色の目がナターリアを上目遣いで見上げてきた。
そう言われれば、断れない。
「どうぞ。マイレディ」
アーサーが綱を持ってくれているブランコにナターリアは出来るだけ優雅に見えるように腰を下ろした。
「押すよ」
背後からアーサーが声をかけた。
ふわりとブランコが揺れる。
風を切る感触が心地よい。
ナターリアは楽しくて声をあげる。
「楽しい?」
ナターリアの背中を押すと同時に、アーサーが問いかけた。
「ええ」
「乗って良かった?」
「ええ」
「では、私と婚約してくれる?」
「ええ、ええ?!」
ナターリアは驚いてブランコから落ちそうになる。
アーサーがそれを抱き止め、地面に下ろした。
「承諾してくれて嬉しいよ」
アーサーが並びの揃った歯をみせて笑った。
ナターリアはうっかり見とれて、次の言葉が遅くなる。
「でも、駄目、わたくし」
「ええと言ったね?ナターリアは約束を守る子だよね?」
「そうですけど」
女官達がざわついていた。
母は笑ったまま、ナターリアを助けてはくれない。
「アーサー、駄目。だってナターリアは婚約破棄をしたいんだから」
助けてくれたのは、コンラートだった。
小さな手がナターリアの手をぎゅっと握る。
クローヴィスも寄ってきてナターリアのドレスを掴んだ。
「ナターリアが婚約破棄をしたいと言うことは知っておりますよ。殿下。だから、結婚ではなく、婚約を申込みました」
確かに、普通ならば、「結婚」を申し込んで、婚約となる。けれど、アーサーは「婚約」と言っていた。
「婚約だけをするのですわね?でも、なぜ?」
ナターリアは疑問を口にした。
「ナターリアがとてもしたがっているから。それと私は、当分は結婚をする気がないから」
「アーサー様は、結婚をしたくない?」
「今のところ、ね。……そう、結婚したいと思う相手も現れていない。残念ながら」
ナターリアは相手がいない、と悲しげに言うアーサーがかわいそうになる。
「わかりましたわ。わたくしと破棄を前提にした婚約をいたしましょう。そうすれば、アーサー様にも真実の愛が見つかるはずですわ」
「ナターリア」
心配そうに、コンラートがナターリアの名前を読んだ。
しかし、アーサーはナターリア、コンラート、クローヴィスを三人ごと抱き締めて言う。
「ありがとう。ナターリア。お互いに真実の愛を見つけようね」
かくして、ナターリア・ゴールディア伯爵令嬢の婚約は成った。
アーサーに相手がいないどころか、いすぎて困っていることなど、純真な子供であるナターリア達が知るよしもなかった。