伯爵令嬢の人格形成はロマンス小説と共に(30)
庭に面した東のシッティングルームにはケイトリン一人がテーブルについていた。
「マデリンは?」
「本日は休日でございます」
次席バトラーのロバートがナターリアの質問に答えた。
マデリンは日曜日の他に月に二日、自由に休日を取ってよいことになっていた。
それでも休日でも午後のお茶には同席するのが慣例だったのに。
今日は来客もなく母と二人きりで向かいあう。
茶器は東洋の風景を描いたシノワズリだ。
薄い白磁の茶器には東洋の子供が遊んでいる。
供される紅茶も趣向にそってラスサンプーチョンだった。
「クロヴィスは?」
「ラテン語に、自ら取り組んでいるわ」
「何てこと!」
ナターリアはかろうじて覚えているラテン語の感嘆符を発した。
実際、ラテン語は良くわからない。旧教では聖なる本をラテン語で読むそうだけれど。
「クロヴィスの頭の中はどうなっているのかしら」
「詰め込んだ知識で頭が割れないと良いのだけれど」
母は困ったように笑う。
クロヴィスが知識を探求するのは喜ばしいが、子供らしく遊びにも時間を割いてもらいたいと考えているからだ。
ナターリアがお茶を一口飲んだ。独特の風味が口に広がる。
そんな娘を観察するようにケイトリンが情愛深い顔で眺めていた。
「やっぱり貴女はわたくしの娘ね」
しみじみとした声でケイトリンが呟いた。
「どういう意味ですの?」
いきなりの言葉。ナターリアはティーカップをおいてケイトリンに尋ねた。
「コルセットを必要としない子供用のドレスのことよ。わたくしもデュタントの直前にはそればかり着ていたわ」
懐かしそうな母の声にナターリアは胸を突かれた。
デュタントが終われば、ナターリアは社交界を渡っていかなくてはならない。
午後のお茶会、夜に舞踏会。パークで無蓋馬車に乗ってピクニック。
競馬にも行かなくてはならない。慈善事業も今までよりも参加するようになる。
大人への階を登るのだ。母に手を引かれることなく。
ナターリアは自分がこのドレスを選んだのは、まだ母に甘えていたいという密かな願望があったからだと気づく。
「お母様」
自分でも驚くほど頼りなげで甘えた声が出た。
母が手を伸ばしてナターリアの手を包み込む。
「大丈夫よ。貴女はきっと上手く出来るわ。デュタントでも、その後でも。わたくしとエドモント、お父様の最愛の娘ですもの」
そばに、たとえ王宮でも常に近くに母はいた。
貴族やある程度の資産のある裕福な家では、親は子供の養育を自らしないのが常識なのに。
有産階級の母親は家事や育児をしない。
家事は当然、使用人が行ってくれるし、子供は赤ちゃんの頃は乳母が、長じてからは家庭教師が取り仕切る。
屋敷の家事を取り仕切るのはハウスキーパーである。
女主人が指示を出すこともあるが、優秀なハウスキーパーは主の意向を察知して動くのでそれすら必要ないこともある。
財産の管理は男の仕事であり、帳簿・請求書はおろか現金を手にしたこともない貴婦人も数多いる。
ケイトリンは高位貴族にしては(ドレスの趣味はともかく)先進的だけれど、乳母として王室から俸給をもらうまでお金と云うものを見たことがなかったらしい。
ナターリア自身は、母が初めての俸給を興奮気味に見せてくれたのと、マデリンの教育方針で何度か街の本屋で買い物をしたことがあるので多少の免疫はあるけれど。
いくつもの得難い初めてを共有した母と、今日は二人で差し向かい。
えもいわれぬ幸福感と安心感がナターリアの未来への不安を幾分か落ち着かせる。
マデリン。
彼女はナターリアが母と二人きりの時間を過ごせるようにと同席しなかったのでは?
厳しくも優しい彼女の思い遣り。
きっと、そう。
ナターリアが落ち着いたのを感じたのか、あたたかな声で母が語りかけてくる。
「貴女の大好きなロマンス小説のヒロインの勇気を持って進みなさい。自らが主人公だと任ずれば、大抵のことは楽しんで事に当たれるはずよ」
貴女の物語を綴るのは貴女自身なのだから。
ケイトリンは娘に愛と共にその言葉を贈る。
ナターリアは母の心を感じて瞳を潤ませた。