伯爵令嬢の人格形成はロマンス小説と共に (2)
獲物を狙う隼のごとく、彼は離宮の平和な中庭に舞い降りた。
「ごきげんよう。小さな妖精さん」
「アーサー様」
離宮の中庭で、弟達二人と楽しくかくれんぼをしていたナターリアは、いきなり現れたアーサーに驚く。
生け垣の陰に隠れていたのに、なんで分かったのだろう?
不思議に思いながらも、ナターリアはアーサーを見上げる。
黒い髪が陽にあたって金茶色に透けて見えた。
「ごきげんよう。でも、困りますわ。のっぽのアーサー様がいたら、すぐに見つかってしまいますわ」
「これは失礼。でも、コンラートはまだ数を数えているよ」
おには百を数えてから、隠れ場所を探すことになっている。
「コンラートは、すぐにわたくしを見つけてしまいますの。今日こそは、クロヴィスに勝ちたいのですわ」
コンラートが数え終わってしまうと、ナターリアは早口で言った。
「なら、ここより良いところがある。おいで、ナターリア」
アーサーがナターリアに手を差しのべた。
ナターリアは少しためらう。久しぶりに会ったアーサーに気後れして。
「勝ちたいのだろう?」
アーサーが少し屈んで、ナターリアの顔を覗きこんだ。
木の葉色の瞳がナターリアの紫紺の瞳を見つめた。
ナターリアはコクリと頷く。
アーサーが少し笑い、ナターリアを軽々と抱き上げた。
「どこに行きますの」
「しっ、声を出すと見つかってしまうよ」
アーサーはナターリアを抱えたまま、生け垣にそって歩く。
足取りは密やかで、二人に気がつく人はいないようだった。
春の終わりの中庭は花と緑に溢れている。
どこからか鳥の声も聞こえてきた。
アーサーは木立と茂みが重なりあう一角にナターリアを連れてきた。
そこは木立のために死角になっており、子供達を見守っている大人達の視線を遮っていた。
抱き上げたナターリアをそっとおろして、
「ついておいで」
と耳元で囁いた。
アーサーは、先にたって茂みをかき分ける。
すると茂みの向こうに、隙間のような空間があらわれた。
小さな二人がけの石のベンチまである。
アーサーがナターリアの腕を取り、中へと導いた。
彼は外から見えないように茂みで空間を隠す。
「こんなところがあるなんて知りませんでしたわ」
初めて知る中庭の秘密にナターリアは興奮を隠せない。
「気に入った?」
「ええ、とっても」
ナターリアは紫紺の瞳を輝かせた。
虹彩の中に金色が散り、表情に彩りを添える。
アーサーが一瞬、目をみはり、それからベンチに座った。
ナターリアもその隣に、しとやかに腰をかける。
「膝の上でなくていいの?」
そこは、本を読んでもらう時の特等席だった。
幼い二人の弟と争った場所。
「もう、子供ではありませんもの」
ナターリアはつんとして答えた。
アーサーが喉の奥で笑う。
「そうだね。コンラート殿下に婚約を申し込むくらい、大人だ」
ナターリアの顔が朱に染まる。
アーサーはどこからそれを知ったのかしらと。
「破棄を前提にした婚約ですわ。それに結局は叶いませんでしたわ」
「そう、コンラートが断ったのだよね」
「ええ、破棄しない婚約なら良いとおっしゃって」
「コンラートは君が大好きだものね」
「私もコンラートが大好きですわ」
「でも、君は破棄しない婚約は嫌だと言ったようだね」
「コンラートは乳兄弟だから、結婚は出来ないとモントレー侍従長がおっしゃいましたわ」
「モントレー伯爵が」
アーサーは茂みの向こう側を透かすように眺める。
コンラートが来たのかしら。
ナターリアは少し緊張する。
アーサーはナターリアの方を向き、覗きこむように体を傾げた。
「ナターリアはなんで婚約破棄をしたいのかな?」
どうやら、コンラートが来た訳ではないらしい。
「幸せになるためですわ」
ナターリアはアーサーに胸を張って告げる。
それから、婚約破棄をすると、その後に幸せが訪れるとロマンス小説にあったと力説する。
「お父様にお頼みしても、婚約破棄をする予定の婚約は駄目だとおっしゃって」
「だから、言うこと聞いてくれそうなコンラートに申込んだわけだ。王子様に破棄されるというのが、定番らしいしね」
アーサーは、ロマンス小説の内容を把握しているようだ。
お父様ほど詳しくは無さそうですけれど。とナターリアは感じた。
「ゴールディア伯爵は驚いたろうね」
「お父様には、叱られてしまいましたわ。わたくし、真実の愛をコンラートにプレゼントしようとしましたのに」
ナターリアはため息をついた。
くすくすとアーサーが笑う。そんなにおかしなことかしら。
ナターリアは少しふんがいする。
察しの良いアーサーは、すぐにナターリアの気持ちに気がついたらしく、笑いを引っ込めた。
ふんがいしていたナターリアだったが、アーサーの顔から笑顔が無くなったのを寂しく感じた。
「で、今は婚約破棄をしない婚約を申し込まれているのを、片端から断っているわけだ」
「どういうことですの?」
ナターリアは婚約を申し込まれた覚えはない。
婚約をするなら、相手はナターリアに膝まずき、愛を告げるのではないのかしら。
ナターリアがそう言うと、アーサーは「ああ」と納得したように言った。
「ゴールディア伯爵が、君が将来、婚約破棄をしたいと言っているからと、申し込みを断っているわけか」
「お父様が」
実はお父様は、わたくしの事を応援して下さっている?
アーサーの手が髪に伸びてくる。
「葉がついてる」
アーサーはナターリアの髪から、葉を払いのけて、ついでのように頭を撫でた。
アーサーの目が細められて、優しい眼差しがナターリアに注がれた。
「ナターリア、ナターリア、どこなの」
彼女を探すコンラートの声が遠くから聞こえてくる。
「おねえしゃまあ、どこー」
クロヴィスの少し舌ったらずの呼び声も。
アーサーが少し顔を緩める。
「そろそろここから出よう」
「コンラートに見つかってしまいますわ」
「あまり君が見つからないと、コンラートは泣いてしまいかもしれないからね。それに」
アーサーは秘密めかして言う。
「ここは、私のとっときの秘密の場所だから。ナターリアには特別に教えたけれど。おにには見つけられたくないな」
「コンラートには秘密なのですわね」
「クロヴィスにもね。できる?」
「もちろんですわ」
ナターリアは約束は必ず守るのだ。
アーサーは、「いい子だ」とナターリアの髪をもう一度、撫でた。