伯爵令嬢の人格形成はロマンス小説と共に(23)
「これはビヨンヌ伯」
アーサーが他の三人を庇うように立ち上がった。
ダレルが伴って来たのは宮宰、レイモン・ビヨンヌ伯爵だった。
風采のよいビヨンヌ伯爵は笑顔を浮かべていた。
その笑顔が胡散臭く感じるのはナターリアの偏見だろうか。
「ご機嫌麗しゅう、コンラート殿下」
ビヨンヌ伯爵はコンラートに挨拶を述べた。
コンラートは座ったまま、それを受ける。
「ご機嫌よう、ビヨンヌ伯爵」
ナターリアとクロヴィスはそのやり取りの間に立ち上がった。
「バイアール公爵、並びにゴールディア伯爵家のお二方もご機嫌麗しゅう」
次いで、アーサーとナターリア、クロヴィスにも挨拶をするビヨンヌ伯。
ナターリアは淑女の挨拶を、クロヴィスも足を引いて紳士の礼を取った。
「宮宰殿も、お健やかに」
アーサーが型通りの挨拶を返した。
「ビヨンヌ伯爵、何事ですか?」
コンラートが相手の用向きを尋ねる。やや声が固いのは滅多にないビヨンヌ伯爵の訪問に戸惑っているから。
「おお、殿下。実はデビュタントのために宮廷楽長と話し合いをしていたところ、そこの従者に会いまして。聞けば、こちらに居られるバイアール公爵がリュートを披露するために楽器を借り受けにきたとのこと」
「私がアーサー……バイアール公爵に頼んだんだ」
「はい、聞いております。かねてからバイアール公爵のリュートの腕前は余人の知るところでございます」
そこででございます、とビヨンヌ伯爵は慇懃に言った。
「滅多に腕前を披露なさらないバイアール公爵のリュートの演奏をコンラート殿下だけでなく、陛下と王妃殿下、そしてゲオルク殿下にお聞かせしてはと存じまして」
いきなりな話だった。
ナターリアはアーサーの様子を伺った。案の定、柔和な表情をしているが、その目には微かな不快が浮かんでいた。
「ビヨンヌ伯爵、私の演奏は素人の見よう見まね程度のもの。内輪の席で手慰みにお聞かせするならともかく、陛下や王妃殿下、ゲオルク殿下の御前で披露するなど」
アーサーは頭を振って宮宰の思いつきを退けようとした。
「ご謙遜を」
ビヨンヌ伯爵がアーサーに顔を向けた。
「宮廷楽長が申しておりました。宮廷に仕える楽士の中にもあれほどリュートを見事に弾く方はおられないとね」
「それは、フォーレ殿のお世辞ですよ」
アーサーの謙遜に言葉を返すことなく、ビヨンヌ伯爵がコンラートに向き直る。
「コンラート殿下はどうお考えですか?両陛下やゲオルク殿下と一緒にバイアール公爵の演奏を聞きたくはございませんか?」
家族との交流を常に欲しているコンラートが、ビヨンヌ伯爵の言葉に目を見張る。
それから、アーサーに視線を移す。アーサーが嫌がっているのを解っているから、自分からは言い出せないのだ。
アーサーの目に迷いが生じるのをナターリアは見て取った。
「コンラート殿下、もし、アーサー義兄上が伺った陛下の御前で演奏するなら僕たちも一緒に聞けるのかしら」
クロヴィスが無邪気な声を出した。
クロヴィスはまだ12歳になってもいない。コンラートの乳兄弟のためたびたび宮廷を訪れてはいるが、王家の方々と同席するのは、問題があるだろう。
ナターリアはゲオルク殿下のデビュタントのファーストダンス相手を務めることが決定しているが、それもまだ内々のことだった。
彼女の同席も許されることはないだろう。
王家の方々と一緒にアーサーの演奏を聞きたいわけではないが、コンラートのことが気にかかる。
「ビヨンヌ伯爵、お話しを聞いていただきたいのですが」
ナターリアは意を決して宮宰に話しかけた。
ナターリアとクロヴィスの存在などまるで気にかける様子のなかったビヨンヌ伯だったが、やっと視界に入ったという顔をした。
「何でしょうか、レディ・ナターリア」
落ち着いた低い声は柔らかい。
艶聞家で名高い宮宰だ。女には甘くなるのかもしれないとナターリアは思った。
「アーサー様は婚約者である私にもなかなか演奏を聞かせてくださいません」
子供の頃には、しょっちゅう聞かせてもらったし、ナターリアにリュートの手解きをしたのはアーサーだった。
ただ、ナターリアはあまり音楽的才能には恵まれず、(手が小さいから弦を上手く押さえられないし)かつ、なかなか厳しい教師だったアーサーの指導から逃げていた。(普段はあり得ない)
お互いにいつの間にか、リュートに関しては触れなくなったことは割愛しておく。
このことはまだ赤ちゃんだったコンラートもクロヴィスも知らない。
「そうなのですか。バイアール公爵は思ったより内気な性格でいらっしゃるのですかな」
「そうなのかもしれません」
ナターリアはちらりとアーサーを伺ったが、彼は彼女が何を言うのか静観するつもりらしい。
唇の端がわずかに上がり、先ほどの不機嫌な表情は無くなっていた。
「ですので、この機会を逃しますと次にいつ聞けるかわかりませんの」
「どういうことですかな、レディ」
甘ったるかったビヨンヌ伯爵の声が固くなった。
「これからわたくしはアーサー様にリュートを東の庭の四阿で弾いて頂きたいとお願いしようと思っておりましたの」
ビヨンヌ伯爵は不可解だとあからさまに表情を作る。
「東の四阿は今が盛りの花園の通り道でございますわね?」
「そうですが、それが」
何か?と続けようとした相手の言葉が止まる。
ナターリアの意図を汲み取ったらしい。
あと一刻もすれば、陛下達の散策の時間である。
王家のお三方はこの散策の時間を一緒に過ごすことが多い。
そして、どこを散策するのかは、目の前にいる宮宰の薦めの言を入れることがほとんどだと聞いていた。
ナターリアもただ、コンラートと遊んでいるだけではない。
王宮の情報はそれとなく仕入れている。
また、御者だまりや控えの間で供回りがいろいろな噂話を聞いてくることもままある。
ビヨンヌ伯爵は、改めてナターリアの全身を眺め回した。
「まだ、デビュタント前でも女性は女性ですな。指先ひとつで我々男を操る術を心得ておられる」
ビヨンヌ伯爵の言葉には取り合わず、ナターリアは微笑みを浮かべて嘆願する。
「お優しい宮宰様。婚約者の演奏を聞きたいという、わたくしの願いを叶えてくださいませ」
「こんなに思われて、公爵は果報者ですな」
ビヨンヌ伯爵がアーサーをちらりと見た。
「ええ。私もそう思います」
アーサーが悪びれる様子もなく答えた。
「レディ、貴女のお願いに心を動かされましたぞ。コンラート殿下はどうお考えですか?」
レイモン・ビヨンヌ伯爵は大楊にコンラートに問いかける。
「私も少し外に出たいと思っていた」
コンラートがナターリアを見上げて笑う。
アーサーのリュートと家族。二つの願いが同時に叶うことがうれしそうだ。
ナターリアはコンラートに淑女の礼を取った。