伯爵令嬢の婚約破棄は教会の鐘と共に(16)
密やかな願いを言い当てられて、レイチェルはますます苛立つ。
「どうして」
咎めるように彼女は問いかけた。ウィリアムは軽く肩をすくめた。
「君は、毎日、ピアノフォルテに向かっていたからね。たしなみ以上の真剣さで。君が演奏家になれば、俺が死んでも、収入は得られる」
「あまりに先走り過ぎていらっしゃいます。それに、わたくしの生活は、夫が亡くなっても父や兄が面倒をみてくれます。ご心配なさらないで」
カーランド家の財産はかなり羽振りの良い貴族の収入に匹敵する。
財産を相続するのは、一番上の兄だが、一つ下の弟も何らかの財産を引き継ぐ。
領地からのあがりで生活する貴族とは違い、商売を広げることができるから。
レイチェル自身も結婚をすれば、かなりな持参金を持たされるはずだ。
「君の父上の財産を全面的に当てにするつもりはない。もちろん、金は無いよりあったほうがいい。しかし、カーランド家が今後も安心とは限らない。誰が新大陸の海外領土が独立すると誰が考えたろう。アンゲリアの海外領土はまだまだ多いが、それも、どうなるか。サウスシーバブル事件のようなこともある」
ウエストシーカンパニーは十年前、アンゲリアに深刻な影響を起こし、倒産した会社だ。
南新大陸のコロンブス地方との貿易を担う南海会社は、その貿易利潤によって国債を引き受けさせるために、設立された。
初めは順調だった貿易だが、戦争や国際情勢の変化でじり貧になり、ウエストシーカンパニーは富くじを発行することで利益を上げ、膨大な国債を引き受けることになる。
しかし、本業は不振。
そこでウエストシーは、株式と国債の交換をすることで、株価を上げ、それによって利益を上げる手法を取った。
投機熱がアンゲリアを覆い、ウエストシーの株価は五倍、十倍と羽上がる。これに便乗するようぬ有象無象の会社が乱立。政府の許可を得ない怪しい会社も数知れず。
ために、政府が規制に乗りだし、市場の沈静化を図ったが、政府の思惑を越えて、株価は大暴落した。
破産やその寸前に陥った人々は、かなりの数に上がった。
その時、カーランド家も多少の痛手を被った。
商売、それも貿易には、危険がつきものだ。
その危険を一種の商品のように扱う保険で財を築いたカーランド家だが、
「それこそ、定期的な収入が得られる演奏家など稀です」
芸術家はいかにしてパトロンを掴むことができるかが、重要だった。
「だからこその、女性の官吏登用ための基金だ。君が官吏から退いても、演奏会の傍ら、基金を管理する組織で講師をして収入の足しにすればよい」
「講師は無報酬ではありませんの」
いいやとウィリアムは否定した。
「ここで君たちを教えてくれている講師には報酬が支払われている。レディ・ナターリアが基金の管理をしているから、尋ねてみるといい」
レイチェルは、その事を初めて聞いた。同時に伯爵令嬢が基金の管理をしている事に驚きを感じる
「そういたしますわ」
「では、さっそく、行こう。レディ・ナターリアは妹達とお茶を取っているのだろう。そこで訊いてみればいい」
ウィリアムが差し出す腕にレイチェルは不承不承、手を添えた。
◇◇◇◇
レイチェルをエスコートしてきたウィリアムを見て、ユージェニーは驚いた。
兄がレイチェルを気に入って、彼女がピアノフォルテを弾きに音楽室へ行くと、たびたび練習を聴いていたのは知っていた。
けれど、レイチェルは練習を終えると大抵はそのまますぐに自室に下がり、ウィリアムは一人で馬に乗りにいくか、バイアール城に滞在している紳士たちと過ごしていた。
レイチェルはユージェニー達が講義を終えて、遅い午後にお茶を取る時間にだいたい練習をしており、まだ、三回ほどしか一緒にお茶をしたことがない。
その時も儀礼的な会話が続いて、親しくなったとは言い難い。
ユージェニーは後から来たレイチェルとそつなつ挨拶を交わす。
従僕がレイチェルのために椅子を引いた。ウィリアムはそのまま消えるかと思ったが。
「私にも一杯のお茶を振る舞っていただけませんか」
と訊ねてきた。
「もちろん、かまわないよ」
年長者のソープ教授がウィリアムに承諾を与える。
「ありがとうございます」
ウィリアムが自然な仕草でレイチェルの隣に座った。
「今日もレッスンをしていらしたのでしょう?レイチェル様は本当に音楽がお好きなのですわね」
ナターリアがレイチェルに話しかけた。
「ええ」
レイチェルが短く答える。そっけないとも言える言い方だった。しかし、ナターリアは気にした様子もなくレイチェルに言う。
「あの素晴らしい演奏は、毎日の修練の賜物なのですわね」
「そんなにお気にいられたのなら、レディ・ナターリアも聞きにいらしたらいいのに」
ウィリアムが気楽そうに言った。
「そうしたいのですけれど、午後の講義の後、やらなくていけない事がございますから」
ナターリアとユージェニーは、最初の日に集められた基金から授業をしてくれる人たちへの手当てを計算して、日々、支払っていた。
一般の労働の対価は週払いだそうだが、お金の扱いと帳簿を記録するのに慣れるために、毎日行うことにしたのだ。
授業をしてくれる人へ報酬を支払うのは、バイアール公爵の意見も入れてのことだった。
バイアール公爵は忙しいのか、ほとんど晩餐でしかお目にかかれない。
「我々に報酬を支払うという仕事だね」
ソープ教授の声は楽し気だ。報酬と言っても、今のところ教授たちの実績から比べたら、ほんのわずか。
それでも、快く受け取ってくださる。
現金を分け、帳簿に記入して、講師の方に渡す。
現金の領収証にサインをいただいて、整理保管する。
最初は慣れない作業に神経も時間も使ったけれど、かなり手際良くなっていた。
「報酬をきちんと支払っていらっしゃるのですね」
レイチェルがナターリアに話しかけた。
「はい。そのための基金ですから」
「その事で幾つか質問があるのですが、よろしいでしょうか」
硬質なレイチェルの声が響いた。
「どのような事でしょうか」
今までレイチェルは、官吏を目指すことの意義やバイアール公爵が提案した官吏登用の試験のための基金について話題にしたことはない。
ユージェニーは彼女が何を言い出すのか、注目した。
「まず、かなりのお金を集め、わたくし達だけでなく、継続して、官吏を目指す女性を支援すると言う理念はお聞きしました」
「ええ、アーサー様……、バイアール公爵はそのおつもりです」
ナターリアがレイチェルに頷いた。
「現在、幸いにも、バイアール公爵のご厚意で、素晴らしい講師の方々がこの城で、講義をしてくださっていますが、別のお仕事を持っていらっしゃる方もおいでです。バイアール城での滞在期間が終わり、その後の勉強や、さらにあと、私達が無事に官吏登用された後の支援の方法はどうお考えになっていらっしゃいますか」
ユージェニーはレイチェルの言葉に目を見張る。
日々の勉強に気を取られて、そこまで考えていなかった。
バイアール公爵は、彼女達に運営を任せたのに。
ナターリアを見れば、彼女も少し戸惑っているようだ。
「それに関しては、わたくしに腹案がございますの」
返事をしたのはナターリアではなく、グレイシーだった。
「寄付をするだけでなく、積極的に聖バーソロミュー孤児院の運営に関わっていらっしゃるウォルター様にご相談したのですが、継続するには、将来的に官吏を目指す人間と支援組織を運営する人間を分けたほうが良いと言う意見でした。今は、勉強のためにレディ・ナターリア様を中心に、その準備を行う手筈になっていらっしゃいますが、わたくしは官吏を目指しておりませんので、在野にて、この支援事業をお手伝いしたいと考えております。まず、しばらくは皆さまの屋敷で持ち回りで学ぶ場を提供すればよいかと。近々、ナターリア様達にもご提案するつもりでおりましたが、この場を借りてさせていただきました」
ミフィーユが、「さすがですわ」と称賛を口にした。
「ありがとうございます。グレイシー様。そしてレイチェル様。今を過ごすのが精一杯で、先の事を考える事を忘れておりました。官吏を目指すなら、計画を立てる能力が必要とお教えいただきましたのに」
ナターリアが感謝の眼差しを二人に向けた。
「ですが、持ち回りとなりますと、家の都合や講師の方々が通いにくいのではありませんか」
レイチェルの疑念はもっともだった。
「では、聖バソロミュー教会ではいかがでしょうか。
かの教会は、私の家と懇意にしていますから、兄の後押しがあれば、承諾してくださる可能性は高いと思います」
フロランスがグレイシーの意見を補足した。
「いや、この際、きちんとした拠点を構えることにしたほうがいいと思いますよ」
ウィリアムがグレイシー達の聖バソロミュー教会に協力を仰ぐ案に反対をした。
「どういう事です?ウィリアム兄様」
ユージェニーはウィリアムに真意を尋ねた。
彼女はグレイシーが出した案をとても良いと思った。
「教会は男女の役割については厳格で、保守的だからね。女性が男ばかりの職場で働く事に良い顔はしないだろう」
「聖バソロにミュー教会の牧師様は先進的な方ですわ」
フロランスがウィリアムの疑念をはらすべく言った。
「一個人、一つの教会だけなら、進歩的な聖職者の方もおいででしょう。しかし、教会は大きな組織の一端です。特別法案で女性官吏の登用の法案が出た際も聖職貴族の議員方は軒並み反対だったと聞いています」
アンゲリアの教区を束ねる主教は、貴族と見なされ、貴族院に議席を持っている。
人数は二十一名。その意見意向は尊重される。
「ウィリアム様、忌憚ないご意見をありがとうございます。でも、そうしますと、場所の確保をしなければなりませんわね」
ナターリアが、何か提案はという風に皆を見回した。
ややあって、レイチェルが口を開いた。
「わたくしの家で経営するコーヒーハウスではいかがでしょうか」
レイチェルの提案は、意外なものだった。
「コーヒーハウスは女性は出入り禁止でございましょう?」
グレイシーが少しばかり眉をひそめた。
無理もない。
保険に関わる人には、かなり、うさんくさい人もいるらしい。
「わたくしは常々、コーヒーハウスが男性のみを客としている事に疑問をもっておりました。カフェの楽しみを女性も享受できないかと」
レイチェルが意外な事を言い出した。
ユージェニーもコーヒーハウスがどんなところか興味はあったが。
「そう、ですわね。でも、いきなり、紳士方の中に入りましたら、軋轢が生じそうですわね」
アンゲリアの紳士達は、男性だけで集うことを非常に好む。
ユージェニー達は何も男性と喧嘩をしたいわけではない。
なので、つい、否定的な事を言ってしまう。
「時間か日にちで区切ったら、どうかしら。コーヒーハウスで比較的暇な時間に女性に解放していただくのは?ロンディウムでは、講義は毎日で無くても良いでしょうから」
ミフィーユが何気なく言った。
「良いかも知れません。コーヒーを嗜みながら、学びたい淑女のための時間というところかしら」
弾むようにナターリアが話す。
「具体的にどのように行えばよいのか、皆で毎日、話し合いましょう。レイチェル様もお知恵を貸してくださいませ」
ナターリアが笑顔を向けると、レイチェルが小さく「わかりました」と返事をした。