伯爵令嬢の婚約破棄は教会の鐘と共に(14)
ロンディウムに戻る父とマデリンを見送る。
マデリンと話したことで、ナターリアの鬱屈は軽減した。
マデリンの態度が変われば、アーサーの婚約者然とした彼の態度も変わっていくはず。
ナターリアは官吏になるという目標に邁進すればいい。
気持ちが変化したためか、講義にもより一層、集中できる。
マデリンと入れ替わるようにして、グレイシーとフロランスが到着した。
もちろん、ウォルターも一緒だ。
グレイシーとウォルターの距離感が近くなっていることは一目で判った。
近々、嬉しい知らせがあるに違いない。
ただ、グレイシーはナターリア達が官吏を目指す事に賛意を示してくれたが、自分は官吏にはならないと言う。
「官吏になるための勉強は共に学びたいのですけれど、難しいでしょうか」
「それは、大丈夫ですけれど、でも、何故?」
グレイシーの淑女としての教養は十分以上にある。官吏を目指さないなら、時間を割く必要はない。
「学んだ事を孤児達に伝えたいのです。孤児ですから、官吏をなるのは無理ですけれど、その知識は彼らの生活の向上させるうえで役に立つと思うのです」
グレイシーとフロランスは聖バーソロミュー孤児院で、孤児達に文字と算術を教える手伝いをしている。
教える幅を増やそうというのだ。
「そこまで親身に寄る辺ない子供達の事を考えていらっしゃるなんて、頭が下がりますわ」
ナターリアは感動しながら、自分が官吏を目指した経緯を思って、内心赤面する。
「フロランスも同じ考え?」
ナターリアはグレイシーの横にいるフロランスに訊ねた。
「そうですわね。ただ、わたくしは、どちらかと言えば、聖バーソロミュー病院に関わりたいと思っておりますの」
「病院に?そういえば、フロランス様は両殿下とのお茶会で、医療についてお話をされていらっしゃいましたわね」
ユージェニーが納得したように言った。
「ええ、皆様と一緒に学ぶのは有意義だとは思いますけれど」
「フロランス様は直接、患者に接したいとお考えですの?それとも、病院の運営に関わりのでしょうか」
ナターリアはフロランスが何を目指しているのか知りたいと思って問いかけた。
「昔は医師になりたいと思っておりましたが、アンゲリアでは、女性に医師の道を開いていませんから。看護に携わりたいと考えております」
「看護を学ぶ当てはありますの?ご両親は、賛成していらっしゃるのかしら」
貴族の令嬢が直接に傷病者を看護するなど、"貴族の常識"からはかけ離れていた。
「聖バーソロミュー病院で学びたいのですけれど、難しいでしょうね」
ご両親は難色を示しているということだ。
いや、おそらく明確に反対しているに違いない。
孤児院のジャンブル・セールへの参加や教師の真似事は許容できるが、さまざまな階級の人を看護をするとなると。
医療に携わることは尊い行いだけれど。
「では、ナース・オブ・オナー、王太后様の看護人をお目指しになるのはどうかしら?」
ナターリアはヘンリック王の母であるウィルヘルミナはロンディウムのクレランス宮で暮らしていらっしゃる。
数年前に病にかかり、それ故に脚に不自由が出て、滅多に表舞台に出なくなった。
クレランス宮殿には、王太后の身の回りを世話をする女性が配されている。
「ナース・オブ・オナーでございますか」
フロランスは思いがけないという様子でナターリアを見返してきた。
◇◇◇◇
王宮の上級女官となるのは貴族の令嬢の行儀見習いの一環である。
特に、メイズ オブ オナーと呼ばれる、王族に直接仕える女官は、貴族の中でも垂涎の的だった。
マルグリッテ王妃も数人の"メイズ オブ オナー"を抱えていた。
彼女らはマルグリッテ王妃から、直接に礼儀作法を学び、王宮を辞する時には、その名誉と共に貴族の当主や跡継ぎと結婚するのが常だった。
しかし、高齢で健康が思わしくない皇太后様の場合は事情が少し違う。
皇太后様の健康の管理をする特別なメイド。
"ナース オブ オナー"
それは看護を行い、医療の基礎知識を持つ者が選ばれていた。
身分も貴族ばかりのメイズ オブ オナーとは違い、アッパーミドルの者が多い。
「考えたことがございませんでしたわ」
フロランスはナターリアの顔をまじまじと見つめた。
「さようですの?でも、"ナース オブ オナー"ならば、フロランス様が医療看護に携わるのをご家族も納得なさるのではなくて?」
ナターリアが駄目押しのように言った。
新しい道筋が見える。
実はフロランスは、オールドミスとなって病院に勤めることも考えていた。
女性余りの世の中で、自分が積極的にならなければ、結婚しないでいることも可能だから。
独身ならば、奉仕の目的で看護を行うことも大目に見られるかもしれない。
ただ、"王太子のお茶会"以降、縁談がちらほらと来ている。
結婚は本人の意志を尊重するのが建前になってはいるが、親の間で決められてしまうことは多い。
けれども。
王家に仕えるならば話は別。
両親も兄も反対はできない。
"ナース・オブ・オナー"になるには、王宮の隣に建てられた王室病院で一年以上の訓練が必要になる。
「ナース・オブ・オナーの候補になるにはまず、王室病院の試験に受からなければなりませんわね」
王室病院は王家の侍医のために造られた特別な病院だった。入院できるのは貴族のみ。
ただ、平民でも外来は紹介状があったものは受け付けている。
「ですが、ナース・オブ・オナーになるのは、アッパーミドルか、貴族でも男爵家の方が二人だけですわ」
それもかなり家格が低い、女兄弟が多い家。
だから、グレイシー様が心配そうに言うのも無理はないのですけれど。
レディと呼ばれるの伯爵以上の貴族の令嬢が看護人として入るのは前代未聞だった。
けれど、ナターリアが目指している官吏もまた、伯爵家の令嬢が試験を受けたことはない。
これは、新しい道を切り開く挑戦。
フロランスの体に高揚と不安の入り交じった戦慄が走った。
「わたくしは、医療に携わるという夢を夢のままで終わらせたくありません」
フロランスは友人達にそう宣言した。