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伯爵令嬢の婚約破棄は教会の鐘と共に(11)

 素晴らしいと皆が口々に言っていた。

「この曲が熱情を感じるように響くとは驚きましたよ」

 タジネット侯爵はお世辞ではなく言ってくれたようだが、本来の曲調とはかけ離れていた。

 ナターリアは困惑しながら。

「緊張して、速く弾きすぎました。バイアール公爵が上手く合わせて下さったおかげで破綻は免れましたけれど」

「いや、私の方こそ君の演奏に引きずられたよ」

 さりげなく伸ばされたアーサーの腕がナターリアの胴を抱いた。


 コルセットの上だから、伝わるはずのないのに、なぜか触れられた部分に熱を感じる。

 ナターリアは戸惑い、視線をさ迷わせると、マデリンが微笑んでいた。

 とっさにナターリアはアーサーを見上げて、彼を確認した。

 アーサーは、マデリンの方を見て笑っていた。


 アーサーのナターリアへの親密な素振りは、客人に見せるためなのだと感じて、ナターリアは目眩を覚える。


 足元がふらついた。

 アーサーが支えようと胴に回した手に力が入り、彼の体によりいっそう引き付けられた。


 今度こそナターリアはアーサーの体温を体で感じた。身の内に戦慄が走る。


「ナターリア?」

 心配そうに名を呼ぶアーサーの腕から逃れるようにナターリアは身を動かした。

 一瞬、アーサーの手が離すまいと動いたが、すぐに開かれる。


「緊張がほどけただけですわ」

 ナターリアは誰ともなく言ってから、客達に笑顔を向け、元の席に腰かけた。

 アーサーは解ったという素振りをしてから、「ミス・レイチェル、もう一曲、お願いします」

 と頼んだ。

「光栄です」

 ミス・レイチェルが答えて、アンゲリア様式のピアノフォルテの椅子に座る。

 ピアノフォルテを変えて演奏をするのだ。


 少し重たげな音が、ゆったりとした曲を奏でていく。


 その正確な音を聞くうちに、騒ぎたったナターリアの心は徐々に鎮められていった。


 ◇◇◇◇


 情感がない。

 音楽教師に良く言われた。


 レイチェルは、ピアノフォルテの和音を響かせながら、さもありなんと考える。

 何故なら、レイチェルにとっての演奏は、自分を淑女らしく見せるための手段の一つにすぎない。

 人の耳にある程度心地よく響き、「良い演奏でした」とお世辞混じりに言われればいいだけのもの。

 情感を乗せて人々に感動を与える演奏は本職の音楽家に任せればいい。


 もちろん、レイチェルも褒められれば嬉しい。

 先ほど、バイアール公爵が自分の事を褒めてくれた時は、ときめいた。

 だが、そのときめきも、ほんのつかの間で潰えた。


 バイアール公爵が婚約者であるレディ・ナターリアとの合奏を始めたとたん、リュートの音色に魅せられた自分に気がついて。

 レディ・ナターリアのハープシーコードは後半まで無難だったけれど。

 バイアール公爵の奏でる音がレディ・ナターリアの演奏を引き上げた。

 競うように畳みかける旋律。速さは、それだけで人の心を興奮させる。

 ましてや、リュートを奏でるのは、名手と呼ばれる人。


 二人が婚約者同士なのも、人々に訴えかける要素ですし。


 早弾きの興奮。レイチェルも早弾きは得意とするところだけれど、あえて、彼女は緩やかな曲を選んだ。


 両親、特に父には、バイアール公爵に気に入られ、かつ、レディ・ナターリアには、嫌われないようにと言い付けられていた。

 だから、レディ・ナターリアの早弾きと競うのは良くない。


 ただ、ピアノフォルテはハープシーコードと違い、音の強弱をつけられる。

 繊細な音を弾くには、一番技量がいると教師も言っていた。


 音楽の造詣が深いバイアール公爵なら、正確に評価してくれるはずだ。


 だから、レイチェルはピアニシモを限りなく優しく奏でる。


 レイチェルの演奏が終わると、大きく拍手をしたのは、ナターリアだった。


 隣にいるバイアール公爵はほとんど音を出さない程度の拍手をしている。


 婚約者の気持ちを憚ったのかしら。


 今の演奏は、緊張があった最初の時より上手く弾けた。

 当然、公爵からお褒めの言葉と同じ笑みを貰えると思ったレイチェルは肩透かしな気持ちを持つ。


「上手な演奏でしたね」

 バイアール公爵は拍手の手を止め、感想を述べてくれる。

 誉め言葉ではあるが、最初の時より心が込もっていない気がする。


「とても素晴らしい演奏でした。特に最後の部分は、静かさを感じさせる音の連なりに心が慰められました」

 彼の言葉を補完するようにレディ・ナターリアが口にする。

 彼女は演奏を気に入ってくれたようだった。

 レイチェルは胸を撫で下ろした。

 バイアール公爵は婚約者のレディ・ナターリアに甘いと聞いている。

 彼女が気に入ったならば、バイアール公爵も、それなりの評価をくれるだろう。


「そうだね。最後のピアニシモは素晴らしかった。ただ、最初弾いた曲の方が情感を感じさせて、私の好みだったかな」

 バイアール公爵が言えば、二番目の曲は、そういう評価になる。

 つまりは、あまり良くない演奏だということ。

 レイチェルがしおらしく頭を下げようとすると、レディ・ナターリアが公爵に向かって反論をした。


「それはあくまでアーサー様の好みの問題でしょう?演奏に情感を載せることのできる演奏者は素晴らしいものですけれど、音楽を受け手の感性に委ねるような、ただ、美しい旋律を奏でる演奏も必要だと思います。わたくしはミス・レイチェルの演奏に慰められました」


 バイアール公爵がレディ・ナターリアの言葉に目を見張った。

「ミス・レイチェル。失礼しました。貴女は良き演奏をして下さったのに、私は観客ではなく、批評家として聴いてしまいました。それも、あまり良ろしくない批評家の耳で。美しいものは美しい、それでよいのに」

「そんな、わたくしの手慰みの演奏に」

 レイチェルは謙遜して首を振った。

 実際、かなり居たたまれない気持ちだ。

 バイアール公爵のリュートに比べれば、自分の演奏など足元に及ばない。

「バイアール公爵様が音楽に真摯なためと理解しております。その公爵様に演奏を聴いていただいて、少なくとも一曲は好みと言っていただけて、それだけでわたくしは光栄に存じます」

 レイチェルは軽く腰を落として礼をしてから、自席に戻った。


 最後にバイアール公爵のお抱えの音楽家が弦楽の三重奏を弾いてくれる。

 それはきっと、レイチェルの演奏についての一幕など払拭してくれるはずだ。


 ◇◇◇◇


 音楽会が終わると夕食のために皆は移動を始めた。


 儀式ばった正餐ではない。

 ディナーは昼に取ったため、軽い軽食を取るためだ。

 軽いといっても、軍の食事に比べたら、大ご馳走だ。


 ウィリアムはすかさず、レイチェルの傍らに近づき、エスコートを申し出た。

 レイチェルは平民で、ウィリアムも貴族の血を引くとはいえ、平民だ。

 穏当な組み合わせだと言える。

 バーリー・オースティン氏も同じ身分だが、彼はナターリアのガヴァネス、マデリンに興味を引かれているようだった。


 彼女はとても美人だしね。


 ウィリアムも美人は好きだが、淑女とは少し毛色の違うレイチェルに興味を引かれた。


 毛色が違うといえば、バイアール公爵の婚約者でもあるレディ・ナターリアも当てはまる。

一見、淑女の鑑に見えるが。


 さすが、ユージェニーとよしみを通じているだけある。


「ありがとうございます。サー・フロリッツ」

 ウィリアムは海軍の士官なので、レイチェルは敬称をつけて彼を呼んだ。

「どうぞ、ウィリアムとお呼びください。ミス・レイチェル」

「……ではお言葉に甘えて、サー・ウィリアム」

 レイチェルは一瞬だけ考えて返してきた。

「とてもピアノがお上手ですね。私は軍人ですので、音楽には疎くて、譜面もろくに読めない」

「貴族の方はみな何かしら楽器を弾けると思っておりましたわ」

「子供のころ、てすさび程度にビオラを習いましたが、どうも私達兄弟は、音楽の神に見放されているらしい。ああ、聴くのは嫌いではないのですよ。バイアール公爵も仰っていましたが、美しいものは美しいとは解ります」

 ウィリアムは少し声を潜めて付け足した。

「貴女のように」

「ピアノの腕をお誉めに預かり光栄です」

 レイチェルはすぐさま返事をしたが、声は固い。顔も前を向いたままだった。

「ピアノだけではありませんよ」

 ウィリアムは意味深に囁いたが、レイチェルは「ドレスも宝飾品も一級のものですから」とにべなく答えた。

 どうやら機嫌を損ねたらしい。


 だが、並みの淑女なら、評判を気にしてもっと曖昧に答えるところだ。


 バイアール公爵には気を使っていたのに。


 珍しいと興味を覚えつつも、少し業腹だ。


「ドレスは、あまり誉められたものではありませんね。宝飾品、ダイヤモンドはきらびやかですが、余り多すぎると下品だ」

 レイチェルが息を飲んだのが解った。

 頭を振り立てて、彼女がウィリアムを睨み付ける。


 ウィリアムの言葉に、回りにいた人も非難の視線を彼に向けた。

 だが、彼はその視線をものともせずにレイチェルを見つめた。


「赤、赤い石が君には似合う。それを私に贈らせていただけませんか」

 男が女に宝飾品を贈る。

 明確な好意の表れ。

 レイチェルの顔に戸惑いとかすかな怒りの色が浮かんだ。

「サー、ご冗談はよしてください。わたくしは貴族の戯れごとに慣れておりません」

「私は貴族ではないので、戯れではありませんよ」

 ウィリアムは言葉尻を捉えて畳み掛けた。

「私達、知り合ったばかりですわ。そんな方から高価な贈り物をいただくわけには参りません」

「高価でなければ良いのですね。それと、深く知り合いたいとおっしゃる。では、明日、より親交を深めるために、遠乗りにまいりましょう」

「サー・ウィリアム」

 レイチェルが、押さえた声で抗議した。

「わたくしは、学びに参ったのであって、遊びにきたわけではありません」

「知っていますとも。ですが、朝駆けはバイアール公爵もしておられます。時々はレディ・ナターリアら、淑女の方々も。もしかして、乗馬ができない?それならば、致し方ないですが」

 乗馬は淑女の嗜みの一つである。

レイチェルは侮られたと受けとるはずだ。

「もちろん、乗れますわ」

「では、問題ないですね。明日を楽しみにしております」

 悪びれることもなく、ウィリアムは明日の乗馬を既定の事実とした。

「ミスター・カーランド、貴方の素晴らしいお嬢さんと、出会えたことを神に感謝します」

 ウィリアムは近くにいながら、口を差し挟めずにいたカーランド夫妻に笑いかけた。


 オリヴァーとユージェニーが呆れたようにこちらを見ている。

 ユージェニーからのお小言は織り込み済みだ。

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