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伯爵令嬢の婚約破棄は教会の鐘と共に(10)

 バイアール城の音楽室は広い。

 とても広い。

 ハープシコードと二台のフォルテピアノ

 フォルテピアノはアンゲリアで改良された物と、ウィーンで改良された物がある。


 ミス・レイチェルはアンゲリアで改良されたものではなく、ウィーン様式のピアノフォルテを選択した。

 ウィーン様式の方が音が軽く軽快に響く。

 音楽の本場はラムラスだが、近頃はウィーンの台頭が著しい。

 アンゲリアの音楽は気質によるものか、ピアノフォルテの音色も曲もどこか重々しい。


 ユージェニーはどちらも嫌いではない。

 けれど、元王家、ブランシュバイク家はウィーンに近い土地の出身であり、その好みで、ウィーン様式のほうが持て囃されている。

 もっとも、オペラに関しては保守的で、ラムラスのあるエルトニア半島出身の歌手を最上と考えるものも多い。


 ミス・レイチェルの弾いている曲は、楽器こそウィーンだが、曲は彼女が師事しているエルトリア出身のクレメンティ氏の作品だった。


 バイアール公爵がソファにもたれながらミス・レイチェルの演奏を聞いている。

 傍らには婚約者であるナターリアの姿があった。

 バイアール公爵が寛いだ風情なのに、ナターリアはことさら背筋を伸ばしているように見える。


 ナターリアが少し緊張気味なのは、これから披露するというバイアール公爵との合奏のため?


 淀みなくピアノフォルテを弾いているミス・レイチェルの演奏を耳を傾けつつも、ユージェニーは、音楽室に集った人々の様子を観察する。


 今夜の主役とも言えるミス・レイチェルは赤みがかった栗色の髪に煌めくダイヤモンドの髪飾り、イヤリング、大きく開いた胸元にも大粒のダイヤモンドを連ねた首飾りをしている。

 ピアノフォルテの演奏をするために指輪こそしていないが、それがなかったら、おそらく指にも大きなダイヤモンドを着けていたと想像できる。

 淡い紫のドレスはふんだんに刺繍がされていた。

 スカート部分の広がりもかなりあり、それが彼女の大きさを誇張させている。

 面長の顔に切れ長の瞳は、父であるカーランド氏に良く似ている。

 顔立ちのバランスはいいが、女性的な柔らかさが少ない。

 カーランド氏は男性であるので、冷静沈着な紳士という感じだが、女性であるミス・レイチェルにはそれが、険のある感じに見えてしまう。


「もう少し細身のシルエットの方がよろしいのに」

 呟いたミフィーユの台詞に同感してしまうユージェニーだった。


 演奏が終わり、ミス・レイチェルが立ち上がって淑女の礼をした。

 堂にいった態度だが、優雅さより慇懃さを感じさせる動作だった。


 相手が平民だからと侮る気持ちはないつもりだが、ユージェニーはどうしても貴族の夫人や令嬢と比べてしまった。


 聴いていた客たちが拍手を贈る。

 するとカーランド氏が伺いをたてるようにバイアール公爵に顔を向けた。

 リュートの名手であり、貴族の嗜みを越えた優れた歌い手としても評判を得ている公爵に娘の演奏について講評をして貰いたいと、その顔に書いてある。


 カーランド氏の意を汲んで、バイアール公爵が立ち上がった。

「とても正確な演奏でしたね」

 公爵はミス・レイチェルに歩み寄って、「よろしいですか?」と手を差し出した。

 ミス・レイチェルは目を見張って公爵をわずかにおとがいを上げた。

 公爵は笑みを含んでいる。

 ミス・レイチェルはほんのわずかドギマギしたように首を振り、公爵に手を預けた。


 バイアール公爵は相手の手をしげしげと眺めて楽しそうに話す。


「ああ、やはり、指が長い。楽器の、特にピアノの演奏に向いた手をしていらっしゃいますね」

 バイアール公爵の言葉に、もう一度拍手が起こる。

 公爵はそのまま、ミス・レイチェルを導いて、カーランド夫妻の隣に座らせた。

「素敵な演奏をありがとう。次の我々の演奏の後にもう一度弾いていただけますか」

 身を屈めるようにして頼む、バイアール公爵の頼みを断ることなど思いもしないだろう。

 ミス・レイチェルも、はい、と答える。

 微かに上気した頬が、彼女に愛らしさをいくぶんか与えた。

 満足そうに頷く公爵。


 罪作りな方ですわね。


 ユージェニーは軽く肩を上下してから、ナターリアを眺めた。


 ナターリアは公爵を見ておらず、部屋の隅に立っているミス・マデリンを見ていた。


 これから演奏する彼女が、音楽の師でもあるミス・マデリンを心の支えにしているのかもしれない。


 ナターリアは音楽はあまり得意ではないと言っていたのをユージェニーは思い出した。


 ◇◇◇◇


 アーサーがミス・レイチェルに優しく微笑むのを見て、ナターリアはとっさにマデリンを見てしまう。


 マデリンは少しだけ目を細めて、二人を見ていた。

 それは子供の頃、ナターリアとクロヴィスを叱る前に見せていた表情に良く似ていた。


 想っている男性が他の女性を、ことさら丁重に扱う(さま)を見ているのは辛い。


 それはナターリアも同じ気持ちだった。


 ナターリアは、アーサーがミス・レイチェルの手を取った時に、彼が親指で相手の長い指を軽く撫でるのを見てしまっていた。

 ミス・レイチェルが小さく息を飲むのも聞いた。


 それまで、ミス・レイチェルは貴族の間に有っても堂々と振る舞っていた。

 背筋を伸ばして、誰かに話かけられれば、きちんとした作法で受け答えをする。

 豪奢なドレス、煌めく宝石。

 どれも少しだけ過剰に見える。

 カーランド家の富を見せびらかしているかのように。


 でも、ナターリアは彼女の装いは、自身を守る鎧に見えた。

 その鎧がアーサーの一連の言動によって、少しばかりほどけた。

「ありがとうございます」

 ミス・レイチェルの低めの声に甘さが載る。

 微かに掠れたような声は、ナターリアにも魅力的に響いた。


 ナターリアは楽器の演奏には不向きな自分の小さな手を眺める。


 楽器の演奏は淑女の嗜みであるので、当然、ナターリアもハープシコードもピアノフォルテも弾くことは出来る。


 昨日の夜、アーサーがリュートの演奏を請われて、ナターリアが弾くハープシーコードとの合奏ならば、と言い出した時に、断れば良かった。

 けれど。

「それはぜひ聴きたいものです。バイアール公爵のリュートと婚約者のレディ・ナターリアのハープシーコード、素敵です」

 タジネット侯爵夫人のミランダに請われ。

「では、明日の午前中に一緒に練習をしよう。ナターリア」

 アーサーが決まりのように言ってしまった。


 いいえ。ごまかしてはだめ。ナターリア。

 貴女は、アーサーと合奏するのを喜んでいたでしょう。


 ナターリアは自分の欺瞞を叱りつける。


 距離を置かなければと頭では考えるのに、一方では少しでも一緒の時間を過ごしたいと思っている。

 婚約者でなくなるその時まで。


 ◇◇◇◇


 実際、午前中に行ったアーサーとの音合わせは楽しかった。

 音楽室にはメアリーアン以外はおらず、そのメアリーアンも二人が婚約者同士だからか、広い音楽室の入り口に佇んでいた。


「ハープシーコードを弾くのは久しぶりですの」


 まだリュートを持たずに、ナターリアの傍らに立つアーサーに言い訳じみた台詞を告げる。


「そう?どれくらい?指の鍛練は毎日やったほうがいいと昔言ったのだけれどね」

 ナターリアを見る目が少し厳しい。

「こちらに来る前には、ピアノは一週間に一、二度くらいは弾いていましたわ」

 アーサーは昔から音楽に関しては甘やかしてくれなかった。

 宮廷にいた頃、楽器の手解きをしてくれたアーサーから、逃げ回っていたことを思い出す。

「では、軽く弾いてみて」


 ナターリアは練習用の曲を一曲弾いてみせた。

「もう一度」

 ナターリアは同じ曲を繰り返す。

「もう一度、いや、今度は別の曲で」

 アーサーに即されてナターリアは七回、練習曲を弾いた。

 ピアノフォルテとは違い、ハープシーコードの二段の鍵盤を持つ。最初は感覚を思い出すのに苦労したが、七回目はなかなか上手く弾けた。

「良くなったね」

 アーサーが軽く頷くと、今度は合奏用の譜面を手渡してくれた。


 アーサーが選んだのは、十七世紀のオーランドの作った一曲で、今の曲に比べれば、技巧的ではないが、軽やかな美しい旋律で構成されている。


 これも、三回、ナターリア一人で弾かされた。


 ピアノフォルテよりも弾きやすい。

 大きく手を開かずに楽に鍵盤を押さえることができた。

「じゃあ、今度は二人で合わせよう」

 アーサーが椅子に座ってリュートの弦をかき鳴らした。


「ここはもう少し早く弾いて」

 ハープシーコードが弾きやすいため、ナターリアもアーサーの要求にすぐに応じることができる。

 数回、繰り返して、アーサーが及第を告げた。


 もう、おしまい?


 ナターリアは二人の時間が終わってしまうことが残念だった。

 だが、アーサーにもナターリアにも、他にやるべきことはある。

 特に領主であり、今は大勢の客を迎えているアーサーは。


「このハープシーコードは弾くのが楽でしたわ」

「そう?それは良かった」

「古いものだからでしょうか。鍵盤が少し狭く感じました」

「ああ、これはパリシアで造られたものだからね」

「そうでしたの」


 ナターリアは海を渡ってきたハープシーコードの鍵盤に指を走らせた。


 もう少し、と音が言っている。

 もう少し二人の時間を。


「もう一度、(さら)っておきたい?」


 子供の頃、アーサーに楽器を習うときに、あんなに嫌だっだ"もう一度"がこんなに嬉しくなるなんて。


 アーサーの問いにナターリアはぱっと顔を輝かせた。


 ◇◇◇◇


 練習では上手くいっていた。

 大丈夫。


 ナターリアのところに戻り、今度は彼女の手を引いて、ハープシーコードの前に座らせたアーサーがちょっと微笑んだ。

 大丈夫。

ナターリアは自分にいま一度、言い聞かせた。


「ミス・レイチェルの完璧な一曲の後では、いささか緊張しますね。ですが、ささやかな余興を供するのも家の主の勤め。お客人が楽しんでくだされば、幸いです」

 寛いだ話し方で口上を述べ、アーサーは椅子に腰かけて、リュートをかき鳴らした。


 それが合図。


 ナターリアは黒い鍵盤に自らの白い手を置く。


 最初の一音。


 アーサーのリュートは巧みで、ナターリアの演奏をリードする。


 ナターリアは必死で追いかける。

 幼い頃にアーサーを追いかけ回したように。


 追いかけて、近づいて。

 でも、いつかは離れなければならなくて。


 心を反映して、ナターリアの音が少し速くなる。

 先走ったハープシーコードの音にリュートが合わせた。

 突き放すように、ナターリアは指を動かす。

 アーサーのリュートが少し激しくなった。


 二人は競うようにテンポを早くした。

 それでも、音は崩れることなく流れる。


 二つの楽器は重なり合い、絡み合いながら、曲を奏でた。

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