伯爵令嬢の婚約破棄は教会の鐘と共に(8)
「勉強になりましたわ」
ユージェニーは満足感でいっぱいだった。
バイアール公爵家の前の家令だったジョンソンは、日用品からちょっとした贅沢品の値段を、なぜそのような値がつけられるかを含めて説明してくれた。
ジョンソンは何も買わなくて良いと言ったが、ユージェニー達は二ペンスでリボン、クロヴィスは四ペンスで、ペンを削るためのペンナイフを買った。
お釣りと共に、蜂蜜と砂糖で作られたお菓子のトフィーの小さな包みももらい、ドゥヴルの町へと再び出ていく。
よろずやに案内して下さったバイアール公爵だが、まだ城に帰る様子はない。
ミスター・ジョンソンも言っていたではないか。
他の店も回ってみた方がよいと。
目的を果たしたユージェニーの足は軽く、町並みをじっくりと観察する余裕も出てきた。
背が高くて、軍人らしい規律正しい歩調で歩くフレミア侯爵が、クロヴィスとミフィーユを守るように寄り添っていた。
「何か興味をひかれるものがありましたか?」
リッカーズ教授がユージェニーに話しかけてきた。
「そうですわね。こちらのストリートは整えられて、素敵なお店が立ち並んで、リボンがかけられた贈り物のようなマーケットですわ。でも、裏通りはどんな様子なのでしょう。それから、市があるなら、そこも覗いてみたいです」
ロンディウムでは、裏通りや市など歩いたことはない。もちろん、領地でもだ。
けれど、ものの本では町の本質は市と裏通りにこそあると書いてあった。
「リボンがかけられた贈り物のようなストリートか。貴方は表現力がおありだ。そして好奇心と探求心も」
リッカーズ教授の言葉が好意的なのでユージェニーは嬉しかった。
自分で言いながら、生意気だと思われはしないかと、少しひやひやしてもいたから。
そもそも、この町歩きを提案なさったのはリッカーズ教授でした。わたくしの杞憂でしたわ。
「アーサー、ユージェニー嬢が表の顔だけでなく、裏の顔も見せろって」
ロッドウェル氏がユージェニーとリッカーズ教授の会話を聞いていたらしい。
ナターリアの横を歩いていたバイアール公爵が振り返った。
極めて整った顔がユージェニーを観察するように見つめている。
短く切られた髪のせいか、怜悧、かつ精悍な感じに見える。
「奥まったところに、軽食を出す店があります。そこで少し休憩をとりましょう。その店ならパブリック・パーラーがありますからね。そのうえ、庶民が利用するタップ・ルームも外から覗けますよ。ただ、市は朝に立つのでね。それはまた別の機会にということで、かまいませんか?」
ユージェニーは「はい」と答える。自分が男性なら、庶民が利用するタップルームとやらに入ってみたいと思うが、女の身ではそれもかなわない。
けれど、庶民も利用する飲食店で食事をすることすら初めてのことだった。
メインストリートから離れて、店舗と店舗の間の道を通っていく。
道はメインストリートよりは細いが馬車がすれ違う広さも、人が歩く部分も十分に確保されていた。
「私の町にも参考にしたいことが多い。特に高低差のない石畳の道路は素晴らしい」
そう言うフレミア侯爵は、ジョンソン氏のゼネラル・ストアでも、ユージェニー達の近くで話を熱心に聞いていた。
戦争で足を悪くしたとユージェニーも聞いていた。今は杖を持っていないが、足が不自由な時の経験がその言葉を引き出したのだと解かる。
メインストリートのように店が立ち並んでいるわけではなく、住居の合間にところどころに店がある。どれも表の立派なという形容詞が似つかわしい店より、店構えは小さいが、清潔感があって好ましい。
店の中が見えるように、必ずガラスの窓があるせいでしょうか。
「こちらは薬局ですわね」
「香水や石鹸も売っているようです」
「あちらは、パンのお店です」
ユージェニー達は、物珍しさに少しばかりはしゃいだ声で会話をしていた。
人通りが少ないのもそれに拍車をかけている。
「お嬢様方は、表のリボンをかけた店より、こちらの方がお好みのようで」
「あちらのお店も素敵でしたけれど、こちらはこちらで趣がございますわ。旧市街のお店も見せていただければ良かったと思っているところです」
ロッドウェル氏の科白にユージェニーに代ってナターリアが言い返した。
ユージェニーが言った言葉を揶揄するようなロッドウェル氏の口調への抗議の色を乗せて。
「バーリー・オースティン。可愛い淑女を前にすると減らず口を叩く癖は直っていないようだね」
さらにリッカーズ教授がロッドウェル氏を窘める。
少しばかり傷ついたユージェニーの自尊心が慰められた。
「失敬。教授のおっしゃる通り、愛らしい方を前にすると緊張してしまって。……アーサー、まだなのか」
謝罪を口にしてからロッドウェル氏がバイアール公爵に助けを求めるように言った。
「そこを曲がればすぐだ」
バイアール公爵は淡々とした感じでロッドウェル氏の問いかけに答えた。
店の二つの扉は、一見、差は見えない。
しかし、左右にある窓が二つの世界を見事に表していた。
紳士淑女と労働者たち。
紳士と淑女のための窓辺には花が飾られ、しゃれたソファやテーブルが置かれている。
人が飲食をしている姿がないのは、見えているのがウィテング・スペースだからだと思われる。
もう一つの窓には、数人の客の姿があった。
簡素なテーブルとベンチ。中には椅子に座らずに立ち飲みをしている者もいた。
そのうちの一人が外にいるユージェニー達に気が付て、他の者に何か言っている。
「デュークだ」
誰かが大声をだしたのか、声が漏れ聞こえた。
窓からこちらを見ている。見るつもりが見られてユージェニーは内心臆してしまう。
バイアール公爵は手慣れた様子で、彼らに手を振った。
相手も笑みを浮かべて手を振り返してくる。
「ナターリアも手を振ってごらん」
バイアール公爵が横にいるナターリアに声をかけて、彼女に手を振らせた。
中の人の手を振る動作がいっそう大きくなった。
◇◇◇◇
案内された部屋に一同が腰を落ち着ける。
窓から覗いたタップ・ルームの簡素さとは大違いだ。部屋は小さな中庭に面していた。
「夏の間は庭も客に開放される」
アーサーは給仕が差し出すメニューを断って注文を出す。
「日替りのプレートを」
料理を頼めばお茶は付いてくるという。
「メニューを選ばせてくれませんの」
ナターリアはわざと不満そうな声をあげた。
「日替りの料理プレートはここの看板だから。メニューに載せてあるすべてを少しずつ盛ってある」
そう言われてしまえば仕方がない。
「でも、メニューは見せてくださいませ。淑女用のではなく紳士用の」
上流階級が利用する料理店のメニューには、女性のメニューには値段が書かれていないと聞いたことがあったナターリアは、挑むようにアーサーを見上げた。ここまで、アーサーの案内で町を見て廻った。
彼の領地なのだから、当たり前といえば当たり前。
ナターリア自身、十分に楽しみ、学んだ。
なのだけれど、すべて彼の思惑通りという感じで、アーサーから離れると決めたのにと、少しばかり自分がふがいない。
「でしたら、タップ・ルームのメニューを見せていただきたいわ。それに、お茶とプレートではなく、彼らが食べていたものを食べてみたいです」
援護は思わぬ方向から来た。
言い出したミフィーユに皆の視線が集中する。
「いけませんかしら?」
可愛らしく小首をかしげているミフィーユの瞳は好奇心に満ちていた。
「これは私の方が固定観念に捕らわれていたようです。アレック、レディ達へ両方のルームのメニューを。お茶とプレートは」
「僕は両方のメニューを食べ比べたいです。」
クロヴィスが力強くいった。
「では、私もトライしようか」
リッカーズ教授は細身の割に健啖家のようだった。
「それでしたら、わたくし達も、ねえ?」
ナターリアは、二人の友とマデリンに同意を求めた。今日はコルセットは緩めであったし、かなり歩いた。
空腹感をナターリアは抱いていた。
「バイアール公爵様、お聞きしてもよろしいですか」
マデリンがアーサーに問い掛けの許可を求めた。
ゴールディア邸では、マデリンは、そのような事をしたことなど、ほとんどないのに。
「もちろんです。ミス・マデリン」
アーサーの声が、ことさら優しくマデリンの名前を読んだ気がしてしまう。
「最初に注文なさろうとしたプレートはどれくらいの量なのでしょう」
「アレック」
マデリンの質問に対して、アーサーは給仕の名を呼んで説明を命じた形だ。
「本日のプレートは小さなパンケーキを三枚、こちらはご希望があれば追加でお焼きします。スコッチエッグが卵が一個分、コールドミート、つけ合わせに三種の野菜のピクルス、梨のコンポートとなっております。紳士の方でもご満足いただけるように努めております」
と、言うことは、かなりの量になると言うことだった。
「では、わたくしの分は少し、量を落としていただけますか。例えば、スコッチエッグは二分の一個、コールドミートも半分。パンケーキは最初は一枚で、もっと食べたくなったら、追加を。ナターリア様達はどうなさいます?」
ユージェニーとミフィーユはマデリンと同じオーダーをした。
ナターリアは少し考えてから、答えをだした。
「わたくしは、コールドミートを三分の一にして、スコッチエッグはそのままで。パンケーキはマデリンと同じで一枚でよいわ」
コールドミートより、スコッチエッグの方が好きだから。
「承りました。どうぞ、こちらを。タップ・ルームのメニューですが。……お持ちいたします」
アレックスは手にしたメニューをナターリアに渡すと部屋を出て行ったが、五、六分ほど経ってからもう一つのメニューを持ってきた。
「タップ・ルームには、お客様にお出しするようなメニューはございませんので、昼に皆がよく頼む品を一覧にしてまいりました」
確かに良く見るとインクが新しい。
「ソーセージ、コールドミート、ポークパイ、コテージパイ、ソーセージとコールドミートはパンが付ます。これに、半パイントか一パイントのエールをつける者が多いです」
そう言ってアレックはテーブルから離れた。
ナターリア達は、二つのメニューの値段を比べた。
かなり値段が違う。
ナターリア達が注文したプレート一つで、三品から四品と半パイントのエールが注文できる。
「さて、何を注文しますか」
リッカーズ教授が楽しげにナターリア達を見回した。
「コールドミートとコテージパイを一切れ」
ナターリアがすぐに応えると、教授はほう、と頷いてさらに問い掛けてきた。
「なぜ、その二つを選択したのですか?」
「コールドミートは同じ料理ですが、プレートとは違いがあるのか気になりましたし、コテージパイは、スコッチエッグの回りの肉、牛と豚の合挽きで出来ていますから」
「なるほど。では、私はソーセージとポークパイとエールを一パイント」
教授は自分の注文をし、他の者もそれぞれに頼む。
フレミア侯爵とオースティンはエールを半パイント頼んだが、アーサーは注文しなかった。
「バイアール公爵はエールがお嫌いなのですか?
ミフィーユが、運ばれてきたプレートの料理にナイフを入れながら訊ねる。
「そんなことはありませんが、今日はあまり飲みたい気分ではなくてね」
「ミフィーユ嬢、気にすることはありませんよ。普段のアーサーはエールを水みたいに飲むから」
普段のアーサー様?
ナターリアはオースティンの言葉が気にかかるが、リッカーズ教授に話しかけられた。
「なかなかお料理にお詳しいですね」
不思議そうにリッカーズ教授はナターリアを見た。
「我が家には文字が書いてあるものなら、何でも読みたがる者がいるものですから」
ナターリアは弟に視線を投げる。
ゴールディア家の二人がもっと幼い時分にいたコックは、自分が書いた料理のレシピブックを魔法の書だと、ナターリアとクロヴィスに冗談半分に言って、二人はそのブックをよく呼んでもらった。
特にクロヴィスは、コックとマデリンに頼んで、絵入りのレシピブックを作ってもらった。
おこぼれのように、ナターリアにも同じものが贈られた。
小さな頃のエピソードを披露して、ナターリアは話を継いでいく。
プレートの料理が半分ほどなくなったところで、タップ・ルームの料理が運ばれてきた。
「悪くない」
オースティンが正直な感想を口にした。
プレートに比べれば、香辛料などが減らされいて、味の複雑さはないが、どの料理もまあまあ美味しく食べられた。
「良心的な店だね」
リッカーズ教授も店を誉めた。
ナターリアは比較出来る料理がないので感想は控えた。
友人も大人しい。
あとで、三人で話し合いましょう。
「アーサーがレディ達を連れてくるような店だから、当たり前か」
「手始めだからね」
「最初に、衝撃を与えるのも、手だぞ」
「バイアール城のコックに、寄宿学校の食事を作らせるか」
アーサーとオースティンの会話に不穏なものを感じつつ、食事が終わった。