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伯爵令嬢の婚約破棄は教会の鐘と共に(1)

 政府の仕事に着きたいと言い出したナターリアをゴールディア伯爵は一笑にふそうとした。


 良家の淑女が働くのは、よほど困窮している場合に限るからだ。

 然るにゴールディア伯爵家は豊かである。

 ナターリアが嫁ぐ時には相応の持参金を用意してあるし、遺産として信託財産を残す予定だ。

 妻のケイトリンは乳母を努めたため、年にいくばくかの年金が支給されている。

 ゴールディア伯爵家の年に一万二千ポンド以上の収入からすれば、ささやかではあるが、ケイトリンは娘のために二分の一を残していた。


 まして、ナターリアはバイアール公爵に嫁ぐ予定なのである。

 ウォレスが大公となった直後には、一時的に財政が圧迫されたようだが、その後は順調で、ゴールディア伯爵が用立てた金も返済済みだった。

 公爵となり、ナターリアと婚約したアーサーの素行は、それ以前の放蕩生活とは一線を画しており、エドモントとしても、愛娘をやらんでもないと思うようになっていた。


 しかし、ナターリアの真剣な表情を見て、エドモントもナターリアの話を聞いてみることにした。


 婚約破棄の前提の婚約をコンラート王子に申し込んだ前歴もある。思い込んだナターリアの行動力は、エドモントも知るところだった。


「国に奉仕したいという意欲は買うよ。しかし、もともと女性が政府の仕事に関わることになったのは、戦時の臨時措置だということはお前も知っているね」

「はい。相次ぐ戦争で男の方が次々と軍務につかれ、人手が足りなくなったため、ミスター・フォックが、緊急動議として提案されたことは知っております」

「いくら手が足りないとはいえ、女性を働かせることには当時も反対が多かった。実際、僅差で本案が通ったときには、新聞がこぞって、批判をしたものだ」

 風刺画を得意とするある新聞は、ミスター・フォックが酒瓶を手に、女性に平身低頭している風刺画を載せた。

 ご本人は、「私という男を良く表している」と宣った。

 彼は無類の酒好きと女好きで知られている。

 フォックは政治家としての能力は高いが、私生活は乱れていた。

 そのため、醜聞も多く、庶民院の議員になって初めて閣僚になった時に、ある時、酩酊状態でヘンリック王の御前に出て、失言をして罷免された。

 当初は保守的な言動が多かった彼だが、以後は革新的な法案を次々に提出していくことになる。

 その男が、新大陸の植民地の独立を支持しながらも、戦時の人手不足を補うために、女性の起用を提案した。


 父が存命中であったエドモント自身は当時は議員ではなかった。父、ギルバートは独立までは支持しなかったものの、自治は与えるべきと主張した一派に属していたが、さすがに、戦時とはいえ、女性を働かせるのには、難色を示していた。

 特に、男性と共に働かせるのは。


 しかしながら、フォックは主張した。


「現在、戦場で紳士が名誉のために命を散らし、淑女が家庭を得る機会は少なくなっている。淑女が恥ずかしくない(リスペクタブル)職業としてつけるのは女家庭教師(ガヴァネス)しかない。しかし、職を求める淑女に対して、雇用の口は少ない。我々、紳士が多数の女性を妻に出来るならば、問題は解決しよう。だが、神の教えに対して敬虔なアングリアの紳士はそれを拒むだろう」

 数多の愛人がいるフォックは、自分の行状はどこへやら、論を展開したと言う。

「然るに、騎士道的精神で我々は困窮する淑女を救わなければなりません。家庭を与えることが出来ないなら、恥ずかしくない(リスペクタブル)職業を彼女達に与えること、国に奉仕すると言う大義を持った仕事をです」


 騎士道を持ち出された紳士達は、反対を唱えることが出来なくなり、法案は可決し、女性官吏が誕生した。


 現在は戦時ではないが、女性が余り気味であることに変わりはなく、海外での小競合いは頻繁ではないにしても、起こっているのを理由に、女性に政府の仕事を分け与えることは続いていた。


 中には頭角を表して、かなり重要な役割に登った女性もいる。

 一代男爵位を叙爵されたレディ・ミランダがその筆頭だった。


「働く女性はそれだけで、下にみられる」

 父は彼女の意思を確認するようなナターリアに言った。

「ですが、尊敬されていらっしゃる方もいますわ。例えばレディ・ミランダ」

 その有能さは、すでに伝説の域だった。

「レディ・ミランダは極めて例外的な存在だよ。軍人だったお父上が男と同じ教育を与え、体も鍛えた。そのお父上と長男が戦争で亡くなったために、働かねばならなかった。私はお前に普通よりは、高い教育を受けさせたが、男と伍するほどではない」


 それはナターリアも理解していた。

 ナターリアの知識は淑女の知るべき最低限のことよりはあると思うが、あえて深める努力はして来なかった。

 多少、物を知っているのは、知識欲旺盛な弟に引きずられてのことだ。

「はい。ですが、伍そうとは思いませんが、手助けを出来るようになりたいと思うのです」

 それに、とナターリアは続ける。

「お母様は乳母とはいえ、王宮に上がり、俸給をいただいております。初めて、自らの働きによっていただいたお金は何より尊く思えたとおっしゃっていました。労働とは卑しいことではなく、自らと他者を助けることに他ならないと」

 言いながら、ナターリアは思い出す。

 ケイトリンが初めて貰った硬貨を大事そうに見せてくれた時、自分も欲しくなったことを。

 ちょうだい、とねだれば、母は静かに微笑んで、貴女は自分で宝物を見つけなければいけないと教えてくれた。


 だからだ。

 アーサーと口論になった時、するりと"官僚を目指す"と口にしたのは、心の奥底の望みが表れたのだ。

「お願いです。お父様。私にクロヴィスと同じ教育を」


 これほど真剣に父に何かを願ったことはない。


 無理でしょうか。


 ここにきて、ナターリアはゲオルクとコンラートとの勉強会が茶話会になってしまったことを悔やむ。

 ゲオルクの対人交流に重きをなしているため、有意義な会話はできるが、体系的な学びは出来ない。


「生活に困っていないお前が、官吏を目指すと言うことは、他人の働き場所を奪うことになる」


 そうだろうか。

 確かに、その一面もあるだろう。

 ナターリアは思考して、父に反論を試みた。


「そう考える向きもあるでしょう。けれど、生活に恵まれた女性が官吏になる。そのことにより、ミスター・フォックがお説きになった、淑女がつける恥ずかしくない(リスペクタブル)な職業であると世間も認知するのではありませんか?」


 父の表情が動いた。

 思ってもみなかったとその顔は言ってた。


「わが家の紋章であります、麦。先の実りをもたらすひとつぶの麦にわたくしはなりとうございます」


 父は迷いとナターリアの言ったことを計りにかけているようだった。


「勉学に励むことはよいことだ。官吏になるかはさておいて。クロヴィスのチェーターに同席することは許そう。」

 ナターリアは父の譲歩を引き出したことに、取りあえず満足する。

「その際には、ミス・マデリンも同席していただきたいのですけれど」

「それは当然だな。チューターは男性だ。お前一人での参加では許可はできんよ」


 これで、マデリンも学べる。

 ナターリアは父に丁寧に謝意を示した。


◇◇◇◇


「やりたければやればよろしいのよ」

 ケイトリンは実にあっさりナターリアの希望を受け入れた。

 クロヴィスは姉様らしいと半分あきれ顔だが、できる限りの手伝いはしてくれると言う。


「だから、義兄上と微妙な雰囲気だったのですね」

 納得もしてくれた。

 ナターリアの官吏志望にアーサーが難色を示していると思ったようだ。

 当たらずとも遠からずである。


「まずは家庭教師(チューター)の選定だな」

 一度、許可をすれば、父のゴールディア伯爵は素早かった。


 クロヴィスのための臨時の教師ではなく、本腰を入れて優れた教師を探し出してくれた。


 語学の教師は、トーマス・ヤング・エリオットだった。

 代わりに父は彼の研究に出資をする。

 彼は、エギュプトの地で発掘をするのが夢で、それには莫大な費用がかかる。


 父が手配してくれた教師達は、数学、地理、歴史、経済、政治学、会計学。

 それに衛生学まで多岐に渡る。


 どこに所属されても、一通りの基礎知識があるようにとの父の配慮だった。

 体の鍛練も追加された。

 特に乗馬は、男性と同じ乗り方に訓練しなおすという。

「ほとんどないことだが、軍の事務に携わることもありうる」

 レディ・ミランダはほんの一時だが、軍の事務官に就いていたことがある。


「速記についてはわたくしがお教えしましょう」

 と言い出したのは、次席執事のロバートだった。

 彼が文書管理を主に担当しているのは、速記を得手としているからだ。


 教師は揃った。

 あとは、ナターリアの努力しだいだ。


 ◇◇◇◇


 学ぶことを主とする日々が続いた。

 知識を得ることは、最初は単純に楽しく、やりがいを感じていた。

 社交の時間を削り、本に埋没する日々。

 大好きなロマンス小説も、読む冊数が少し落ちた。


 特に数学は苦労した。

 ナターリアが知っていたのは、算術であり、数学とは言えない。

「大丈夫です。目標は大学で学ぶほどの高度なものではありません。ほんの入り口を覗く程度ですよ」

 数学を教えてくれるマクロリンはクリームと砂糖がたっぷり入ったお茶を飲みほした。

 頭を使うと甘いお茶が欲しくなると、彼は教えてくれる時も、お茶を何杯も飲んだ。


 クロヴィスはナターリアよりは苦労はしていないが、言語を学ぶよりは集中力に欠けていた。

 マデリンはあまり労せずに、数学を学んでいる。


 マデリンは、初めはナターリア達と一緒に学ぶことに難色を示した。

「男性に引けを取らない教育が必要と教えて下さったのは、ミス・マデリンよ?学ぶ機会があるなら、積極的に掴むべきとも」

 違って?とナターリアは詰め寄る。

「どのみち、クロヴィスがいない時には、同席してもらいます。でしたら、漫然と聞いているより、一緒に学んだ方が有意義ではなくって?……それに、ミス・マデリンも、官吏になる道も開ける……」

「わたくしはことさら官吏になりたいと思いませんが」

「そうですの?レディ・ミランダのように自らの力でレディと呼ばれるようにはなりたくはない?わたくしはなりたいわ」

「ナターリア様は公爵家に入られるのですから、ずっとレディでままでございますよ」

「あら、真実の愛がみつかったら、婚約破棄をするのよ。真実の愛のお相手が貴族とは限らないわ。オースティン様のような、ヤンガーサンという可能性もありますわ」

「オースティン様が気になるとおっしゃっているのですか?」

 マデリンが驚いたようにナターリアを見返した。

「ものの例えですわ。でも、どのような方が現れるかわからないでしょう?」

 ナターリアは意味ありげに笑った。

「好きになる人は裕福ではないかもしれない。ですけれど、わたくしが官吏官僚となれば、支えうこともできるでしょう」

 ロマンス小説のヒーローだって皆がみな、お金持ちばかりではない。

 磊落した貴族や、貧しい芸術家だっている。


 もし、アーサーを忘れることができれば、そのような人と巡り合うかもしれない。

 十年か十五年先には。


「それに、我がゴールディア家だって、何があるかわからなくてよ?万が一に時に備えておくことはとても良い事と思わなくて?」


 それは、突然に庇護者である父を亡くしたマデリンには心に染みたようだった。

 彼女も官吏になることはさておき、一緒に学ぶことは同意してくれた。


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