伯爵令嬢の禍福得喪は舞踏会の音楽と共に(69)
ナターリア様とバイアール公爵の間にある微妙な雰囲気。
二人でいるときのお互いを信頼、尊重する空気をユージェニーは心地好く思っていた。
ジャンブル・セールでの生き生きとした二人の姿が、彼女に感銘を与えたのに。
その感じがまるでなく、どこかぎこちない。
ユージェニーはどうしたのだろうと、二人をそれとなく観察する。
例えば、バイアール公爵がナターリアに向かって歌いかけた時、彼女は微笑らしきものを浮かべたが、いつもはもっと柔かな表情をしていた。
そのまま散策を続けている時も、晴れやかな笑顔をバイアール公爵に向けることはなかった。
バイアール公爵もだ。
可愛くて仕方ないという感じでナターリアを見つめていた顔。その笑顔の質が違う気がする。
ナターリアの晴れやかな笑顔はユージェニーも好むところである。
そう考えて、ユージェニーはゲオルク殿下に意識を向けた。
先日の仮装園遊会で、ゲオルク殿下はナターリアへの好意を明らかにした。
それ故に、ゲオルク殿下の前で、態度が不自然なのでは?
あり得ることですわ。
でも、心配はありませんのに。
ユージェニーはゲオルク殿下が、バイアール公爵の隣にはナターリアが似合うとおっしゃっていたのを知っている。
ユージェニーは勇気を奮って、ゲオルク殿下に話しかけた。
「バイアール公爵といらっしゃるナターリア様は露を含む薔薇のようでございますわね」
ゲオルク殿下は立ち止まってユージェニーを振り返った。
整いすぎた顔が、ユージェニーを見つめる。
ユージェニーはナターリア達方へ視線をそらした。
ゲオルク殿下の視線を誘導するためにだ。
けして、ゲオルク殿下の無表情が怖くてではない。
「ユージェニー様?」
ナターリアがユージェニーの名前を呼ぶ。急に何をおっしゃっているのかとの彼女の戸惑いがユージェニーに伝わってきた。
「薔薇はバイアール公爵の方ではないか」
ゲオルク殿下が表情を変えずにおっしゃっられた。
「ゲオルク殿下?」
ナターリアとそっくりな口調でバイアール公爵がゲオルク殿下に声をかける。
ユージェニーもゲオルク殿下の意図が読めずにいた。
「レディ・ナターリアは薔薇を潤す露であろう」
ゲオルク殿下はわずかに表情をほころばせて、ナターリアをご覧になる。
「露無くしては、薔薇は咲かぬからな」
一瞬、ナターリアとバイアール公爵の目が合い、すぐにナターリアが目を違う方向へ向ける。
「先ほど、ゲオルク殿下はナターリア様に詩的とおっしゃっておいででしたけれど、殿下の方がロマンチックですわね」
フロランスが発言した。柔和な響きが薔薇園に広がる。
「そうですね。男の私が薔薇とは驚きましたが、薔薇には刺があるもの。イバラの盾となって国をお守りいたしましょう」
バイアール公爵はにこりとゲオルク殿下に笑いかけた。
「そうあることを私も望む」
ゲオルク殿下は真顔でバイアール公爵に対峙した。
「露に潤されれば、百万の敵も恐れません」
バイアール公爵は声をゆるりと和らがせて、ナターリアに向けた。
「アーサー様」
戸惑いか、恥じらいか、ナターリアが少しうつむいた。
その風情にユージェニーは今までにない艶を感じた。
そういうことでしたの。
ナターリア様のぎこちなさは、自分の恋心を自覚したに違いありません。
バイアール公爵に天真爛漫に接していた彼女の態度が急に変わった理由を理解したとユージェニーは思う。
密やかに二人を応援するユージェニーに、ゲオルク殿下の、本当に小さな囁きが届く。
「しかれど、露は薔薇だけを潤すものではない」
不穏なことをおっしゃらないでください。
ユージェニーは、またもや自分だけが拾ったらしい、ゲオルク殿下の言葉に頭を悩ませそうだった。
◇◇◇◇
アーサーが加わったことで話の輪は広がった。
彼は博識であり、話し上手でもある。
一番会話をしていたのは、ゲオルクとアーサーだった。
薔薇のとげを国の守りに例えてから、しばらく、仮面舞踏会でアーサーが扮したイスカンダル大王の話になったから。
特に、イスカンダル大王が遠征をしている最中の内政の話となると、クロヴィスやコンラートも半分以上はただ聞いているだけになっていた。
淑女たる三人はいわずもがなである。
それに気が付いたらしく、アーサーがさりげなく、イスカンダル大王の師であるアルスタルに触れ、グリーク文学へと話題を変更した。
これならば、みな素養がありますし、最初の目的であった詩作にも通じますわ。
けれど、いつもの茶話会の弾むような会話の応酬とは少し違っていた。
自分のせいだとナターリアは自覚していた。
どうしても、アーサーへの反応が一歩遅れてしまう。
なのに、ユージェニーとフロランスは、暖かな笑みを浮かべていた。
いつもより早くお開きになったのは、ナターリア達を送ってから帰るアーサーを気遣ってのこと。
王宮の馬車止まりに来ると、アーサーが言い出した。
「私は二人乗りできたのだが」
クロヴィスとナターリアは無言で顔を見合わせた。
「姉上、せっかくですから、アーサー義兄上とご一緒なさってください」
「クロヴィス」
アーサーと馬車の中で二人きりになるなど、とてもできない。
ナターリアが否定の言葉を出す前にクロヴィスが「ナターリア姉上」と呼んだ。
「カルプ大公ご夫妻もそのために、先にお帰りになったのでしょう。僕も先だって婚約者同士の邪魔はするなとソールズ伯爵夫人に諭されましたし、野暮なことはしたくありません」
野暮でよいです。むしろ、おおいに野暮になってください。とはナターリアは言えない。
クロヴィスはアーサーが義理の兄になることを喜んでいるのだから。
「クロヴィスもそう言ってくれるのだし、ナターリア、私の馬車へ」
内心は不承不承でナターリアはアーサーの助けを借りて馬車へと乗り込む。
ナターリアは進行方向に、アーサーが向かい側に座った。
クロヴィスはナターリアが馬車に乗ったのを見届けて、ゴールディア家の馬車に乗り込んだ。
ワインレッドの繻子張りに銀の葉の模様が小粋である。長身のアーサーに合わせて造られているため、天井が高い。
馬車が走り出す。
外の風景を眺めるふりをしてナターリアは横を向いていた。
「外の風景にかじりついている。君は子供の時と変わらないね」
子供扱いされて、ナターリアはアーサーに向き直った。
「そうやって、子供と言われるとムキになるところも。ナターリアおねえさま」
”わたくしはおねえさまですもの。子供ではありませんわ”
小さな頃によく言っていた科白。
アーサーに子供と思われたくなくて、一人前のレディに見られたくて。
「ねえ、ナターリア」
深く籠るような声。胸の奥底に忍び寄るような。
「このままでは、いけないのかな?」
切なげに、甘えるようにアーサーは問いかけてくる。
「君は私に親愛を抱いていると言っていた。私も昔から知っている君を同じように思っている。お互いに特別な人はいない。だったら、このまま、婚約を続けて、時が来たら婚姻する。私の両親も、君の家族もそれを願っている。いや、ゴールディア伯爵と約束を違えてしまうことになるが」
「お父様と?」
「初めの頃に“お前にはやらん”と言われたよ」
「お父様は婚約破棄をする婚約に反対なさっておいででしたから」
「なら、破棄をしない婚約になるのには賛成なさるのではないかな」
たたみかけるアーサー。
負けてはだめ。
特別な人はいない。彼は嘘をついている。彼には愛する人がいる。ナターリアは知っている。
もし、アーサーが好きな人がいるけれど、結ばれることのない相手だと打ち明けてくれたなら。
その人を忘れ、ナターリアを選ぶと言ってくれたなら。
だめ。そんなことを考えてはだめ。
「約束は約束ですわ。真実の愛を得る努力をするとおっしゃっていたではありませんか」
ナターリアは肩をそびやかした。確かに彼はそう言った。なのに。
「すぐに言を翻すような方は紳士とは言えませんわ」
こんなことでは、マデリンを託すことも出来ない。
そう言えば。
「婚約を無かったことにするのは外聞が悪いとおっしゃっていましたわね。外聞が悪いからわたくしと結婚するなど、御免です」
アーサーが言葉を挟む隙を与えずにナターリアは攻勢に出た。
「わたくしは真実の愛が欲しいのです」
そして、真実の愛をいとしい貴方に貫いて欲しいのです。
「ナターリア、もし、君が真実の愛を捧げる人が見つからなかったら……」
ナターリアはアーサーにその先を言わせなかった。
「一人で生きてゆきます。アーサー様などには頼りません。わたくし、レディ・ミランダのように女官僚を目指します。そう、わたくしが官僚になりましたら、婚約を無かったことにしてくださいませ」
女官僚を目指すのは、マデリンのはずだったのに。
勢いでナターリアは言ってしまう。
でも。密かに憧れてはいたのだ。レディ・ミランダのように、自分で自分の道を切り開くことを。
「そんなに私と結婚するのは嫌か」
アーサーの声は静かに低く。瞳を閉じて呟いた。
言いすぎてしまいましたわ。
けれど、このままなし崩しに結婚するのは、彼の言う通りどうしても嫌だった。
「いいでしょう。どちらかが真実の愛を見つけるか。もしくは君が官僚となるか。けれど、どちらも叶わなかったら、君は私の花嫁になる。よろしいか?」
「外聞のために?」
ナターリアが反射的に言い返すとアーサーが薄く笑う。
「外聞のために」
第二章 完