伯爵令嬢の人格形成はロマンス小説と共に(9)
「おねえしゃま、地面がゆれてるのよ」
クロヴィスははしゃいでいるが、ナターリアはそれどころではなかった。
気分が悪い。
初めて乗った船の揺れに彼女は完全に参ってしまっていた。
マデリンが心配してそばにいてくれる。
レディースメイドのメアリーアンは小さな女主人と同じように青い顔をしていた。
ケイトリンはクロヴィスと一緒に楽しそうに甲板を歩いていた。
こんなことなら、「いっちゃうの?」と泣きそうなコンラート殿下と一緒にいてあげれば良かった。
「九日間だけですわ。帰ってきたらお土産をもってすぐに参ります」
ナターリアはコンラートと約束した。
アーサーの希望はひと夏の間だったけれど、ナターリアもケイトリンも、コンラートをそんなに長い間、放ってはおけない。
八歳のナターリアが一人で行く訳にもいかず、母やクロヴィスも一緒に行くのだから。
カルプ島までの往復が四日間、島での滞在は五日間となった。
アーサーは、夏の間中カルプ島に滞在する。
久し振りに家族と会うのだから、仕方ないけれど、残りの夏は会えないのは、少しだけ淋しいとナターリアは感じていた。
そのアーサーが、心配げにナターリアのそばに近寄ってきた。
「ナターリア、大丈夫?」
彼女は辛いなかでも、微笑んでみせる。
「無理をしないで横になりなさい」
甲板に設置された長椅子に座り風に当たっていたナターリアにアーサーは言った。
「へいき、ですわ」
息を漏らすように答えるナターリアを見て、アーサーは驚くようなことをした。
「では、これをナターリア食べてみて」
アーサーは小さな黄色い欠片を手渡す。
「しょうが糖だよ。しょうがは船酔いに効くと言われているから」
アーサーは小さな包みを渡してくれる。
「ありがとうございます」
礼を言って口に含んだ。甘さと辛さが口に広がる。
「ゆっくり噛んで。噛む動作も船酔いを軽くするからね」
ナターリアはアーサーに言われるままにしょうが糖を噛んだ。
アーサーの従者ハガードがメアリーアンにしょうが糖を分け与えているのを、ナターリアはぼんやりとみつめる。
マデリンがアーサーにナターリアの横を明け渡した。
彼はマデリンに軽く頷いてから、ナターリアの隣に座った。
「体を預けなさい。少しは楽になるから」
アーサーの言葉にナターリアは素直に従う。
「いい子だ」
寄り添う二人にマデリンは暖かな眼差しを向けていた。
◇◇◇◇
揺れない大地がこんなにもありがたいものだったなんて。
ナターリアは神に感謝する。
すぐに迎えの馬車での移動だが、アーサーがこう提案した。
「馬車ではなく、馬に乗って行こう。馬車の揺れよりはいいだろう。ジョゼフ」
護衛の一人に馬を譲るようアーサーが指示する。
ジョゼフと呼ばれた護衛は、御者の隣に座った。
今回の旅の護衛はかなり多い。
70名ほどもいるだろうか。
ナターリア達と帰る日が違うからとアーサーは言っていた。
「でも、わたくしまだ一人では上手く乗れませんわ」
ましてや初めての土地で乗り慣れていない馬ある。馬を制御できるかどうかナターリアは自信がなかった。
「私と一緒に乗ればいい」
アーサーは鞍を持参してきたサイドサドルに付け替えさせた。
「いいな。僕も馬に乗りたい」
クロヴィスの言葉にアーサーは、「遠乗りの時にね」と約束する。
馬が駆け始める。風が心地よい。船酔いで怠くなった体が少ししゃっきりとした。
「美しいところですわね」
船では碌に景色も見られなかったが、青い海と切り立つ海岸線は雄大だった。
「そうだね。景色はなかなかいいね」
弾むナターリアの声にアーサーも明るい声で答えた。
「緊張している?」
「え、なぜですの?」
「船が出たとたん酔いだしたし、今も体がこわばっている。一緒に乗るのは初めてじゃないだろう?」
馬に一緒に乗ったのは一年も前の話だ。
「ウォレスおじ様とフェリシアおば様に会うのは久しぶりですもの」
それに婚約者として会うのは初めてとナターリアは胸の内で呟く。
「違うな」
アーサーが否定した。ナターリアはびっくりしてアーサーを見上げた。
「お義父さまとお義母さまではないかな」
言われて初めてナターリアはそのことに気がついた。
あのふたりが、私のもう一人のおとうさまとおかあさまになる。
「でも、結婚しない婚約ですわ。そうお呼びして良いのかしら」
「でも、きっと二人は喜ぶよ。特に母は、昔から娘が欲しいと言っていたから」
「なら、良いのですけれど」
二人は馬に揺られながら、島の景色を楽しむ。
石畳の首都の、それも一番手入れの行き届いた王宮で長く暮らしていたナターリアには、自然のままの景色が珍しかった。
つっと、とんぼがナターリアの目の前を通っていった。