銀杏に嫁ぐ
彼女が咳き込んだ。その口元から、鮮やかな黄色い葉が、はらりと落ちた。
「え」
私の唇からは、間抜けな声が零れる。呆然と見つめる私の前で、彼女は腰を折ってさらに咳き込んだ。はらり、はらり。見事に染まった扇型の葉が、一つ咳き込むごとに舞い落ちる。彼女の小さな口から、何度も何度も。
「琴葉、ちょっと大丈夫?」
混乱する頭で、どうにかこれだけは声に出せた。言いながら、どう見ても大丈夫じゃない、と思う。尋常じゃない咳き込みようは、華奢で色白な彼女の見た目と相まって痛々しい。私は自ずと琴葉の背を撫でる。その間にも、彼女は身体の奥からくるようなひどい咳と一緒に、黄葉した葉を吐き出していた。
激しく咳き込んで、涙を浮かべた琴葉は、咳が治ると私の足元に屈み込んだ。肩で息をしながら、地面に手をついて身体を支えている。その地面には、彼女が吐き出したばかりの葉が落ちていた。黄金色の葉。見紛うことなく、銀杏の葉だった。
「何、これ……」
私は琴葉が吐き出した銀杏の葉を、一つ取り上げる。葉は羽化したばかりの蝶のように柔らかくて、どこか不思議な燐光を纏っているような気さえした。
「聡音、あんまり、触らない方がいいよ」
琴葉はそう言っておもむろに立ち上がった。ふらりと覚束ない足。私はとっさに、琴葉の細い腕を掴んで支える。放った銀杏の葉が風に舞った。
「触らない方がいい? ねえ琴葉、これ、どういうこと?」
琴葉は「ごめん、その前に座らせて」と言って近くの朽ちた椅子を示した。琴葉をそこに座らせると、彼女はまた軽く咳をして、今度は緑のグラデーションがかかった銀杏の葉を吐いた。
「あのね、聡音。落ち着いて聞いてほしいんだけど」
琴葉は、自分の膝の上に乗っている葉に視線を落としたままそう言った。私は、真剣そうな琴葉の横に腰を下ろす。
「聡音だから話すの。お願い」
声だけでも十分に伝わる痛切さが、琴葉の言葉にはあった。針で刺されているような痛みを、私まで感じそうだ。こんな風に、琴葉が私に頼むのは滅多にないことだった。悪いことは、考えたくない。それが琴葉の身に起こることならなおさら。それでも──。
「分かった。話して」
琴葉は、少しばかり安堵した色を覗かせて頷いた。その目元には疲れがじわりと滲んでいて、見ていられなくて目をそらす。ガラスみたいに繊細な琴葉は、他の人よりもこういうのがはっきり出る質だった。
琴葉は、何度か口を開いては閉じるというのを繰り返した。どう伝えればいいのか、迷っていた。私が辛抱強く待って、琴葉がもう二枚葉を吐き出した後、躊躇いがちな小さな声で、彼女はぽつりと言った。
「私ね、選ばれちゃったの。千年銀杏の妻に」
その言葉の意味を、私はすぐには理解できなかった。水が染み込むようにそれを理解してからも、認めがたいその言葉を信じられるはずがない。
ほら、と琴葉は髪を上げて、私にうなじを見せる。そこには、茶色と灰色の中間の色をした、葉脈のようなものが広がっていた。銀杏の幹の質感によく似ている。細い筋は琴葉のうなじから背中へと伸びていて、まだ枝分かれしている。まるで銀杏の根が張っているようだった。
「選ばれたって」
私は言葉を失う。琴葉はいつまでもそのうなじを晒していて、私は言葉を継ぐ代わりに、その脈をそっと撫でてみた。皮膚の中に広がっているのか、触っても感触はない。けれど、奥で何かが流動しているのが分かる。それは琴葉の血なのか、銀杏の幹の中で行われる流れなのか。
「私、千年銀杏に嫁ぐんだ」
琴葉は淡々と告げた。そうでなければ言えないとでも思ったのか、琴葉にしては妙に早口だった。
「あの樹に嫁ぐの」
つとめて明るく振る舞った、その語尾の震えは、聞かなかったことにした。
私は何も言えなかった。親友の門出を祝うべきなのか、別れを惜しむべきなのか、すぐに判断できなかった。ただ、「そう」と言って誤魔化すのも気が引けて、黙っているしかない。代わりに、私は再び咳き込んだ彼女の背筋をさするだけだった。
私たちの住む町には、千年銀杏という大きな樹がある。
古い文献にも散見されるほどの古木で、秋になれば、それは見事に黄葉する。その幻想的な佇まいは、何もないこの町の唯一の誇りだ。私たちはこの町に生まれたときから毎年、秋に千年銀杏の葉が色づくのを心待ちにしている。
けれど、私たちがあの樹を殊に大切にするのには、他にも理由がある。
あの樹は、この世のものじゃない。あれは人を娶って、途方も無い時間を生きてきた樹なのだ。
遥か昔からこの土地に根付いているというあの樹は、数十年に一度、町に住む少女の中から一人を選んで嫁がせる。それは、雌雄異株である銀杏が、種子を作るために雌株を求めるのとは違う。選んだ少女を人柱として、生き永らえるためにそうするのだ。
少女を娶った年の銀杏は、ますます蠱惑的な美しさで染まる。その美しさに惑わされて、なのか、この土地の人々は、飽くことなくこの営みを続けてきた。馬鹿馬鹿しい、信じられないと思うかもしれない。しかし、あの銀杏の美しさは、何にも変えがたい宝であり、解けることのない呪いなのだという。一度少女を嫁がせてしまえば、この螺旋からは二度と抜け出せない。
見たことのない私は、その話を知ってはいても、半信半疑だった。それでも半分は信じているのだから、私も既に、あの樹に惑わされているんだろう。
「少し前にね。おかしな夢を見たんだ」
琴葉は、自分の吐き出した葉の付け根を摘んで、くるくると回した。私には触らない方がいいと言ったのに、自分はなんてことないように触れている。
「あの銀杏の下から、樹を見上げてるの。ぼんやり光っててね、本当に、目を疑うくらい綺麗なの」
熱に浮かされたような口調だった。きっと、琴葉が今手に持っている葉のような燐光だったんだろう、と私はぼんやり考える。
琴葉は続けた。
「あんまり綺麗でずっと見上げてたら、誰かに呼ばれた気がしたんだ。名前を呼ばれたんじゃなくて、もっと、私の核を呼び寄せてるような感じだった」
ああいうのを『魂』って言うのかもね、と言いながら、琴葉は銀杏の葉を手放した。ゆらゆらと揺れながら、葉が落ちていく。
「それで、振り返ってみたら、誰かがいるの。夢だったし、顔も憶えてないんだけどね。でも、優しそうな男の人だったことは憶えてる。腕を広げて、『私のところへおいで』って言ったんだ」
「……それで?」
そこで琴葉は、少しだけ苦しそうに顔をしかめた。
「堪えられないぐらい、懐かしい感じがしたの。痛くて切ないって言うのかな、とにかく、その感覚に耐えられなかった。それで私、その人の腕に飛び込んじゃったんだ」
今思えば、あれが決定打だったんだね。琴葉は呟いて、淡い燐光を纏った葉に視線を投げた。
「そこで目が覚めたの。そのあとは、変な夢を見たなぐらいにしか思ってなかったんだけど、髪を縛ろうと思って鏡で見たら、首にこんなのがあって。その日のうちにあんなのまで吐くようになって、分かったんだ。選ばれたんだって」
話し終えると、琴葉はにっこりと私に微笑んで見せた。どういうわけか、先ほどまであれほど目立っていた隈は分からなくなっていた。吹っ切れたような表情が、私には怖い。
「ありがとう、聡音。聞いてくれて」
私は、「うん」と頷いただけだった。
「聡音には、自分でちゃんと話さないとって思ってたの。心残りがあるまま、嫁ぎたくないから」
「うん」
私の素っ気ない返事をどう受け取ったのか、聡音はゆっくりと立ち上がった。その拍子に少し咳き込んだけれど、私が背に手を添える前には平然を装った。
「大丈夫、大丈夫だよ」
はらりと、口元から葉が舞い落ちた。黄色い葉。琴葉の身体の中はきっと、もう随分とあの樹に侵されているんだろう。
「寒くなってきたから、もう帰るよ。じゃあね、聡音」
細い脚で踵を返した小さな背。私はたまらなくなって、その背に呼びかけた。
「ねえ、琴葉」
「ん?」
琴葉がゆっくりと振り返る。
「いつからなの」
琴葉は、少しだけ宙に視線を預けて言った。
「三日前かな。最初は、こんなにひどくなかったんだけど」
三日前。その日は、琴葉は珍しくマスクをして学校に来ていた。風邪をひいたんだと呑気にそう思っていた。一昨日も昨日も欠席だったけれど、私は何も気づかなかった。琴葉が二日以上続けて学校を休むことなんか滅多にないことくらい、知っていたはずなのに。
「ごめん」
「聡音のせいじゃないよ」
琴葉は即座に否定して、苦笑する。
「聡音が来てくれても、私、何にも言わなかったと思う。その前にまず、多分会ってないよ。なんて言ったらいいか、整理がつかなかったから、今日まで延ばしたんだもん」
それでも、私が薄情だったことに変わりはない。私はもう一度「ごめん」と謝った。琴音は優しく笑って、歩き出そうとする。
「婚礼は」
親友として、せめてこれだけは訊いておかなければいけない。そう思って、私は慌てて訊ねた。
「婚礼は、いつなの」
琴葉は立ち止まって、私の方は向かずに答える。
「実は、明日」
声のトーンがわずかに下がった。
「明日って……そんな早く」
「樹が言うんだから、仕方ないよ。私は嫁ぐ立場なんだから、そればっかりはどうにもできないんだ」
秋風のせいか、寂しそうな響きが混じっているように感じた。
「これまで嫁いでいった子たちも、きっと同じだよ。だから、文句は言えないの」
割り切った口調でさっぱりと告げた、だけには聞こえない。選ばれてから婚礼まで、ほんの五日間。未練を断つには、あまりに短すぎるように私は思った。いや、これは私の未練を反映しているだけかもしれない。親友の琴音に未練があるのは、むしろ私の方なのだろう。
「ねえ、聡音」
琴葉は顔を半分だけこちらに向けた。私は顔を上げて応える。
「明日の夜。見に来てくれる?」
「樹との婚礼を、てこと?」
琴音は頷いて、私の答えを待っていた。
娶られる少女と千年銀杏との婚礼は、疑いなく最後の晴れ舞台だった。未熟な蕾が、一夜で満開に花を咲かせるようなことだった。ただでさえ端整な琴葉の婚礼は、とても綺麗に違いない。見たいけれど、見たくなかった。これまでで一番綺麗な姿で離別しなければならないくらいなら、今の琴葉のまま別れたい。でも、親友として、琴葉の晴れ舞台を見ないわけにはいかない。
「行くよ。きっと見に行く」
私はそう返事をした。それを聞き届けて、琴葉は安心したように息を吐き、「うん、待ってるね」と言い残して歩いていった。公園を出て、琴葉が角を曲がるまで、私はじっとその背中を見送った。
……本当は、琴葉を送り届けたほうがいいことは分かっている。分かっていたけれど、琴葉を追う気にはなれなかった。私は琴葉が向かった方向とは真逆、あの樹がある方に足を向け、走った。
どうして。どうして琴葉なの。
なぜ受け入れてしまったの。
本当は怖いんじゃないの。
私を、置いて行くつもりなの。
夕方の道を走って、走って、樹がある丘を登る。どれだけ手脚を動かしても、もやもやは晴れない。知らないうちに涙が出てきて、視界が滲んだ。自棄になって走っているせいで、喉が血を吐きそうなくらい痛い。空気が冷たい。何もかも、全て琴葉に残酷なもののように思える。今この瞬間も、琴葉は樹に侵されて、残り時間を失っているのに、私は何もできない。何一つ、琴葉のためにできることがない。役立たず。人でなし。次から次へと、感情が溢れて止まらない。
千年銀杏の前で、私は脚を止める。異様な大きさの佇まいのそれは、黄金色の葉が風になびいて、憎らしいほど美しい。私はその根元に立って、拳を振り上げた。
「琴葉を連れていかないでよ!」
私は、瘤だらけの硬い幹を殴る。鈍い痛みが手に返ってくる。痛くて、もっと悔しさが募る。私はもう一度同じことを繰り返した。
「私から琴葉を奪わないで! あんたなんかよりよっぽど長く、一緒にいるんだから!」
どうして、あんたなんかに琴葉を持っていかれなければならないの。琴葉は私の親友で、幼馴染で、大切な存在なのに。それを、たかが樹一本の延命のために奪われるなんて。許さない。
ありったけの憎しみを込めて、私は何度も幹を殴った。けれど、通常よりも太い幹はびくともせず、ただ私は、何人もの少女たちを娶って生きながらえてきた幹に、自分の血をつけただけだった。硬い木肌で切れた甲から、じわじわ血が染み出してくる。滴った血は、絨毯にように敷き詰められた黄金の葉の上に落ちて、水滴のままいやに目立った。
私は、ずるずると地面に膝をついた。
今更何を言っても、何をしてももう遅い。琴葉はこの樹に取られてしまう。私の前からいなくなってしまう。
嗚咽をこらえきれず、私の口から情けない泣き声が漏れた。本人である琴葉さえ泣かなかったのに、私はどこまでも意気地なしだった。美しい千年銀杏を殴ったことへの罪悪感をも感じて、私は自分を恨む。結局、私は親友を失うというこの状況下でも、この樹の呪いから抜け出せない。この樹の、それほどまでの耽美さが恨めしかった。
私は明日の夜、きっとこの呪いに逃げようもなく囚われるんだと、直感的にそう悟った。琴葉が嫁いだら、それはさぞかし美しいに違いないのだから。
婚礼の夜。私は、丘の上で琴葉を待っていた。
婚礼は、ごく密やかに行われる。誰が嫁いだのか、いつ嫁いだのか。町の人々にそれが知れ渡るのは、この婚礼が終わった後。今夜がその晩だということを知っているのは、私を含めごく少数だった。
今夜の樹は、どこか妖しげな精気を放っている。樹に妖しいも何もあるかと言えば、それはありえないのかもしれない。けれど、この銀杏は別だ。私たちには分かる。そばにいれば、色めき立っているようなざわめきを感じるのだ。
しばらく待っていると、やがて鈴の音が近づいてきた。晴れ着を着た少女と、その参列者がやってきたことを知らせる音だ。
列は、すぐに丘を登ってきた。前後に数人ずつ、晴れ着を纏った少女を挟んで大人たちが並んでいる。鈴の音に合わせて歩を進める列の者はみんな、厳かな表情を浮かべていた。──ただ一人、琴葉を除いて。
琴葉は、うっすらと笑っていた。口紅を引いた唇が、弧を描いて歪んでいる。どこか嬉しそうなその顔にはきちんと血の気があって、いつものにこやかな琴葉そのままだった。純白の白無垢姿は予想通り、琴葉によく似合っている。それは、嫁入りというよりも、何かからの卒業のように見えなくもなかった。
一行は樹の前まで来ると、琴葉を残して離れた。琴葉は、臆することなく真っ直ぐに銀杏を見上げる。その口が、何かを唱えた。私には聞き取れなかったけれど、その瞬間、明らかに空気が変わった。
どこからともなく風が吹き、地面を黄金色に染めていた数えきれないほどの葉たちが、一斉に舞い上がる。葉は、まるで意思を持っているかのように動いて、琴葉を取り巻き始めた。しかし、琴葉は予め知っていたのか、全く動じない。それどころか、白無垢の袖の中から、何かを抱きとめるように、銀杏へと細い腕を伸ばして、笑みを深くする。
私は、夢中になってその光景に目を凝らしていた。琴葉が伸ばした手の先に、茶色い脈が見える。昨日うなじにあったのを見せてくれた、あれだ。それは、琴葉の腕へ伸び、指先に届き、注視すれば首筋を辿って耳のあたりにまで及んでいた。その脈が、どんどん広がっていく。琴葉の白い肌を埋め尽くすように伸びていく。それと同時に、琴葉を取り巻く葉も密度を増していた。琴葉の姿は、徐々に見えなくなっていく。
「琴葉!」
私は思わず叫んだ。見守る大人たちに見咎められる。私は、嫁ぎの最中に下手な動きをしてはならない、と事前に言い含められていた。けれど、とても眺めていられる光景じゃない。
私はいてもたってもいられずに、ついに葉の壁の中に駆け込んだ。
ばさばさと、私の介入を拒む葉が身体に打ち付ける。黄金色の渦の中、私は琴葉の腕を必死で掴んだ。
「琴葉、琴葉!」
名前を呼ぶ。視界の中で、琴葉が私を見た。
「だめ、行かないで!」
私は琴葉に縋り付いた。華奢な身体にしがみついて、懇願する。葉のせいで目を開けていられない。
「それはできないよ」
諭すような声音で、琴葉が言う。
「お願い。琴葉を失うなんて、絶対に嫌だ!」
すると、ふいに風が止んで、絶えず打ち付けていた葉の感触が消えた。恐る恐る目を開けると、そこには──。
「聡音、ごめんね」
耳元に、そう囁く声だけが残った。
辺りを照らしているのは、朧月のようにぼんやりとした光だった。
秋の夜の濃い闇の中、千年銀杏は淡い燐光を纏っていた。ため息すら忘れるほどの、見事な黄金色。輪郭が曖昧になり、闇との境が消え失せて、まさしくこの世のものではない美しさで、そこに佇んでいる。それまでに見てきた『美』の観念が消し飛ぶほどの、圧倒的な美しさだった。
私は、言葉を失ってその銀杏に目を奪われていた。私の持つ感覚を全て使っても、受け止めきれない美しさだった。
琴葉はきっと、夢の中でこの景色を見たのだろう。そして、魅せられてしまったのだ──今の私と同じように。だから、嫁ぐことを拒まなかった。それほどの誘惑だったのだ。酷な運命を受け入れたわけが、今なら理解できる。
琴葉は、この美しい樹と一体になったんだ。
ひらひらと、光を放ちながら葉が落ちてくる。琴葉が咳のたびに吐き出していたものと同じ、柔らかい葉。私の視覚は既に、この破壊的とも言える美しさに侵されていた。
この秋が終わったら、本当にこの美しさは失われてしまうのだろうか。そうしたら、私は何年待てば同じ光景に出会えるのだろう。もう一度見られるだろうか?
そう考えていることに気づき、嗚呼、と私は苦笑を零した。
私ももう、この美しい呪いに囚われてしまったんだ。