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戦闘能力の高いジンがいるならもう大丈夫だと思って、油断してしまっていた。
トーマス子爵の一番の狙いであるターニャをジンが抱いたままだったので、手を出せそうなのがソフィアの方だと判断したのだろう。
しかし一番非力に見えたルーカスに反撃されて、トーマス子爵は顔をまっかにして怒っている。
ふるったムチをとめられるとは思ってなかったのだ。
「どけ小僧! その娘がいないと私は、あの方に顔向けできんのだぁ!」
「あの方……?」
「あ! ターニャ王女を攫いたかったのがそのトーマス子爵で、私を攫いたかったのは子爵にその変な力を持つ指輪を与えた人だそうです!」
「まだ上がいるのか? 調べと食い違うな」
「指輪……」
ジンの眉が指輪を見て、ひくりと動いた。
ルーカスも『変な指輪』が気になったらしいが、その前にトーマス子爵が剣からほどいたムチを再びふるう。
「この! このこのこのぉ!」
「っ、はっ……!」
ルーカスは、トーマス子爵が振りおろすムチを軽やかに避けていく。
そして素早い動きで剣をふり、ムチを子爵の手元ギリギリで切り落とした。
更にトーマス子爵が懐からナイフのようなものを取り出したけれど、ルーカスの方がよっぽど早かった。
あっという間にナイフも剣で叩き落し、トーマス子爵の首に剣先を突き付ける。
「いい加減に降参しろ。僕は馬も衛兵の準備も待てなかったからいち早くここに来たが、すでにお前の所業は全て露見している。すぐにマークス王子が率いる一団が、捕えにやってくる。お前の上にいる誰かとやらもすぐに追手がかかるだろう」
ルーカスが、あっという間に相手を追い詰めてしまった。
トーマス子爵はとても悔しそうに歯ぎしりしている。
その光景に、ソフィアはエメラルドグリーンの瞳をぱちぱちと瞬いた。
「すご……え、ルーカス様。つよい……? え?」
……少し前、ルーカスの兄に短剣を突き付けられたときはなすすべ無く、ただ傷つけられるばかりだったのに。
あれから半年も経っていないのに、こんなに変わるのだろうか。
「ずいぶん熱心に稽古をしていたからな。守りたい人を守る力を得るために」
いつの間か隣に立っていたジンが、手を引っ張ってソフィアを立たせながら教えてくれる。
大丈夫だとわかったから、こうして場をルーカスに任せたのか。
そして彼の言う『守りたい誰か』が、誰を差しているか分からないはずが無い。
「剣の稽古をしていると……聞きはしていました」
でも実際にルーカスが剣を手にしているところも、腰に帯剣しているところも見たことはなかった。
剣の稽古も、勉強も、いままでまともな家庭教師さえつけて貰えなかったルーカスが、貴族として必要だからしているのだと思っていた。
でも違う。
ソフィアのために、ルーカスは今たくさん頑張っている。
剣の稽古で得る力も、勉強をして得る知識も、伯爵になって得る地位も、すべてソフィアのため。
ソフィアに何かあったとき、守るため。
(そんな価値、私にはないのに。返せるような何かを、持っていないのに)
それどころか、平民の女が友人だと言うことを、あのパーティーに出席していた人のほとんどがあざ笑っていた。
あのとき、ソフィアは自分の存在を恥ずかしいとさえ思った。
どうしたら恥ずかしい自分じゃなくなるのだろう。
……ルーカスの想いは、とてつもなく重い。
心苦しい。
でも誰かが自分のために努力を重ねてくれるのが、嬉しくないわけがない。
「降参しろ。そこの侍女はすでに戦意を失っているし、お前の味方はここには誰もいない。護衛も何もつけずにこの隠れ場所でこっそり馬鹿な遊びをしていたらしいが、それについても今後詳しく調べられるからな」
「ふん! 大人しく捕まるはずがないだろう」
「……?」
「護衛をつけていないのは、守られる必要がないからだ! 私にはこの指輪があるのだ! 負けるはずがない! 何も怖くない!」
子爵がナイフを放り棄て、大きなエメラルドの指輪のはまった手を頭上に掲げた。
「百人だろうが千人だろうが、たとえ王族だろうが、私のこの指輪の前でかなうわけが無い!」
「何だ……?」
「ル、ルーカス様! だからあの指輪、変なんですって!」
ソフィアは指輪が風を起こし、刃物みたいになって切り裂いてくるのだと説明しようとした。
しかしそれよりも早く、大きな風が巻き起こる。
体が浮いてしまいそうな強い風が、屋上から空高くへと大きく渦を巻いて唸り広がる。
ルーカスは姿勢を低くして耐える。
ソフィアもなんとか自分が飛んで行かないようにと踏ん張ろうとした。
でもそんな踏ん張りなんてきかず、足は地面を離れてしまう。
「わ、わ、いやっ!」
「ソフィア!」
「その娘をよこせぇ! あのお方に献上しないといかんのだ!」
風は的確にソフィアを狙っていたようで、巻き起こる風に足が浮いた。
逆さまになって飛ばされて行きそうなソフィアを支えるのは、ルーカスが慌てて伸ばした手だけだ。
ジンはターニャの方を押さえていて、ソフィアにまで手が回らない。
「ふんっ! ガキどもがこざかしい!」
必死にお互いの手と手を掴み合うけれど、風は刃となってソフィアとルーカスの手を切りつけた。
「いっ……」
鋭い刃物のようなもので切り付けられる痛みに、びくりと身体が跳ねる。
その拍子につないでいた手が離れてしまった。
「ソフィア!」
「やだっ、ルーカス様!」
もう一度お互いに手を目いっぱい伸ばすけれど、全然とどかない。
ソフィアの体は風の竜巻にさらわれて高く高くのぼっていく。
どんどんルーカスが遠ざかっていく。
(やだ、やだ、こわい)
もう大丈夫だと、やっとさっき安心できたばかりなのに。
またどこかに連れて行かれてしまうのだろうか。
今度こそ本当に帰れないのだろうか。
(あ、ジンっ!)
地上ではジンが抱いていたターニャをルーカスに託し、背中から羽を出すところだ。
ソフィアを助けに来てくれるつもりなのだろう。
人の大きさになっているときの普段の彼の背中にはない妖精の羽が現れたことに、トーマス子爵は心底驚いたみたいだった。
こんな高いところに突然現れて、しかも浮いていたのだから普通の人間だとは思っていなかっただろうが、それでも羽が生えるなんてと。
その感情をあらわすみたいに、ソフィアを囲んでいる風が揺れて、ガクンと高度が落ちる。ひょっとすれば落とされそうになる恐怖に、息をつめた。
「っあぁぁぁぁ! もうもうもう! 遅すぎるではないか! 一体いつわたくしのもとにソフィアをもってくるのだ!!」
緊迫した空気の中。
軽やかな鈴のような、しかし威厳のある女性の声が空へに響いた。
「誰……?」
現れたのはソフィアと同じ年頃だろう女の子。
背よりも長い銀髪に、銀色の瞳。そして見たことがないほどに綺麗な容姿だが、きっと彼女は人間ではない。
だってふわふわと空に浮いてるのだから。




