22
狭い牢の中、近づいてくるトーマス子爵の存在の不快さにソフィアはぎゅうっと唇を引き結ぶ。
触られたくない。
話したくない。
ソフィアにとってもう彼は、気持ち悪くて可能な限り関わりたくない人になっている。
どうしよう、どうしよう、どうしよう、焦りばかりが募っていく。
「さぁさぁ、待たせたねぇ。準備ができたよ、遊ぼうか」
(準備って何よ。意味わかんない。でも……扉、開いたまま)
子爵の背中側にある牢の扉が、大きく開かれている事にソフィアは気が付いた。
逃げる道はあそこしかなく、逃げる時も今しかない。
覚悟を決めてごくりと重い唾を飲み込んだ直後。
「っ、とぅ!」
ソフィアは渾身の力を込めて、トーマス子爵に体当たりをした。
「おっおぉ!?」
丸々とした体型の子爵は少しバランスを崩しただけでふらつき、尻もちをついて転がってしまう。
しかも一度転ぶと立ち上がるのには時間がかかるようで、両手両足をばたばたさせてもがいていた。
(今だ!)
この隙にと、ソフィアは急いでターニャを抱え上げる。
「ターニャ王女、走ります! しっかり捕まっていてくださいね!」
「ひゃ、ひゃい!」
「待てぇ!」
子爵の静止の声が背中から聞こえるけれど、もちろん止まるなんてありえない。
転がる子爵の脇を抜け、ソフィアはターニャを抱きかかえたまま牢の外へと飛び出した。
そのまま廊下を駆け抜けていくと、上へあがる階段が見えた。
「っ……!」
「あっ、めうしあ!」
視線の先に立っていたのはメルシアだ。
彼女をどうどかそうか。
ここはもう一度体当たりをしてみようかと気合をいれた。しかし――。
「……どうぞ」
「え」
なぜかメルシアは廊下の端に身を寄せて道を開けてくれたのだ。
どうして逃げようとする人質を、誘拐犯側の彼女が見逃がしてくれるのか意図が分からない。
戸惑うソフィアだったが、後ろから物音が聞こえてはっと我に返る。
「待て! 待つんだ!」
もたもたしていると追いつかれる。
いくら走るのが遅そうだからといったって、ソフィアはターニャを抱えている。
しかもこの建物の中にはどれだけの人がいるのかも、広さも、立地さえも分からない。
とにかく今自分たちを追ってくる声から逃げるため、ソフィアはメルシアの脇を抜け、全速力で階段を駆け上がった。
―――しばらくして。
「はぁ、はぁ……っ、こ、この建物、壁多すぎない!?」
建物の中を逃げながら、ソフィアは荒い息をはく。
しばらく逃げてから分かったが、この建物とっても変なのだ。
左右に曲がり角があるかと思えば、右の曲がり角には木の板を打ち付けた壁があって通れない。
自然と行く道は左しかなくなって、さらに次の曲がり角では左右両方に板が打ち付けられていて直進するしかなかったりする。
あきらかに建物の元々の塗り壁とは違う、木の板を打ちつけて臨時に作られた壁がたくさん存在していた。
それにふさがれて、行きたい道を辿れない。
しかも完全に行く道をふさがれているのではなく、一本の道筋だけ通れるようにされているのだ。
ならばと沢山ある部屋に入ろうと思ったけれど、すべての部屋の鍵がしっかりとかけられている。
窓も全部が木板でふさがれていて、外の様子は分からない。
さらにかなり大きな建物みたいなのに、人が誰も見当たらない。
(……というか、廃墟寸前なのかしら? 調度品は何もないし、全体的にボロボロなのよね)
とても古い、人の手入れがされていない建物の中にいるらしい。
得られた情報はそれくらいで、ここがどこなのかはまったく分からないまま、ソフィアはただ一本の進める道を探して廊下を駆けている。
くやしくて、ぐっと奥歯をかみしめた。
(きっと追いかけっこの準備って、このことだったんだ)
建物の中を作り変え、追いかけっこする仕様に作り替える準備。
兎さんとの追いかけっこの兎さんとは、ターニャ王女を指していたのだろう。
逃げ道は一本しかないから、どれだけ歩く速さに差があったって、最終的には子爵の意図したどこかに追い込まれてしまうはず。
「っ、また階段……! もう!」
目の前にあったのは、階段。
下へ向かう階段の方は木の板で作られた壁ができていて、さっきから階段を見つけては昇るしか選択肢のない状況だ。
後ろからは、さっきより距離は伸びたようだがトーマス子爵の声がする。
ゆっくりゆっくり、迷うことなくこちらに向かってくる。
必死に逃げるソフィアたちと、ゆっくりうきうきの様子で追いかけてくるトーマス子爵。
じりじりと追い詰められる形しかないのだから、向こうに余裕があって当然だ。
「さっき、わざと逃がされたんだ。人を追い詰めて遊んで楽しむとか、ほんっと……最悪!!」
こっちは必死で頑張っているのに、相手の意のままに動かされているだけなんて。
苛立ちと不安がつのるけれど、やはりソフィアは進める道を進むしかない。
だって戻るということはトーマス子爵のもとに飛び込んで行くということ。
たとえ相手の意図する場所に徐々に追い込まれているのだとしても、できる限りは逃げたかった。
----もう、何階分のぼったのだろう。
(ずいぶん縦に長い建物みたいね)
下の方の階は広かったけれど、上階は塔のようになっているらしく、一階につき二部屋か三部屋程度しか見当たらなくなってきた。
部屋はやっぱりどれも鍵がかかっていて、どんどん階段をのぼっていく道筋しかない。
「距離は、あけられたみたいだけど……」
ちらりと自分の来た下の階を見下ろすが、トーマス子爵の声はずいぶん遠い。
やはり長い階段をのぼるのにあちらはずいぶん手間取っているらしい。
それでも小さく聞こえる彼の声は跳ねるように楽しそうで、笑っている。鳥肌が立つほどに不快な声だ。
「……はぁ、はぁ」
ずっと階段を上り続けていて、息があがる。
もうじき四歳になる子供の体重が、ずっしりと腕にのしかかってもくる。
腕がジンジンして、少しでも気を抜くと落としてしまいそうだった。
(でも、ターニャ王女の足だとゆっくりすぎるし)
おろせばきっと追いつかれてしまうだろう。
抱える姿勢をなおしたとき、ターニャが胸のあたりの服をひっぱった。
「ターニャ王女?」
見下ろすと、青い瞳はとても真剣な色をおびていた。
いままでとても大人しくしていてくれたのに、どうしたのだろう。
「しょふぃあ」
「はい?」
「おーぞくは、たみをまもるものなの」
「……?」
「だかあ、おろして」
「っいやです! ……すみません」
囮になろうとしているのだと気づき、直後に反射的に怒鳴ってしまったことに、謝罪する。
「ターニャ王女、格好いいですね」
自分が三歳の時は、絶対にこんな対応できなかった。
誘拐なんてされたらただ泣きわめいて迷惑をかけるばかりで、誰かを守ろうとするなんてしなかっただろう。
でも彼女は正しく状況を理解して、こんな時でも王女としてあろうとし、民であるソフィアを守るために自分を置いていくようにと言い出したのだ。
絶対に離さないと示すために強く抱きなおし、ソフィアは再び足を進めた。
「必ず無事に帰しますから。あきらめないで、私にくっついていてください!」
--そうしてしばらく階段をのぼった先で、ソフィアはやっと鍵のかかっていない扉を見つけた。
「……どこよ、ここ」
扉を開いた先は、開放的な屋上だった。
久しぶりに感じる風と、外の空気にほっと息が漏れる。
でもその屋上の眼下に広がるのは、三百六十度どこを見渡しても生い茂った木々のみだ。
どうやら深い森の中に、この建物は建っているらしい。
やっと外が見えたと思ったのに自分がいる場所はまったく分からないままだった。
人影はもちろんない。
どれだけ叫んでも助けの声は聞いてもらえないのだと理解する。
それと同時に、もうこれ以上は逃げる道がないことを悟ってしまった。




