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扉を開いて中へ入って来たエリオットの様子に、ルーカスは困惑していた。
兄の怒りに満ちた茶色の目が、恨みの対象であるはずの自分にではなく、後ろにいるソフィアに向けられていたからだ。
「ソフィアおねえさん? 君は一体、何をしたのかなぁ?」
「え? えーっと……ちょっと、ゴタゴタっとしたことが有りましてですね」
「いつ」
「ル、ルーカス様が倒れた直後くらい……に、色々と……」
「この馬鹿っ」
小さな声で吐き捨てた呟きに、背中から「すみません」と落ち込んだ声が聞こえた。
(とにかく、今は兄さんとソフィアを離すべきか? これ以上刺激すると危ない)
ルーカスは生まれた頃から一緒に育った兄の、人となりを良く知っている。
この人は、とにかく自分が優位に立ちたい人なのだ。
だからルーカスは、無邪気で何も考えていない馬鹿な子どもを演じてきた。
そうすればエリオットは、跡継ぎ問題でも自身が優位に立っていると思い、穏やかになる。
機嫌が悪い時の憂さ晴らしに戯れに薬を盛られたり、物を捨てられたり、壊されたりということはあっても、大っぴらに動かれることは無いのだ。
これで死んじゃえば嬉しいけど、別に脅威というほど大した存在でもないから本気でやらなくても大丈夫だと、余裕を見せてくれる。
エリオットの性格を良く分析して、ルーカスは行動し、生き延びてきた。
とにかく今回も、場の空気が和らぐように、エリオットが落ち着くようにと、普段以上に子供ぶった仕草で首を傾げてみることにする。
「エリオット兄さん? どうしたの?」
「……」
「兄さん?」
反応の無いエリオットの様子に、ルーカスは内心で舌打ちした。
焦りに、眉が寄る。
どうやらエリオットは怒り心頭で、周りが見えてない状態らしい。
「……」
ルーカスは、エリオットとソフィアの間で大きく腕を開いた。彼女を護るように。
「ルーカス様?」
不思議そうにしている彼女に、視線だけを向けて小さく囁く。
「僕が相手をして気を引いているから、隙をみて玄関から逃げろ。いや、裏口からの方が良いか。とにかくこの屋敷から出ろ。逃げろ」
「え? でも……ルーカス様は?」
「そんなの考えるな。とにかくお前が――」
「ルーカス、邪魔だ」
「っ」
こそこそ話していたのが気に障ったのかもしれない。
エリオットは大股で近づいて来るなり、速攻で大きく手を振りかぶった。
「兄さん! やめて下さい!」
急いで阻もうとしたけれど、ルーカスの背はどれだけ背伸びしても兄の胸にも届かない。
エリオットの振りかぶった手は、あっさりと頭の上を素通りし、その真後ろにいたソフィアを張り倒す。
「きゃっ……!」
「ソフィア!」
張り手に飛ばされたソフィアは、床に倒れこんで尻餅をついてしまった。
「いった、ぁ……」
「に、兄さん! 突然どうしたんですか?」
どうにかこれ以上は、と思って柔らかい口調で接するけれど、エリオットは益々鋭利に目を細めるばかりだ。
本当に、ソフィアと兄の間に一体何があったのだろう。
(まぁ大方、いつもの性格そのままに正義感を振りかざしたんだろうが)
ソフィアは本当に、真っ直ぐすぎる。
歪んだ人間への対処法として、正しいことを主張するのは間違っているのに。
そんなところが羨ましいとも、馬鹿だとも思う。
「兄さん。ソフィアさんは、僕のお友達です。やめてくださいっ」
ルーカスは、エリオットの服を力の限り引っ張って、どうにかこっちに注目を寄せようと声を張った。
そうするとやっと、エリオットはルーカスを目に入れた。
ただ怒りはさらに募っているようで、憎々しげに歪んだ表情で睨みつけられた。
「お友達……なぁ。―――お前、本当にこの生意気な娘と仲良くなったんだなぁ」
低い、唸るような声に、ルーカスの身体が強張る。
(くそ……)
いくら大人びていると言ったって、ルーカスは子供だ。
二十歳を過ぎた、横にも縦にも倍の差がある大人の男の凶行を恐ろしく思わないわけがない。
怖いから、自分を偽って、作って、少しでも怒らせないように身を守ってきたのだ。
「そ、そんなに仲良くみえますか?」
「あぁ……とてもな。ふんっ、私にこうして逆らうなんて、この娘の生意気さに影響を受けたのか?」
「さ、逆らってなんていません」
「どこがだ。この娘をかばおうとしてるだろうが。何より私の服を引っ張ってるこの手はなんだ」
「それは……」
「あぁ、まったく悪影響を受けてしまったものだ。一人で寂しくシクシク孤独に泣いていればまだ、可愛げがあったのになぁ。お友達なんて作って、楽しそうにして。もう同情してやる価値もなくなったな」
エリオットと話をするルーカスは、背後でソフィアがゆっくりと立ち上がった気配に気が付いた。
リリーは怯えて、ルーカスの背中に張り付いてずっと震えている。
(くそ……)
ルーカスは悔しさに歯噛みする。
リリーも、そしてソフィアも、出来るのならば怖い思いも痛い思いもさせたくない。
でも、相手は大人の男。
身体も大きくて、力も強くて、暴力でこられれば勝つのが難しい。
「同情ってなんですか。僕に同情してたんですか」
「そうだよ? だって、親にも見放されて、友達もいなくて、いつも一人ぼっちで部屋にこもって小さな妖精とだけ話すような。そんな寂しくて可哀想な子供だったから、兄の温情としてたまに遊ぶだけにしといてあげたんだよ?」
くすくすと、嫌な笑いがエリオットから漏れる。
何が、楽しいのだろう。
「………遊ぶって、つまり食べ物に毒を混ぜたり、僕の持ち物を壊したりすることですか?」
「気づいていたのか。案外馬鹿じゃなかったのかな? まぁ、どうでも良いけど。いい加減、その汚い手を離せ」
エリオットの腕がまた振りかぶられ、今度はルーカスへと振って来た。
―――バチンッ!
「っ……!」
「ルーカス様……!」
「何でもない。お前は下がってろ。というかさっさと僕が気を引いてる間に逃げろよ」
「ルーカス様も一緒じゃないと駄目です」
「二人一緒に逃げるとか、この状況じゃ無理に決まってるだろう」
大人の男の足から子供が逃げられるなんて、どちらかが囮にならない限り難しい。
だからルーカスはソフィアの方を逃がそうとしていたのに。
「馬鹿な奴……」
ルーカスはゆっくりと自分の左頬を覆う。
頬が……いや、顔の左側全部が、焼けたみたいにジンジンと痛みと熱が広がっていく。
口の中を切ったかもしれない―――錆臭い味が少し広がった。
それでもルーカスは真っ直ぐに立ち、エリオットを見据えるのだった。




