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怖い短編

陰口

作者: 井川林檎

陰口を言った本人に問い詰めたとしても、多勢に無勢で、逆に問い詰めた側の立場が悪くなることは、ままあること。


 「なにか用ですか」

 と、近づいて、問いかけた。

 目を真正面から見て、ぜったいに逃げられないようにして問いかけた。

 

 買い物袋をひじにかけ、座席に座っている老婆二人組である。

 向かいの座席に座るわたしをじいっと見ては、いろいろと観察し、一挙一動についてあれこれを口を挟んでいた。確かだ。

 

 「……なにやってんだろうね、上着着たり脱いだり、おかしいんじゃないかね」

 「裏表に着て間違えたんだよ……」


 車両内は酷く暑い。 


 がたたん、ごととん――わたしはパーカーを脱いでいたが、もうじき降車する予定だからと、座ったままもがもがと着たのである。

 ひどく揺れる上に、重たい荷物を両脇に置いているので場所が狭い。

 非常に着にくかった。それに、向かいに座る二人の老婆の意地の悪い視線がどうにも居心地が悪くて、必死で視線を逸らしながら(ああ、別のところを見てくれないだろうか。これではまるで見世物だ……)何度か袖を通すのに失敗しさえして、ぎこちなく着たのだった。

 

 だが、裏表だったから、慌てて脱いだ。そして、また着た。


 「あ、めがねを取った」

 「汚れているからふいたんでしょう」


 「なんで足を組み直したんだろうね、せわしない、見ているだけでいらいらする」

 「だるかったんじゃないかねえ」


 ……。


 さっきからずっとこの調子だった。

 いっそのこと、立ち上がって座席を移動しようかと思ったが、なにしろこの大荷物である。ファスナーつきのかばんではないから、注意して持たないと中身が零れそうなのだ。

 それにしてもどうしてこんなに大荷物なんだ。

 こんなにものを持って、どうしようというのだ?

 ……。


 苛々は限界に達していた。

 なんだっていうんだ。わたしが何をしたのか。

 目の前の老婆はどうしてわたしの一挙一動を眺めては、ひそひそとけちをつけるのか。

 わたしはあたりを見回した。

 乗客は他にもいる。


 同じシートのはじっこで、壁にもたれかかるようにして、居眠りしている男がいる。

 でれんと足を開いてがあがあといびきをかいて、車両のシートを我が物顔だ。ハンチングをななめにかぶって、こいつのほうがよっぽどけちのつけがいがあるような気がする。

 老婆たちの座る座席側では、シートがあいているにも関わらず、吊革につながってだらだら立っている中年女性もいた。やせぎすで、今にも折れそうなハイヒールをはいていて、ものすごい香水のにおいだ。

 

 ……すぐ側に、わたし以上に文句のつける余地のある者たちがいるにも関らず、老婆たちの視線は、しつこくわたしに絡みついているのだった。

 

 次は、××駅、××駅、お降りの方はお忘れ物のないようご注意ください――けだるそうな車掌のアナウンスが流れる。がたたん、ごととん――そしてわたしはついに立ち上がり、重たい荷物を座席に置いて、正面に座る老婆たちの前にきて立ち、じっと二人を見ながら、なにか用かと聞いたのだった。


 その瞬間、なにかわたしは、車両内の全ての視線が自分に集まったような気がした。

 それほどたくさんの乗客がいるとは思えない――ああ、この汽車はいったい、どこから始まってどこへゆくものだったか――目に入るのは単純に、座る老婆二人と、眠りこける太った男、吊革にぶらさがったどぎつい中年女だけだった。

 男も女も黙っており、視線は決してこちらに向けてはいなかったが、確かに彼らはこちらに全神経を集中させている――ような気がした。


 わたしは、見られている。


 がたたん、ごととん、きいいいいいいいいいいいいいい……。


 「なにも言っていませんよ」

 「ええ、なにも言っていませんよ」


 二人の老婆は同時に叫んだ。

 よく似た顔のふたりは姉妹か。片方は不当なことをされたように憤慨している。もう片方は眉をハの字にして、悲しそうな顔をしていた。


 がたたん、ごととん、きしゃあああああああああ……ごおおおおおおおお。

 トンネルに入った。老婆二人の後ろは窓だ。窓の外は真っ暗闇に転じる。

 わたしは、いいえ、あなたたちは確かにわたしをじいっと見つめ、常に行動を観察し、お話ししていたと反論する。

 

 「見ていたって……だって、こんななにもないところで、他に何を見るって言うんですか」

 「こうやって、ぼうっと前を見ているだけですよ。なんでそんなおかしなことを言われるんですかね」


 異常者、異常者、異常者。

 胸が圧迫される。神経が針のようにとがり始める。

 おかしいのはお前だと二人がかりで反論される。

 しかもこの静寂はなんだ、誰もなにも言わずに、ただなりゆきを見ている――わたしがおかしいのか――いや、確かにこの人たちはわたしの一挙一動を。


 きしゃああああああああああああああああ。

 ……。


 揺れる。

 わたしは倒れ掛かる。

 早くあっちに行って下さいよ、と、老婆たちに言われる。

 「でも、なにか御用なんでしょう、聞こえていたんですから」

 わたしは言い立てる。

 まるで立場が逆転したような異様な感覚だ。

 とりすがるように。どうか認めてくれ、あんたたちはわたしを眺めていた、じっと目で追ってはけちをつけていた、わたしのおかしな行動をいちいち言いたてていた――確かにそうだ。


 「……次はどの駅か知りたかったんですよ」


 いきなり声音をかえて、ひとりが言った。

 

 「でも、誰にきいても教えてくれないじゃないですか」

 

 もうひとりが、相変わらず憤慨したように言い、じろっとせめるようにわたしを睨んだ。

 教えてくれなかった、誰も自分たちの望みをかなえてくれなかった。


 「じゃあ、お教えしましょうか。次は何駅か」

 わたしは言った。言いながら、ええと、次は何駅だったっけ、そもそもわたしはどこで降車するつもりだっただろうと、はてなと思った。

 その浮き上がった疑問は酷く自分自身をいためるものだった。

 なんだろう、この不安定なかんじは――ぐらぐらする――酷く車両が揺れる。


 しかし老婆たちは、敵意に満ちた目、異常者を見る目でわたしを見つめ、そっけなくこう言ったのである。


 「あっちに行ってちょうだいよ」

 「あんた、わたしたちに酷いことをして、一体どういうつもりなんですか」


 わたしは途方に暮れて、二人を眺めた。

 ぐらぐらと揺れる。

 背後の座席においたままの荷物も気になった。


 次は、××駅、××駅――車掌のアナウンスは奇妙に間延びし、耳の奥で歪むような感じがした。

 駅の名を聞き取れないままわたしは座席に戻る。

 痛い程視線を感じる。

 車両中の視線がわたしにつきささっているような気がする。


 同情の視線。

 憐れみの視線――息苦しい、はやく、はやくここから逃れたい。


 座席には大きな荷物がふたつ、並んでいた。

 トンネルはまだ続いており、相変わらず車両の揺れは激しい。

 だが、こうしてはおれなかった。


 わたしは大きなトートバッグをふたつ、座席から持ち上げた。

 車両を出て、出口の前に立たなければと思った。

 一刻も早くここから出たい。恐ろしい場所のような気がする。嫌だ。気持ちが悪い。だめだ。早く。


 老婆二人のことなどなるべく目に入らないよう、必死で視線をそらす。

 顔を背けるようにして――ああまた、話し声が聞こえてくる――あれどこにいくんだろうね、まだ駅に着いていないのに――やめてくれ、もうやめてくれ――立っている女性が、ちらっと振り向いて慌てて顔をそむける、寝たふりをしていた男が薄目を開いて気の毒そうな視線を送ってきたが、すぐにまた狸寝入りに戻る――顔から火が出るようだった、わたしは慌てて車両を出ようとした。


 その時、トンネル通過中の車両は大きく揺れた。

 世界は歪むようであり、この悪夢がいつまでも続くような気がした。


 ああ、わたしは、耐えていなくてはならなかった。

 一挙一動を監視されていようと、何かを言ってはならなかったのだと。


 大きく傾いた車両の揺れに耐えきれず、わたしは転び掛け、そのとき両手にさげた手提げから、ばらばらとものが飛び出した。

 見られたくない、かばんの中身が。


 ばらばらと、ころころと。

誰が狂気なのか。

なにが正しいのか。

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