リリィのわらべうた
もーういいかい、まあだだよ。単調な鼻歌が夕闇に転がる。外套代わりに羽織った朱色の紬がゆるりと靡く、その主は鼻歌の主と同じのようだ。時折片足で跳ねながら、三つ編みに結われた金糸を揺らしてその女は石畳の坂道を下る。紫色の雲が今日を飲み込み始めたその頃に、もういいよと一人で呟き振り返った。
「さあて今日もまた今日を終えるねえ。なんて碌でもない」
空中へ呟いた彼女の言葉はすぐに霧散して消えた。彼女の名は泉、何てことのない街外れの灯台に住む女だ。腰まで伸びた金の髪と翡翠色の瞳、小柄な身体に単調な声。独り言とも取れる言葉を吐いた後でにこりと笑んで「ついてくるなよ、不埒だなあ」と再び言葉を吐き捨てた。
成人してから何年が経ったかなんて覚えてもいないが泉にとってはどうでもいいような事柄の一つである。例えば昨日の天気だったり、明日の波の高さもどうでもいいことである。今日の妹の髪の毛の跳ね具合や夕食の塩加減ならば気には留めるところなのだが。底の薄いくたびれた靴をつっかけて硬い石畳を下りていく彼女は時折両腕を広げたり、外套代わりの紬をつまんで翻したりと猫背ながらも陽気なものである。
「鼻歌なんて、楽しそうなのね」
「きみの目にはそう映るのかもしれないねえ」
こんばんは、ご機嫌麗しゅう。鼻歌をやめて仰々しく挨拶をする、通りかかった小道の脇にひっそりと佇む古道具屋の店主が泉に話しかけてきたのだ。車椅子をからころと転がす店主は言葉とは裏腹に眉間に皺を寄せ、泉に合わせていた目線を外した。そのまままたからころと車椅子を転がし、店の扉を閉めてカーテンが引かれた。「CLOSE」とひっくり返された木の板が僅かに揺れて窓ガラスが鳴った。
どうやら店仕舞いのようだ、時計を持たない泉はまた再び呑気に鼻歌を口ずさみながら歩き始めた。
「おおっとこれはまた、防弾ガラスと来ましたか。僕の愛しい人は全く手が込んだことをなさる!」
中街を抜ける頃、小さな風鈴と風車が軒先に並んだガラス細工店の扉の前でどこかで見たような長身の男が大袈裟に腕を広げながらまるで役者のように言葉を発していた。周囲に言っているのか閉められた扉の向こうにいるであろう店の主へ語りかけているのか何なのか。その店の主のうんざりしたような顔を記憶の中から探り出しながら、泉はくつりと笑って通り過ぎた。
石畳を抜けて砂利道に変わる、中街から下街の提灯がぶら下がる繁華街へ向かう途中石階段の上に佇む神社を見上げれば螺子を巻く音と機械仕掛けの音色が聞こえる気がした。それもまた、どうってことのない日常である。例えば繁華街の奥に店を構える混血の魔女にしろ、神社に棲みつく人外の者でしろ、自身のような人間であろうと泉にとってもこの街にとってもどうってことのない些末な事柄なのだ。
赤い提灯が照らす繁華街は再び石畳へ戻ったが、じとりとしててそれでいて乾いた音がする。ギィ、と馴染みの店の扉を開ければ僅かな喧騒と共に煙草の煙が目に染みた。
「ただいまあ」
「お前の家じゃねえだろ、泉」
「開口一番に突っ込みだなんてわかってるねえ、朔ちゃん」
「うっせ」
開いているカウンターの席に座れば何も言わずともグラスと氷が泉の前に出された。カウンター越しには黒髪黒目のお世辞にも目つきも品性も良いとは言えない朔、と呼ばれた男。牙のようなピアスが耳には光り、首周りには大ぶりの数珠の首飾り。カウンター席の僅かなテーブル席が置かれたこの小さな居酒屋を営む兄弟の弟だ。
ちなみに彼の兄はカウンター内の奥でしかめっ面で魚を焼いている。朔よりも長身で目つきも悪い、名は円。
「お腹すいた」
「梅でいいんだろ、ちょっと待ってろよ」
「あとねえ、お魚食べたい」
「それは兄貴に言え」
満員御礼なんてことには中々ならないが常連客で賑わう店内に泉の要望にいちいち答える朔の声は響きづらい。彼女のグラスに焼酎を注ぎ終えたらすぐにテーブル席から「朔くん注文いいかー?」などと声が挙がった。スーツを着た男が数人、額に角がある者や大きな牙が目立つ者もいる。
「見ない顔がいるねえ」
「たまーに来るな。お前が会ったことないだけだろ」
「ふふ、なんだかなあ睨まれてるよわたし」
「人間が夜に一人で来るような場所じゃねえからな」
そりゃあまた心外だねえ、泉は興味なさそうに呟いてくいっとグラスの焼酎を煽った。からりと氷がグラスの中で揺れ、同時に喉を潤した。おさかな、と再び要望を口にすると奥から移動してきた円が泉の前に立った。
「…仕事か?」
「うん」
「…食ったら帰って寝ろ。晴なら上にいる」
カウンターに出された焼きたてのシシャモが3尾、そして梅茶漬け。まるで母親のようだと言えば円の眉間の皺が一層深くなった。
「俺は、」
「うん?」
「お前の笑い方が嫌いだな」
「酷いな円くんは」
まだ熱いお茶漬けを息で冷ましながら円の言葉に泉は軽口を返す。円は相変わらずのしかめっ面のままで再び仕事へと戻っていった。その様子を見ていたのか見ていなかったのか、朔は片眉を下げながら泉の頭に掌をぽん、と置く。どうやらテーブル席の対応が終わりカウンター内へ戻るところだったようだ。
「人の子を気にかけるような妖なんてこの先苦労するよ?」
「俺らが気にすんのはお前ら姉妹くらいだっての」
「天下の烏天狗さまがよく言うよ」
「高街ご贔屓の呪術師には敵わねえよ」
グラスを煽ると喉に熱が篭る、なんてどうってことのない日常だろうか。明日にはきっと違う感情が喉から吐き出されるのだろう、泉はそんなことすら頭の片隅にも残すことなく茶碗の中のお茶漬けを体内へ入れていく。彼の言う通り、泉は呪術を生業として生きる人間だ。そして彼は妖である。尖った耳が、人と違うことを物語る。
夜は妖の時間だと口を揃えて言うのは誰だろうか。昼は人間の時間だと常識染みた声色で主張するのは誰だろうか。この街は共存する、人と妖、昼と夜、空と海、歪に入り組みながらも生きている。生まれ堕ちたその日から死にゆくその瞬間まで、己を己だと肯定と否定を繰り返しながら。
どうせ明日には全てがどうでもいい事柄になるとしても、まあだだよと単調な鼻歌をくちずさむのだ。




