第104話:帽子の思い出(後編)
「お父様、わたくし、納得がまいりませんわ!」
ラザロの処罰に納得がいかず、駄々をこねる娘に父親は厳然と言い放った。
「ジョアンナ、いい加減にしないか。ラザロを牢に閉じ込めるのは私ではない。お前だ。お前の行動の軽率さと、ラザロの指示に従わなかったお前の傲慢さがそうさせるのだ。それだけは覚えておきなさい。そして、これからは自分の振る舞いに気を付けるんだ。いいね?」
父親もラザロもジョアンナに教訓を学んで欲しかったのだ。ジョアンナのような立場の者が、好き勝手に行動するなら多くの人に悪影響を及ぼす、ということを。しかし、この措置は意外な結末を迎える。
懲罰房は狭くて快適とは言えない空間ではあるが、ラザロは久しぶりに自分の時間を楽しんでいた。趣味の読書をしていたのである。今回の彼への処罰は、ジョアンナへの教訓のためであって、彼を懲らしめるためではない。
しかし、そこに彼の同僚の奴隷たちがやって来たのである。彼らはラザロを押さえつけると折檻を始めた。自分より年少で後からやって来たラザロが、自分たちより重用され、上司に収まっていることに妬みや僻みを持っていた者たちである。この私刑は一週間続いた。
懲罰房の扉を開けて全身ボロボロになって意識朦朧と横たわったラザロを見つけたのは主人であるジョアンナの父親であった。彼はラザロをすぐに病院に搬送させ、治療を受けさせた。
防犯カメラで録られた動画から犯人たちが割り出され、傷害犯として警察に引き渡された。彼らは、一人娘を危険にさらしたラザロを"懲らしめる"ことによって主人の歓心を買えると思っていたのだった。彼らはビスコンティ家から解雇されると、「下級奴隷」として、さらに過酷な環境下での労働を強いられることになったのである。
この一件でラザロは人種にかかわらず"人間"に対して深い不信感を持つようになり、必要なこと以外は喋らなくなった。
無意識にアーニャの帽子を掴み取ったラザロはふと我にかえる。着地点がないのだ。舞台から外れている。彼は勢いそのままに数メートルの高さを落下してしまった。軍服がエアバックのように体を保護する。ラザロは頭を庇ったが、舞台下の装置類の上に落ちてしまったため、露出していた顔をしたたかに打ってしまったのである。
勿論、バラクはラザロの過去を知らないため、なぜ彼が無意識のままに帽子を取りに行ってしまったかは知らない。
「すげえな。きっとラザロの前世は猟犬だったのかもしれないな」
「あんた、前世なんか信じてるの?」
「いんや。言ってみただけ。ぶごぅわ。」
ジョシュアとエリカの(どつき)漫才を聞きながら、尊はラザロのことを思い出していた。尊は彼からこの話を聞いていたのだ。
「ゼロス、君はアマレク人を憎んでいるのかい?」
尊はラザロの眼を見つめ直した。メンフィス脱出の直前の事だった。
「そうだね、憎んではいないよ。いろいろ理不尽な目にあって怒ったりはしたけどね。ラザロ……僕は憎しみからは何も生まれないと思っている。そう、怒りと憎しみは別物だ。まあ、比較的近い感情だから混同しがちかもしれないね。」
尊はそうい言ってからキング・アーサーの計画をラザロに説明した。「エクソダス」計画である。
「取り敢えず、アマレクとテラノイドは同等だ。まず、これをアマレク人に認めさせる。そして、しばらくお互いに依存しないで、怒りの気持ちを冷却する時間と空間を保たなければならないと思う。そうしたら、またきっと良い形でアマレクの人たちと付き合うことができると思う。ラザロ、君の気持ちを聞かせてくれないか?」
ラザロは同胞の奴隷に裏切られた件の体験を語り、アマレク人を無条件で悪とみなすことはできない、と語った。
「気持ちを聞かせてくれてありがとう。ラザロ、とても辛い経験でしたね。それでも私は君に一緒に来て欲しいのですよ。私たちは奴隷養子として、アマレク人の家で育てられました。そんな私たちだからこそ、きっとアマレクと闘えるはずです。怒りにかまけず、憎しみに飲み込まれずにね。そして、もし私がそうなってしまったなら遠慮なく止めて欲しいのですよ。そう、友人としてね。」
尊の言葉にラザロは黙って頷いた。その日からラザロは尊を「士師」と呼ぶようになった。
[星暦998年9月14日]
「ラザロ、もう怪我は良いの?」
アーニャの問いかけにラザロは自分が一瞬任務から気を逸らしていたことに気づいた。
「はい、問題ありません。ご心配をおかけしました。」
生真面目なラザロの答えにアーニャは満面の笑みを湛えた。いつもは冷静なラザロの突飛な行動があまりに意外だったのだろう。
「よかった。あまり無理をなさらないでね。」
「はい。」
ラザロは実のところアーニャが苦手なのだ。彼女はじっと相手の眼を見て話すからだ。エンデヴェール家の者は眼を見ると大体相手のことがわかる、と考えていてこちらが当惑するまで眼を合わせてくるからだ。
今日のアーニャの公務は病院の慰問であった。先のジェドエフラーとの一戦において完勝したものの、全員が無傷ということはありえない。負傷した兵士も当然いたのだ。尊のナノマシンヒーリングが出来れば良いのだが、人数と設備の関係で、重症なものをある程度回復させ、後は自然治癒に委せる他はなかった。そうした者たちを見舞うのためにアーニャは病院を訪れたのだ。
珍しく残暑がぶり返した暑い日で、窓は開放されず冷房がかけられていた。院長、看護婦長の案内でアーニャは負傷者を見舞う。
尊に命を救われた者もいて、アーニャの手をとり、お礼を言うものも多かった。
「ふん、その死地に送り込んだのが誰か分かっているのか。」
背後に控える院長が聞こえないようになった小声でいった。院長はGOSENの援助者(委員の次の立場)の一人で、医療労働系の奴隷を教えていた。
アマレク人統治下ではテラノイドの正式な医師はいないが、看護師や看護助手として大勢の奴隷が働いており、それなりに知識を持っているものも少なくなかった。
今回の捕虜交換の際にこうした医療労働系の同胞を手に入れられたのはスフィアにとっては大きな成果であったのだ。




